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ポスト・インターネットで途方にくれないためのメモ

Gene McHugh, Post Internet: Note on the Internet and Art 12.29.09 > 09.05.10   (これは 本 にもなっているし, 全文のPDFもネットあった .)を読みながら,「ポスト・インターネット」って何だろうと考えていたけれど,どこに手をかければいいのかわからないくらいその世界は広大すぎて,何があるのかワクワクしつつも,途方にくれてもいる.自分のためのリンク集を兼ねて思いつつメモを書いてみたい. ポスト・インターネットを巡る言説は, Louis Doulas, Within Post-Internet | PartⅠ で簡単にまとめられているので,これをさらに簡単にまとめてみる.ポスト・インターネットという言葉は,2008年に Marisa Olson というアーティストが インタビュー の中で言ったことがはじまりらしい.インターネット・アートがもはやコンピュータとネットを使ったアートを指すものでなくなり,インターネットやデジタル・メディアに影響力されたものなら,どんな種類のアートであってもそれはポスト・インターネット(・アート)になる.作品がたとえオフラインであっても,ネットなどから影響を受けていれば,それはポスト・インターネットと呼ぶことできる.Olson はインタビューの中で,ネットアーティストのGuthrie Lonergan が Internet Aware art と言っていることにも言及している. そして,最初に挙げた『ポスト・インターネット』というブログを書き続けた Gene McHugh はインターネットはもはや目新しいものではなく,平凡・陳腐(banality)なものになったとしている.次に, Artie Vierkant が2010年に書いたエッセイ, The Image Object Post-Internet  では,ポスト・インターネットでは,作家性がユビキタスなものになり,作品への注目が重要になっていると言っている(作品への注目というは,McHugh も言っていて,彼の場合は「承認」という言葉であった) と,Doulas はポスト・インターネットを巡る言説を辿って,それぞれの違いはあるけれど,究極的には,変化しているインターネット社会

映像から離れていっている

大名古屋電脳博覧会 に行って, 伊藤明倫さん の《波打つ大地,吹き抜ける瞬き》を見てきた.これは伊藤さんが去年の同じ時期に同じ場所で展示した作品 《瞬きの中,瞬きの外》 と同じ原理を作った作品です.今回の作品へのTextから引用します. 作品へのText1   このインスタレーション作品は,モニターの映像が Fade In, Out することによって生じる明るさの明滅が照明代わりになり,壁に貼られた写真作品を見ることができる,それらの空間的要素すべてを含めた作品となっています.       このような構造になっていることから考えられるのは,発光体で光るモニターによって,反射光としてしか認知できない写真が表層してくるという入り組んだ構造である事と,モニターは映像を見せる為に光るのであり,それが照明として機能してしまうことは副次的,もしくは本来意図していない現象であるということなどが上げられます. 展示室に入ると,暗い.その先に,液晶ディスプレイが2台.見る人に背面を見せて,向こう側の壁に向かって光を放っている.光は一定ではなく,不規則に明滅している.明滅する光によって,壁に張られている写真が見える.鳥の写真.ディスプレイと向かい合っている壁,その両脇の壁にも鳥の写真が貼られている.明滅する光の中で写真を見る. 部屋に光を生み出しているディスプレイの黒い背面を見つめる.この黒い物体の壁に面している平面は発光している.黒い物体から発光する光.それが何を示しているのかは,後ろからでは分からない.ただ光っている.それはただの光でしかない.それが写真を見えるようにして,そこに鳥が写っていることを示していくれる.回りこんでディスプレイに発光する面を見てみる.水面が映っている.波が映っている.波が太陽の光を反射している.もしくは光る波.反射光をカメラが捉え,ディスプレイは自ら発光する. この作品をしばらく見ていると,そこにはただの光があると思えた.ディスプレイという「何か」を表示する装置だけれども,そして実際に波を映しているのだけれども,背面から見ていると,そこにはただの光しかない.光の明滅しかない.2011年3月11日から9ヶ月たった今でも,波は津波を意識させる.波でなくても,水を使うことは津波を意識させる.大地震,津波,そして天高く飛ぶ鳥たち.物語

版ズレとスペーサーGIF

高校生といっしょに新聞社の見学に行ってきた.印刷現場の見学はとてもテンションが上がった.カラー原稿がある新聞の刷り始めは,版ズレが生じているのに驚いた.工場の人が刷り上がった新聞を広げてチェックしては,「青,右,赤,左」などと版のズレを直していく.素人目にはズレなんか生じていないなものでも,どんどん修正が入る.修正しているあいだにもどんどん新聞は刷られていく.修正完了前の新聞は古紙回収に回されると説明を受けた. 紙の印刷でカラーをやると版ズレが起こる.デジタルの世界,ディスプレイの世界は版ズレは起きないのか? ディスプレイのキャリブレーションをとるという行為はあるが,版ズレはないかもしれない.グリッチが版ズレか? 版ズレはないけれど,ウェブページにはスペーサーGIFがある.空間をしっかりと空けるためにスペーサーGIFを必要とするリアリティと,カラー印刷における版ズレというエラーが示すリアリティはなんとなく通じるところがあるのではないか,ということを思った.

上海スライド

上海の発表でのスライド(共同発表の水野担当部分).最初は原稿を読み上げるだけにしようと思ったのだけれど,時間オーバーだったのと,少しでも理解の助けになるようにとスライドを作成した.そうしたら,講義のようになってしまった. スライドを作っていて思ったのは,Lionの「ミッション・コントロール」という機能では,カーソルが本当に自由に様々な世界を行き来できるということでした. Nature|cursor|destruction View more presentations from Masanori MIzuno 上海発表関連の他の記事 自然|カーソル|破壊:上海での発表のための日本語でのメモ 中国・上海での発表 (英語テキスト) 中国・上海での発表 上海での発表を終えて,帰る飛行機の中で書いたメモ

上海での発表を終えて,帰る飛行機の中で書いたメモ

上海では,エキソニモ《断末魔ウス》を用いて,コンピュータの中の「魂(spirit)」というものがあるのではないかということを発表した.思ったよりもウケが良かった.日本ではほとんどもらえない発表へのリアクションが結構あったので,それだけでも上海まで行ったかいがあった. コメンテーターの先生からは,キャサリン・へイルズらの「ポストヒューマン」との関係を問われた.ヘイルズの「ポストヒューマン」は理念的な感じがするのに対して,ヒトはカーソルという日常的に慣れしたしんだ存在に寄り添うことで,既に「ポストヒューマン」になっているのではないかということを答えた.もっと端的にいえば,ヒトはカーソルになっている.タッチパネルを考えると,GUIのカーソルを経て,ヒトの指自体がカーソルになっている.こんな感じで,ヒトはトランスフォームしていくのかもしれない. ヘイルズの「ポストヒューマン」の本の内容はほとんど忘れてしまったので,お正月に読みたいなと思いつつ,「ポストヒューマン」の基本的文献をおさらいして,来年度の講義で考えてみたい.その際に,コンピュータが持っている「ハイブリッド」や「キメラ」という怪物性・異質性みたいなものと,ディスプレイ上でヒトの意識の依代にもなっているカーソルとの関係も探ってみたい.

中国・上海での発表

明後日,上海に行きます. 国際シンポジウム『文化の越境、メディアの越境──翻訳とトランスメディア』 で発表します.共同発表ですが,私の発表の内容はエキソニモの『断末魔ウス』を「トランスメディア」という観点から論じるというものです.詳しくは,以前書いた 日本語メモ . ここには発表とは異なるヴァージョンの英語テキストを置いておきます. -- Nature and Destruction on the computer Nature | Cursor | Destruction 1. Hybrid | Metamedium | Chimera Just as there was no fully development media theory before (or without) the computer, there was no fully developed human before (or without) technology. (p.196) Hardware/Software/Wetware, Geoffrey Winthrop-Young If Young’s statement is true, we must ask what the computer is in order to fully develop a media theory. Although there are many answers for what the computer is, I would like to focus on a computer scientist's, Alan Kay’s, idea--the computer is metamedium--because he is one of the fathers of the personal computer itself. Every message is, in one sense or another, a simulation of some idea. It may be representational or abstract. The essence of a medium is very much dependent

視線|フォーカス|意識:エキソニモ《The EyeWalker》から考えたこと

山口へ行ってきた.目的地は YCAM .体験した作品は エキソニモ 《EyeWalker》( セミトラ 《eyeFont》は視線入力の判定がシビアで私の目ではダメでした,残念). エキソニモ 「EyeWalker(アイウォーカー) 」  新作(YCAM委嘱作品)  2011|インスタレーション 視線の動きによって,視覚の跳躍を体験することができる作品.YCAM館内には,オブジェとなるビデオカメラ付きモニターが様々な角度で,距離を置いて配置され,体験者がいるブース内のモニターには,会場の風景が映し出されます.体験者が,モニター画面に映るオブジェを見つめると,その画面は,オブジェからの中継映像へと次々と切り替わっていきます. 本作では,「The EyeWriter」のソフトウェアを応用して,体験者が,モニター内のどのオブジェを見ているかを検出し,中継映像を選択しています.ブース内のモニターに映る映像に没入する体験者の視覚は,自らの視線が向くオブジェへと転移し,次々と展開されていくことになります.映像に囚われた私たちの没入感覚を極端に増幅し,現実の空間を次々に跳躍するかのような視覚をもたらす本作は,見る行為と自身の存在にある関係をも揺さぶります.   エキソニモ《EyeWalker》作品説明 from YCAM:視線を通じて世界と繋がる。― 視線入力技術
LabACT vol.1「The EyeWriter」 作品を体験する前に書いたテキスト で,《EyeWalker》は《↑》に通じるところがあるのではないかと思っていた.体験した今も,この2つはつながりがあると考えている.《↑》は有無を言わさない強烈な力で,体験者の意識を「現実|仮想」とのあいだで曲げてしまうような作用があると感じたのに対して,《EyeWalker》で感じたことは,確かに意識をモニターの中や外へ持って行かれるのだけれど,それがいつも「ちょっと手前」で起こっている感じがした. 「ちょっと手前」というのは,「意識のちょっと手前」という感じである.無意識というのではなくて,意識的に視線をコントロールしているけれど不自由さがあって思ったとおりできないという,なんとももどかしい感覚.まさに「 隔靴掻痒 」という感覚.画面の中のモニターを見るのだけ

山口に行くための考えごと

YCAM に展示されているエキソニモの《EyeWalker》を体験したい.山口は遠いなと思っていたのですが, CBCNETでの紹介記事 を読んだらとても体験したくなった.そこには作品の背景として「自分のいる世界、モニタの中の世界、移動する事、移動しない事、フィクション、ノンフィクション」ということが書かれていた.さらに,栗田さんの言葉で「見る」と「選択」のあいだの行き来,その中間地点にある違和感というとても興味深い言葉書かれている. この記事を読んで,まだ体験していないこの作品はエキソニモが ICC で展示した 《↑》 に通じるものがあるのではないかと思い始めた.《↑》は現実世界にモノとして置かれた「カーソル」がカメラで撮られ,ディスプレイに映しだされる.ディスプレイ上にカーソルがあるのだけれど,それは「こちら」側に置かれたモノの映像であって,いつものコンピュータが生成しているカーソルとは異なっている.私はこの作品を体験した時,カーソルという「こちら」側にあるのか,「あちら」側にあるのかよく分からない,その中間地点にあるようなイメージを起点にして,強制的に現実と仮想とのあいだを行き来させられる感覚を覚えた.それはとても否応なく意識を持って行かれる感じだった.《EyeWalker》もこのような拒否できない強い流れみたいなものを感じることができるのんではないか. カーソルはこの先の未来にもあり続けるだろうか.カーソルは iPhone には存在しないようにもしかたしたら,マウスとともに消えていくかもしれない.しかし,EyeWriter のような視線誘導のデバイスが普及するとしたら,そこでは,私たちが見ているところを示すものとして「↑」のかたちをしたカーソルが普通に使われている可能性が高いのではないかと思っている.なぜなら,カーソルは私たちの意識な関係を築いていると思われるからである. 現在のマウスと結びついたカーソルでも,私たちは極々普通にカーソルに自分に意識を持っていかれているときがある.それは,カーソルがひとつの依代になって自分の意識がコンピュータが作る情報の流れに取り込まれてしまうような感じである.ヒトが操作主体となってカーソルを動かしているのではなく,カーソルがヒトを動かすことが起こる.ヒトが長い年月を掛けてその制御の訓練をしてきた手と

メディアアートと世界制作→世界実装の方法

今日は 国立国際美術館に「メディアアートと世界制作」 を聴きにいった.このシンポジウムの登壇者は,エキソニモ,クワクボリョウタさん,畠中実さんというメディアアート組と展覧会企画者の中井康之さん.このテキストはシンポジウムのレポートというよりも,そこから得た刺激で考えたことです.なので話の中心はエキソニモになります. 中井さんの「エキソニモは一見してメディアアート」という言葉に,「そうなのかな」と思っているうちにシンポジウムが始まりました.中井さんは「情報技術」を使っていることがメディアアートとファインアートとを端的に分けていると言われていたような気がする.でも,「情報技術」はもう生活の中に入り込んでいるわけだから,ファインアートの制作者だって表立っては使っていないけれど,制作のプロセスのどこかでは使っているだろうし,そこからの影響も受けていると思うので,「情報技術」という言葉では,もう何も分けることができない世界になっているのでないかと思います. メディアアートとファインアートなどといった「しがらみ」から解き放たれたいと,エキソニモの千房さんが言っていって,ネット(ネット以外でもだと思いますが)で「おもしろい」ことをしていくと.その流れで「今のアート」に縛られないということを言われていて,100年後のアートの枠組みは今とは変わっているのだから,その「今」に縛られないということ.そして,「自分がひとつのジャンル」になるような感じでと言われていて,もしかしたら,私は「メディアアート」というジャンルではなくて,「エキソニモ」というジャンルにハマっているのかもしれないと思ったわけです.私自身も「映像学」というジャンルにいるのですが,どうも何かちがうということで「インターフェイスも映像だ」とひとり思って研究をすすめてきたので,「自分がひとつのジャンル」になるという言葉は響いた.その先に何が在るかがわからない楽しさがあるけど,それは怖くもある.けど,おもしろさやたのしさに賭けてやっていくしかないと思いつつ. エキソニモの《ゴットは、存在する。》の展示で,ヒトの意識を操る(ハッキングする)ために発光体であるディスプレイにライトを当てているという話を聞いて,とても面白いなと聞いていました.そしたら,そういったリアルでのヒトの注意の惹き方の集積がアートなのだ

自然|カーソル|破壊:上海での発表のための日本語でのメモ

「トランスメディア」というのが発表のセッションのテーマ.発表のタイトルは「コンピュータにおける自然と破壊」.単独ではなく,共同発表. 発表の基本の流れ(今の段階) 自然|カーソル|破壊 ハイブリッド|メタメディウム|キメラ アラン・ケイの「メタメディウム」から,レフ・マノヴィッチの「ハイブリッド」へとつながって,これがコンピュータの「深い階層」で起こっていることで,デスクトップのような「イメージ−表層」ではソーレン・ポルドが指摘するようなイメージが「メディア」でもあり「道具」でもあるような「キメラ的性質」が表れている.「メタメディウム」には「ハイブリッド」と「キメラ」という得体のしれないものが存在している. 垂直|カーソル|水平 マノヴィッチとポルドが見落としているもの,それが「カーソル」.なぜか,それは「手」のようなものだから,特別意識しないし,意識していたらコンピュータと行為などできない.私たちが普段「手」を意識しないで,さまざまな行為をしているように.しかし,カーソルはGUIの要素のひとつであるから,メタメディウムの一部であるはず.にもかかわらず,メタメディウムというものからはみ出しているような感じがする.それは,現実に対応したメタファー的存在ではないし,マウスという物質的な存在と強く結びついているから.このような理由から,メタメディウムはすべてがシミュレーションから成立しているが,カーソルはシミュレーションという枠からはみ出るような存在である.そしてこのカーソルがイメージ−表層において常に最前面にあり,アイコンなどを操作しているということ.カーソルは,メタメディウムの中に存在する「ハイブリッド|キメラ」的な何かを操作する存在なのではないか. このことを考えるために,アレクサンダー・ガロウェイ(Alexander Galloway)が『プロトコル』という本の中でインターネットを説明していた「水平」と「垂直」を援用する.ガロウェイは,TCP/IP はインターネットに「水平」的な自由な情報のやりとりを作り出しているのに対して,DNSというシステムが階層的な「垂直」性をインターネットに持ち込んでいると考える.そして,DNSが導入した「垂直」性は,インターネットを「人間化」する.そこで,カーソルに戻ると,それはマウスとの関

「Post Internet」的な何かを探ってみようと思った日の記録として

CBCNET のブログで萩原さんのエントリー: インターネット時代の民藝品 を読んで,いいなと思いつつ,そのままCBCNETを読んでいたら, Interview with Parker Ito  という記事がおもしろくて,そこで「Post Internet」という言葉を知る. とても大雑把だけれども,この流れに身を委ねてみようかなと思っている.カーソル, エキソニモ への興味も尽きないけれど,それと並行して「Post Internet」的なものを探っていくことを研究の対象にしようと思う.それは「インターネット・リアリティ」を探ることと同じかもしない. ここはまだあまり研究されていないような気がするし,自分はそこにどっぷり浸かっているわけではないから,適度の距離感もある.だから,次の学会発表は「Post Internet」的な何かでいこうと思った.

名古屋芸術大学_情報技術論:カーソルをめぐる冒険

今学期も《断末魔ウス》を学生とともに体験しました.マウスとカーソルとのつながりへの学生の反応が興味深いです.以下,その授業スライド・資料及び,「カーソル」にまつわる学生からのコメントです. ── スライド カーソルをめぐる冒険 資料 http://exonemo.com/ 《断末魔ウス》をつくったエキソニモのウェブ.インターネットのリアリティや,ヒトとコンピュータとの関係を鋭く切り取った多くの作品が見られます . 断末魔ウス エキソニモのウェブからリンクがあるのですが,見つけられない人に… あいだを移行する「↑」:エキソニモ《断末魔ウス》,《↑》におけるカーソルの諸相 『映像学』,日本映像学会,第85号,pp.20-38,2010年 水野が書いたエキソニモに関する論文.時間と興味があれば… http://www.persistent.org/ ヒトとコンピュータとのあたらしい関係をつくることを研究・実践している渡邊恵太さん. 渡邊恵太《自己喪失》 渡邊恵太さんがつくったカーソルにまつわる作品. http://www.newrafael.com/websites/ インターネット上で多くの作品を展示しているラフェエロ・ローゼンダールさんの作品集みたいなページ. A Magazine Is an iPad That Does Not Work.m4v タッチが当たり前になっていくであろう子どもの観察記録映像. Big Bid Cursor タッチが当たり前になってもカーソルを必要とするあなたに! 学生のコメント ディスプレイ上の「カーソル」を気にしたことがある/ない エキソニモ《断末魔ウス》の感想 改めて「カーソル」について考えてみてください.

あたらしい「痛み」をつくる

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先日, VSN(Visual Studis Network) という自分もスタッフのひとりである研究会で発表しました.その研究会の主旨は名古屋大学大学院情報科学研究科の秋庭史典准教授が書かれた あたらしい美学をつくる を楽しむということでした→ 『あたらしい美学をつくる』の楽しみ方 . 発表者は著者である秋庭史典さん,美術批評で活躍されている 粟田大輔 さん,そして私という3人でした.粟田さんと私が,『あたらしい美学をつくる』を読んで考えたことを話し,それに対して秋庭さんに応答してもらうという感じで「楽しむ会」は進みました.粟田さんと私の発表に関して,秋庭さんが自身の ブログ でとても的確にまとめてくれています(そして,私の場合は自分でもうまく言えないところをズバリと表現されていてとてもためになります)のでそちらを見ていだければと思います. 以下は,そのとき使ったファイルからの転載です.だいぶ長いです.最後に「プロトコル」という項があるのですが,これは時間の都合上発表では省きましたが,ここには載せておきたいと思います. ─── 情報の流れとしての自然 ひとつの例としての「台風」 幸いなことに,私たちはこうした考えに(直接的ではなくとも)力を貸し与えてくれるような知識論を手にしつつあります.それは, 世界に対峙しそれを認識する主観という図式を廃し,「情報の流れとしての世界」という見方を提案しています .それがどんなものかイメージしてもらうために,いきなりですが,引用をひとつ挟みます.アメリカの哲学者ドレツキ(1932-)という人の名前が出てきますが,それが誰か知らなくても,「太平洋上の……」以下で著者戸田山和久(哲学者)が言おうとしていることは,理解されるのではないかと思います. こうした世界のもとでは,この世に起こるさまざまな現象はすべて情報の担い手として見えてくる.しかもそれは,特定の解読者に解読してもらうことを必要としない.ドレツキは,情報の発信者,解読者という心をもった主体の存在を前提せず,出来事をじかに情報の担い手と考え,出来事の継起を情報の流れとして捉える. 太平洋上のある場所で台風が発生したという出来事 は,それじたいで,その場所の気圧が非常に低いという情報を担っている.このことはまったく客観的な現象だ.こ

メモ:up in the air で trance-trans なカーソル

カーソルは中途半端な存在ということが頭の中にずっとあって,今,英語でカーソルについての発表の準備をしてして面白かったのが,「中途半端」が英語だと「up in the air」という表現になること.カーソルは文字通りの意味でデスクトップで常に最前面にあるわけであるから,それは浮いているような感じであって,だから「up in the air」な状態にあるわけで,それが「中途半端」という意味もあるということ.だからどうしたというわけではないけれど,ちょっと面白かった. あとは中途半端に宙を漂っているカーソルが消えてしまう→自己喪失.「トランス」は英語で「trance or trans」.前者は夢現な感じで,後者は超えるということ.なんかいいねと勝手に思っている. 見落とされているカーソルに注目というところまでは,どうにか書けそうな感じがする.そこからどのようにエキソニモ《断末魔ウス》につないでいくか.「up in the air」なカーソルとマウスの破壊.マウスを破壊しているだけれど,それはカーソルを破壊していることにもつながる.でも,カーソルは文字通りの意味では破壊されない.ただ動きを止めるだけ.でも,また動き出す.いっときの「死」がもつ意味を考える.マウスの文字通りの破壊とカーソルのメタフォリカルな破壊.その意味をコンピュータが示す「自然」の中で考えてみること.メタメディアという「自然」を超える(taras),そしてトランス(trance)状態になってしまうような存在としてのカーソル.すべてを宙吊りにしてしまうような,というか自身が宙吊りのカーソル.

上海での発表のためのメモ

front/back.  the cursor is trace-meta media.  overlapping windows.  horizon vs vertical.  PCP/IP vs DNS.  machine vs human.  It is important to humanize the computer or meta media.  meta media and Alan Kay.  Alan Kay's idea vs the cursor.  meta media and interactive.  software/wetware/hardware.  there is no software.  everything is software.  the cursor is wetware.  bring to front/send to back.  image/word.  nature/image/destruction.  an information steam. a stream of information.  destroy a stream of information.  tool/media.  hybrid=meta media=allo.  beyond human imagination.  supernatural.  supernatural/cursor/trance.  always front.  literally always front=trance.  not layer but stack.  a stack on a layer.  exonemo|DanmatsuMouse. The cursor|the information of coordinates of the point

事が起こった後の「背面|前面」

「世界制作の方法」展の エキソニモ展示のつづき,今のところこれが最後. 《ゴットは、存在する。》の展示で,壁から引きずり降ろされたディスプレイの作品がある.これの個別のタイトルは分からないけれど,今,この作品がとても気になっている.この作品のディスプレイは「かつて」壁に設置されていたと思われる.しかし,何らかの「力」でそこから引きずり降ろされた.これらことを壁に残された痕跡が示している.事が起こったあとを,鑑賞者は見る.ディスプレイは床に向けて倒されており,鑑賞者はその背面の黒い樹脂の部分を見ることにある.ディスプレイは床にべったりと倒れているのではなく,Mac mini の上に倒れかかっている.なので,ディスプレイと床とのあいだには隙間がある.その隙間から,ディスプレイが発している色鮮やかな光が見える. 光は見えるが,それが何を映しているのはかはわかない.ただ光っている.壁から引きずり降ろされたかもしれないディスプレイは床に向かって,Mac mini から送られてくる信号から生成した光を発している.ひとつの破壊が行われても,それでもなお何かを映し続けているディスプレイ.何を映しているのかはわからない.ヒトがその映像を見ることができないディスプレイに意味はあるのか.ヒトは背面の黒い樹脂しか見ることができず,前面の映像は見ることができない.ここでのディスプレイはイメージの次元を暴力的に破壊され,モノの次元で存在している.しかし,破壊されてもイメージは何かしらの像を結ぶことがないままに漏れてくる光として提示されている. 帰りの電車の中でこの作品について考えていたときに,エキソニモが Web Designing で連載していた「view-source」の「 天地創造と不可視IMG神  」を思い出した.見えないけれど機能する「spacer.gif」にまつわる神話. この作品はカーソルもマウスもでてこない.そこにあるのは,何か事が起こった後の黒い樹脂の背面と前面が光を放つディスプレイと呼ばれる装置とそこに繋がれた黒い林檎を背負ったMac miniだけ.それでもすごく気になる.自分的にはディスプレイに「背面」「前面」があるという当たり前のことを気づかせてくれたこと.しかも,それが暴力的な行為の結果として提示されていることがとても気になっている.

「情報機器に在るはずのない精神を感じさせる」存在としてのカーソル

「世界制作の方法」展 でのエキソニモ作品のつづき. エキソニモの《ゴット・イズ・デット》に抜ける扉の前の空間には,《ゴットは、存在する。》が展示されている.私が見に行った日には,2つの作品が調整中だったためそのすべてを見ることができたわけではないけれど, ICC で展示してたヴァージョン とはまた違った感じがした. 最初に気になったのが,祈るときの手のように重ね合わせられたふたつのマウスが車座に配置されている作品.もちろんマウスはパソコンに接続されていて,そのディスプレイには「ゴット」という名のフォルダが映し出されている.この作品の興味深いところは,ふたつの光学式マウスを重ね合わせることで,光の干渉が起こってヒトを介さずにカーソルが動くというところ(→以前書いたエントリー: イメージを介して,モノが「祈る」 ).前回の展示はひとつだった重ね合わせられたマウスが複数になっていて,それぞれが動かしているカーソルの軌跡がひとつひとつ異なっている.異なるカーソルの軌跡には「個性」がある感じがして面白かった.さらに,「ゴット」というフォルダが画面上にあるのだけれど,カーソルはその上にほとんど辿り着くことがない.たとえフォルダとカーソルが重ねあっても,クリックされることはないから,決して「ゴット」のフォルダは開かない.「ゴット」のフォルダには何が存在するのか.そして,もし「ゴット」フォルダをダブルクリックされて開いたとしたら,マウスとパソコンで構成された車座の中心から「ゴット」が現れてきそうな神秘的な雰囲気もある.こういった「信じるか信じないかは,あなたしだいです」といった秘密結社的な感覚が面白い.この雰囲気が《ゴット・イズ・デット》の空間(→以前書いたエントリー: 《ゴット・イズ・デット》が示すインターネットの「不穏さ」 )へと繋がっていると思う. 車座になったマウスの上には,ミラーボールがあって,その先には大きな「カーソル」が映し出されている.この大きなカーソルもまたふたつのマウスによって動かされて,ときたまミラーボールの影の中に入っていく.そのときにカーソルは星屑のように粉々になって,その破片がミラーボールに反射して部屋中に撒き散らされる.ここには抽象と具象のあいだを行き来するカーソルがあるような気がした.カーソルはとらえどころないイメージのよう

《ゴット・イズ・デット》が示すインターネットの「不穏さ」

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国立国際美術館に「世界制作の方法」 を見に行った.エキソニモとクワクボリョウタというメディアアートの作家が現代美術の領域で紹介されるという展覧会で,タイトルはネルソン・グッドマンの哲学書( 世界制作の方法 (ちくま学芸文庫) )からとられていてとても興味深い. エキソニモの《ゴット・イズ・デット》がとても良かった.古びた扉を開けると「ギー」と軋んだ音がする.音とともに暗闇の部屋に入る.暗闇の中にスポットライトが光っている.ライトの先にあるのは……(この先はまだまだ会期があるので,是非自分の目で見てください). 暗闇が支配する空間にスポットライトひとつという空間構成が,この展覧会の他のどの展示よりも,自分の感覚にしっくりきた.この空間を作り出しているのが「エキソニモ」というネットで主に活動してきたユニットということがとても興味深い.現代美術ではインスタレーションというかたちで,多くの空間構成が行われてきた.「世界制作の方法」でも,多くの現代美術の作家がインスタレーションを行なって空間を作り上げている.しかし,それらにはなにか感じるところがなかった.「リアル」に溢れる乱雑さのみが表現されているという感じで,そこには今では「リアル」に寄り添う「もうひとつのリアル」となっているインターネットという存在への配慮というか気遣いといえるようなものがなかったような気がしている. エキソニモの《ゴット・イズ・デット》には「インターネット」という「もうひとつのリアル」がそこにある存在として示されていたような気がする.「ネットは広大だわ」という草薙素子のつぶやきがしめすような茫漠とした拡がりと,そこを占めることになった猥雑で雑然とした感覚.どこまでも広がる茫漠した論理空間.それは今まではとてもクールで無機質なものとして現れていたけれど,それは今では雑然としたリアルの延長となっている.広大な論理空間と雑然とした生活空間という矛盾するふたつの空間の同居という要素が,《ゴット・イズ・デット》という作品の中にはあると思う. だからかもしれないが,《ゴット・イズ・デット》には,いつ何が起こるか分からないという「不穏さ」を多分に感じる.インターネットはいつもそこにある「もうひとつのリアル」となっているけれど,その存在を改めて明確に示されると,ヒトはそこで何が起こる

メモ:台風→情報の流れ→GIF→複合体としての主観

台風は情報の流れを作る.それがヒトに影響する時,偏頭痛などの痛みを伴うことがある.情報の流れを作り出すコンピュータ.それはもう一つの流れかもしれないが,「自然」になっている.この流れの中でも「痛み=傷み」を感じることが出来るかどうか.それはGIFを認識すること.技術的な制約のもとでのGIFを認識することは,ヒト本来の認識に合わせた映画やテレビとは異なる.技術に合わせたヒトの認識.ヒト中心主義からの脱却でもっとも日常的で,話題にもならない地味な現象.でもそこにこそ,ヒトとコンピュータとの複合体としての認識及び主観が生じているのではないだろうか.情報の流れという「水平」に広がっていくレイヤーの中に,面を垂直に重ねて最背面・最前面を作り出すこと.黒崎政男さんがカントを超越的統覚を「垂直構造」と呼んだように,情報の流れに「垂直」に重なる面を作り出すこと.『protocol』という本に書いてあるTCP/IP は「水平」で,DNS が「垂直」ということも,まだ読めていないが気になっている.

memo:safari 5.1|← →|chrome 15 beta

前回のエントリーを受けて書いた memo から.  Chrome 15 beta のMac版だとスワイプすると矢印がでてページが戻ったり進んだりするのが興味深くて書いたのだけれど,どうもよくわからなかった.矢印の力はすごいなと思いつつ,それが行為と一致しないなかでも機能する.これらのズレを含んで自分に帰属しているという意識をもってしまうような,情報処理のプロセス.Chromeとユーザとの複合体による情報処理プロセスが生じている.なんかオリジナルな感じがするんですよねー.現実を模していない,行為をしているけれども,それを見ているだけにもなっているヒト.見ているだけでありながら,自分が行った行為をコンピュータが続行してしてくれている.しかも,自分の行為とは異なった方向で.行為の意図には沿っているけれども,そこから生じるイメージが異なるというか.異なると言っても,それはコンピュータ以前,ヒトと道具とのあいだでは想像出来なかったというだけで,今は実際に目の前に起こっている.それを受け入れている.

safari 5.1|← →|chrome 15 beta

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safari のウェブページを進めたり戻したりするときのアニメーション.指に吸いついてくるような感じで,ウェブページをスワイプすることができる.「進む・戻る」ボタンの矢印とは逆の方向に指を払うことになるのだけれど,そんなことは関係なしにすんなり受け入れることができた.アニメーションを入れることで,指とページがつながり,ページが自分の延長となっているような感じだろうか. chrome も2本指のスワイプでページを戻したり進めたりできていたのだけれど,今まではアニメーションなどの手がかりがなかったので,とても違和感があった.3本指でのスワイプでは「進む・戻る」ボタンの矢印と同じ方向に指を払えばよかったのだけれど,2本指では逆になる.どっちがどっちかわからなくなることがよくあった.それが chrome 15 beta では,2本指でスワイプする時に「進む」なら「→」,「戻る」なら「←」が画面の中央くらいに表示されるようになった. 矢印の表示が指の動きとは別の方向を指し示していることは変わらないが,自分が何をやっているのか迷わなくなって,断然使いやすくなった.手の動きと矢印の方向の一致よりも,アニメーションで動く矢印が示す方向に私の意識は向かっているのだろうか.しかし,上の映像のように手の動きと独立したかたちでみると,矢印の動きとその向きが逆になっていることに何となく違和感を覚える.矢印の向きよりも,指と矢印のアニメーションが一致していることが重要なのかもしれない.自分の身体として矢印を捉えて,思考は「←」もしくは「→」が示す向きに制御される.身体と思考とのあいだに微妙なズレがあるのだけれど,身体とアニメーションによって動く矢印とが一体化することの心地よさによってズレが回収されている.そうして,ページは自分の延長となる. safari はページを直接操っているような感じを身体と一体化したアニメーションで 作っているが,chrome は何だろうか.今までの3本指でページをスワイプしているのとも違うし,もちろん safari とも違う.iPhone のロックを外すような感じが一番近い気がする.ここではロックを外すのではなくて,ページを進めたり戻したりしているのだけれど.いや,一回一回ロックをはずして,ページを進めたり戻したりしているのか

「レイヤーではない重なり」としての「最前面・前面・背面・最背面」

「レイヤーではない重なり」としての「最前面・前面・背面・最背面」を考えてみるー.レイヤーは横からの見る.最前面ー最背面は上からしか見ることができない.視点の移動がない.垂直構造・統合.視点の移動がないから,そこに重なりが起こっているのかどうか,重ねてみなければ分からない.イラストレーターのオブジェクトの重なりのように.オブジェクトの重なり順はレイヤーのようにすべてを見渡すことができない.レイヤーはマノヴィッチを始め,多くの人が言及しているので,そこの知見を応用しながら,次を考えるために「最前面ー最背面」のあり方を探っていくことはできるだろうか. カーソルはつねに最前面にあり,デスクトップは最背面にある.そのあいだにフォルダが置かれている.「アクティブ」なウィンドウとそうではないウィンドウの重なり.「レイヤー」というとひとつの層すべてを覆うかたちで次の層があるが,「最前面ー最背面」では一部は重なっているが,そうでないところもある.ここにひとつの違いがあるのかもしれない.

メモ:「もうひとつの」→「ひとつの」

「私がこれ」「私はこれ」「これが私」「これは私」.三人称と一人称との往還から生まれる四人称.それはヒトとモノだけの人称だけではなく,コンピュータという新しい思考を含んだ「もうひとつの」人称といういう意味での四人称の設定.   「もうひとつの」という言葉示すリアリティを得ることが大切だと思う.「もうひとつの」ということが常にどこかに現れてくるような世界に生きているというリアリティ.「もうひとつの」と,そこから帰結する「ひとつの」という言葉が示すリアリティを考える.

「私」⇄「あなた」⇒「四人称」

「YouTube」では「私」が「あなた」となり.「Wii」で「私」が複数となって拡張していき「あなた」を呑み込んでいく.コンピュータを介すことによって,「私」と「あなた」の絶え間ない入れ替えが行われていく.さらに考えると,「YouTube」で「You」と呼ばれるのがヒトだとすると,ここでの「I」は,コンピュータによって構築されるシステムということになる.「私」=コンピュータは,いつでも「あなた」=ヒトを受け入れますよという状況が発生している.複数の「私」がシステムである「私」を作り上げ,「あなた」になる.ここでは,今まで確固とした中心であった「私」がひとつの「あなた」になっていると考えられる.そしてまた,個々の「あなた」となったヒトがシステムである「私」を通して,別の誰かと結びつき複数の「私」となり,それが再びシステムを介してその中の「あなた」になるといった感じで,コンピュータを介して,ヒトとの結びつきを繰り返す中で「私」と「あなた」を絶えず行き来して,その領域を拡張しいった結果として,そこには外部がない「四人称」的意識が生じると考えられる.

「最前面|最背面 on レイヤー」みたいなメモ

最前面と最背面をもつ垂直構造.最前面と最背面のあいだには少なくともひとつの面があるはずなので,最小では3層構造.面と層とのあいだにはちがいはあるのかもしれないと思いつつ,とりあえず進めていく.レイヤーのなかで,それぞれ最前面と最背面があるとすれば,「最前面|最背面 on レイヤー」みたいな感じかもしれない.最前面にカーソルがあるとすれば,最背面には何があるのだろうか.データかなとも考えていたけれど,この面がレイヤーに載っているとすると,もっと考えなければならない.それはカーソルの先に何があるのかということで,カーソルがなくなったときには,その「先」だけがのこるわけだから,よりわからなくなっていくような気がする.

「四人称」のためのメモのためのメモ

アイヌの人は自然に対して,私たちとは違った感覚をもっていて,そのために一人称を含んだ三人称という「四人称」を持っていた.私たちの時代には「情報としての自然」という,もうひとつの自然がある.その主な生態系がインターネットであるとすれば,そこの自然に対しても「四人称」が発生することがあるかもしれない.もうひとつの「四人称」が発生する時代.人称を自由に設定することで,リアリティが生じる時代.

メモのメモのメモそのまたメモ

僕はエキソニモの作品を使って「カーソル」がメディアを跨いでいることを示そうといて,それは今までのトランスメディアがメディアを水平方向に並べてその枠を移動しているイメージだったのが,カーソルはメディアを垂直方向にひとつ層を重ねることで起こっている → なんてことを言おうとしていました.そこにグリッチを組み込むと,カーソル|映像|データという層の最背面の部分でのメディアの破壊というか,すべてを壊してしまうような可能性があるのではないかと,つらつらと思ったので,...…

memo20110901+:インターフェイス・リアリティ→インターネット・リアリティ!?

学生CGコンテストのUstream  を見ながら,ふと「インターフェイス・リアリティ→インターネット・リアリティ」ということが思い浮かんだ.インターフェイスが作り出してきたリアリティと,インターネット・リアリティはつながるのか,それともつながらないのか. カーソルを置き去りにスクロールするLion.ここではもうリアリティは変わっている.今のインターネットとともに歩んできたGUIによるリアリティ,マウスとカーソルとのつながりと,そこにあるウィンドウの関係で培われてきたリアリティ.このリアリティはインターネット・リアリティにつながるのか. カーソルのリアリティもよく考えられてこなかったので,その延長でインターネットのリアリティを考えることもやられていない.衰退していっているかもしれないカーソルのリアリティ.衰退していっているからこそ理解できるようになっているカーソルのリアリティ.そこの部分とインターネット・リアリティをつなげてみるとどうなるのか. 傍観者でありながら,直接触れるカーソル.カーソルのこのねじれがインターネットのリアリティをねじまげる.どんなふうにねじ曲げているのかはわからないけれど,とにかく一筋縄ではいかない気がする.コンテンツのリアリティではなくて,インターネットのリアリティ.もちろんコンテンツの分析も必要だけれども,そのコンテンツを生み出している大枠を捉える必要があると思う. ブレンダ・ローレルが演劇のメタファーで捉えたインターフェイス.演劇に「第四人称」を与える外山滋比古.インターフェイスは「第四人称」となるかと思えば,そこでのユーザは当事者でもあるから,傍観者として位置づけられる「第四人称」にはなることができない.けれど,ユーザは傍観者なのではないのかと考え直してみる.インターフェイスではすべてが仕組まれているとすれば,それは当事者でありながら,自らの行為を他人の行為のように眺めるしかない,カーソルを自分の延長のように感じながら,単なる映像とも見なしてしまうような傍観者的な立場にいるのかもしれない.そして,この当事者でありつつ傍観者でもあるような「第四人称」でもあるというのが,インターネット・リアリティを考えるヒントがあるかもしれないと思いつつ.

コンピュータを前にした身体の障害と思考の自由

実は,われわれは仮想空間において知覚的な障害をもっているのである.データで形成されている仮想世界に触れるには,ツールを介す必要があり,そのツールの限界がすなわち,われわれの限界となるのだ.それらのツールとは,例えばモニターやスピーカーやプリンタにあたるのだが,これらの機器は,誰もが均等に経験できる技術をめざす工学分野が発明したものなわけだから,それを介して仮想世界に触れるとしても,誰もが似たような体験しかできないことになる.(p.23)  ゴッホってなんだろう? , 毛利悠子 in 情報生態論|いきるためのメディア この毛利さんのテキストがとても気になっている.「知覚的な障害」という言葉.誰もが似たような体験しかできない.逆に言えば,誰もが似たような体験をできてしまう.障害を持つことで,誰もが似たような体験をできてしまうことの意味を考える.コンピュータの前に位置するヒトは,「知覚的な障害」をもち,誰もが似たような体験をしてしまっている.障害を持ちながらも,コンピュータを使う.テルジディスによれば,コンピュータはひとつの知的パートナーである.「障害」をもつヒトをサポートしてくれる「知的パートナー」としてのコンピュータ.障害を持つからこそ知的パートナーの役割が大きくなる.そして,今まで想像も出来なかった概念を作り出す.毛利さんは「障害」を越えてしまうような,いや「障害」を活かした,いや今の私にはよく分からない作品を作る(毛利さんも含めて,1980年前後生まれの人たちの作品を近いうちに考えたい).私は「障害」に寄り添ったかたちで考える.それはインターフェイスを軸に,コンピュータを考えてきたからだと思う. 身体の「障害」から思考の「自由」が生まれると考えるのは,身体と思考とを分けて考えているからでもあるが,ヒトとコンピュータとを複合体として考えれば,それは入力の制限と出力の自由ということになるであろうか.いや,出力においても,ヒトに合わせているのでそこにも制限があるのだろう.いや,複合体になってしまえば,そこには「制限」も「自由」もないのかもしれない.ただ入力と出力があって,出力からまた入力が行われる.この作業を延々とし続けていくだけなのかもしれない.この状況はなんとなくイヤな感じがするが,それは私たちがヒトとして考えているからで,複合体になれば,それは

invisible loophole 展のギャラリートークの前|後

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invisible loophole 展のギャラリートークの前 カーソルという「見えない記し」.フロイトが示したような意識と無意識の2層構造.ここで,マジックメモに注目すると,3層構造がでてくる.カーソルはヒトとコンピュータとが作り出す3つめの層.カーソルの層|意識|無意識.という3層.意識の方向付けを行う「カーソル層」.意識の流れ.志向性.意識の方向.意識と無意識に影響を与える「向き」を示す層.ヒトとコンピュータとが融合することでできた新たな層.でも,それは「見えない」,見えているけど,見えない.だから,「見えない記し」.この見えない記しが見える記しを動かし続け,何かが記され続ける.  マウスからグリッチへ.  データが直接破壊されるグリッチ.すべてが記号の中で破壊が遂行される.ヒトのみが記号の破壊を認識できるのかといえるのが,コンピュータも,アプリケーションごとにその破壊を認識している,という面白さ.記号の破壊.見える破壊と見えない破壊.  グリッチからiPadへ.  iPadはデータとともに粉々に砕け散る.フィジカルに散る.リモートなし.現実にべったりとマッピングされたガジェットとしてのiPad.べったりだけど,その表面は記号の世界.現実にべったりとしたフィジカルな記号の世界.それゆえに,iPad Head Girl では「顔」から「その他のもの」に変わった時に,それが「フィジカルな」記号であるがゆえに,フィジカルと記号とが引き離されるのを見ることになる.だから,とても違和感を感じる.  invisible loophole 展のギャラリートークの後  昨日は,invisible loophle という展覧会のギャラリートークをした.トークしている中で,カーソルというヒトとコンピュータとの複合体の最前面を介して,コンピュータがヒトをまねているし,ヒトもコンピュータをまねているのではないかという考えがでてきた.コンピュータの反復性を,ヒトが行うようになる.コンピュータの思考にまねる.コンピュータの身体性をまねる.  映像に関して.今まで映像は,深層と表層から成り立っていたと考えられる.そこにコンピュータが入ることによって,複合体としての最前面ができあがる.「深層ー表層ー

「グリッチワークショップ」を見学して考えたこと

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東京藝術大学 芸術情報センター で8月20・21日に開催された公開講座「 グリッチワークショップ 」を見学しました. 「データを壊す」ってどういうことなんだろうと疑問から見学させてもらったのですが,とても興味深い内容でした. ucnv さん, 林洋介さんによるグリッジの技術的な講義と 針谷周作 さんによるグリッチの歴史とその可能性を示す講義といった,グリッチをめぐる技術と概念を端的に学べました.ワークショップ参加者は,技術を学んだあとに,グループごとに作品作りをしていたので,単に見学していた私よりもはるかに深く「グリッチ」のことを理解できたのではないかと思います.制作には参加しませんでしたが,私自身もこれから自分がメディアアートを考える上で役に立つような「グリッチ」という概念を得たような気がします. ここからはワークショップに参加した私の個人的な感想です. ucnv さんがグリッチの定義として「データは壊れているけれども再生できる」と言われていて,ここでの「壊れている」って何だろうと思いました. バイナリエディタで画像ファイルを開くと,その画像を構成しているデータが文字と数字ででてきて,この時点で自分的にはファイルが「壊れている」と感じてしまうわけですが,それは,画像を構成するデータの別の見え方であるわけです.「攻殻機動隊」や「マトリックス」で,緑の文字・数字が画面を覆い尽くすことのイメージや,概念では画像データを文字・数字で示すことは知っていても,バイナリエディタで画像ファイルを開くだけで,それが文字・数字ででてくると,やはりそれまでとは違って,やはりそうだったのかということを感じます.その文字・数字を適当なところで消したり,コピペなどで編集,保存して,その画像ファイルを画像として開くと,画像が変な感じになっている.バイナリエディタでやっていることは,自分の感覚からいうと「編集」という行為ですが,その結果生じた画像は「壊れた」と感じる.「編集」から「破壊」が生じるという変な感覚です.さらに,コンピュータにとっては別にそのデータが「壊れている」というわけではなくて,それをデータ通りに画像として表示しているわけです. 元画像 バイナリエディタで編集 (ちょっとした)グリッチ画像 コンピュータはデータは壊れ