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互いが関係なくサーフェイスをすり抜けつつ乱反射する✨💥⚡️

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このスクリーンショットが気になった.というか,気になったからスクリーンショットを撮った.カワイ ハルナさんのイラストにTweetのウィンドウが重なっている.ただそれだけなんだけれども,「サーフェイスから透かし見る👓👀🤳」というタイトルにあっているようなあっていないような.透かし見ていない気もするけれど,サーフェイスの重なりではある.透かし見れないサーフェイスの重なり.でも,ここに重なりを見てしまうこと自体が「透かし見る」というような気がする.「透かす」ということをしっかり考えないといけない. ここでイメージされるのはマクルーハンの「looking through」.ステンドガラスやテレビのようにこちらからも透かし見るし,向こうからも光が透かしてやってくる.向かい合った線が出会う場所としてのサーフェイス.そして,その線がインターフェイスのように相互作用をすることなく,互いが関係なくサーフェイスをすり抜けているような感じだろうか.インターフェイスとサーフェイスとのあいだで揺れていく平面的な何かを捉えようとすることが大切かなと思っている. サーフェイスを互いの線=矢印が交わることなく平行に走っているというのは面白い関係のような気がする.「平行」でなくてもよくて,様々な向き,角度の矢印がサーフェイスを透過していく.それらが丁度向き合ったときに,サーフェイスはインターフェイスになるのかもしれない.小さな矢印が様々な向きと角度で透過していくなかで,矢印の関係のなかで,その平面がサーフェイスになったり,インターフェイスになったりするのかもしれない.そして,インターフェイスがあちらとこちらとを接続するものだとすると,サーフェイスは表と裏とを持つもので,そのあいだで私たちとモノとを関係づける矢印が乱反射しているのかもしれない.そして,その乱反射にソフトウェアが大きく影響しているのかもしれない.

ÉKRITS連載_最小化するヒトの行為とあらたな手 - インターフェイスを読む #1

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インターフェイスを読んでいく連載を「 ÉKRITS / エクリ」ではじめました😊 エクリにはこれまでに,エキソニモと谷口暁彦さんの作品をインターフェイス的視点から読み解く「 メディウムとして自律したインターフェイスが顕わにする回路 」,絵文字を書く・読むときの感情の流れを考察した「 絵文字😂😊😱は空白をつくり、スリル💦を生む 」「 絵文字😹😸🙀は空白をつくり、感情🔥を区切る 」と書いてきました. インターフェイス的視点で様々なテキストをエクリに書いていくなかで,エクリで「インターフェイスの歴史」を扱ったテキストを書きたいと思い,編集部の浅野さんと大林さんに相談してみたところ,ふたりから刺激的なコメントが返ってきました.そこで,連載というかたちで「インターフェイス」について書いてみたいと以下のように構想を書きました. マクルーハンによる「身体の拡張」から,コンピュータによる「知能の拡張」に至り,渡邊恵太さんの『融けるデザイン』にいたる「物理世界」と「非物理世界」との関係の変化を辿っていきたいと考えていますが,どうでしょうか. でも,初回から,この構想はいい意味でなくりました.それは,久保田晃弘さんの『遙かなる他者のためのデザイン』がでたからです.なので,初回のテキスト「 最小化するヒトの行為とあらたな手 」は,マクルーハンと久保田さんを扱ったものになっています. 1ヶ月半か隔月の間隔でテキストを書いていきたいと思っています😭😭😭 よろしくお願いします😋😋😋

シンポジウムのための抜き書きとメモ

「 シンポジウム_デジタルメディア時代の視覚と世界変容 」のための抜き書きとメモ メディア論,マーシャル・マクルーハン 電気の知識を獲得して以来,われわれはもう原子を物質として語ることはできなくなった.このことは大多数の科学者がはっきりと認識していることである.さらに,電気の放電やエネルギーに関する知識が増すにつれて,電気を水のように電線の中を「流れる」ものだとか,バッテリーの中に「含まれる」ものだとか考える傾向も減ってきている.むしろ,全般的に,電気は画家にとっての空間のようなものだとみなす傾向になる.すなわち,電気は,2ないしそれ以上の物体の特殊な位置関係を包含する可変的条件,とみなすのである.もはや,電気が何かに「含まれる」とする見方はない.画家たちは,かなり以前から,対象物は空間の中に含まれるものではなくて,みずからの空間を生み出すものであることを知っていた.(pp.164-165) Most scientists are quite aware that since we have acquired some knowledge of electricity it is not possible to speak of atoms as pieces of matter. Again, as more is known about electrical "discharges" and energy, there is less and less tendency to speak of electricity as a thing that "flows" like water through a wire, or is "contained" in a battery. Rather, the tendency is to speak of electricity as painters speak of space; namely, that it is a variable condition that involves the special positions of two or more bodies. There is no longer any tendency to ...