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「インターネット・リアリティ・マッピング」という連載をしていました💁💁‍♀️💁‍♂️

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2014年にmakersのための情報発信メディア「 DMM.make 」でネット/メディアアート周辺の作家を数珠つなぎに紹介していく「 インターネット・リアリティ・マッピング 」という連載をしていました.今はサーバーすらなくなってしまったので,テキストをnoteに転載しました🛠 また,連載は「次回予告」をしながら途中で終了しています😢 💁💁‍♀️💁‍♂️ [インターネット リアリティ マッピング]

お仕事:DMM.makeでの連載「インターネット・リアリティ・マッピング」

makersのための情報発信メディア「 DMM.make 」でネット/メディアアート周辺の作家を数珠つなぎに紹介していく「 インターネット・リアリティ・マッピング 」という連載をさせていただくことになりました.その第1回目が公開されました.時間があったら,読んでみてください! 連載は,ネット上のアートを中心に紹介しながら,オランダのアートコレクティブJODIの初期の作品 http://map.jodi.org/ のようなインターネット界隈のアーティストのマッピングを行っていくものです.作品単体の紹介ではなく,作品や作家のつながりを可視化することでネットに関わる表現の「現在」を示していければいいなと考えています. いつもテキストだけを書いているので,「地図」というグラフィカルなものがうまくできるかどうかわかりませんが,テキストと地図を書き続けることで何かが見えてきたらいいなと思っています.よろしくお願いします!

「短絡のスイッチ」が押された後の「有限/無限」

2月13日に日本映像学会中部支部2013年度第3回研究会・特別企画トークセッション「幸村真佐男の情報と芸術」で「 ポスト・インターネットのなかに「幸村真佐男」を置いてみる 」という発表をしてきました. 幸村真佐男さんはメディアアートの歴史をめぐる記述には必ず登場する「 CTG 」のメンバーで,まさにコンピュータとアートをむすびつける「レジェンド」です.幸村さん本人を前にしての発表,そして私の次の発表者が指導教官であった茂登山清文さんという状況はかなり緊張しました.そんななかでの発表は,「歴史」のなかに「幸村真佐男」を置くという作業は多くの人がやってくれていると思うので,思い切って,今のネットをめぐるアートの状況に「幸村真佐男」を置いてしまおうというものでした. また,発表を打診されたメールを読んでいて, 幸村先生の作品は[昔−最近]では区分けできないのではないかと思いました. それは継続してずっとやっている作品が多いということもあるし, この前の幸村先生の4つの個展と講演から感じたのですが, 作品が「人格」的なのかなーと考えた次第です. 「人格」的ってなんだ,という話しですが… こんなことで30分話せるのかは不安ですが… ということを思った点も今回の発表につながりました.でも,発表は「ポスト・インターネット」な状況のなかでの作家紹介になってしまった感が強く幸村さん自身に結びつけることが難しかった.ましてや「人格」的という話までは全く考えられなかったです. ただ発表のあとに幸村さんと茂登山さんの応答を聴いていたときにデジタルワールドを巡る「有限/無限」という言葉の捉え方がどこか,私の感覚とは異なるところがありました.幸村さんはアートはデジタル化されると「有限」 な存在なると言っていました.それに対して,茂登山さんも何かを切り返していたのですが忘れてしまいました.でも,何かふたりのやりとりのあいだで交わされる「有限/無限」という言葉が,どこか手の届かない感じとともに,その言葉に多くの意味を負わせているような感じがしました. 私が感じていた「有限/無限」というのは,何かもっと軽くて,ネットにはごろごろとあって,そのような言葉自体を考えないというものでした.この感覚のちがいを考えていたときに,佐々木敦さんの「 未知との遭遇:無限のセカイと有...

各世代の動きをとめてしまう「ベタさ」でしか「インターネットおじさん」を考えることができない

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中川康雄さんの「 インターネットおじさんとデジタルネイティブ第二世代との間に横たわるもの 〜ポスト・インターネットと世代論 〜 」がとても興味深かったので,それに乗っかって「インターネットおじさん」について書こうと思ったのだけれど,上のテキストにすべて言われている感じがして頭真っ白状態です. 中川さんのテキストで,世代の同期のエッジにインターネットおじさんがいて,世代間の「イミグラント」性がインターネットおじさんを「おじさん」にしていると指摘しているところは,「そうだったのか!」と思わず膝を打ったところ. 僕は1977年生まれだから,デジタル・ネイティブではなくて,インターネットの第一世代よりも少し下のような感じ.その視点から上のテキストとは異なることを考えようとするインターネットおじさんの「身体」の強さとかいういかにも的な枠組みしか出てこない.それでは「インターネットおじさん」をつまらなくしてしまうという感じがする. エッジで同期するリアルな身体としての「インターネットおじさん」.これはもう言われている.これだけでもういい感じがすると思っているなかで粘ってみていると,「白タイツ」という衣装が肝なんではないかと思った.なぜに「白タイツ」.白タイツゆえに強調される身体と言ってしまうと,「身体性」といったベタな話しなってしまう.白タイツゆえに消える「身体性」というのもベタか.結局,「インターネットおじさん」に関してベタな捉え方しかできないというところが,僕の限界なのでしょう.世代間の同期を考えようとしてそのズレを認識できずに,各世代の動きをとめてしまう「ベタさ」でしか「インターネットおじさん」を考えることができない. 開き直って,こうした「ベタさ」から「インターネットおじさん」って生まれたのではないのかなと仮定してみる.インターネットにおける複数の世代のあいだで強制的に同期をとるためにリアルな身体を「ベタ」に導入した結果,その思惑通りに世代間のズレを停止させる「インターネットおじさん」が生まれたと考えてみる.ここでの「おじさん」は中川さんが指摘しているようなイミグラント性をもつものではなく,単に親戚や地域の「おじさん」のようなリアルな身体をもつという意味でしかないです(こういったところに出てくる「身体」,困ったときの「身体(性)」です).そのリアル...

お仕事:インディペンデント・カルチャー・マガジン「MASSAGE」に短いテキストを書きました

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「インターネット・カルチャー」を特集したインディペンデント・カルチャー・マガジン「 MASSAGE 」の第9号に,テキスト「『新鮮な暗闇』に立ち向かうためのユーモア」を書きました.テキストはアーティストのライダー・リップスさんの2つの作品《 Refreshing Darkness 》(2013)とパフォーマンス「 Hyper Current Living 」(2013)を1000字程度で論じた短いものです.また,ライダー・リップスさんへのインタビューの質問もいくつか考えました. メディア芸術カレントコンテンツの「 平成25年度[第17回]文化庁メディア芸術祭「アート部門」受賞作品 」という記事で明貫紘子さんが現代美術とメディアアートがそれぞれの前提から解放され,入り交じるようになってきたと指摘しているけれども,上のテキストでは,現在のインターネット上の表現はこのふたつのアートの潮流から少し離れたところにありそうかなということを書いています.

「エキソニモの『猿へ』」を見てきた(1):「1999」と全体の流れを考えてみた

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「エキソニモの『 猿へ 』」を見てきた.考えるべきところはたくさんあって,ひとつひとつ潰していくと次の「風景」が見えてくる感じがする. 最初の狭い通路.期待感を持たせるし,「ナローバンド」という言葉とも結びつけられる.狭く長いからこそ「ネット」のオリジナリティが今よりもあったのかもしれない.狭い通路の先で回り続ける「地球」はネットがよりネットだったときの象徴としてあるのかもしれない.そして,そこで語られるエキソニモのステートメント.インターネットを手に入れた人類とその急激な進化は,ネットそのものの変化でもあった. ステートメントの先には「1999」という文字が床にある.今から14年前の風景.次のセクションは「2005」で,その次が「2009」.「1999−2005」のあいだで,ネットは一般化していってひとつの風景になった.このセクションにはみんながつくった RGBのきらめき がプロジェクションされ, ネット上の構造=意味が剥奪された画像が飛びかっている .このあたりはとても「今」を感じさせる.それは集合知やその反対といってはあれだけれどもタガが外れてしまった「集合愚」にもなりうるような麻薬のような効果をもった「インターネット」を感じさせるという意味での「今」. そして, Googleの検索窓がひとつの風景だった時代 を示す絵画の展示.ブラウザのアドレスバーが検索窓になってしまった現在では,Googleの検索窓の風景は誰もがよく見る風景ではなくなっているとともに,絵画に描かれた「Internet Explorerの窓枠を含めた風景」そのものも,ブラウザのアップデートとGoogleのデザイン変更によってなくなってしまった.なので,この絵画に描かれた誰もが同じデザインを見ていた時代が懐かしい.風景は消滅したが,それを「撮影」したスクリーンキャプチャーの画像は存在し,その画像が中国に送られ人力APIとしての絵師によって「絵画」に変換され展示されている.だがこの絵画は「レプリカ」である.この作品でオリジナルとされる絵画はGoogleに所蔵され,一般の人は余程のことがない限り見ることができない状態にある.しかし,もともとが誰もが見る風景の「スクリーンショット」であり,それを「絵画」にするということでは,オリジナルもレプリカもないのではないだろうか.も...

お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_15

記事を書きました→ OKFocusが顔文字ジェネレーター「Newmoticons」を発表 ლ,ᔑ^人^ᔐ.ლ メディア芸術カレントコンテンツ に「顔文字」についての記事を書きました.記事に書いたように「顔文字」も興味深いのだけれど,取り上げたふたつのプロジェクトを行っている人たちがデザインとアートの領域を跨いで活動していることもまたとても興味深いです. -- 今回の記事では取り上げようとした「おおがきビエンナーレ 2013」で開催された渡邊淳司さんと秋庭史典さんのトーク「〈生命〉を感じる体験デザイン」は記事にまとめるのが難しくて断念.自分のブログに書こうと思っています.

タイトルに「画像」と書かれているのに「文字列」しかない

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谷口暁彦 の《 無修正◯口画像.jpg(バイナリ) 》には,タイトルに「画像」と書かれているのに「文字列」しかない.立派な額のなかに小さな字でびっちりと書かれた文字列がある.この作品を見る人は,もちろんそこに文字列を見るのだが,同時に「画像」を見る人もいるのではないだろうか.この文字列が画像を表示させるためのものであることを知っている人は,文字から「再生」される画像のことを想像するはずである.それがどんな画像であるかはタイトルにある「 無修正◯ロ画像 」が影響すると思われる.また,文字列が画像を「再生」させると知らない人もそのタイトルと立派に額装された文字から,なにかしらの「絵画」を想像する人がいるであろう.文字列の機能を知っていようがいまいが,何かしらの「画像」を見る人の想像のなかに立ち上げる力を《無修正◯口画像.jpg(バイナリ)》は持っている. この作品の興味深いところは想像のなかだけに画像が立ち上がるのではなく,文字列をバイナリエディタに実際に入力して「jpg」形式で保存すれば「画像」を見ることができるところにある.想像上の画像ではなく,実際にディスプレイに画像が表示される.「文字列=画像」というわけではなく「文字列→画像」ということで,文字列を適切に「再生」すれば,画像が表示される.私も画像を見ようと実際に購入した作品の文字列を入力しているが,まだ完璧に入力できていないどころか,最初の4行目で止まっている. FFD8FFE000104A46494600010200006400640000FFEC00114475636B790001000400 0000000000FFEE000E41646F62650064C000000001FFDB0084001B1A1A29ID2941262 641422F2F2F42473F3E3E3F4747474747474747 意味をもたない文字列を一字一句間違わずに入力するというのはとても骨の折れる作業である.なので,まだまだ入力は終わらない.なのに,額のなかの文字列は文字列でしかないのだが,それでも私はそこに画像を想像してしまう.もう「文字列=画像」となっているような感じもする.でも,文字列は文字列にすぎない.そこに画像を見るのは,その文字列が画像の「別の状態」であることを知っているということと,...

「幸村真佐男展/LIFE LOGー行雲流水ー」を見た

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N-MARK B1で開催されている「 幸村真佐男展/LIFE LOGー行雲流水ー 」を見たのですが,作品を長い間見ていると自分が何を見ているのか分からなくなってしまい,そのことを考えるために会場がある伏見から鶴舞(3キロほど)まで歩きました.でも,頭はすっきりしませんでした.久しぶりの衝撃でした. 2つの作品が展示してあって,ひとつは「非語辞典」に代表される有限であるけれども無限を感じさせるような文字の組わせを「辞典」にまとめたものです. 上の写真には1冊しかありませんが,これが下の写真のように何十冊もあります(ブレていてタイトルが読めません,すいません). この作品は知っていたので,会場に向かっていたときに「この圧倒的な量」にリアリティを感じられるのだろうかと考えていました.コンピュータが延々と組み合わせる文字列を印刷して「本」というモノにしていく.モノには重さがあって,この辞典はとても重い.そこで1ページに使われている紙は薄くて,軽いけれどもそれが積み重なると重い.重いし,大きいし,作品を保管するのが大変だと思いつつ,その物量感に作品そのものではなく,搬入が大変だったんだろうなと考えた. データではなくモノになるとヒトが介入します.作品として作られていくときも,コンピュータからプリントアウトされる「膨大な」紙の束をまとめて,それを製本するのはヒトが行います.「膨大な」というのはヒトが思うことであって,コンピュータはただただ命令にしたがっているだけです.そして,「膨大な」作業して出来上がった本は重い.そして,それを搬入のために運ぶにはどれだけの時間がかったのか.腰を痛めたヒトもいるかもしれない.このように考えてみると幸村先生(私の研究を精神的に支えてくれている人なので「先生」と呼ばせてください)の作品は「コンピュータを制御し,永遠とも思える宇宙的スケールに挑み続けた」と言われることが多いけれど,そこに必ずヒトが介入しないといけないし,「永遠とも思える宇宙的スケール」であるがゆえにヒトにとっては大きな負担になるので,意外ととてもヒト寄りの作品なのかもしれない. もうひとつの作品は《LIFE LOG》と題された映像作品です.N-markのページに「幸村がこれまでに日常的に撮り溜めてきた300万枚に及ぶ写真.その全ての写真を...

メモ:「フィジカルな場の危機」と「フィジカルに注目!」

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Winkleman Gallery で開催されている「 Send Me the JPEG 」と インターネットヤミ市 とを比較すると面白いかもしれない. Send Me the JPEG at Winkleman Gallery  Send Me the JPEGはタイトルからも分かるようにJPEGを展示するグループ展.ここの問題意識は近頃,ネット上の画像だけで作品が売れることにある.つまり,作品を直に見ることがなくなってきている.フィジカルではなくネットで! ということ. 対して,インターネットヤミ市はネットではなくフィジカルで! ということ.ネットでのデータのやりとりは便利だったけれど,近頃少し窮屈だからリアルの場で直に会って,いろいろとやりとりしようということ. これに加えて,インターネットとアートワールドとの関係を考えると興味深くなります.英語圏では現代美術のマーケットがあって,そこにいかに入り込むのかを多くのアーティストが考えていて,ブラッド・トルメルのようにネット上での活動をマイナーリーグと位置づける人もいる.また,ギャラリーは販路拡大のためにネットを使う.要するに,アートワールドがインターネットを取り込みつつある.そのなかで「フィジカルな場の危機」が叫ばれている.そこへの風刺として,フィジカルな場であるギャラリーで作品のJPEG画像を展示しようとWinkleman Galleryが企画したのが「Send Me the JPEG」になる. 対して,日本ではアートマーケットそのものが存在しない.だから,ネットアートだろうが,インターネットを使ったアートであろうが,そんなものは端からアートワールドとは独立して存在している.メジャーなアートワールドに対してのマイナーリーグとしてネットが存在しているのではなく,独立リーグとしてネットは機能している.そのなかで「フィジカルに注目!」になっている. ここまで勢いで書いたけれども,これがどういう関係を示すものなのかよくわからなくなってきた. アートワールドはネットを取りこみ,フィジカル放棄へ 日本のインターネット・リアリティ(の一部)はアートワールドとはもともと関係が薄く,そこからフィジカルに注目へ いや,ポスト・インターネット世代のアーティストはアートワール...

ラファエル・ローゼンダールの「ガスのような作品」

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昨日, 川崎市民ミュージアム で ラファエル・ローゼンダール と インターネット・リアリティ研究会 でのトークをしてきました.トークに来てくれた方ありがとうございました! トークはとても興味深いものでうまくまとめて紹介したいのですが,自分も登壇者だったのですべてをまとめる余裕がないので,トークの紹介というよりもトークで自分が気になったことろ及びローゼンダールの展示から考えたことを書いていきたいと思います. 展覧会でローゼンダールが展示していたのは《 looking at something 》でした.ネットでも体験してもらえるとすぐにわかるのですが,カーソルやタッチのインタラクションに応じてブラウザに表示されている天気が「晴れ」や「雨」,「雷雨」に変わるというものです.展示は3つの画面がプロジェクションされていて,それぞれを映像の正面に置かれた展示台上の「トラックパッド」でコントロールするというものでした. インスタレーションとネット上の作品のちがいは画面の大きさやその数などありますが,「カーソルの有無」が個人的にはとても気になりました.インスタレーション版ではカーソルはありませんが,ネット版ではパソコンで体験するとカーソルがあって,スマートフォンではカーソルはありません. スマートフォンで体験 パソコンで体験 自分のなかではカーソルがあるパソコンでの体験が一番作品とインタラクションを行なっている感じがします.自分の指の行為がカーソルに反映され,それがしっかりと「カーソル」の位置として見えているからなのだと思います.カーソルがないタイプだとスマートフォンの方がよりインタラクトの度合いが深いかなという感じです.インスタレーション版は,プロジェクションされた画面とトラックパッドとのあいだの距離があり,自分で動かしているのは確かなのだけれども,そこには本当に自分が画面をコントロールしているのかという小さな疑念みたいなものが浮かんでくるというか,インタラクションで「自分と画面とがつながる」,インタラクションの研究者・ 渡邊恵太 の言葉でいうと「 帰属感 」を感じるまでにわずかに微小な時間のズレがあるという感じです. インタラクション版に感じたズレが「悪い」というわけではなくて,作品を体験する環境によって微妙に...

告知とメモ_トーク・イベント:ラファエル・ローゼンダール+インターネット・リアリティ研究会

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7月20日(土)から川崎市民ミュージアムで始まる「 セカイがハンテンし、テイク 」展の関連イベントでアーティストの ラファエル・ローゼンダール と インターネットリアリティ研究会 による トークイベント(20日14:30から) があります.お時間があるかたは是非お越しください. 以下,ラファエル・ローゼンダールについてのメモです. ラファエル・ローゼンダールはネットに多くの作品を発表しています.そして作品を掲載しているドメインを売るという手法で「ネット上の作品を売る」という行為を成立させました.例えば, falling falling .com (2011)にいくと作品が見られると同時にタブの部分に「collection of hampus indwall, falling falling .com by rafael rozendaal, 2011. sound by gloumouth1」とオーナーの名前と作品クレジットが記されています. falling falling .com_スクリーンショット ここで興味深いのは,作品がhampus indwallに購入されているのにも関わらずネットに自由に見ることができるという点です.その理由は作品売買の契約書(契約書のテンプレートは公開されています→ http://www.artwebsitesalescontract.com/ )にあります.そこには「作品オーナーはウェブサイトをオンラインに残し,みんながアクセスできる状態にしておかなければならない」と書かれています.なので,気に入った作品を購入しても一人占めはできないようになっているのです.このことはネットにおける「所有」という概念を考える上で重要なひとつの例だと考えられます. 契約書で気になる点が「データの引渡し」の項目です.そこでは基本的に3つのファイルが引き渡されると書かれています. オンライン・ファイル:ウェブページを表示するのに必要なもの 展示ファイル:MacやPCで展示を行うためのもの ソース・ファイル:将来,必要になるかもしれない修復のためのもの これら3つのファイルが引き渡されるわけですが,これらのどれもが「オリジナル」として機能することになるのか,それとも「ソース・ファイル」が「最も」オリジナルなものなの...

インターネット・ヤミ市2で感じたこと

とにかく人が多かったです.ひとひとひとひとひとという感じ.そんななかあいも変わらず「論文」を売っていたわけです.暑くて汗が論文の上に落ちました.インターネットと汗,いいですね.「インターネット」という言葉.これを枕詞にしているのが「インターネット・ヤミ市」なのですが,インターネットおにぎり,インターネット日本酒などなど.インターネットってなんなのでしょう.ヒトがつくっておきながら制御できなくなりつつあるもうひとつの自然なんて感じではなくて,そこにある「インターネット」.枕詞としての「インターネット」. インターネットヤミ市なのにインターネット全然してなかった! — sekineyuco (@corinyou) June 30, 2013 インターネットが当たり前になった今、前回に増して“インターネット”が関係ない感じの商品が多かったのがよかったし、体験ものも多かったのがまた2.0っぽい感じがしてよかったです。 #yami2 — hgw (@hgw) July 1, 2013 インターネット時間のとてもはやい流れは初回のときにあった「インターネットのモノ化」の状態はあっという間に通り越していって,モノ化したインターネットそのものもまたサービス化してまたインターネットしてしまったのかもしれない.そうするとどこもかしも「インターネット」なので,「インターネット」が関係なくなり,それが枕詞として機能することになるのだろうかと上の2つのツイートから考えました. これらのツイートの他にヤミ市はインターネット1.0ぽいというのもTwitterかなんかで見たような気がするのだけれど,そのツイートは見つけられなかった.なので,それは僕の感想の反映なのかもしれない.インターネットヤミ市はどこか初期のインターネットがもっていた様々な制限からくるリアルとの「切断」を巡り巡って「リアルの場」につくりだしている感じがするんです.でも,そのように自分が感じることが不思議でもあります.なぜなら,僕は初期のインターネットに興味がなかったというか,そこへのリアリティを感じることがなかったのでほとんど知らないからです.じゃ,なんで上のような考えになるのかというと,僕には「インターネット・リアリティ」の基礎体力みたいなものが...

インターネットヤミ市2で手に入れたものたち!!

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インターネットヤミ市2に参加して「査読コメントつき査読落ち論文」と「touch-touch-touch tag:エキソニモ」と「読み終えたPDFのデータ」と「女子大生のインターネット雑談の音声データ」を売ってきました.どれもまあまあ売れました.「まあまあ」と書いていますが,もともと「売れる」ものではないものが売れていくのはおもしろいことです.そして,売り買いするときのちょっとした言葉のやりとりがおもしろいのでいいです. 今回のヤミ市で手に入れたものたち. cooked さんの青焼きポスター.エキソニモの千房さんの顔に「音量調整」の画像が入っているのがよかったので即買い.ポスターをリュックに挿して名古屋に帰るさいに徐々に紙が凹んだりしていくのがフィジカルだなと.今は下の写真のような状態です. チバガク さんのカッコイイ作品も買いました.普段はTumblrのダッシュボード上でチバガクさんの作品を見ているので「上から下へ」という流れで1枚1枚見ているわけですが,今回は複数の作品が乱雑に平面に置かれているので,作品の一部は重ねっているし,自分で勝手に選り分けることができたりするわけです.フィジカルな状態でのモノとして作品を扱っているという感覚とフィジカルな風景をイメージにしてそれを乱雑に操作することでそこにフィジカル感を示しているようにみえるチバガクさんの作品の印象とがミックスされて,なんとも言えない不思議な感じでひとつの作品を選んでそれを購入して自分のものにするのが面白かった. 他に手に入れたものは.セミトラの柴田さんが売っていた「土地」.「土地を売る」ってなんだろうと思ったけれども,柴田さんのブースにいくとパソコンがあってそこに「住所」を打ち込むと「 http://diary.yusukeshibata.jp/ 」と書かれた紙(下の画像の左上)を渡されて,その「住所」でアドレスにアクセスすると柴田さんの日記が読めるというものでした.柴田さんの日記が掲載されているネットの「土地」へアクセスできる権利と自分が書いた住所が示す「土地」のふたつを組み合わせて買った感じがします.いや,自分が書いた「住所」は「買った」というよりも「ネットの土地」と引き換えたというか,アクセスのための「キー」として登録したという感じかもしれないです...

メモ:David Joselit『After Art』

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David Joselitの『 After Art 』はTumblrにおけるイメージ分析に使えそう.作者は「ポスト」と「アフター」のちがいにこだわっており,「ポスト」は切断するという感じで「アフター」は前のものの残響があるという感じがするので,「アフター」を使うとのこと. アートの定義をリンクにまで拡げるというところはパーカー・イトーの考えを想起させる.だったら,イトーのテキストの引用すればと思ってしまうのだが,この本では「ポスト」インターネット的に活動しているアーティストは取り上げられていない. ベンヤミンは「時代遅れ」と言い切ってしまっているところが爽快.そうですよね,時代に合わせて議論をアップデートしていかないと.作品がメディアの連鎖のなかに入り込むこと,メディアごとに作品がコピーされていきそのイメージが変化しいくのだから,「アウラ」なんてもうないも同然というか複数のアウラが同一の作品にあってもおかしくないわけです. リンクというかたちでフォーマット・形式をつくるのが,アフター・アートの作品のかたちというのはまさにという感じがする.そして,作品を支えてきたとされるメディアはフォーマットの下部構造になる.メディアはモノであり,フォーマットはつながり. 作品によってあたらしいコンテンツをつくるという意識ではなく,作品によってこれまでなかったようなつながりのパターンを見出していくことが重要とされる.溢れている画像の「流れ」を変更していく.批評家はその「流れ」をトレースして明らかにすることが仕事. ネットがスケールアップしていったときに検索可能性をもとめてGoogleがでてきたように,溢れる画像のなかでの検索可能性を高めることが現在のアーティストに求められている.このようなことを描いておきながら,ネットアートを扱うことはない.それはおそらくネットそのものにコミットしなくても画像は溢れ出しているということなのだろう. 作者が「フォーマット」といっていることを「形式」ではなく「初期化」と読み替えてみると面白いかもしれない.ポスト・インターネット的状況で活動する作家たちが「アフター」でなく「ポスト」を選ぶのは「切断」というよりもアートを「初期化」するということが意識のどこかにあるのかもしれない.そして,初期化した「後で・ポスト」でつくり続ける「...

メモ:Vineが6.5秒でInstagramが15秒

Vineが6.5秒でInstagramが15秒.この短さがリアリティをつくりだしていくのだろうか.正方形のとても短い映像.15秒はCMで見ている長さだから,とくに問題ないのかもしれない.YouTubeでCMがスキップされるまでの時間は5秒.5秒のCMをつくればスキップされない.スキップまでの5秒はとても長い.Vineの6.5秒も長いなと感じることがある.それはGIFを見ているからかもしれない.GIF,Vine,Instagramと短い映像が溢れていくインターネットのなかで,映像のあり方が変わり,私たちの認識の仕方も少し変わるのだろうか. Vineが画面そのものにタッチして撮影するのに対して,Instagramは撮影ボタンを押す.これもまた撮影するときにちょっとしたちがいを生み出す感じがする.あと,Pokeは画面を押しながら撮影するだけではなくて動画を見るためにも画面を押さなくてはいけない.Vineは勝手に再生される.これもまた映像に対して感覚的ちがいを生み出す感じがする.

オリジナルか,コピーか? 「PSD」が示す微妙な感覚

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Width: 700px; Gallery  で Michael Bussell の個展《Original Copy》が開催されている.《Original Copy》は2012年の作品であるが,今回のオンライン展示に合わせて再解釈され,作りなおされている. Bussellのウェブサイトの《Original Copy》のページにいくと作品の画像が展示してあり,画像のタイトルをクリックするとPhotoshopのファイル「PSD」をダウンロードすることができる.Busselは展示されている画像そのものではなく,ダウンロードした画像を編集してもらうなどのインタラクションにフォーカスが移ってきていると考えている.そして,Bussellはこの考えをWidth: 700px; Galleryの展示で自らの作品を改変することで実践している. Bussellのウェブサイトの《Original Copy》のページにある画像 Width: 700px; Galleryでの展示 Bussellの考え方自体は作品を見るためには「PSD」ファイルをダウンロードしなければならない「 The. PSD Show 」や展示作品を改変可能でネットにアップした展覧会「 new jpegs 」などにも通じることがあり,ポスト・インターネット的状況においては「当たり前」となった考え方といえる. ここで注目したいのはBussellの作品タイトルに使われた「オリジナル」と「コピー」という言葉である.Bussellが書いているように,Photoshopは現在の暗室のような存在であり,そこで使用される「PSD」ファイルは写真の「ネガ」のような「オリジナル」的存在である.しかし,その「オリジナル」は劣化なしで「コピー」可能である.Bussellの《Original Copy》ページから「オリジナル」の「PSD」ファイルをダウンロードした場合,それはデータ的には「オリジナル」な感じがあり,心情的には「コピー」という感じがする.ファイル形式が「JPEG」ならそれはもう「コピー」という感じになるが,「PSD」だと微妙な感覚である. Width: 700px; Gallery Width: 700px; Galleryでの展示は会場に合わせて低解像度の画像が展示されていることもあり...

「Like」の価値をあげてしまって(やっと押せたヒト限定)もいいじゃないですか〜

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MAADONNA (aka Emilio Gomariz @ Kim Asendorf ) による《 Can You Like This 》は,「Like」ボタンをカーソルで押そうとするボタンが逃げてしまって,押せないという作品.それだけといえばそれだけの作品. 僕はいまのところ「Like」できてないけれど,この作品を知ったサイト「 prosthetic knowledge 」にあった画像ではLike数が「343」で,僕が押そうとしているLikeは「614」なので,がんばれば押せるのかもしれない. カーソルからボタンが逃げるのであれば,直接ボタンを押してやろうと,iPhoneで 《Can You Like This》を試してみた.すると,ボタンは押せるけど,押した瞬間にボタンが違う場所に移動してしまう.数字は変わらない.やはりズルはだめということなのでしょう. カーソルでボタンを押そうとして押せないようなゲームは昔からあったかもしれないけれど,そのボタンが「Like」ボタンになるだけで,俄然意味が生まれるところが面白いです.それほどにFacebookの「Like」は「ボタンを押す」という単純な行為に大きな意味をつけたのでしょう. 「Like」ボタンといえば,インターネット上の秘密結社である IDPWのポルト から《 どうでもいいね!》が世に出され, メディア芸術祭エンターテイメント部門で新人賞 を受賞したこともつい最近の出来事.「どうでもいいね!」の説明は以下です. インターネット中に溢れる「いいね!」ボタン.増えすぎちゃってそろそろ溺れてしまいそう.いいも悪いも義理もとっておきも全部まとめて「いいね!」したい. そんなあなたにお届けする“どうでもいいね!”ボタンはワンクリックで画面上に表示されている 「いいね!」 を自動でだいたい全部をクリックしてくれる,Google Chrome機能拡張です. 《Can You Like This》も《どうでもいいね!》も,なんでも「Like」してんじゃねーよという批判精神,それは僕たちヒト側もそうだし,「Like」ボタンだって「もう押されたくない!」と逃げまわってもいいじゃないですか.クリックするごとに 良いにしろ,悪いにしろ あらたに情報が発生するわけだから,...

「INFOspirit」という大きな構造体のなかで「神」が顕現する条件

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Kevin Bewersdorf の「 Spirit Surfing 」を読み終える.Bewersdorfは2007−2009年にインターネットでテキスト,音楽,映像とさまざまな媒体で作品を発表したが,その後ネットから自分の痕跡を消去したアーティストである.なので,「Spirit Surfing」はネット上にまだ残っている彼の痕跡や,サルベージされたデータを編集してつくられた本になっている. Bewersdorfは「経歴」のなかで次のような言葉を残している. 私は自分のラップトップを躊躇なく崖に投げ捨てるだろう(コンピュータは「INFOspirit」に至るひとつの入り口である).データはすでにネットに蒔かれているし,そのデータは私に関係するものである. この言葉を実践したのち,Bewersdorfはネット上にひろがる自分に関するデータを消去し始めたのである.編者の Domenico Quaranta は,Bewersdorfによるオリジナルが突如として失われたので,ネットに残された彼の作品に関する低解像度の画像や映像,MP3のデータが貴重になったと指摘している. マルセル・デュシャンがチェスに没頭して,突如アート界から消えたように,Bewersdorfはネットから自らのデータを消去した. 自分のデータをネットから消去するだけなら特に問題にはならないだろう.それは今では誰もがやっている.だが,先に引用した「経歴」に書かれた「INFOspirit」という言葉が示すように,Bewersdorfはネットに「スピリチュアル」な存在を見ていた.ネットは物理的に破壊されうるが,「INFOspirit」を壊すことはできない.この考えが彼の行為を複雑なものにしている.「データ 」は消すせるが,一度ネットに記された「INFOspirit」は決して消去されない.このことを実証するように,Bewersdorfは自らのデータを消した.そして,それらは「スピリチュアル」な存在になった.だからこそ,QuarantaはBewersdorfの痕跡をかき集めて編集して書籍をつくり,またネット上の人々によって Share your Sorrow というまとめサイトもつくられた.Bewersdorfはデータを消した.けれど,ネットという構造体は「消去」を許さない.それはネットにアッ...

IAMASでの勉強会_「The Word "Remix" is Corny.」と言えるけど,実際どうなの?

昨日,IAMASで勉強会をしてきました.城さん,クワクボリョウタさんといった教師陣と多くの学生での「参照・引用」をめぐる意見交換は面白かったです.IAMASの学生は年齢層も幅広く,社会経験も様々なので背景にある「インターネット」が異なっており,それが「参照・引用」に関する問題意識の違いにもつながっていたのではないかと思います. 私はブラッド・トルメルの「The Word "Remix" is Corny.」の紹介を主にしたのですが,ここで言われている「プログレッシブ・バージョニング」という「起源」が抜けて落ちていくリミックスのあり方を話しました.「リミックス」という素材の再構成において,「パクリか,オマージュか」を問題にするのは「古臭い[Corny]」だというのがトルメルの考えです.私は彼の意見に賛同します. 「プログレッシブ・バージョニング」という言葉をつくったとしても,そこでの「リミックス」はこ90年代の「シミュレーショニズム」などとはどう違うのかという意見もありました.このちがいは「言葉」では言うことができると思います.バルトが言った「作者の死」を文字通りに体現することが,現在の「リミックス」のあり方だと.90年代や00年代においては「作者の死」は言われていたけれど,そこにはしつこく「作者」はいたし「オリジナル」という概念は残り続けていたのではないかということです.「そんなのは今も同じじゃないか」と言われればそうかもしれせん.しかし,トルメルが「依り代」とするTumblrというウェブサービスにおいて,リブログされるなかでキャプションが抜け「作者」が死んでいき,アートと日常,プロとアマチュアのイメージが入り交じる,しかも膨大な量が入り交じるなかで,何が「オリジナル」かも問題にならなくなってきています.ひとつのウェブサービスがつくる現象から,トルメルのような考えが生まれてきて,再び「リミックス」という言葉が「作者の死」とともに注目されているのは興味深いことです. リミックスを考察する際にトルメルがTumblrに依拠するとすれば,日本にはニコニコ動画やpixivという存在があります.ニコニコ動画におけるMAD動画は「プログレッシブ・バージョニング」なのかと問えるわけです.この問いは「否」ではないかというのが,昨日の勉強会からの印象です...