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「ハロー・ワールド ポスト・ヒューマン時代に向けて」展カタログへの寄稿

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5月6日まで水戸芸術館で開催されている「ハロー・ワールド ポスト・ヒューマン時代に向けて」展に「 可塑的な表面でつくり直されるヒトの顔🤥 」というテキストを寄稿しました. ヒト・シュタイエル,エキソニモ,小林健太,レイチェル・マクリーンの作品に出てくる「顔=フェイス」を論じています🙂 カタログには作品の展示画像だけでなく,キュレーターの山峰潤也さんの「早期機器発見装置としての芸術」,多方面で活躍している砂山太一さんの「Strange World, Strange Love」が掲載されています✍️ デザインはゼミトランスペアレント・デザインの田中良司さんです😊 水戸芸術館,および,ナディフ各店で購入できるとのことです📖 よろしくお願いします😂😂😂 🗄🗄🗄🗄🗄 ハロー・ワールド展 トーク・シリーズためのメモ   💬《I randomly love you / hate you》💬 

メモ:「貧しい画像」はもうない

2007年に書かれたHito Steyerlの「 In Defense of the Poor Image 」には,高解像度画像の劣化版ではなく独自の存在となった低解像度画像のことが書かれている.2007年といえば,iPhoneが発表された年であるが,インターフェイスでの大変動ともともに画像の認識においても大きな変化が起こっていたと考えるべきであろう. 「In Defense of the Poor Image」の出だしの一文「The poor image is a copy in motion.|貧しい画像は動きのなかでのコピーである」は,「貧しい画像」がもともと「コピー」であり,ネットでの画像流通という「動き」に関係していることを端的に表している.「貧しい画像」は低解像度であっても,実際にはコピーではなく,オリジナルの画像であることもあるかもしれないが,「貧しい画像」と呼ばれる低解像度画像が「コピー」に近い存在で,ネットに流通しているという認識が重要なのである. 低解像度の画像に対してはどこかに「高解像度画像=オリジナル」があるという認識が対として存在しているが,Steyerlはこの認識を間違ったもとして糾弾する.低解像度画像は高解像度画像とは異なる存在意義をもつというのが,Steyerlの主張である.ネット上を隈なく「流通」していくことこそが,低解像度画像の存在意義なのである.ネットは通信速度の制約から高解像度画像は流通しにくい.それゆえに,画像は解像度を落とされ,データ量を減らされたかたちで流通していく.画像は流通すればするほど人目につくようになる.このことこそが「貧しい画像」に求められていることなのである.そこには解像度の高さによる画像の真正さではなく.いかに人目につくのかというあらたな評価基準が適用される.このあたらしい評価基準のもとでは「アウラ」の出現もまた変わってくると,Steyerlは主張する.「オリジナル」が示すアウラのように,それがいつまでも確かに存在しつづけるからこその価値ではなく,「コピー」のはかさなさゆえに「アウラ」が生じるとされる.ここで「アウラ」という言葉を双方に適用していいかは疑問であるが,現在において「アウラ」という存在も変わっていることは間違いない. 論考の最後にSteyerlは「貧しい画像」はリアルな存在が放つオリ...