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6月, 2010の投稿を表示しています

カーソルへの愛情

The Art of Analog Computing from meltmedia on Vimeo . デスクトップをすべてアナログで表現してみましたという映像.カーソルもしっかりとボール紙か何かで作られています.その「カーソル」を手でしっかりと持って,アイコンを指さす.手で直接指させばいいところを,わざわざ「↑」を手に持ってそれを行う.こうやってみるとイメージでありながら,イメージを指さす「↑」って不思議な存在ななんだなと思う. 「↑」は手の延長なのか,手そのものなのか,手が「↑」そのものになるのか? この映像の中で,「“ゴミ箱”にある項目を完全に消去してもよろしいですか?」と聞かれて「キャンセル」を選ぶところがある.その選択を「↑」を使わずに,直接,手で行っている.何げないところだけれど,ここは『手が「↑」になっていること』を示していると思う. 机のどこかに放っておかれている「↑」とか,デスクトップ上のカーソルが「リアル」に再現されていると思う.でも,コンピュータをシャットダウンしたときに,フォルダとかアプリケーションのアイコンが消えていって,「↑」が消えるのかとおもったら,なぜか電源ボタンが消えて,最後に「↑」が消える.物理的に存在している「電源ボタン」が消えるなんて全然リアルではないのだけれど,「↑」が最後に消えるということになっていることが,GUI を採用した今のコンピュータと長く接してきた人の気持ちみたいなものを表しているのではないかと思う.自分と一番密接なものが最後まで残って欲しいと言ったような.カーソルへの愛情とも言えるようなものかもしれない.

カーソルがもたらすズレを考えるためのメモ

《断末魔ウス》でのカーソルはマウスと強く結びつき,ヒトの破壊行為を強く印象づける,モノの最後の苦しみを表す映像としてのカーソル.カーソルとマウスはいつも通りに一心同体な感じでつながっているが,ヒトの行為がズレている.指示ではなく破壊. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/17321084283 《ゴットは、存在する。》でのカーソルは,作品によっていつも通り動いているものもあれば,消えてしまうもののある.動いているといっても,カーソルを動かしているのはヒトではない.文字通りモノがカーソルを動かす.カーソルが消えるヒトは何もできない.ヒトの役割がズレている.見るだけ. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/17321344614 《↑》ではカーソルは現実世界にある.現実世界にある↑がウェブカメラで撮影されてディスプレイに映し出される.現実と映像との間のズレが起こる.ヒトは↑によって「あっちむいてホイ」と意識をねじ曲げられる.物理的に存在する↑を探すように,現実と映像とのズレを楽しむように意識をズラされる. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/17321513073

手にすっぽり収まる小さな装置

マーク・ハンセンは身体中心にニューメディアを考える.身体はデータを処理する場として特別な場所である.データに形を与える身体.レフ・マノヴィッチはデータからニューメディアを考える.ハンセンは,身体を軽視するマノヴィッチを批判する.マノヴィッチの論文が載っているアンソロジー "Small Tech" の編者たちは,データでも身体でもなく iPhone などの手におさまる小さな技術に注目する. 私たちは小さな技術を手の中に収めながら,データを発信・受信し続ける.身体中心でもなく,データ中心でもなく,その「あいだ」で何が考えることができるのか. 小さな技術のひとつとして「マウス」を考えることができるのではないか.手にすっぽり収まる小さな装置.「カーソル」と結びついて,画面上の位置を示す装置.ヒトとコンピュータとの「あいだ」にあり,身体と密接に繋がり,データとも強く結びついている装置.ヒトとコンピュータ,マウスとカーソルの配置の細部を考えること.手がマウスになり,マウスがカーソルになる.これはヒトからコンピュータへの流れ.カーソルがマウスになり,マウスが手になる.これらはコンピュータからヒトへの流れ.マウスを介して,手がカーソルになり,カーソルが手になる.これはコンピュータが身体を手に入れることを意味する(のではないか?) 身体中心でもなく,データ中心でもなく,その「あいだ」を考えるために,ヒトの側からではなく,コンピュータの側から考える.コンピュータが身体を手に入れることを望んでいて,「小さな技術」によってそれを手に入れたと考えてみる. -- New Philosophy for New Media, Mark B. N. Hansen To the extent that this shift involves a turning of sensation away from an "object" and back onto its bodily source, it can be directly correlated with the process of digitization currently well underway in our culture: for if the digital image for

コード-の中の-身体

エキソニモのカーソルをめぐる作品を考えるために,Mark. B. N. Hansen の  Bodies in code を読んでみた,ハンセンは「コード-の中の-身体」という言葉を提案する.それは「(他者と)共にある前人格的な感覚」であるという.ハンセンは「コード」というデジタルの中にある身体に新しい起源を見ている. Such technical mediation of the body schema (of the scope of body-environment coupling) comprises what I propose to call a "body-in-code." By this I do not mean a purely informational body or a digital disembodiment of the everyday body. I mean a body submitted to and constituted by an unavoidable and empowering technical deterritorialization ── a body whose embodiment is realized, and can only be realized, in conjunction with technics. As I shall argue in this study, it is precisely through the vehicle of bodies-in-code that our contemporary techno-culture, driven by digital technologies, comes to constitute a distinct concrete phase in our contemporary technogenesis (our originary yet historico-technically differentiated coevolution with technics). (p.20) [この英文は全く歯が立たなかった……] (身体と環境とのカップリングが行われる余地となる)身体スキーマの技術的な調

《断末魔ウス》を考えるためのメモ

物質とデータのあいだ|データと映像のあいだ 破壊という行為が,カーソルを動かす.つまり,モノの破壊が,ディスプレイ上でイメージを指さす行為になっている.破壊と指さしの間には「プログラム」がある. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/16934401344 破壊されるマウスは二通りの仕方で表象に変えられる.1.破壊されるマウスを撮影した映像.2.破壊されるマウスからコンピュータに入力されるデータ. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/16934424255 データ中心主義 プログラムによるコントロール.コードを破壊すること.破壊されるマウスからデータを取り出し再生させることで,破壊という行為のコードを無視してしまう. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/16934456001

中途半端な存在|カーソル|コンピュータの身体性

カーソルって,中途半端な存在なんですよね.映像なんだけど,映像とはみなされない.動画を再生するときは,脇に避けられる.動きがカクると,不安に思われる.画面の中にありつつ,自分自身の身体の一つのような存在.みんなが当たり前に受け入れているだけど,それが何なのか,ちゃんと理解されていません.コンピュータの身体性を語る上で,カーソルには重要な秘密が隠されていると感じます.(p.77) exonemo's view「カーソル」in Web Designing Vol.108 カーソルについて考えてきたけれど,こう言われてしまって,しかもそれを作品として具体化させられては,もう何も言えない.けど,何か考えて,書かなければならない.エキソニモも言っているように,私たちはカーソルが何なのかちゃんと理解していないのだ. カーソルはマウスというモノと密接に結びついていると同時に,画面上の位置情報を表すために映像化されたデータでもある.カーソルは映像でありながら,マウスというモノとつながり,位置情報というデータともつながっている.モノとデータと映像とを行ったり来たりするような「中途半端な存在」としてあり続けるカーソル.「中途半端な存在」であるカーソルを考えることで,「コンピュータの身体性」が見えてくるのではないだろうか. エキソニモのカーソルの巡る作品を考えることで,カーソルとは何かを考えることはとても重要だと思う.それは「コンピュータの身体性」を考えること.人間,ヒトの身体性ではなく,コンピュータの身体性.私は今まで,コンピュータに触れる際のヒトの身体性について,マウスとカーソルのつながりを中心に考えてきた.カーソルはデスクトップ・メタファーの中で,ヒトの身体性をコンピュータの論理空間の中に持ち込むような機能を果たしてきた,と私は考えた.なぜなら,カーソルはヒトが世界を把握するためのメタファーの中で,そのメタファーに属さない存在であると同時に,デスクトップ・メタファーでコンピュータが機能するために必要な成立させる指さしという行為を遂行する存在としてあるからだ.つまり,カーソルはヒトとコンピュータとの「あいだ」にあるような「中途半端な存在」である. カーソルは今まで当たり前にあったけれど,iPad にはない.カーソルなしのコンピュータ体験も普通になっていく(かもしれ

データ-主観性

For me, the real challenge of data art is not about how to map some abstract and impersonal data into something meaningful ── economists, graphic designers, and scientists are already doing this quite well. The more interesting and, in the end, maybe more important challenge is how to represent the personal living in a data society. If daily interaction with volumes of data and numerous messages is part of our new "data-suybjectivity," how can we represent this experience in new ways? How can new media represent the ambiguity, the otherness, and the multi-dimensinality of our experience beyond the already familiar and "normalized" modernist techniques of montage, surrealism, and the absurd, for example? In short, rather than trying hard to pursue the anti-sublime ideal, data visualization artists should also not forget that art has the unique license to portray human subjectivity ── including its fundamental new dimension of being "immersed in data." (p.9)

小さな装置

今までメディアといえば映画,テレビ,新聞などであったが,それらがコンピュータをはじめとするデジタル技術によってひとつにデバイス,例えば,スマートフォンや iPad などに統合されつつある.メディアは,私たちの手で持つことができる軽くて,小さな装置になっている.現在,私たちはメディアをモノとして体験している. このように考えるのは,私が普段使っているコンピュータのグラフィカル・ユーザ・インターフェイス(GUI) を人類の歴史の中でどのように位置づけられるのかを研究してきたことによる.マウスとキーボード,ディスプレイで構成される GUI は専門家の間では,不完全なものであり,新しいインターフェイスを早く開発しなければならないと言われ続けた.しかし,私たちの多くが GUI を今も使っているのはなぜか.私はこの疑問を,効率を求める工学的知ではなく,人間の本質を考える人文的知によって明らかにしたかった.ここから得たのは, GUI はヒトとコンピュータがコミュニケーションを行いながら共に進化していくためのメディアであり,それは私たちの行為と考え方を変える力を持つ小さなモノなのだ. GUI を一般化させたのがアップル社だったように,私たちのメディア体験を大きく変えていく小さな装置を生み出すのは,アメリカの企業である.それはなぜなのだろうか. 「アップルはテクノロジーとリベラルアーツの交差するところに立つ会社,我々はベストなテクノロジーをつくりたいと思っているが,それを直感的にしたいと思っている.この2つのコンビネーションが我々にiPadをつくらせたのだ.」これは,iPad を発表した際にアップル社のCOE(最高経営責任者)のスティーブ・ジョブスの言葉である.アメリカには開拓者精神がある.そして,この精神が現在切り開いているのが,教養と技術とが交差している場所なのだ.人類が今まで培ってきたあらゆる知を技術と交差させることで開かれる地平があるのだ.それをアップルは iPad という小さな装置で実現しようとしている. アップルだけではなく,グーグルもまた教養と技術とが交差する場所にある.グーグルが行っているのは,誰もが地球上の全情報にアクセスできるようにすることである.人類は自分たちで作り出した知識を分類・整理・保存するために図書館を作った.グーグルはこの図書館を技術の

カーソル「→」を意識する

デザイナーの佐野研二郎さんのホームページ: http://www.mr-design.jp/ 最初は文字が小さいな,見にくいなと思うのだけれど.カーソルが「→」ではなくて「虫眼鏡」になっていることから,クリックしてみると.文字がというか,ページ全体が拡大される.ここで面白いのは,カーソル「→」も拡大されるところ.「→」が大きくなった瞬間に,今まで気にも留めていなかった「→」に注意がいく.たぶんこれは,このページに来たすべての人が体験することだと思う. 大きくなったカーソルは微妙に動かしづらい.それは,「→」を動かすと,ページも一緒に動くから.iPhone の慣性スクロールのような感じ.カーソルである対象(図)を動かすのではなくて,カーソル自体が図で,図と共に地が動くからなんか変な感じがする.カーソルとそれが指差す対象を含めた背景との関係が,いつもとは少し異なるようにデザインされている. 上の画像は佐野さんのホームページを見ているところをキャプチャーしたものだけれど,なぜかいつものカーソル「→」が消えないので,大きな「→」と小さな「→」とが共存している.小さな→の動きに導かれて,大きな→が動く.これはこれで変な感じがする. いつものカーソル「→」もプログラムで表示されているものなら,大きな「→」もまたプログラムで表示されている.大きさの変化だけでなく,背景との関係もいつもとは異なるようにプログラムされている大きな「→」. 今まで「→」のことを書いてきたけれど,今日 iPad を触ってきた.もちろん iPad には「→」はない.iPhone にもないから,コンピュータと言われるものに接続された,もしくは付属するディスプレイにカーソル「→」がなくても別にもう何も思わないようになってきている.iPad は画面が広いから,使いながらカーソルのことを考えるかなと今ふと思って,はじめた触っていたときどうだったかと考えると,まったく「→」のことを考えていなかった. iPad などのタッチ型インターフェイスが増えてきて,それが一般化していくと.カーソル「→」は忘れ去れていくのだろうか.「→」と密接に結びついたマウスもどうなっていくのだろうか.しかし,そんな狭間のときだからこそ,佐野研二郎さんのホームページのようにカーソル「→」を意識させるデザインが生まれる

学会発表終了

日本映像学会での発表を終えた.そのスライドと帰りのバスの中でのツイート. 間主観的な映像:ヒト|映像|データ View more presentations from Masanori MIzuno . 「これから」の映像も、「今」の映像も、考えられない。考えるためのツールをもたない。でも、どうにか食らいついて、考えていきたい。 http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/15032319316 最初読んだときは、それほどすごいと思わなかったけれど、じわじわと北野圭介さんの『映像学序説』がじわじわと自分の中での重要度が上がってきている。 http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/15032456050 →「今」と「これから」の映像を考えるためのツールを作ろうとしているところ. 《断末魔ウス》、噛めばカムほど味がでてくる。映像の「今」と「これから」が、ぎゅーとつまっていると、僕は強く思う。 http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/15035904918 発表終わって,ふーっとひといき.今回も反応はなかった.誰も話しを聞いてくれないのは,自分にも責任がある.他人を振り向かせるような発表をしないと. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/15043962651