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ÉKRITS連載_GUIが折り重ねる「イメージの操作/シンボルの生成」 - インターフェイスを読む #3

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エクリでの連載「インターフェイスを読む」の第3回目「 GUIが折り重ねる「イメージの操作/シンボルの生成 」が公開されました.今回「読む」のは,GUIのスローガンともいえるアラン・ケイの「Doing with Images makes Symbols(イメージを操作してシンボルをつくる)」です. テキストは「Doing」につながるデバイスとして,ダグラス・エンゲルバートのチームが開発した「マウス」から始まっています.マウスが物理世界をXYグリッドに区切り,ヒトの行為をコンピュータのn次元の世界にマッピングしていきます.その後,アラン・ケイの「Doing with Images makes Symbols」を体現する「重なるウィンドウ」の考察を行っています.GUIを考察するときには「ウィンドウが重なる」ことが重要だと,もともと考えていたのですが,その重要性をうまく書くことができませんでした.そんなときに,思想家の東浩紀の ゲンロンβ での連載「観光客の哲学の余白に」で取り上げられていたマーク・チャンギージーの「透視仮説」を知りました.ウィンドウの「重なり」を説明するのに,チャンギージーの「透視仮説」はフィットするのではないかと思い,書いています.その結果として,前回までは「🖐」についての考察でしたが,今回は「👀」からヒトとコンピュータとのあいだの行為を考えるテキストになっています. よろしくお願いします👁👀👓

メモ:Spiritual Computing,回路,ヒトの最後/最期の行為の記録

エキソニモの《Spiritual Computing a.k.a. ゴットは、存在する。》シリーズを「ヒトの最後/最期の行為の記録」として位置づけてみたい.ダグラス・エンゲルバートによってヒトとコンピュータとが共進化していく場として「インターフェイス」が設定されていたけれど,ヒトの進化が遅く共進化は遅々として進まない.インターフェイスは「共進化の場」ではなく,ヒトとコンピュータとを取り込んだより大きな存在を構成する「回路」だと考えた方がいい.ヒトはコンピュータの登場によって,コンピュータとともに「回路」を構成するスイッチになっていたことに,エキソニモの《Spiritual Computing》は気づかせてくれる.そして,エキソニモの作品を考えることは,ヒト中心主義から脱却した「Spiritual Computing」を現われを示すことにつながる. 「インターフェイス」を共進化の場として捉えると,そこではヒトはまだヒトであり,コンピュータはまだコンピュータであって,それぞれが各個機能していると考えられる.ヒトはコンピュータに指を置きながら,コンピュータを操作していると思っていたし,コンピュータはヒトから情報入力を受付け,演算処理をして出力していた.けれど,それは「コンピュータの操作」ではなく,ヒトがコンピュータに指を置くことで自分でない,そしてコンピュータでもない,より大きな存在の「回路」を構成するスイッチになることであった. エキソニモはインターフェイスという「回路」からヒトを取り去ってしまった.インターフェイスからヒトが取り除かれたけれど,コンピュータは動いた.エキソニモは《Spiritual Computing》シリーズで,ヒトがいなくなってもコンピュータが作動し続ける「B面の世界」を提示した.ヒトがいなくなってもコンピュータが動くが,インターフェイスはヒトに合わせてつくってあるので,ヒトの行為の痕跡がインターフェイスを組み合わせた作品には残り続ける.コンピュータと共進化していく存在だと思い込んでいたヒトが消滅する前の「最後/最期の行為」が,ヒトの不在によって鮮明に浮かび上がる.ヒトの痕跡を残しつつ,コンピュータ自体はヒトの不在に関係なくこれまで通り回路の一部を構成するスイッチとしてオン・オフを繰り返し,情報をつくり続ける.

三輪眞弘さんとの対談ためのメモ(1)_エキソニモ「ゴットは、存在する。」と対比させたい

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紀要論文を書きながら,次のビッグイベントである 三輪眞弘 さんのトークのために三輪さんの本を読んでいる.読んだ部分ではないのだけれど,三輪さんの音楽は神への奉納と言っている部分が気になる.なぜ気になるのかは, エキソニモ の「 ゴットは、存在する。 」と対比させてみると面白いかなと思っているから. 三輪さんの「神」は奉納する「先」にいるわけで,それは見えないものであり,且つ,見えないものとなっている.身体的修練を積んだ演者による演奏によって,演者自体とそれを見ている人も「神」の存在を感じるようなものでしょうか.そこまで行かなくても「奉納」という言葉から,「神」に差し出すという雰囲気がある. 対して,エキソニモの「ゴットは、存在する。」はどうか.もともと「神」は存在しない.それは「ゴット」から連想される存在でしかない.連想するのは自分であるから,「神」は自分のなかに生じる.自分のなかに勝手に「神」が生じてしまう.そこには身体的修練は何もいらない.そういった意味では誰でも使える「マウス」的なものを感じる.となると, ダグラス・エンゲルバート 的な意味で,三輪さんのは「五本指キーボード」かな. [エンゲルバートの「共進化」はコンピュータとともにある身体を考える上で重要と考えている.「マウス」と「五本指キーボード」,この2つデバイスで「マウス」が生き残った意味もまた今回のトークで問題にしたいと思っているけれど…] 「ゴットは、存在する。」の連作のなかでTwitterを使った《噂》なんかは,「神」にまつわる語が「ゴット」に変換されるわけですが,そこにも「神」を感じてしまう.「ゴット」と変換され,「神」がTLからいなくなるわけですが,その不在が,不在というのはちょっとちがうか,「ゴット」がそこにあるのだから.なんだろう「ゴット」という神ではないけれど,神のようなものがそこにあって,しかもそれは,「神→ゴット」というアルゴリズムがわかれば,自分で「神」を含んだツイートをすることで,そのTLに参加できてしまう. エキソニモにおける「神」というか「ゴット」の位置づけを考えていると,それはなんとなく「手元」にある気がする.奉納されるものではなくて,手元にある「ゴット」.作品を見ているときに「神」を感じるという意味は三輪さんの音楽と同じかもしれないけど,この「神...