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次の学会発表のための概要ドラフト(2)

次の学会発表のための概要ドラフト(1) 少しは整ったような….でも,作品の分析はほとんど書いていない.作品に追いつけない. -- 間主観的な映像:ヒト|映像|データ 3つの世界 写真や映画だけではなく,コンピュータによるインタラクティブな映像や大量のデータに基づくライフログの映像を考えるために暦本純一の「サイバネティックアースへ:サイボーグ化する地球とその可能性」 1 を参照したい.「人間の世界,コンピュータやネットワークに代表される人工物の世界,実世界,の三つの世界の相互作用としてヒューマン・コンピュータ・インタラクションを考える必要がある」と暦本は言う.バルトなどの写真論ではなく,コンピュータ科学者の言葉の方が,現在の映像が置かれている状況を的確に捉えているように思われる.私たちの生活が,コンピュータによって生み出されている情報の上に成り立っていることを考えれば,それは当たり前かもしれない.私たちは「人間の世界」と「人工物の世界」と「実世界」の関係性から,映像を考えなければならないのだ. 3つの世界の相互作用の中にある映像を考えるために,エキソニモの《断末魔ウス》とDIVVY/dualの《タイプトレース》という2つのソフトウェア作品を取り上げる. デスクトップ臨死体験!!?叩く・斬る・削る・焼く・・・あの手この手で壊される “マウスの断末魔” をデスクトップで再現する,ソフトウェア作品.映像と同時に記録されたカーソルの動きは,物質とデータ,データと映像の垣根を跨ぎ,映像のフレームを命がけで乗り越える 2 . TypeTrace(タイプトレース)は,コンピュータ上でのタイピング行為をその時間情報とともに記録し,再生するソフトウェアです 3 . 間主観的な映像 《断末魔ウス》はカーソルの位置情報を記録する.《タイプトレース》はタイピングの時間情報を記録する.記録された情報は映像に変換されて,ディスプレイに映し出される.ここで私たちが見ているのは,カメラのレンズが捉えた客観的な映像ではない.また,私たちが想起する主観的な映像でもない. 映像はデータに基づいており,データはヒトの行為から抽出される.そして,コンピュータがこのデータの流れを生み出している.データの流れの中で,ヒトは主観という特権的な位置にありながら,客観的なデータにもなる. 千房

次の学会発表のための概要ドラフト(1)

3つの世界 写真や映画だけではなく,コンピュータによるインタラクティブな映像や大量のデータに基づくライフログの映像を考えるために暦本純一の「サイバネティックアースへ:サイボーグ化する地球とその可能性」を参照したい.「人間の世界,コンピュータやネットワークに代表される人工物の世界,実世界,の三つの世界の相互作用としてヒューマン・コンピュータ・インタラクションを考える必要がある」と暦本は言う.バルトなどの写真論ではなく,コンピュータ科学者の言葉の方が,現在の映像が置かれている状況を的確に捉えているように思われる.つまり,人間の世界と人工物の世界と実世界の関係性から,映像を考えなければならないのだ.私たちの生活が,コンピュータによって生み出されている情報の上に成り立っていることを考えれば,それは当たり前かもしれない. この3つの世界での映像を考えるために,エキソニモの《断末魔ウス》とDIVVY/dualの《タイプトレース》という2つのソフトウェア作品を取り上げる. デスクトップ臨死体験!!?叩く・斬る・削る・焼く・・・あの手この手で壊される “マウスの断末魔” をデスクトップで再現する,ソフトウェア作品.映像と同時に記録されたカーソルの動きは,物質とデータ,データと映像の垣根を跨ぎ,映像のフレームを命がけで乗り越える.  TypeTrace(タイプトレース)は,コンピュータ上でのタイピング行為をその時間情報とともに記録し,再生するソフトウェアです.  間主観的な映像 《断末魔ウス》はカーソルの位置情報を記録する.《タイプトレース》はタイピングの時間情報を記録する.記録された情報は映像に変換されて,ディスプレイに映し出される.ここで私たちが見ているのは,カメラのレンズが捉えた客観的な映像ではない.また,私たちが想起する主観的な映像でもない. 映像はデータに基づいており,データはヒトの行為から抽出される.そして,コンピュータがこのデータの流れを生み出している.データの流れの中で,ヒトは主観という特権的な位置にありながら,客観的なデータにもなる. 千房:うちの《断末魔ウス》[※19]も,マウスが壊れるまでのログを記録しているの.それはカーソルの座標とマウス自体の映像なんだけど,同時に記録してある.鑑賞者は自分のデスクトップ上で自分のカーソルでもって破壊の様子を擬

次の学会発表のためのメモ(4):映像を補完する,映像で補完する

次の学会発表のためのメモ(1):映像の間主観性(?) 次の学会発表のためのメモ(2) :ヒトの気配,コンピュータの気配 次の学会発表のためのメモ(3):間主観的な映像:ヒト|データ|モノ -- コンピュータディスプレイという「ビット入出力界面」を挟んで,論理で考えきれないヒトと因果の流れに入りきれないコンピュータとが対峙する. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/12519378495 ディスプレイに映るピクセルの集まりをめぐって,ヒトとコンピュータとは異なる対応をしている.ヒトは映像を因果関係で補完するのに対し,コンピュータは論理を映像で補完する.ヒトは映像を単なるデータの流れとして見ることができず,コンピュータはデータの流れをそのまま表示できない. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/12519681155 コンピュータがデータの流れを映像にしてしまうのは,ヒトに理解してもらうため.ヒトがデータの流れを理解したいがために,ビットをピクセルに変え映像にする.ヒトが中心となって,データの流れを構成している. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/12520117570 しかし,純粋なデータの流れの中では,ヒトはここにもいるし,あそこにもいるし,そこにもいる.モノはここにあるし,あそこにもあるし,そこにもある.「いつでもどこにもある」というデータの流れを生むコンピュータは,「かつてそこにあった」という意識なしで映像を考える可能性をヒトに与える. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/12520465038 ヒトとコンピュータとのコミュニケーションが,因果と論理とが入り混じった映像を生み出す.それは,データに基づいた映像であり,データを操作することであたかもモノのように扱える映像である.ヒトとコンピュータとが共有する世界における今までとは異なる映像. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/12521062858

次の学会発表のためのメモ(3):間主観的な映像:ヒト|データ|モノ

次の学会発表のためのメモ(1):映像の間主観性(?) 次の学会発表のためのメモ(2) :ヒトの気配,コンピュータの気配 -- 間主観的な映像:ヒト|データ|モノ 間主観的な映像:ヒト|データ|モノ. 最初は, 映像がそのあたりに転がっている石のような 単なるモノとして扱われるようになってきているということを, 言いたかったような気がする. それはインタラクティブということではなくて, 確かにそれもあるかもしれないけれど, 石という物質と同じようなモノとして扱えること. だから,「映像のモノ化」というタイトルにしていた. でも,なんか違う. もともと映像はモノであった. とくに写真はモノであった. 客観を写し取る映像. それを見る主観としてのヒト. 客観→映像→主観. コンピュータは映像がモノであることを顕在化しただけ. データを映像に付与することで, 客観→映像→主観に別の流れを付与した. 客観→映像→主観|データ⇔ピクセル⇔アトム 映像を考えるときに, 客観と主観だけではなく, コンピュータによって生み出されるデータの流れを考えること. そこではヒトは主観という特権的な位置にありながら, 客観的なデータにもなる. そのデータが映像となることで, 映像に主観でもなく客観でもない性質が付与される. コンピュータという存在が出てきたこと. コンピュータが情報をピクセルで表すようになったこと. 情報の滲みとしてピクセル. 情報の滲みを見るヒト. ヒトによる映像への反応を,コンピュータが見る. コンピュータによる映像への反応を,ヒトが見る. ここに新しい間主観的な映像が生まれている. http://mmmemo.posterous.com/16628811 -- 別のところで上のように書いた.このような考えになったのは,ドナルド・デイヴィドソンの「間主観的」という考えが大きく影響している.加えて,昨日読み返した暦本純一の「 サイバネティックアースへ:サイボーグ化する地球とその可能性 」からも強く影響を受けている.バルトなどの写真論ではなく,コンピュータ科学者の言葉の方が,今の映像が置かれている状況を的確に捉えているように思う.私たちの生活が,コンピュータによって生み出されている情報の上に成り立っていることを考えれば,それは当たり前かもしれない.「人間の世界,コンピュータやネ

次の学会発表のためのメモ(2) :ヒトの気配,コンピュータの気配

次の学会発表のためのメモ(1):映像の間主観性(?) 「間主観性な映像:映像|データ|モノ」というタイトルにしてみようかな.《タイプトレース》《断末魔ウス》ともに,映像に「ヒトの気配」を感じている.この気配は身体から抽出されたデータから構成されている.映像はデータに基づいており,データはヒトを取り込んでいる.そして,このデータはコンピュータが生み出している.また,コンピュータがディスプレイの向こう側にヒトがいるのかモノがあるのかを判断する逆チューリングテストを考えると,そこではヒトとモノは等価である.データの流れの中では,データに基づいた映像の中にヒトの気配があり,ヒトとモノは等価である. これらを成立させているのがヒトとコンピュータとのコミュニケーション回路を構築する映像であり,それは間主観的な映像なのではないか.この間主観的な映像に,私たちはヒトだけでなく,実はコンピュータの気配を感じとっているのではないか. 対立し合う仮説群からの選択に客観的根拠はあるのだろうか,われわれは,とりわけこの事例に関しては,根拠を「客観的」たらしめるものは何なのかという点を問う必要がある.私の考えでは,客観性の究極の源(根拠ではない)は,間主観性である.他人とのコミュニケーションに携わっているのでないかぎり,まちがっている(ひいては,正しい)という考えの拠り所となるものは,われわれの発言のうちにも思考のうちにも,まったく存在しない.思考とコミュニケーションの可能性は,どちらも,私の考えでは,複数の生物が,共有された世界からの,また相手からの入力に,おおむね同時的に反応するという事実に依存している.われわれはよく,ある人がたとえば狼に対して「同じ仕方で」反応すると言う.しかし,もちろん,この場合の「同じ」は「似た」の意味である.ある人がある狼を別の狼と似たものとみなしていると主張するさいのわれわれの根拠は,その人が狼たちに対して似た仕方で反応しているという事実である.このことは次の疑問を呼び起こす.つまり,反応を似たものとするものは何なのか.これに対する唯一の答えはこうである.つまり,誰か別の人から見れば,一連の狼や,最初の人物の一連の反応は,たがいに類似している,ということである.もちろん,このように答えても,基本的な問題をもう一度先送りすることになるだけである.とはいえ

映像の間主観性(?)

次の学会発表のためのメモ(1) 「映像のモノ化:映像|データ|物質」というタイトルで発表を申し込んだけど,「映像の間主観性(?)」という方向へ… -- エキソニモ, ドミニク・チェン, 毛利悠子, チューリングテスト, ネルソン・グッドマン, ドナルド・デイヴィドソン, どうにか発表の終わりが見えてきたような. 外部にある観察可能なものをデータ化し,情報の流れにのせること. 映像としてデータを可視化すること. これを Scientific Visualization の方向ではなく, 心的イメージの方向で考えてみること. http://mmmemo.posterous.com/15918609 チューリングテストは,いま一度改良されなければならない.対象と質問者の因果的な結びつきに加えて,対象と世界の残りの部分との因果的な結びつきも質問者に観察できるように,対象を表に出さなければならないのである.(p.144)  ドナルド・デイヴィドソン「チューリングのテスト」 http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/11990921849 端末は文字を表示する(としよう).これが「行動」として記述されるべきかどうかは,質問者にかかっている.結論として言えば,チューリングテストはその興味深さを損なうような仕方で行動主義的なわけではないのである.(p.137)  ドナルド・デイヴィドソン「チューリングのテスト」 http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/11991263030 《タイプトレース》 においては,スクリーンに映しだされるテキストを書いているのは「作家」だと示されている.しかし,その姿は見えない.にもかかわらず,文字とそれに結びつけられた時間情報(データ)によって,スクリーン上の文字が変化することで,作家の気配が感じられる. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/11991379474 《断末魔ウス》 においては,対象と質問者との間で共有されている世界の因果関係のすべて,および対象そのものがディスプレイに映しだされている.壊されるマウスの映像,壊す行為と因果関係をもった位置情報を示すカーソル.それゆえに位置情報に意味

スイッチを押すためのスイッチ

.review に書いた論考「 身体|カーソル|イメージ───カーソルによって切り替えられる世界 」についてさらに考えたことのまとめ.まとめていて,メタ・スイッチとしてのカーソル,もしくは,私たちとモノとの関係を巡る想像力が,主体と客体という二項対立ではなく,オン|オフの切り替えから「私たちがモノになり,モノが私たちになる」という出来事から成り立っているのではないかということに思い至った.後に引用したチューリングの言葉のように,本当はオン|オフの間に中間があるのかもしれないが,それは忘れてもいいのかもしれない. -- スイッチも常にそこにあり続けるものだけれど,それが属す回路においてはオン|オフの切り替えの瞬間にしか存在しない.ものとしては具体的に在り続けるが,回路という抽象的な層ではある一瞬にしか存在しない.物質という具体と回路という抽象との間. #co_article005 http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/11914381387 カーソルも映像としてディスプレイに具体的に映しだされているが,それが機能するのはヒトとコンピュータとがコミュニケーションするための回路が生み出されているときだけ.そこに在り続けるだけの時間があるもの.具象と抽象との間に漂うモノ #co_article005 http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/11914589664 単純にそこにただ在り続けることができる存在,それが私達の周りに在る物質的なモノだ.ただ在りづける.でも,時に私達との関係との中で機能する.映像としてそのような存在なのがカーソル.カーソルはモノで,モノの中でもスイッチとするべきだった.  #co_article005 http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/11914798678 しかし,カーソルがスイッチという具象と抽象との間に漂うものと同じ存在だと先に言ってから,カーソルはモノというべきか.私たちの周りにあるものが,すべてがスイッチ的なモノであることを考えるべき.そこに在り続け,関係のオン|オフで機能する. #co_article005 http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/119150464

.review への掲載

.review に書いたテキストがウェブにアップされました. http://dotreview.jp/2010/04/co_article005/

Sketchpad と iPad:「ふたつの手」を考えるためのメモ

Sketchpad と iPad を並べてみる.ふたつの手が映っていて,一方の手がディスプレイ上のイメージに直接的に働きかけているところが似ている.コンピュータのひとつの流れとして,Sketchpad のボタンとペンと組み合わせでディスプレイ上のイメージに直接的に働きかけるところからはじまり,GUI でのマウスとカーソルとの組み合わせを経て,私たちは再びディスプレイ上で手を動かすようになった. Sketchpad ではボタンを押すこととペンを使うことで,ディスプレイ上のイメージを自由に描いていたのが,iPad では描くということは行っていないが,片方の手は装置を支えるだけで,もう片方の手がさまざまなジェスチャーでイメージを動かす.ボタンを押すことではなくジェスチャーをすることで,Sketchpad ではふたつの手の共同作業が必要であったものが,iPad ではひとつの手で行えるようになっている.iPad を支える手とディスプレイ上でせわしなく動く手.それは iPhone からはじまっていたこと. 片方の手はモノをしてのiPad, iPhone を持ち,もう片方の手はディスプレイ上のイメージと戯れる.モノとイメージとを同時に,直接的に感じ続けること.

スケッチパッドで描く,ふたつの手(4)

スケッチパッドで描く,ふたつの手(1) スケッチパッドで描く,ふたつの手(2) スケッチパッドで描く,ふたつの手(3) -- 5.ライトペンで描く手を見せる ボタンを用いてコンピュータとの対話における身体のノイズを最小限にすることは,ヒトの身体を排除してコンピュータとの共生関係を築こうとしたリックライダーらと同じことを,サザーランドも行っているのではないか.確かに,ボタンを押す手だけを考察した限りでは,サザーランドもリックライダーらと同じようにみえる.しかし,スケッチパッドの記録映像には,ボタンを押す手とともに,ペンで線を描く手も映っていることを忘れてはいけない.スケッチパッドはふたつの手の行為の組み合わせによって図形を描く装置なのだ.次に,ペンを持つ手ふたつの手の関係における,ボタンを押す「システムの手」の役割を考えたい. 記録映像に映る右手はライトペンというデバイスを持って,ディスプレイ上に線をとても自然に描いているようにみえる.しかし,スケッチパッドはヒトとコンピュータとの間に情報経路を構築して「描く」行為を行うシステムであり,そこでは「ヒトとしての行為」はノイズにすぎない.それゆえに私たちの描くという行為は「システムとしての行為」へと変換されなくてはならない.だとすれば,ライトペンを持つ手が示す描く行為の「自然さ」が,いささか奇妙なものに感じられてくる.なぜなら,ライトペンというデバイスで図形を描いていく手は,その行為の「自然さ」ゆえにシステム化されたボタンを押す手と正反対の「行動する手」に見えるからである. 身体というノイズからの影響を最小限にして,ヒトとシステムとの間に情報経路を形成する必要があるにもかかわらず,「ヒトとしての行為」を続ける「行動する手」が存在し続けること.さらに,「行動する手」と「システムの手」とが組み合わされて,描くという「ヒトとしての行為」を実現していること.これらのことを考えるために,サザーランドがなぜ「ライトペンで描く」という形態を,スケッチパッドに採用したのかということを見てきたい. 1957年にMITリンカーン研究で,B・ガーリーとC・F・ウッドワードがライトペンの原型を開発し,1959年には多くのコンピュータシステムで普通に使われていた.このことから,1961年からはじめられたスケッチパッドのデザインにお

スケッチパッドで描く,ふたつの手(3)

スケッチパッドで描く,ふたつの手(1) スケッチパッドで描く,ふたつの手(2) ーー 4.ボタンを押す手 スケッチパッドの記録映像が示すように,サザーランドは,コンピュータとの対話に,身体を導入した.そこにはふたつの手が映し出されており,右手はライトペンを持ち,左手はボタンを押している.ヒトがペーパー・ウェアとなり身体を忘れることができれば,コンピュータと対話するために,ライトペンも押しボタンも必要ないはずである.なぜなら,コンピュータはヒトの理性や知性と呼ばれる考える能力は必要とするが,身体は必要としていないからだ.よって,ヒトの行為のための道具であるライトペンや押しボタンを導入することは,ヒトとコンピュータとの情報経路に身体というノイズを介入させることに他ならない.しかし,これらの道具がなければ,身体を忘れることができない多くのヒトはコンピュータと対話することができない.ならば,身体の導入をする際に用いる道具を工夫し,ヒトの行為をコンピュータとの対話に合うようにデザインすることで,そのノイズを最小化すればよいのではないだろうか.スケッチパッドの記録映像で,ふたつの手がライトペンと押しボタンを使って描くという行為は,その結果と考えることができるのではないだろうか. このことを考えるために,スケッチパッドを製図用具の歴史に位置づけた展覧会「想像力の道具:18世紀から現在までの製図用具と技術」のカタログで,W. J. ミッチェルが書いた「結論:即興,道具,アルゴリズム」と題したテキストを参照して,図形を描くことの歴史を概観したい.その中で,ミッチェルは,「フリーハンドで描くことは,パフォーマンス」であり,その技法はパフォーマーの技量に依存するのに対して,製図道具を用いて描くことは「規律正しくモジュール化された複製可能な行為」であり,より複雑な図形を描くことを可能にしたとしている 24 .そして,製図道具によって記された痕跡は,「ひとりの芸術家の手の動きの記録ではなく,時間を超越したプラトン的な抽象を表しているシンボルとして読まれるものだ 25 」と書く.つまり,製図道具は誰もが自らの手で特定の図形を正確に描けるひとつのアルゴリズムが,道具という具体的な形になったものなのである.そして,1960年代にコンピュータ・グラフィックスが登場し,すべての図形が「空間