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紀要論文 身体|複合体|四人称:ヒトとコンピュータとの関係に関する試論

非常勤でお世話になっている 名古屋芸術大学 の研究紀要に「身体|複合体|四人称:ヒトとコンピュータとの関係に関する試論」という論文を書きました. はじめに  現在,コンピュータは至る所に存在し,多様な使われ方をしている.もう誰もヒトとコンピュータとの関係など考えることがないくらいに,コンピュータは当たり前の存在になっている.そのような状況の中で,コンピュータと向かい合うヒトはヒトであり続けることができるのであろうか.ヒトは自らが作り出した人工物であるコンピュータとの融合を通して,今までとは異なる存在になりつつあるのではないか.以上のことを身体,複合体,人称という3つの項目から考えていきたい. 紀要で手に入りづらいので, PDF です.もし興味があって,時間もたっぷりあるという人がいたら,ご利用ください.

メモ:「もうひとつの」→「ひとつの」

「私がこれ」「私はこれ」「これが私」「これは私」.三人称と一人称との往還から生まれる四人称.それはヒトとモノだけの人称だけではなく,コンピュータという新しい思考を含んだ「もうひとつの」人称といういう意味での四人称の設定.   「もうひとつの」という言葉示すリアリティを得ることが大切だと思う.「もうひとつの」ということが常にどこかに現れてくるような世界に生きているというリアリティ.「もうひとつの」と,そこから帰結する「ひとつの」という言葉が示すリアリティを考える.

「私」⇄「あなた」⇒「四人称」

「YouTube」では「私」が「あなた」となり.「Wii」で「私」が複数となって拡張していき「あなた」を呑み込んでいく.コンピュータを介すことによって,「私」と「あなた」の絶え間ない入れ替えが行われていく.さらに考えると,「YouTube」で「You」と呼ばれるのがヒトだとすると,ここでの「I」は,コンピュータによって構築されるシステムということになる.「私」=コンピュータは,いつでも「あなた」=ヒトを受け入れますよという状況が発生している.複数の「私」がシステムである「私」を作り上げ,「あなた」になる.ここでは,今まで確固とした中心であった「私」がひとつの「あなた」になっていると考えられる.そしてまた,個々の「あなた」となったヒトがシステムである「私」を通して,別の誰かと結びつき複数の「私」となり,それが再びシステムを介してその中の「あなた」になるといった感じで,コンピュータを介して,ヒトとの結びつきを繰り返す中で「私」と「あなた」を絶えず行き来して,その領域を拡張しいった結果として,そこには外部がない「四人称」的意識が生じると考えられる.

ヒトとコンピュータとのあいだに生じる「四人称」

コンピュータに向かって,日記のようなmemoを書く.手書きではなく,キーボードを叩きづける.キーを打つと,フォントが表示されう.変換候補がずらーと現われて,それを選択する.膨大な量の選択をし続ける.ディスプレイに表示される「外化した思考」.それは,私たちの思考の外化であることを示すべく,次々に選択しろと迫ってくる.選択を迫るコンピュータ.それを成立させるインターフェイス.ここにコンピュータの身体性があると思う.コンピュータは,私たちと全くことなる思考を行う「allo」,他者であるから,その身体も異なるはずなのである.確かに私たちにとってはもどかしいかもしれないが,キーボードやマウスは,コンピュータにとってはヒトという外部入力装置から入力を効率良く受け取るように適用した「身体」なのである.ヒトはディスプレイに上に外化した思考の流れに,身体を合わせられるようになってきている,それはコンピュータの身体を受け入れることを意味する.一度受け入れてしまえば,コンピュータを介してディスプレイ上に外化している思考の流れを,自分の身体と一致させることできる. コンピュータは自らの思考様式に合わせた身体を,ヒトの身体に合わせるかたちで提示してくる.ヒトの手が2本あることや,その大きさなど.ヒトは自分で使いやすいように改良を加えていると思うけれど,それはもしかしたら,コンピュータの思考が大きくなったから,寛容になり,私たちのわがままを受けて入れてくれているのかもしれない.エンゲルバートが言ったように,ヒトとコンピュータとは共進化していくものである.それはひとつの複合体なのである.ヒトとコンピュータとは共進化しながら,ひとつの複合体になっていく,複合体の一部となったヒトは,行為が変わり,そして思考の流れ方が変わる.だから,ここに新しい「人称」を考えてもいいのではないかというのが,今の私の考え. それはわれわれには,四人称の設定の自由が赦されているということだ.純粋小説はこの四人称を設定して,新しく人物を動かし進める可能の世界を実現していくことだ.まだ何人も企てぬ自由の天地にリアリティを与えることだ.【 純粋小説論,横光利一 】 小説が言語の流れで新しい世界を築くために「四人称」を産み出そうとしたとすれば,ヒトとコンピュータの複合体も, 新しい世界を示すための「四人称...

memo20110816からの抜粋:日常生活と複合体

さっき,突然疲れた.マーク・ハンセンのマノヴィッチ批判を読み終えたら,とても疲れた.書かれている内容が疲れに影響したとかではないけれど,疲れた.ハンセンが人間中心主義だと指摘しようと考えていたのに,ハンセンはマノヴィッチをヒューマニストだという.それはマノヴィッチが映画に基づいてニューメディアを論じるから.映画というヒトの視覚に合わせたメディアを用いているマノヴィッチは人間中心主義だということ.ハンセンは,デジタル・メディアがヒト以前のヒトというか,前−個体的な状態,それはヒトという種が感知できないような情報を与えていると考えている.感知できないけれど,感知できないではなく,意識にのぼらないという方が正しく,身体は感じるみたいな.人間を「個」という単位で考えれば,それ以前の「身体」に作用するという意味では,ハンセンは人間中心主義ではない.でも,ハンセンは「人間」にこだわっているように思える.それは「身体」というかたちにこだわっているから.コンピュータが「身体」以前に作用すると指摘していても.ハンセンが取り上げる作品の表象は常にヒトの身体を映し出している.「身体」以前はコンピュータに浸食されても,表象は身体のかたちを保つ.マノヴィッチが「映画」にこだわるように,ハンセンは「身体」にこだわる.  マノヴィッチは,ヒトとコンピュータとをひとつの複合体として考えているように思える.目に見えるところはヒトに合わせて,でも,そのなかの論理はコンピュータで,しかもヒトに合わせて作られているイメージがコンピュータにとってもそのイメージを構成するために適した構造になっているという感じ.ヒトとコンピュータとがもちつもたれつとといった感じ.ハンセンがデジタル・イメージを論じるときに取り上げるダグラス・ゴードンの《24時間サイコ》やビル・ヴィオラの超スローモーションのシリーズは確かに,「映画」では入り込むができない個としての身体以前の領域:感情の部分にアプローチしていると思う.けれど,私たちは普段,1秒間2フレームで映画を見ることはないのだし,超スローモーションの高解像度の映像データは重すぎる.確かにこれらの作品が示すことも,デジタル・イメージがもつポテンシャルの一端なのかもしれない,だからこそ作品になって,ハンセンが取り上げているのだけれど,もう少しヒトの日常生活の感覚に基づ...

スライド|映像文化 第14回|映像で理解する

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愛知淑徳大学 映像文化 第14回|映像で理解する:佐藤雅彦とユーフラテスの「畏い」映像→ スライド 参考資料 佐藤雅彦・ユーフラテス関連 ピタゴラスイッチ 0655 | 2355 EUPHRATES BOOK A-POC INSIDE 日常にひそむ数理曲線 DVD-Book YCAMでのワークショップ ーー トミー ビックローダー ビル工事 袋入りさくらんぼ餅の自動包装 ーー その他 メディア論―人間の拡張の諸相 小説の誕生 あたらしい美学をつくる エドワード・マイブリッジ ,1878 エティエンヌ=ジュール・マレー,1870 終えて 今の大学生は「ピタゴラスイッチ」を子どものときに見ているんですよね.でも,「佐藤雅彦」さんのことを知っているかと尋ねても,ほとんどの人が知らないみたいで,手を上げてくれたのはひとりでした.最初は「映像で理解する」ということで,「分かりやすさ」ということをメインにすえてスライドを作っていたのですが,「日常にひそむ数理曲線」でトンカチを投げる映像をみていて,その軌跡が放物線とサイクロイドで描かれた線の上をそっくりそのままなぞっていく様を見た時に,この映像はとても「こわい」と感じたのです.映像を見ていると,映像に言葉が奪われるように感じたのです.佐藤さんも「畏怖」という言葉を使っていますが,まさに「畏い」と感じたのです.そして,「畏い」という漢字を今まで「こわい」と読むと思っていのですが,「かしこい」と読むことも知りました(恥ずかしくもありますが……). 学生に「0655|2355」を紹介したところ,数名ですがハマってくれたみたいで,それがこの講義の大きな収穫.

「サブシンボリックな知能」と Doing with Images makes Symbols

下條 「環境知能」と言うとき,比較的欠けているなと思った視点は,身体や皮膚の感覚,あるいはシンボリックにいく前のサブシンボリックな知能なんです.どういう意味かというと,子供がおもちゃに対してインタラクトしているとき,そのおもちゃにどういう機能があるかなんていう表象を頭のなかにつくらなくても反射的に手を出しているわけです.あるいはそこに本があれば何となくページをめくっているとかね.そうした,ピアジェが言うところの,表象より前の段階の感覚運動知能みたいなものは,安全な言い方をすればそういう研究は将来必要となるでしょう,という言い方になるのですが,そんなことをいっているあいだに,近未来において粗暴なかたちで吹き出てくるんじゃないかなという気がしているんです.(pp.150-151) 環境知能と環境管理をめぐって,東浩紀+下條信輔 司会=NTTコミュニケーション科学基礎研究所 in 環境知能のすすめ:情報化社会の新しいパラダイム ここで言われている「サブシンボリックな知能」という言葉で,昔の発表をまとめ直してみたいと思っている.プレシンボリックな知能/行為|Doing with Images makes Symbols|アレゴリー的思考 −− インターフェイス再考:アラン・ケイ「イメージを操作してシンボルを作る」は何を意味するのか. Re-thinking the interface: What is the meaning of Alan Kay's"Doing with Images makes Symbols" 水野勝仁 Masanori MIZUNO 名古屋大学大学院情報科学研究科博士後期課程  Nagoya University, School of Information Science Abstract Alan Kay created a slogan for development of user interfaces: Doing with Images makes Symbols. This reveals the essence of the Graphical User Interface (GUI) which millions...

インターフェイスにおける第一言語と第二言語について考えてみる

インターフェイスにおける「第一言語」と「第二言語」という区分けを考えてみる.「第一言語と第二言語」の区分けを言語に設定した N・グッドマンの論文自体はまだ読んでいないで,これを引用した坂本百大の『言語起源論の新展開』から. ネルソン・グッドマン(Nelson Goodman)は,われわれの言語はすでにそれ以前における第一言語,たとえばゼスチュアなどの身振り言語やその他の記号使用の習熟の結果初めて可能になるのであり,その第一言語の段階において文法が経験的に獲得され,それが第二言語,すなわち通常の音声言語に反映されたものであるに違いないと考え経験論に徹する.その意味では音声言語の生得性・普遍性は結局は第一言語の経験性へと還元されることになる.p.155 N・グッドマンは,人間は通常の言語(第二言語)を習得する以前に第一言語を獲得しており,その第一言語による説明・教示により第二言語の習得が迅速で画一的になり得るのであると考える.さらにこの第一言語は,それ以前に既に存在している第一次的な記号体系[シンボルシステム]の自然な習得として得られる第二次的記号体系として規定される.実際何らかの第一言語またはそれに類するものをすでにもっているものにとっては,第二言語の習得は迅速であるし,またその第一言語が安定したものであるならば第二言語の習得に画一性,普遍性が見られるのは当然である.p.170 坂本百大(1991)『言語起源論の新展開』 インターフェイスに「第一言語と第二言語」の考えを当てはめてみる.第一次的な記号体系は,ヒトが物理世界で感覚していることであり,そこでの行為であるといえる.それが「言語」となっていった流れがあるわけだが.この「言語」も含めた記号体系が,インターフェイスにおける第一次的な記号体系として「第一言語」を作る.つまり,ヒトとコンピュータとのインターフェイスの言語は,ヒトが習得した第二言語を基盤としていると考えることができる.物理世界とのつながりの中で培ってきた安定した「言語」を,コンピュータとのやり取りを説明・教示するために使う.その結果生じた「第一言語」が,マウスとカーソルとを結びつけることでできることをメタファーでまとめ上げたデスクトップ・メタファーを採用した視覚中心のインターフェイス.この段階では,ヒトの身体感覚の多くを活かすことができていない.しか...