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JAGDAトーク_復習

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7月28日に行なわれたJAGDAトークの復習. 取り上げたアーティスト・作品 John Rafman《9 eyes》 Doug Rickard《A New American Picture》 Justin Kemp《Adding to the Internet》 Parker Ito《The Most Infamous Girl in the History of the Internet》 Ryder Ripps《Adrianne Ho Paintings》 Artie Vierkant《Image Objects》 Joshua Citarella《Compression Artifacts》 渡邉朋也《ツナとマヨネーズ》 −− トークを終えて,「情報」と「物質」との結合が解かれて,抽出された「情報」が常にそこにある状態で,その「情報」を「概念」として提示していくのか,「物質」に再び定着させるのか.これが「インターネット以後のアート/グラフィック」の問題なのではないかと考えた.もちろん,情報が抽出されていくことは「インターネット」にはじまったことではないけれど,「インターネット」によって「情報」の抽出とその拡散のインフラが整ったとは言える. トークのなかで,「情報」が「物質」から切り離されてきたことから生じる問題も「情報」を「概念」のまま作品を提示できるアートと,「情報」を「物質」に定着・固定化する必要があるデザインとでは異なることがわかった.「情報」を「物質」に固定しなければならないデザインは,その成果物に「情報」と「物質」とが一度は切り離されつつあることの痕跡を見つけるのは難しい.しかし,デザインにも確実に変化が起こっていて,作品のテイストがここ3〜5年のあいだに変化していると,菊地さんは指摘していた.この指摘から,アートでは既に「物質」のみならず現実との関係を疑うような作品が出てきているが,それは「情報」を「概念」として流通させることが可能なフォーマットだからだと考えるようにあった.「アート」というフォーマットゆえに渡邉さんの《ツナとマヨネーズ》のような「物質」に「情報」が定着した彫刻作品と情報のみの平面作品とをセットで提示することが可能...

JAGDAトーク_予習

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明日(7月28日)に行なわれる JAGDAトーク の予習.あくまでも頭を整理すための予習であって,この通り話す(した)わけではありません. 「ポスト・インターネット」というお題を頂いたときには何度も取り上げているArtie Vierkantの「image-objects」.最初,デジタル画像でそれをモノにプリントアウトして,展示して記録する.その後に,展示写真をPhotoshopで加工する.展示したオブジェクトが「主」で,他のデジタル画像や加工されてネットを流れている画像が「従」というわけではない.どちらかというと加工された画像が「主」.リアル展示を見たことがないのだけれど,彼の作品はもう充分に見ている感が強い.モノの存在感がとても希薄. Artie Vierkantはどのようにして作品を売っているのであろうか? ギャラリーの展示したオブジェクトを売っているのか,それともネット上を流通する画像も売っているのか,それらをセットにして売っているのか,最初につくったデジタル画像は売るのかどうか.彼のテキスト,インタビューにはこのあたりのことは書かれていない. Artie Vierkantも参加している「Compression Artifacts」.キュレーションはJoshua Citarella.この展示は,どこかの山のなかに展示室をつくって作品を展示,その後,すべてを燃やしてしまって,残ったのは灰のみというもの.実際にはもう誰も見ることができない展示を記録画像を通してみる.林のなかに展示室が忽然とあるという画像は,Joshua CitarellaとArtie Vierkantも参加しているTumblr「the jogging」っぽい.それ以外にも多くの展示記録画像があるのだが,それらは展示室に「天井」があったり,部屋の広さがまちまちであったりと多分に加工されている.「写真は見えている現実とのギャップを埋めるものではなくて,主観とのギャップを埋めるもの」とJoshua Citarellaは展示のテキストに書く.「image-objects」と同様にモノの存在感が希薄なようでいて,写真に映っている「砂=灰」がどこかモノ感を醸し出してて,「火」という現象とその粗い画像が強いドキュメント感をつくってもいる. ...