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紀要論文「「シミュレートされた重なり」という奇妙な像客体」(追記_2020/05/29)

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紀要論文「「シミュレートされた重なり」という奇妙な像客体」が掲載された 「甲南女子大学研究紀要Ⅰ 第56号」が刊行されました. 追記_2020/05/29 甲南女子大学学術情報レポジトリに論文の PDF が公開されました👀 紀要論文の要旨です. 本論考は,ヒトとコンピュータとが操作を展開する平面であるディスプレイにおいて,「シミュレートされた重なり」という奇妙な像客体が生まれているということを示すものである.そのために,先ずはデジタル写真が一つの平面と複数の平面の重なりが同時に成立する奇妙な表現になっていることを考察していく.次に,哲学者の田口茂の論考を経由して,デジタル写真の奇妙な表現がディスプレイで生じている視覚と触覚の「拮抗・抗争」から生み出されていることを明らかにする.さらに,理学者の郡司ペギオ幸夫の論考を参照しながら,ディスプレイで「奥行き」と「向こう側」という二つの異なるリアリティが同一平面で隣り合って「拮抗・抗争」を起こしていることを示す.私たちはディスプレイでの「拮抗・抗争」に否応なく巻き込まれて,そこに「シミュレートされた重なり」という奇妙な像客体を見るようになっているのである. この紀要論文は 日本映像学会写真研究会 の第4回研究発表会で発表した「写真の「向こう側」を考える」がもとになっています.発表原稿はnoteにあげました→ 154:写真の「向こう側」を考える いずれ甲南女子大学の学術情報リポジトリにPDFが掲載されると思います.紙で読みたいという方がいましたら,以下のフォームから申込ください.抜き刷りを発送します🌫 🌫 🌫 読み込んでいます…

紀要論文「ふたつの光の合流───ライトボックスとロボットアームがつくる計算資源の場」

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紀要論文「ふたつの光の合流───ライトボックスとロボットアームがつくる計算資源の場」が掲載された「甲南女子大学研究紀要Ⅰ 第55号」が刊行されました.この論文は JSPS科研費 JP17H02286の助成を受けたものです 🛰 紀要論文の冒頭です🛰 🛰 アルフォンソ・キュアロンが監督した「ゼロ・グラビティ」は,光を自在にコントロールできるLEDライトボックスと精細にカメラを制御できるロボットアームというふたつのユニークな撮影装置を用いて撮影された.ライトボックスは物理法則に基づいた計算によってコンピュータ内に設計された微小重力空間の性質を保持した光を地球の重力下で演技をする役者の身体表面に「コピー」するものになっている.そして,仮想の微小重力空間におけるヴァーチャル・カメラの軌道を地球の重力下で再現するロボットアームに取り付けられたカメラが役者から反射した光を正確に捉える.さらに,カメラが捉えた光はコンピュータ内の微小重力空間を構成するひとつのオブジェクトとしての「役者」に貼り付けられて,地球の重力下での撮影でありながら,微小重力のイメージがつくられていく.  本論文はライトボックスとロボットアームというふたつの装置を使った撮影方法を考察しながら,計算で構成された仮想的な微小重力空間の光と地球の重力下の光が合流していき,すべてが計算資源とみなされる場が形成されるプロセスを探るものである. 追記と取り消し:2019/06/11 学術情報リポジトリにPDFが掲載されました. → ふたつの光の合流 : ライトボックスとロボットアームがつくる計算資源の場 いずれ甲南女子大学の学術情報リポジトリにPDFが掲載されると思います.紙で読みたいという方がいましたら,以下のフォームから申込ください.抜き刷りを発送します🛰🛰🛰 読み込んでいます...

建築夜楽校2018 シンポジウム「建築のインターフェイス」で使った資料と簡単な振り返り

インターフェイス🔁サーフェイス 建築夜楽校2018 シンポジウム「建築のインターフェイス」で使った資料です.最後の引用として使っている 『GRAPHICS FOR UI UX』(10月19 日刊行予定) に書いたテキスト 「思考とジェスチャーとのあいだの微細なインタラクションがマインドをつくる」は発表時よりも引用を短くしました.気になった人はぜひ本を買ってください🙏 タイトルにもある通り「インターフェイス」のことを「サーフェイス」として捉えて考えても,実際にそれは「インターフェイス」であり続けるのであって,この行き来のなかで考えるしかないのかなということを,今回の改めて考えました. 発表者の一人の青木淳さんがコーリン・ロウの「透明性」に言及しつつ,「リテラルなインターフェイス」と「フェノメナルなインターフェイス」という言葉が言っていたのが気になりました.そこから,「リテラルなインターフェイス」としてサーフェイスがあって,こちらの部分はあまり評価されてこなかったから,あえて,インターフェイスをリテラルにサーフェイスとして捉えることが重要なのではないかということを考えつつ,福尾匠さんの『 眼がスクリーンになるとき 』で提示されている「リテラル」と絡めて考えると面白いかもしれないなどと思っています. 追記:2018/10/05 シンポジウムで3人のレクチャーが終わり,次のディスカッションへの休憩時間のあいだに,青木さんの話を受けて,谷口さんが「 フェノメナルな 透明性」は様々な要素が入り込んでできるものだとすると,「 フェノメナルなインターフェイス」は入出力以外の要素が入り込んでくると考えられて,とても興味深い,と言っていたのが気になっていたことを思い出したので,追記しておきます.確かに,「インターフェイス」はふたつの存在のあいだにだけあるものではなくて,もっと多数のあいだにも現れるものとしても考えられるかもしれない.

東京大学大学院講義「建築設計学第3」:建築と「もの」の振り返り

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建築家で東京大学大学院建築学専攻 隈研吾研究室 助教の平野利樹さんに誘われて,7月6日に東京大学大学院講義「建築設計学第3」:建築と「もの」でゲストレクチャーをしました.雨の中,聴きに来てくれた皆さん,ありがとうございます🙇‍♂️ レクチャーは,エクリでの連載「インターフェイスを読む」の第4・5回をGoogleの マテリアルデザイン を中心にまとめ直して,Appleの Designing Fluid Interfaces のスライドに書かれていた「A tool that feels like an extension of your mind」というテキストに言及して終わるものでした. レクチャーノート 🕋インターフェイス➡️サーフェイス➡️プリミティブなモノ レクチャーを終えて,平野さんの話しているときに,平野さんが一枚のスケッチを書きました.それは,発表で使われた大林寛さんの「 インターフェース、その混血した言語性 」のインターフェイスのファザードモデルと, akiramotomura さんが私のテキストを図解してくれた「 ヒトとコンピューター5(エクリから) 」の図の一つでした. インターフェース、その混血した言語性 ヒトとコンピューター5(エクリから) これら二つの図を書きながら,平野さんはグレアム・ハーマンから考えると,オブジェクトのサーフェイスで乱反射する行為の関係もまたオブジェクトになりますよね,ということを言われた. レクチャーしているときに,大林さんのインターフェイスのファザードモデルを使って,行為のリフレクション(反射)が起こると「光」を念頭において話しておきながら,その直後に,akiramotomuraさんの図を使って,行為が粘着的な感じで,コンピュータというモノのサーフェイスを引き伸ばすというのがどこか矛盾する感じがしていた.しかし,平野さんが私の目の前で書いてくれたスケッチは,その矛盾を解消するようなものであった.それを自分なりに解釈して書いたのが,次のスケッチです. ヒトとコンピュータとのあいだに行為のリフレクションが起こる.それは乱反射するように,ヒトとコンピュータとのとのあいだを満たして行く.行為がヒトとコンピュータとのあいだを充填し...

アバターズ・VRトークの振り返り

6月23,24日と連続トークをした.23日が国立新美術館で開催されたメディア芸術祭での アート部門 受賞者トーク:『アバターズ』 で,24日が 名古屋のGOLDEN ARTS CAMP (黄金4422.bldg.5F)で開催された VRトーク&ワークショップイベント「没入の宴 〜”俺の嫁”から”嫁が俺”へ〜」 でした. 23日のトークはモデレーターの阿部一直さんが議論をうまく回してくれたこともあり,とても充実したものになりました. 自分的には 菅野創さんと やんツーさんの《アバターズ》を振り返りながら, レーン・ウィラースレフの『ソウル・ハンターズ』と作品体験を重ね合わせて話せたのがよかったです. また,阿部さんが「ディスプレイを見ると言う体験は標準になっている」と言われて,さらに,菅野さんが《アバターズ》を次にどうしたいのかと言う問いに対して「HMDなどを使いたい」と言われていたのが,トークのあいだ気になっていました.そして,阿部さんが,最後に今日のトークの受けて「これからのメディアアートはどこに批評性は見出させるのか」と言う質問が,私に投げられました.そのとき,私は「ディスプレイ」と言う平面の体験にこだわることが批評性を持つのではないかと言うことを応えました.それは,私が「ディスプレイ」「サーフェイス」といった平面に拘っているからなのですが,それを差し引いても《アバターズ》はディスプレイという平面を通して見るからこそ,ヒトがモノになり切らずにいられるところもあるのかなと考えていたからです.それと,ディスプレイという平面の体験が標準化されていて,それも「見る」ことだけでなく,そこで何かしらの「行為をする」ことが標準化されているのであれば,これから5年くらいはまだディスプレイとともにヒトに蓄積された感覚を掘り返すと,あらたなものが出てくるのではないかとことを,トークを通して考えたからです.科学や工学ではなくアートだからこそ,標準化されたディスプレイという平面に蓄積された体験と感覚を時間をかけて掘り返すことができるのではないでしょうか. 24日のトークは,私の前に話した小鷹研理さんの話が面白くて,そのあとに話すは難しいなと思いつつの発表でした.トークのタイトルは「 パーティクル化する映像/身体/空間 」というもので,「パーティクル化」...

MASSAGE連載02_サーフェイスから透かし見る👓👀🤳/3DCGを切り取る「型」としてのバルクとサーフェイス

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MASSAGEの連載「サーフェイスから透かし見る👓👀🤳」,第2回「 3DCGを切り取る「型」としてのバルクとサーフェイス 」を書きました✍️✍️✍️ 山形一生 さんのディスプレイを用いた作品《Untitled(bird)》 ,《Untitled(stingray)》 と,アクリル板を用いた作品《ミュータント・スライム》を分析しながら,ディスプレイやアクリル板が「型」として,3DCGを切り抜いているのではないかということを書きました. カワイさんのカバーイラストは今回は,サーフェイスが丸められて筒状になって,その中にも筒状のサーフェイスがあってと,どこかサーフェイスが丸められると同時に,サーフェイスがバルクを切り抜いているように感じられます.今回のテキストでは四角いフレームとして「型」を考えていますが,丸い「型」のあり方もまた考える必要があると思います🤔🤔🤔

MASSAGE連載01_サーフェイスから透かし見る👓👀🤳/サーフェイスからバルクとしての空間を透かし見る

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MASSAGEであたらしい連載「サーフェイスから透かし見る👓👀🤳」を始めました.今回は,第1回としてサーフィスと対になる言葉として「バルク」を提示する「 サーフェイスからバルクとしての空間を透かし見る 」というテキストを書きました✍️✍️✍️ モノのサーフェイスの続きに「バルク」という内部があるのですが,それがモノの内部だけではなく,空間も「バルク」として認識してみたらどうなるのだろうか,という話になっています. カワイさんのカバーイラストもサーフェイスがうねって,どこかモノっぽくなると同時に,サーフェイスの表面と裏面とがつくる空間があって,それが「バルク」と言えるのか言えないのか.カワイさんのカバーイラストからも考えされられます🤔🤔🤔

💋《Body Paint〉で「ニュッ」と出てきた映像から《キス、または二台のモニタ》を考えてみる😘

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エキソニモ《 Body Paint 》を見る体験の流れを考えてみる. - 一部を絵具で塗りつぶされたモニタを見る  - モニタのフレームのなかに絵具を見る    - 通常はフレームで区切られた表面にはピクセルの光が存在する      - フレームのなかの表面にピクセルの光と絵具というモノが混在する        - 光とモノとのあいだで,見ている人の認識に混乱が生じる          - モニタの表面から「ヒト」がニュッと出てくるように見えてしまう 畠中 ディスプレイに映し出される人体の背景をペイントで塗りつぶしてしまうエキソニモの作品《Body Paint》(2014)も,そもそもディスプレイという,そこに映っているものに没入させる機能があるものを実体化させる行為だったと思います.そうすることで,実体が,映像であるはずですが,ディスプレイの向こうからニュッと出てきてしまう.そういうメディアとオブジェクトのあいだをすり抜けて映像が立ち上がる作品で,とても秀逸な作品だったと思います.p.94  メディア・アート原論 あなたは、いったい何を探し求めているのか?,久保田晃弘・畠中実編著 さらに,《 Body Paint〉で「ニュッ」と出てきた映像から《 キス、または二台のモニタ 》を考えてみる - モニタの表面から「ヒト」がニュッと出てくるように見えてしまう  - 2台のモニタを重ねたら,ニュッと出てている二人のヒトはキスできてしまう    - 実際にはモニタが重なっているだけれども…      - モニタ一面に表示された顔(フェイス)を考えて見る        - モニタの表面(サーフェイス)が映像に覆われてヒトの顔(フェイス)になる          - Body Paintのように「ニュッ」と映像が実体化していると感じるのではないか? ...

東京大学大学院講義「建築設計学第3」:建築と「もの」でのゲストレクチャーの告知💬とメモ✍️

告知💬 建築家で 東京大学大学院建築学専攻 隈研吾研究室 助教の 平野利樹 さんに誘われて,7月6日に東京大学大学院講義「建築設計学第3」:建築と「もの」でゲストレクチャーをすることになりました.これから日々,「もの」について考えていこうと思います.平野さんからはエクリの連載を踏まえて「インターフェイスの向こう側のバーチャルな存在としての「もの」のあり方」を考えてほしいと言われているので,頑張りたいです. メモ✍️ 「もの」を「サーフェイス-バルク-サーフェイス」で考えてみると,サーフェイスの部分にソフトウェアが接着されたということになるだろうか.サーフェイスにソフトウェアが接着されてインターフェイスになって,サーフェイス-バルク-サーフェイスというフレームが,インターフェイスに一括りにされて,向こう側の主体とのやりとりをする場になった.ソフトウェアによってハードウェア=サーフェイス-バルク-サーフェイスが無効化されたのかもしれない.サーフェイスがインターフェイスになったときに,「もの」にどのような変化が起きたのか.サーフェイスにソフトウェアが接着されて,インターフェイスになり,インターフェイスは「サーフェイス-バルク-サーフェイス」を包み込んだのではないだろうか. ここで,「サーフェイス-バルク-サーフェイス」から構成される「もの」を包み込んだインターフェイス=ソフトウェアのこと,また,その状態でインターフェイスをまた「サーフェイス-バルク-サーフェイス」として考えてみる必要がある.インターフェイスをこちらと向こうとの界面ではなく,インターフェイスを構成しているのが文字通りの一枚の限りなく薄いサーフェイスであり,それは,その薄さであっても「サーフェイス-バルク-サーフェイス」という「表と裏をそのあいだ」を持つ「もの」として考える必要がある.それは,「もの」を「サーフェイス-バルク-サーフェイス」と分解して考えることであり,インターフェイスをソフトウェアと「サーフェイス-バルク-サーフェイス」との接着によって構成された バーチャルな存在として「もの」を考えることにつながってくるのではないだろうか.

互いが関係なくサーフェイスをすり抜けつつ乱反射する✨💥⚡️

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このスクリーンショットが気になった.というか,気になったからスクリーンショットを撮った.カワイ ハルナさんのイラストにTweetのウィンドウが重なっている.ただそれだけなんだけれども,「サーフェイスから透かし見る👓👀🤳」というタイトルにあっているようなあっていないような.透かし見ていない気もするけれど,サーフェイスの重なりではある.透かし見れないサーフェイスの重なり.でも,ここに重なりを見てしまうこと自体が「透かし見る」というような気がする.「透かす」ということをしっかり考えないといけない. ここでイメージされるのはマクルーハンの「looking through」.ステンドガラスやテレビのようにこちらからも透かし見るし,向こうからも光が透かしてやってくる.向かい合った線が出会う場所としてのサーフェイス.そして,その線がインターフェイスのように相互作用をすることなく,互いが関係なくサーフェイスをすり抜けているような感じだろうか.インターフェイスとサーフェイスとのあいだで揺れていく平面的な何かを捉えようとすることが大切かなと思っている. サーフェイスを互いの線=矢印が交わることなく平行に走っているというのは面白い関係のような気がする.「平行」でなくてもよくて,様々な向き,角度の矢印がサーフェイスを透過していく.それらが丁度向き合ったときに,サーフェイスはインターフェイスになるのかもしれない.小さな矢印が様々な向きと角度で透過していくなかで,矢印の関係のなかで,その平面がサーフェイスになったり,インターフェイスになったりするのかもしれない.そして,インターフェイスがあちらとこちらとを接続するものだとすると,サーフェイスは表と裏とを持つもので,そのあいだで私たちとモノとを関係づける矢印が乱反射しているのかもしれない.そして,その乱反射にソフトウェアが大きく影響しているのかもしれない.

MASSAGE連載00_サーフェイスから透かし見る👓👀🤳/インターフェイスはいつからサーフェイスになるのか?

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MASSAGEであたらしい連載「サーフェイスから透かし見る👓👀🤳」を始めました.今回は,第0回として全体の導入になるようなテキストを「 インターフェイスはいつからサーフェイスになるのか? 」というタイトルで書きました✍️✍️✍️ テキストで取り上げていますが,水戸芸術館で行われた「 ハロー・ワールド ポスト・ヒューマン時代に向けて 」でのトークで エキソニモ の赤岩やえさんが「Screenshot」というスライドを見せてくれました.そこで撮影されたスクリーンショット,もしくは,赤岩さんが「スクリーンショット」と感じるものにおいて,徐々にディスプレイと私たちとのあいだに「距離」が生まれて,ディスプレイ手前に空間が生まれていることがとても興味深いと思ったのでした.そのことを手掛かりに 「 インターフェイスはいつからサーフェイスになるのか? 」という問いを書いています 🖥🏁🖥🏁🏁 これからは「モノとディスプレイとの重なり」とは異なり,アート作品だけでなくて,iPadとApple pencilといったインターフェイスのことや「インターフェイス/サーフェイス」に関連する本の紹介などをしていけたらと思っています📱📔📱📔📱 並行して,このブログでも連載を進めるための考察を書き進めて行きたいと思っています💬💬💬💬💬 そして,カバーイラストを描いてもらう カワイ ハルナ さんのイラストがどのように変化していくのかが楽しみです😊😊😊 よろしくお願いします 👓👀🤳

💬《I randomly love you / hate you》💬《Message》💬

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《I randomly love you / hate you》についてブログ で 書いてから,さらに,この作品の「薄さ」というか,それが何を示しているのかが気になってきた.山形一生さんの《 ミュータント・スライム 》は表と裏とがあることが興味深いのだけれど,エキソニモの《I randomly love you / hate you》にも表も裏もなくて,一切の厚みがないような感じがある.それが何なのかはわからない.この前も書いたように,インターフェイスを切り出してきたものだからであろうか.では,いや,それはインターフェイスそのものではないのか? いや,生成されている映像といえば済むとも言われそうである.しかし,生成されている映像とは言っても,そこに厚みや深さを感じることはある.《I randomly love you / hate you》にはそのような気配が一切ないのが面白いと思う.山形さんにも《 Message 》というメッセージングアプリのUIを使った作品がある.この二つの作品を比較してもいいのかもしれない. 山形さんの《Message》はスクロールできることもあって,そこにはインターフェイスのレイヤーある感じがする.インターフェイスが一つの平面になっている.対して,エキソニモの《I randomly love you / hate you》はスクロールすることなく,生成される会話を見ているだけである.それゆえに,そこにはインターフェイスのかたちはしているけれど,それはかたちを借りているだけになっている.だから,そこにサーフェイスを感じるのかもしれない.また,《Message》には文字がなく,バルーンだけが表示されている.肝心の情報がないけれど,バルーンの配置でなんとなく話の盛り上がりがわかるような気がする.対して,《I randomly love you / hate you》では,生成された文字が一定のリズムで入力され続けている. 二つの作品に共通しているのは,入力中を示す「💬」である.ここではないインターフェイスで文字が入力されていることを示す💬.それを見ているとき,こちら側のインターフェイスは💬のためのサーフェイスになっている感じがある.向こうを思いつつ,こちら側では何もしない.ただ見て,待つ平面=サーフェ...

💬《I randomly love you / hate you》💬

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水戸芸術館「 ハロー・ワールド ポスト・ヒューマン時代に向けて 」に出品されているエキソニモの新作《I randomly love you / hate you》を考えたい.インターフェイスだけを切り出してきて,ディスプレイに表示する.インターフェイスを問題にしてきたエキソニモがこのような作品をつくることが面白い.ディスプレイに表示されているのは,操作可能性を失ったサーフェイスであるが,それはインターフェイスを切り取ったものである.インターフェイスがディスプレイに表示されている.このことだけを考える必要がある.インターフェイスのレイヤーのみを切り取った.インターフェイスをハードウェアとのつながりを切り取り,ソフトウェアとしての見た目を切り取る.そこに意味を吹き込む.操作はできないが,意味が生じる.その意味が重要なのかもしれないし,操作ができないインターフェイスが重要なのかもしれない. ディスプレイも必要としないのかもしれない.切り取られたインターフェイスが表示されるサーフェイスだけがあれば良い.ディスプレイは仕方なくそこにあって,実際にはインターフェイスのイメージだけがそこにあればいい.だから,ディスプレイが支持体であるというよりも,ディスプレイがコンピュータに接続されていることを示すコードとそこから発生するイメージこそが強固な存在としてあるのではないか.《I randomly love you / hate you》は,とてもペラっとしてはいるが強固なサーフェイスを感じさせる.見ているものが何であるのかを考えさせられる気がする.メッセージアプリのインターフェイスと言えばそうなんだけれど,そのインターフェイスのみを剥ぎ取ったとき,剥ぎ取られたインターフェイスは何と言えばいいのか. 《I randomly love you / hate you》はサーフェイスのその先が一見見ないように感じられる.けれど,💬の表示がどこかに,隣のディスプレイとのつながりを示し,一つので完結したサーフェイスではないことを示している.何か,その表面以外の気配を示すこと.それは,インターフェイスではないのか.最小の要素でサーフェイスをインターフェイス化しているのが,《I randomly love you / hate you》ではないのだろうか.では,...

モノのフラットデザイン化とアフォーダンスなきサーフェイス

モノからインターフェイスがなくなるということはどういうことなのだろうか.もともとはモノに「インターフェイス」はなくて,必然的な形態がそこにあるだけであった.けれど,コンピュータによって,ハードウェアとソフトウェアとが分離して,そこにインターフェイスが生まれた.いや,「ボタン」が生まれたときにインターフェイスが生まれたとしたほうがいいのかもしれない.サーフェイスが機能と直結しなくなったときに,インターフェイスが生まれたということかもしれない. インターフェイスはサーフェイスに張り付いていた.exUIはサーフェイスからインターフェイスを剥ぎ取り,もともとあったボタンも剥ぎ取る.ピアノから鍵盤を引き離してしまうものだろうか.ピアノはまた違う問題かもしれない.いや,音が出る四角い箱があって,スマートフォンにインターフェイスとしてピアノの鍵盤が表示されて,それをタッチする,箱からピアノの音が聞こえてくるとき,四角い箱が「ピアノ」となる.このように考えると,exUIはハードウェアからインターフェイスを引き離すだけではなくて,スマートフォンというハードウェアとソフトウェアとが一体化したモノから,ハードウェアを引き離したものとも言えるのではないだろうか. スマートフォンが一枚の板としてハードウェアとソフトウェアとを一体化したモノとしてのインターフェイスを提供していた.exUIはスマートフォンからハードウェアを引き離し,モノのハードウェアに引き渡す.そのとき,モノはインターフェイスをスマートフォンに引き渡す.モノはサーフェイスを持つようになり,スマートフォンはインターフェイスを持ち続ける.このとき,スマートフォン自体はほとんど変わりないが,サーフェイス化したモノは,これまでの機能と直結した形から切り離される.この機能と形との切り離しは,スマートフォンがフラットデザインになったときに起こったことだといえる.そのときに「メタファー」がスマートフォンから消えたとすると,exUIを付与されたモノもまた「メタファー 」のあるなしで 語られるなるようなあたらしさを示すことになるだろう.このように考えてみるとexUIというのは,モノのフラットデザイン化であり,それはアフォーダンスを示さないサーフェイスをつくるということなのではないだろうか. exUIはモノからインターフェ...

Houxo Que「apple」から考えた_サーフェイスとその内部である「バルク」

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Houxo Que「apple」での作品群は,サーフェイスとその内部である「バルク」で考えてみると,ディスプレイ=「窓/鏡」というメタファーを更新できるのではないだろうか.「バルク」というのは物質の内部のことである. 表面と内部の違いをとりわけはっきりさせたい時,表面に対して内部を“バルク”と呼び,表面に対する内部の特性をバルク特性と呼んで区別する.バルクとは“全体”という意味である.p.11    表面と界面の不思議,丸井智敬・井上雅雄・村田逞詮・桜田司   「apple」の作品群は,鏡や窓といった「インターフェイス」としてではなく,バルクという物質本来の性質の部分を覆い,物質に異なる性質をもたらす「サーフェイス」としてiPhoneやiPadを考えるきっかけを提示している. しかし,appleデバイスが常にバルクに連なるサーフェイスとなっているわけではない.フロントカメラで捉えた映像ではなく,ホーム画面になっているとき,そこには「壁紙」と「アイコン」が重なり合ったインターフェイスとなっている.ここでは,蛍光塗料はインターフェイスに重ねられた異物として存在し,こちらと向こうとを分けるガラスの存在を示している. フロントカメラで捉えた映像がディスプレイに投影されると, appleデバイスのガラスに塗られた蛍光塗料は, 「16,777,216view」シリーズ で ディスプレイに塗られた塗料とは異なる性質を示すようになる.なぜなら, appleデバイスが形成する バルクのなかに物理世界が吸収されていき,その最前面に蛍光塗料が塗られたサーフェイスが生じるからである.そこで, 私たちはサーフェイスしか見ていないような感じであるが,全てはバルクへと取り込まれていく.私たちは 「16,777,216view」シリーズのように塗料とガラスとがつくる表面を注視することができなくなる. ガラス面に付けられた塗料がサーフェイスを強調するけれども,この塗料があるからこそ,サーフェイスがバルクに続いていることが際立ち,内部へと視線が吸収されていく. バルクに吸収された私たちは塗料によって,そのままのかたちで現れることができなくなっている.私たちが向こうにいくことをガラスが阻んでいるのではなく,私たちは...

The SINE WAVE ORCHESTRA の《A WAVE》を改めて考える

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追記:2018年3月24日 17:00 2018年3月23日(金)19:00 「いつか音楽と呼ばれるもの」のその後 ーー作品、作家性、聴衆ーー ゲスト:城一裕 聞き手:水野勝仁,松谷容作 主催:ポストインターネットにおける視聴覚表現の作者性にかんする批判的考察 配信第二回はSine Wave Orchestraの《A Wave》(2017)を中心に,10年前に語られた「いつか音楽と呼ばれるもの」のその後の展開について考える. ———————————————————————————————————————— 城一裕さんを迎えてのPoi vol.3 のために, The SINE WAVE ORCHESTRA  の《A WAVE》を改めて考える.私はこの作品を一度レビューで取り上げて,次のように書いている. 《A Wave》の視界を覆い尽くす巨大なスクリーンは物理的なフィルターを兼ねており,そこでまず膨大なデータが物理的に濾過されていく.次に,濾過によって意味が発生する手前の状態になったデータがスクリーン表面に滲み出していき,コンピュータの記号操作ではつくりださせない物理的肌理をもつ映像が生まれる.最後に,スクリーン上でデータと映像と物理的肌理とが重なり合い,模様のような不明瞭な映像とともに映像にすべてを変換しえない膨大なデータの気配が物理世界に漂い出す.SWOは《A Wave》で,巨大なスクリーンという物理的な膜を基軸にしたシステムを通して,普段は明確に分けられているデータと映像と物理世界とが重なり合って存在するアモルフな状況をつくっているのである.  水野勝仁「 あらゆる世界が重なり合う世界」  in  YCAM YEARBOOK 2017-18 レビューのタイトル「あらゆる世界が重なり合う世界」が示しているように,このときは,データ,映像が示す仮想世界と物理世界とが重なり合っていって,そのあいだの「インターフェイス」のあり方を,二つ異なる世界を向かい合わせるものではなく,重ね合わせるものとして考えるといいのではないかと考えていた. リアプロジェクション方式を採用した《A WAVE》は,プロジェクターからの光がスクリー...

メモ:脱着可能なサーフェイスとイメージ/オブジェクト

肝要なのは,全面化されたeコマースにおいては常に「物」(=商品)の「情報」がその“実質”に先行し,そのことで従来であれば自己完結的であるはずの「物」(=商品)が「情報」と“実質”とに乖離と“ブレ”を起こすことである.「物」は「情報」に遅れて遣ってくると言ってもよい.そして「物」(=商品)におけるこうした乖離,“遅延”を埋めるオペレーションこそが顧客の観点からのあるいは情報社会に固有な意味での〈流通〉に他ならない.  〈流通〉の社会哲学 アマゾン・ロジスティック革命の情報社会における意義,大黒岳彦 in 現代思想 2018.3月号 物流スタディーズ 大黒は物を「情報」と「実質」との分離させているけれど,『融けるデザイン』のように物を「情報」と「持続」とに分離させてもいいのかもしれない.どちらにしても,情報が先行していくというのは,「イメージ主導で生まれるあたらしいオブジェクト」で「イメージがモノの支持体になる」と書いたことにつながると思う. ヴィアカントの「イメージ・オブジェクト」に代表されるポスト・インターネットではイメージが前面に出ていましたが,徐々にオブジェクトの状態が注目されるようになりました.そして,ポスト・インターネット以降とも言える現在は,シトレイアとトロエメルによる「UV Production House」やエキソニモの《キス,もしくは2台のモニタ》が示すようなイメージに主導されるかたちのあたらしいオブジェクトが現われてきています.それは,イメージの可変性をオブジェクトそのものに適応させて,イメージでオブジェクトを覆ってしまう試みなのです.  イメージ主導で生まれるあたらしいオブジェクト 先行するイメージに覆われるようなかたちでオブジェクトを作成すること.物=オブジェクトの情報=表面は先行して作成される.それに合わせて,オブジェクトが持続するようにつくられる.イメージとオブジェクトとが一度分離している.そして,分離したブレを吸収するかたちで,イメージに合わせてオブジェクトを制作する.しかし,Amazonなどのeコマースでイメージとオブジェクトとが一度分離しているならば,イメージを分離したままのオブジェクトも存在できるようになるだろう.そして,乖離したブレを情報に担わせたままインターフェイス化したのが ...

メモ_融けるデザインとexUI:渡邊恵太さん

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融けるデザインとexUI:渡邊恵太さん https://soundcloud.com/takramcast/xui?utm_source=soundcloud&utm_campaign=share&utm_medium=twitter 渡邊恵太さんのexUIというアイデアが面白かった.ハードのインターフェイスをすべてスマートフォンに担わせてしまって,ハード自体には電源ボタンしかないようにしてしまう.そうすると,まさにハードはサーフェイスしか持たないことになる.スマートフォンが物理ボタンを持たないようなサーフェイスになっていくと同時に,家電などもまたインターフェイスをスマートフォンに外在化して,単なるサーフェイスを持つようになる.ハードウェアのインターフェイスを外在化させたとき,インターフェイスの支持体としてのハードウェアではなくて,ハードウェアの支持体としてのインターフェイス=ソフトウェアが生まれてくるのではないか.ハードウェアがメタ化したときのデザインはどんなものになっていくのだろうか.ハードウェアからインターフェイスがなくなり,サーフェイスとなるのは興味深い. メモの Workflowyバージョン 融けるデザイン 理系にも文系にも届く中庸的な本にしたかった デザイン論ではなく設計論にした 今,考える「自己帰属感」 自己帰属感を下げるのが面白い 死刑執行室 ボタンが3つ 誰が押したか分からないようにしてある 自己帰属感を下げている 自己帰属感は設計軸 高めることも低くすることもできる 自己帰属感をパラメータとして捉える 田川 自己帰属感を下げたときの事例 自分の体験でなくすための自己帰属感 自己帰属感を上げるためのメソッド/コツ レイテンシーが重要 レイテンシーを上げるためにフレームレートを上げるだけではいけない フレームレートを上げたもののアニメーションに使った 指との連動性が考慮されていない アニメーションは自己帰属感を下げかねない 連動性とレイテンシーを分けて考えるための自己帰属感 アナログの道具 身体の拡張=身体の一部 拡張と帰属とは異なるのか? 田川 人間拡張のハード的アプローチが拡張 ...