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2018の投稿を表示しています

2018年の振り返り

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2018年にはこの投稿を含めて43本の記事を書いています.2017 年が28本だったから,結構増えた感じです.本当はもっと増やしたかったのだけど,途中から note にもテキストを書くようになったので,結果として,こちらのブログは告知やまとめを書く場所になっていきました👻 ちなみにnoteには51本の記事を書いているので,合計して94本の記事を書いたことになります. 2018年は二つの連載をしていました.一つは MASSAGE で「 サーフェイスから透かし見る👓👀🤳 」で,もう一つは ÉKRITS で「インターフェイスを読む」です. MASSAGEの連載「 サーフェイスから透かし見る👓👀🤳」は2016-2017年に連載していた 「モノとディスプレイとの重なり」の問題意識を「ディスプレイ」以外にも拡張して考えてみようというものです.現在,0回を含めて3回目まで書きました✍️ MASSAGE連載00_サーフェイスから透かし見る👓👀🤳/インターフェイスはいつからサーフェイスになるのか?  MASSAGE連載01_サーフェイスから透かし見る👓👀🤳/サーフェイスからバルクとしての空間を透かし見る  MASSAGE連載02_サーフェイスから透かし見る👓👀🤳/3DCGを切り取る「型」としてのバルクとサーフェイス  MASSAGE連載03_サーフェイスから透かし見る👓👀🤳/浮遊するバラバラのサーフェイスがつくるバルクがマテリアルを拡張する  ÉKRITSの連載「インターフェイスを読む」は今年4, 5回目を書いて,終了しました.自分なりに「インターフェイスの歴史」をまとめられられたかなと思います. ÉKRITS連載_インターフェイスからサーフェイスへ — スキューモーフィズム再考 - インターフェイスを読む #4  ÉKRITS連載_場に顕れるソフトウェア、隠れるオブジェクト - インターフェイスを読む #5  ÉKRITSの連載の問題意識の延長として,『 【新版】UI GRAPHICS 成功事例と思想から学ぶ、これからのインターフェイスデザインとUX 』に「思考とジェスチャーとのあいだの微細なインタラクションがマインドをつくる」を書きました. 【新版】UI GRAPHICS 成功事例と思想から学ぶ、これか

批評誌『ヱクリヲ9』に寄稿

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批評誌『 ヱクリヲ9 』に「ジェスチャーとともに写真のフレームを無効化する「写真」───ピンチイン/アウトによる「写真」の拡大縮小」を寄稿しました.身近な行為から「写真」について考えています.よろしくお願いします😊 『ヱクリヲ9』の「特集 写真のメタモルフォーゼ」の序論で次のように紹介されています. 水野勝仁 による「 ジェスチャーとともに写真のフレームを無効化する「写真」───ピンチイン/アウトによる「写真」の拡大縮小 」は,かつて写真の本質的な特徴と見做された「フレーム」が現代の技術環境で見せる変容についての分析だ.ピンチ・イン/アウトというスマートフォンで一般化した触覚的な知覚はどのように仮想空間に作用しているだろうか.この未知の行動様式がもたらすメディア論的な可能性が見いだされる.p.10 ヱクリヲのTwitterでは次のように紹介されています. スマートフォンは、フレームレスになっていたデジタル画像に「縁」を与えたと同時に、世界を四角く切り取ってきた写真の「フレーム」を無効化しました。それは、ジョブズがiPhoneで親指と人差し指を使って「ピンチイン/アウト」ジャスチャーを行ない、画像を拡大縮小させたときに起こりました。 pic.twitter.com/JHGpKeaVWC — エクリヲ|vol.9発売開始 (@ecrit_o) 2018年12月1日 ジョブズが触れていたのは写真でも画像でもなく、ディスプレイのフレームをはみ出していく「写真」という操作可能な未知のオブジェクトでした。「写真」は物理的フレームとしてのディスプレイだけでなく、写真が持っていた被写体と被写体以外とをまとめ上げてきた「フレーム」もはみ出していくのです。 pic.twitter.com/3815kPYEf7 — エクリヲ|vol.9発売開始 (@ecrit_o) 2018年12月1日 「写真」は操作可能なオブジェクトとして「フレーム」を意識せずに見ることを可能にしたのです。だからこそ、私たちは見るだけでなく指で触れながら、スマートフォンの一部として存在している「写真」について考えていかなければならないのです。『ヱクリヲ9』掲載の水野勝仁による論考です。 pic.twitter.com/

artscape連載「メディアから考えるアートの残し方」の第1回でエキソニモにインタビューをしました

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artscape で始まったメディアの視点からアートの保存,そして「作品」というあり方を捉え直す連載「 メディアから考えるアートの残し方 」の第1回でエキソニモにインタビューをしました.「 メディアアートの輪廻転生 」展を起点にして,エキソニモの話を聞きながら,私はメディア/インターフェイスと接する身体の感覚の保存はできるのだろうかという話をしています.編集を担当してもらった水野雄太さんのおかげで読みやすい流れになっています.ぜひ,お読みください😊 インタビュー準備のために書いたnote 032:作品の歴史における履歴としての死 039:「Looking through(透かし見る)」のメディウム 042:それもまた《Magnet TV》である 043:「動的ふるまい」を生成するプラットフォーム インタビュー収録の様子のスクリーンショットに映っている「 ⌛️エキソニモへの質問案 」

第9回甲南女子大学メディア祭で「LIVE」を開催します🔉

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第 9 回甲南女子大学メディア祭で「LIVE」を開催します🔉 東京からアーティストの山形一生さんをお招きしました😊 そして,ともに甲南女子大学で教えている西田彩ゾンビさんと馬場伸彦さんのユニット「ゾンババ」が登場します☺️ 日時・2018 年 10 月 28 日(日) 14:00 -16:00 場所・8 号館 4 階 AV スタジオ 出演・山形一生 ,ゾンババ(西田彩ゾンビ+馬場伸彦) 連絡先:mmizuno@konan-wu.ac.jp WEB: QRコード

【新版】UI GRAPHICS 成功事例と思想から学ぶ、これからのインターフェイスデザインとUX

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【新版】UI GRAPHICS 成功事例と思想から学ぶ、これからのインターフェイスデザインとUX に「 思考とジェスチャーとのあいだの微細なインタラクションがマインドをつくる 」というテキストを寄稿しました.また,2015年版から「 メタファー、ボタン、テクスチャ、色面、ピクセル 」と「 GUI の歴史:インターフェイスは常に身体の中にあった… 」の二つのテキストが再録されています. 書き下ろしの目次 ・Apple が目指す「流れるインターフェイス」 | 安藤剛 ・思考とジェスチャーとのあいだの微細なインタラクションがマインドをつくる | 水野勝仁 ・個人的なインタラクション | 萩原俊矢 ・ユーザーのウェルビーイングのためのUI/UX | ドミニク・チェン ・導線としての制約を作る | 菅俊一 ・動きとUI デザイン | 鹿野護 ・話法について | 有馬トモユキ ・UI の外在化とメタハードウェア | 渡邊恵太 ・世界観への期待を創るUI デザインとエクスペリエンサビリティを向上するUX | 須齋佑紀/津﨑将氏 目次を見ると気になる著者名とタイトルがずらりと並んでいて,私自身もこれらから読むのが楽しみです😊 今回,私が書くことになったテキストの最初の構想を編集の庄野祐輔さんに送ったメールの一部をここに置いておきます. -- インターフェイスの移り変わりは本当にはやいですね. 現在,インターフェイスで興味があるのは,周回遅れの感じがありますが,Apple Pencilで書くことです.正確に言うと,Apple Pencilでいくら書いても,そこにあるのはiPad Proの一枚のディスプレイということでしょうか.私は何を一体書いているのだろうということです. でも,これだと今回の趣旨に合わないなと思っていたところで,今回のWWDC18でAppleが「Designing Fuild Interfaces」という発表しました.そのなかに「A tool that feels like an extension of your mind」という言葉があって,さらに「Interface that extend our minds」とありました.これ見たときに,もう「extens

建築夜楽校2018 シンポジウム「建築のインターフェイス」で使った資料と簡単な振り返り

インターフェイス🔁サーフェイス 建築夜楽校2018 シンポジウム「建築のインターフェイス」で使った資料です.最後の引用として使っている 『GRAPHICS FOR UI UX』(10月19 日刊行予定) に書いたテキスト 「思考とジェスチャーとのあいだの微細なインタラクションがマインドをつくる」は発表時よりも引用を短くしました.気になった人はぜひ本を買ってください🙏 タイトルにもある通り「インターフェイス」のことを「サーフェイス」として捉えて考えても,実際にそれは「インターフェイス」であり続けるのであって,この行き来のなかで考えるしかないのかなということを,今回の改めて考えました. 発表者の一人の青木淳さんがコーリン・ロウの「透明性」に言及しつつ,「リテラルなインターフェイス」と「フェノメナルなインターフェイス」という言葉が言っていたのが気になりました.そこから,「リテラルなインターフェイス」としてサーフェイスがあって,こちらの部分はあまり評価されてこなかったから,あえて,インターフェイスをリテラルにサーフェイスとして捉えることが重要なのではないかということを考えつつ,福尾匠さんの『 眼がスクリーンになるとき 』で提示されている「リテラル」と絡めて考えると面白いかもしれないなどと思っています. 追記:2018/10/05 シンポジウムで3人のレクチャーが終わり,次のディスカッションへの休憩時間のあいだに,青木さんの話を受けて,谷口さんが「 フェノメナルな 透明性」は様々な要素が入り込んでできるものだとすると,「 フェノメナルなインターフェイス」は入出力以外の要素が入り込んでくると考えられて,とても興味深い,と言っていたのが気になっていたことを思い出したので,追記しておきます.確かに,「インターフェイス」はふたつの存在のあいだにだけあるものではなくて,もっと多数のあいだにも現れるものとしても考えられるかもしれない.

建築夜楽校2018 シンポジウム「建築のインターフェイス」に参加します

10月2日に開催される 建築夜楽校2018・シンポジウム「建築のインターフェイス」 に参加します.モデレーターの 平野利樹 さんに声をかけてもらって,建築家の 青木淳 さんと美術家の 谷口暁彦 さんと話します.上の画像がシンポジウムに向けて,青木さんのルイヴィトン名古屋店と谷口さんの「滲み出る板」から一枚を壁紙に設定したもののスクリーンショットです. 「建築のインターフェイス」というタイトルなので,私は ÉKRITS で連載した「 インターフェイスを読む 」から「デスクトップメタファー」から「マテリアルデザイン」までの流れを話して,可能であれば「Fluid Interfces」にも言及できればいいかなと考えています.  シンポジウム「建築のインターフェイス」に向けて書いたnoteです.このあたりはディスカッションのときに活かせればと思っています. 037:「建築のインターフェイス」を考え始める 038:モノであり記号であり,記号でありモノであるようにインターフェイスを見る 040:ユラユラしながらネチャネチャしたサーフェイス 041:ふたつのサーフェイスのあいだで存在する空間 ーー 青木淳・谷口暁彦・水野勝仁 モデレーター 平野利樹  建築夜楽校2018 シンポジウム「建築のインターフェイス」 日本建築学会 建築文化週間 2018 2018年10月02日(火) インターフェイスとは、一般的にはコンピュータのディスプレイなどを指しますが、より広い定義としては「異なる概念的領域がつながる接点部分を指す語」(実用日本語表現辞典)です。つまり、インターフェイスの問題を考えることは、近年2回の建築夜楽校で議論してきた「連続(接続)と切断」の問題を発展させることに繋がります。 建築におけるインターフェイスの問題は、建築の歴史上さまざまな形として顕れてきましたが、ここではポストモダニズム以降から現代までに着目し、建築家、美術家、研究者をお招きすることで、建築におけるインターフェイスのあり方を議論します。 日程 2018年10月2日(火)18時~20時30分(開場17時30分) 出演 青木淳(建築家、青木淳建築計画事務所) 谷口暁彦(美術家、多摩美術大学講師) 水野勝仁(インタ

MASSAGE連載03_サーフェイスから透かし見る👓👀🤳/浮遊するバラバラのサーフェイスがつくるバルクがマテリアルを拡張する

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MASSAGEの連載「サーフェイスから透かし見る👓👀🤳」,第3回「 浮遊するバラバラのサーフェイスがつくるバルクがマテリアルを拡張する 」を書きました✍️✍️✍️ 今回はGoogleの マテリアルデザイン の「サーフェイス」を追いながら,複数のサーフェイスの集合体が統合されるかたちでバルクが生じるということはあるのかということを考えています. カワイさんのカバーイラストは今回は,様々な高さのサーフェイスが連なっています.サーフェイスを貫きながら支える棒とサーフェイスの関係を考えると,不思議な感じになってきます.そして,高さだけではなく,手前と奥とのちがいが示すバラバラのサーフェイスがひとつの統合されたバルクの一部になっているようです🤔🤔🤔

科研費「アウタースペース/インナースペース/インタースペース・アートの美学」の研究報告会での報告

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研究分担者として参加している科研費「 アウタースペース/インナースペース/インタースペース・アートの美学 」の研究報告会(2018年8月20日@早稲田大学先端生命医科学センター)で報告をしました.報告の映画「ゼログラビティ」に関するもので,タイトルは「重力下で浮遊する微小重力表象をつくる」です.「ゼログラビティ」の撮影における「ライトボックス」と「ロボットアーム」の役割とその意義,および,ライトボックス内のリグに固定されたヒトとの関係を考察しました. 発表ノート: 重力下で浮遊する微小重力表象をつくる ゼログラビティの撮影方法から考えると,物理法則に基づいた計算で微小重力空間をコンピュータ内に設計して,その空間をライトボックスで物理空間に「移植」します.そして,移植された微小重力空間の光をライトボックス内のヒトに照射して,その光の反射をヴァーチャル・カメラの軌道を物理空間で再現するロボットアームに取り付けられたカメラが捉えます.さらに,捉えた光をコンピュータ内の微小重力空間の表象に貼り付けて,重力下にいるヒトが微小重力下で浮遊する表象が完成します.この計算で構成された仮想的な微小重力空間と重力下の物理空間との行き来がどんな意味を持つのかを考えています. 報告を終えてからの質疑応答で,撮影方法は複雑なのに出来上がった映画は普通に見れてしまうのはなぜだろうかという問いから,ヒトは視覚的に上下を把握しているだけではなく,体性感覚でも上下を把握しているなど有益なアドバイスを得ました.そして,研究代表者の前川修さんがコメントの際に言及していた  Cinema's Bodily Illusions: Flying, Floating, and Hallucinating   を早速買ってみたのですが,体性感覚について見る側からの考察がされてそうです.この本を読んで,見る側と制作側とを合わせたかたちで「重力下で浮遊する微小重力表象をつくる/見る」ことを考察していきたいです.

授業ノート:あなたは,いったい何を見ているのか?

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甲南女子大学文学部メディア表現学科2年生必修授業の「メディア表現発展演習Ⅰ」の授業ノートです.タイトルは「 あなたは,いったい何を見ているのか?」です.久保田晃弘さんと畠中実さんの『 メディア・アート原論 』の副題「あなたは、いったい何を探し求めているのか?」からとってきました. 授業ノート:あなたは,いったい何を見ているのか? 今回の授業構成は,まず何も解説せずに作品を学生に見てもらい,コメント・感想を集めました.次に,集めたコメント・感想をほぼすべて読み上げて,その後,作品に対する私の考えを述べました.最後に,学生に改めてコメント・感想を書いてもらいました. 最初は「わからない」と書いていた学生が,私の解説や他の学生のコメントを読んで,「少しわかった」「そんな見方があるのか」と作品理解のとかっかりを得て,最後のコメントを書くときには「わからない」が「少しわかる」という状態になって欲しいと考え,上のような授業構成にしました. 私のテキストとともに資料として,授業の重要な構成要素である学生のコメント,そして,最後のレポートも名前を伏せて載せてあります.

東京大学大学院講義「建築設計学第3」:建築と「もの」の振り返り

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建築家で東京大学大学院建築学専攻 隈研吾研究室 助教の平野利樹さんに誘われて,7月6日に東京大学大学院講義「建築設計学第3」:建築と「もの」でゲストレクチャーをしました.雨の中,聴きに来てくれた皆さん,ありがとうございます🙇‍♂️ レクチャーは,エクリでの連載「インターフェイスを読む」の第4・5回をGoogleの マテリアルデザイン を中心にまとめ直して,Appleの Designing Fluid Interfaces のスライドに書かれていた「A tool that feels like an extension of your mind」というテキストに言及して終わるものでした. レクチャーノート 🕋インターフェイス➡️サーフェイス➡️プリミティブなモノ レクチャーを終えて,平野さんの話しているときに,平野さんが一枚のスケッチを書きました.それは,発表で使われた大林寛さんの「 インターフェース、その混血した言語性 」のインターフェイスのファザードモデルと, akiramotomura さんが私のテキストを図解してくれた「 ヒトとコンピューター5(エクリから) 」の図の一つでした. インターフェース、その混血した言語性 ヒトとコンピューター5(エクリから) これら二つの図を書きながら,平野さんはグレアム・ハーマンから考えると,オブジェクトのサーフェイスで乱反射する行為の関係もまたオブジェクトになりますよね,ということを言われた. レクチャーしているときに,大林さんのインターフェイスのファザードモデルを使って,行為のリフレクション(反射)が起こると「光」を念頭において話しておきながら,その直後に,akiramotomuraさんの図を使って,行為が粘着的な感じで,コンピュータというモノのサーフェイスを引き伸ばすというのがどこか矛盾する感じがしていた.しかし,平野さんが私の目の前で書いてくれたスケッチは,その矛盾を解消するようなものであった.それを自分なりに解釈して書いたのが,次のスケッチです. ヒトとコンピュータとのあいだに行為のリフレクションが起こる.それは乱反射するように,ヒトとコンピュータとのとのあいだを満たして行く.行為がヒトとコンピュータとのあいだを充填し

アバターズ・VRトークの振り返り

6月23,24日と連続トークをした.23日が国立新美術館で開催されたメディア芸術祭での アート部門 受賞者トーク:『アバターズ』 で,24日が 名古屋のGOLDEN ARTS CAMP (黄金4422.bldg.5F)で開催された VRトーク&ワークショップイベント「没入の宴 〜”俺の嫁”から”嫁が俺”へ〜」 でした. 23日のトークはモデレーターの阿部一直さんが議論をうまく回してくれたこともあり,とても充実したものになりました. 自分的には 菅野創さんと やんツーさんの《アバターズ》を振り返りながら, レーン・ウィラースレフの『ソウル・ハンターズ』と作品体験を重ね合わせて話せたのがよかったです. また,阿部さんが「ディスプレイを見ると言う体験は標準になっている」と言われて,さらに,菅野さんが《アバターズ》を次にどうしたいのかと言う問いに対して「HMDなどを使いたい」と言われていたのが,トークのあいだ気になっていました.そして,阿部さんが,最後に今日のトークの受けて「これからのメディアアートはどこに批評性は見出させるのか」と言う質問が,私に投げられました.そのとき,私は「ディスプレイ」と言う平面の体験にこだわることが批評性を持つのではないかと言うことを応えました.それは,私が「ディスプレイ」「サーフェイス」といった平面に拘っているからなのですが,それを差し引いても《アバターズ》はディスプレイという平面を通して見るからこそ,ヒトがモノになり切らずにいられるところもあるのかなと考えていたからです.それと,ディスプレイという平面の体験が標準化されていて,それも「見る」ことだけでなく,そこで何かしらの「行為をする」ことが標準化されているのであれば,これから5年くらいはまだディスプレイとともにヒトに蓄積された感覚を掘り返すと,あらたなものが出てくるのではないかとことを,トークを通して考えたからです.科学や工学ではなくアートだからこそ,標準化されたディスプレイという平面に蓄積された体験と感覚を時間をかけて掘り返すことができるのではないでしょうか. 24日のトークは,私の前に話した小鷹研理さんの話が面白くて,そのあとに話すは難しいなと思いつつの発表でした.トークのタイトルは「 パーティクル化する映像/身体/空間 」というもので,「パーティクル化」

MASSAGE連載02_サーフェイスから透かし見る👓👀🤳/3DCGを切り取る「型」としてのバルクとサーフェイス

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MASSAGEの連載「サーフェイスから透かし見る👓👀🤳」,第2回「 3DCGを切り取る「型」としてのバルクとサーフェイス 」を書きました✍️✍️✍️ 山形一生 さんのディスプレイを用いた作品《Untitled(bird)》 ,《Untitled(stingray)》 と,アクリル板を用いた作品《ミュータント・スライム》を分析しながら,ディスプレイやアクリル板が「型」として,3DCGを切り抜いているのではないかということを書きました. カワイさんのカバーイラストは今回は,サーフェイスが丸められて筒状になって,その中にも筒状のサーフェイスがあってと,どこかサーフェイスが丸められると同時に,サーフェイスがバルクを切り抜いているように感じられます.今回のテキストでは四角いフレームとして「型」を考えていますが,丸い「型」のあり方もまた考える必要があると思います🤔🤔🤔

アート部門 受賞者トーク:『アバターズ』の告知🗣とメモ✍️(追記へのリンクあり)

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告知🗣 第21回文化庁メディア芸術祭 アート部門 受賞者トーク:『アバターズ』 に出演します. — ウェブブラウザからログイン(「憑依」)することで各オブジェクトを「アバター」として操作することができ,オブジェクトの知覚世界を疑似的に体験できる作品について作者自身が語るトークイベント. 日時:2018/06/23 (土)  17:30 - 19:00  会場:国立新美術館[3階 講堂] 出演: 菅野 創 [アート部門優秀賞『アバターズ』] やんツー [アート部門優秀賞『アバターズ』] 水野 勝仁 [アート部門選考委員/甲南女子大学文学部メディア表現学科准教授] Speakers: So KANNO [Art Division, Excellence Award "Avatars"] yang02 [Art Division, Excellence Award "Avatars"] MIZUNO Masanori [Art Division Selection Member and Associate Professor, Konan Women's University] モデレーター:阿部 一直[アート部門審査委員/キュレーター/アートプロデューサー] Moderator:ABE Kazunao [Jury Member of Art Division, Curator and Art Producer] メモ✍️ 文化庁メディア芸術祭で,アート部門 受賞者トーク: 《アバターズ》に参加することになった.YCAMの「バニシング・メッシュ」展で《アバターズ》が展示されたときに,レビューを書いているので,再度,《アバターズ》について考えることになっている. 菅野創さんとやんツーさんは,《アバターズ》を語るときに.ヤーコプ・フォン・ユクスキュル「環世界」を使って,作品を説明していたように思う.確かに,《アバターズ》はモノとヒトとのあいだの環世界を行き来するのかもしれないなと思いつつ,私はレビューで「物理世界」と「仮想世界」という言葉を使うだけで,「環世界」という言葉を使わなかった.それはなぜだったのだろうか,

ゴットを信じる会《告白》について考えたことと,これからエキソニモとゴットのどちらを探るのだろうか?

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トークで,ゴットを信じる会の会員であり,「 ゴットを、信じる方法。 」展のキュレーターである中川恵理子さんが《告白》は「私たちへの問いかけによって,私たちのなかにゴットが生まれる」と言っていたのが興味深かった.エキソニモの「 ゴットは、存在する。 」は,私たちに明確な問いかけはない.それは,インターフェイスが私たちの身体=存在の代理となっているので,そこに 私たち=ヒトが 必要としないことを示しているからであろう.しかし,ゴットを信じる会の《告白》は,私たちを必要とする.そこが「ゴット」をめぐる大きなちがいであり,この10年間でのインターフェイスのちがいも含まれているような気がする. けれど,ここでゴットを信じる会がゴットに半信半疑だったことも考えなくてはいけないだろう.マウスとカーソルとの連動の感覚を全面的に内面化していた人たちにとっては,エキソニモの《祈》を見ることはシャーマンの儀式を見ることに近い.そしてそれは,信じるも信じないもなく,アニミズムが活きている状態なのである.それは信じるも信じないも,カーソルという画像を依代にして,目の前で実践されているシャーマンの儀式なのである.だが,《告白》においてはもはやアニミズムは活きた状態ではない.いや,マウスとカーソルによる儀式を見るといった他人事ではないものになっていると言えるだろう.《告白》では,見る者自体がシャーマンとならないといけないのである.ここでは傍観者のままゴットを感じることはできない,当事者にならなければならない. マウスとカーソルといった依代的インターフェイスが,タッチパネルというよりダイレクトなインターフェイスとなり,私たち自身にシャーマンとなるように要請する.私たちは,ゴットを信じる信じないにかかわらず,よりゴットに近くになっているのかもしれない.だが,それゆえに,私たち自身がゴットを受け入れるのかどうか問われていると言えるだろう.私にはまだわからないが,きっと,ここにはインターフェイスをめぐる一つの変化があるはずである. と,ここまで書いてきたのだが,私は《告白》を見ているときに,ゴットを感じることができなかった.私はゴットを感じるのに「依代」を必要としているのであり,自分自身が依代になれるほどには,ダイレクトにゴットを受け入れられていないのかもしれない.私は

🖱「ゴットを、信じる方法」のためのメモ✍️

🖱「ゴットを、信じる方法」のためのメモ✍️ * エキソニモとライダー・リップス     * 身体のちがい         * エキソニモ             * 消える身体         * ライダー・リップス             * スポーツする身体     * リップス「ネット≒リアル」         * 身体をヒンジにしてネットとリアルとを「ほぼイコール」な関係で結びつける             * 身体がネットとリアルとを重ね合わせる     * エキソニモ「ネット⇄リアル」         * 身体を置いていってしまう             * ネットからリアルへ、リアルからねっとへと「連れて行かれる」                 * 「連れて行かれる」という感覚は再制作されたゴットにはなかった                 * そもそも「ゴット」は「ゴッド」に意識を連れて行ってしまうものであった             * 身体をどこに置いていくのか?                 * 🕳のなか?                     * その後のディスプレイ🖥の作品との関連から考えられないか💡         * ネット/身体/リアル             * 身体が中心にある                 * デスクトップリアリティ                     * surfing🏄‍♂️             * エキソニモでは身体が消え去っている                 * ネットがリアルと直結している                     * 身体はあるがヒンジとしては機能していない                         * 意識が身体が抜け出る                         * 小鷹研究室?                             * ディスプレイ🖥と身体                                 * 世代ではなく認識の問題❓         * 身体から場所へ             * ネットとリアルをめぐる意識を場所にインストール     * テ

「ゴットを、信じる方法。」でのトークの告知💬とメモ✍️

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告知💬 ゴットを信じる会が企画した展覧会「 ゴットを、信じる方法。 」で,エキソニモの《ゴットは、存在する。》やメディアアートの再制作を巡って,林田さんと中川さんとトークします.よろしくお願いします🖱🖥⌨️💻📱 日時:6/2(土) 15:00~(1時間半~2時間ほど) 場所:ARTZONE1階 出演:水野勝仁 (メディアアート、インターフェイス研究者)林田新(京都造形芸術大学アートプロデュース学科専任講師)、中川恵理子(京都造形芸術大学アートプロデュース学科4年生) メモ✍️ 「ゴットを、信じる方法。」を見にいったときに,自分の名前を発見しました.ゴットを信じる会は,私が以前書いた「エキソニモとライダー・リップス」の記事を参考にしてくれたそうです.私も過去の自分のテキストに赤を入れて,トークに臨みたいです. インターネット・リアリティ・マッピング(4)「エキソニモとライダー・リップス(前編)」 インターネット・リアリティ・マッピング(5)「エキソニモとライダー・リップス(中編)」 インターネット・リアリティ・マッピング(6)「エキソニモとライダー・リップス(後編)」 このテキストでは,70年代生まれのエキソニモと80年代生まれのライダー・リップスを比較しましたが,再制作を行なったゴットを信じる会はおそらく多くが90年代生まれだと思われるので,これら世代のちがいが,インターフェイスやインターネットに対する感覚のちがいにつながるのかなどを話せたらと思います. また,先日,展示を見たときに再制作されたゴットは,どこかゴットが特定されていた感じがありました.はっきりとは言えないのですが,この「特定」感が,エキソニモがつくったゴットとのちがいなのではないかと感じています.エキソニモはもっとアノニマスなゴットをつくりあげていたよう.つかみどころのないゴットと言えるかもしれません.エキソニモのゴットはつかみどころがないから,どこか不穏な感じがしていた.この不穏さが,今回のゴットにはなかったというとネガティブですが,「不穏さのなさ」が,今回の良さであり,考えるべきところなのかもしれないと,私は考えています.トークが楽しみです.

VRトーク&ワークショップイベント「没入の宴 〜”俺の嫁”から”嫁が俺”へ〜」でのトークの告知💬とメモ✍️

告知💬 よーへんさんに誘われて名古屋のGOLDEN ARTS CAMP (黄金4422.bldg.5F)で開催される VRトーク&ワークショップイベント「没入の宴 〜”俺の嫁”から”嫁が俺”へ〜」 に出ます.私が出るのは6月24日14時からの トーク2「VRと妄想社会」 です.名古屋で話すのは久しぶりで,VRについて話すのははじめてです.よろしくお願いします😊 メモ✍️ VRについてはどう考えていいのか,迷いつつ,「呼吸」を手がかりにして,同一化の話をして,ディスプレイを通して体験しているUIの平面の重なりの話を経由して,身体変容へとたどり着けたらと考えています. VRにおける呼吸 身体が空間に融けていく 自己帰属感 シャー・デイヴィスによる《Osmos》(1995)は,大きな注目を集めた作品である.HMDに加えて装着するスーツは,呼吸による胸郭の動きを検出するシステムとなっており,体験者はこれによって海底や森の中を連想させるいくつかの作品内部の空間を移動してゆくことになる. スキューバダイビングの体験が元になっているというこのインタラクティヴィティは,呼吸という身体性によるナヴィゲーションを用いることにより,まったく新たな感覚を与えた. それはデータグローブやジョイスティックによる方向の指示に見られるような,体験者が空間に対して操作を加えるという意識を与えず, 自然に空間と一体化するように感じさせ,無意識的に身体を適応させるもであった .体験者は,ジョイスティックなどを使う場合よりも格段に強く,ヴァーチャル・スペースと無意識のうちに結びつく.その結果身体が本当に空間の中に溶け込んでいるような印象を味わい,ある種の感覚的状態になるといわれている. メディアアートの教科書,白井雅人・森公一・砥綿正之・泊博雅 空間自体が身体と連動する 砂山──最近さまざまなプロジェクトで実験的にVRを使うことが多いのですが,テクスチャーの表面だけでぬるっと連続していくような世界への没入感は,一見するとオールオーヴァーですが, 図と地が共存するような奇妙なリアリティ をもたらします. 石岡良治・砂山太一対談「20世紀の遺産から考える装飾」 体とそれ以外を分ける境界があらかじめ決められたものではなくなったとき