アート部門 受賞者トーク:『アバターズ』の告知🗣とメモ✍️(追記へのリンクあり)


告知🗣

第21回文化庁メディア芸術祭 アート部門 受賞者トーク:『アバターズ』に出演します.
ウェブブラウザからログイン(「憑依」)することで各オブジェクトを「アバター」として操作することができ,オブジェクトの知覚世界を疑似的に体験できる作品について作者自身が語るトークイベント.

日時:2018/06/23 (土)  17:30 - 19:00 
会場:国立新美術館[3階 講堂]

出演:
菅野 創 [アート部門優秀賞『アバターズ』]
やんツー [アート部門優秀賞『アバターズ』]
水野 勝仁 [アート部門選考委員/甲南女子大学文学部メディア表現学科准教授]
Speakers:
So KANNO [Art Division, Excellence Award "Avatars"]
yang02 [Art Division, Excellence Award "Avatars"]
MIZUNO Masanori [Art Division Selection Member and Associate Professor, Konan Women's University]

モデレーター:阿部 一直[アート部門審査委員/キュレーター/アートプロデューサー]
Moderator:ABE Kazunao [Jury Member of Art Division, Curator and Art Producer]


メモ✍️

文化庁メディア芸術祭で,アート部門 受賞者トーク: 《アバターズ》に参加することになった.YCAMの「バニシング・メッシュ」展で《アバターズ》が展示されたときに,レビューを書いているので,再度,《アバターズ》について考えることになっている.

菅野創さんとやんツーさんは,《アバターズ》を語るときに.ヤーコプ・フォン・ユクスキュル「環世界」を使って,作品を説明していたように思う.確かに,《アバターズ》はモノとヒトとのあいだの環世界を行き来するのかもしれないなと思いつつ,私はレビューで「物理世界」と「仮想世界」という言葉を使うだけで,「環世界」という言葉を使わなかった.それはなぜだったのだろうか,ということを考えている.

菅野創+やんツーは《Avatars》で,インターフェイスという膜でヒトの物理世界とモノの物理世界とを取り囲み,ヒトとモノとの重なりを生じさせるひとつの仮想世界をつくりだしている.ここでの仮想世界は物理世界と対立するものではなく,ヒトとモノのふたつの物理世界を重ね合わせるために必要な触媒として,ヒトとモノとの世界に重ねられる存在となっているのである.

そのとき書いた文章を振り返ると,私はきっと,環世界ということを「インターフェイス+物理世界」という言葉で示したかったのだと思う.「インターフェイス」というセンサーと表示装置との組み合わせによって,物理世界が「環世界」に変化するのであるが,環世界が複数あった場合,その重なりを可能にするのが仮想世界だと考えたように思われる.仮想世界という大きな枠があって,そこに複数のインターフェイスがあり,インターフェイスごとに特定の特性が与えらえれた物理世界があるということだろう.仮想世界と物理世界という二項対立的な世界の見方を,同じ言葉を使いながらその関係性を変えることが,これからのメディアアートが示すことなのではないか,と,私は考えている.

レビューでは「憑依」ということについて,あまり書けなかったようにも思うので,この辺りはもう一度,考えてみたいと思っている.モノは「固有の機能」を持ちながら,ヒトに憑依される.ヒトはモノの固有の機能にインターフェイスを介して,アクセスする.モノ本来が持っているインターフェイスはここでは役に立たず,別のところにインターフェイスがある.これは,モノからインターフィエスを取り去ってしまうexUI的な考えかもしれない.しかし,《アバターズ》ではモノにインターフェイスは残っているので,ヒトの憑依に合わせた別のインターフェイスがあると考えた方がいいかもしれない.そのときに.ヒトとモノとはかたちを入れる変えると同時に,そのモノをそのモノにしてきた「履歴」を,ヒトの「履歴」と入れ替えているのかもしれない.理想としては「履歴」を上書きして,ヒトがそのものになるということだろうが,そんなことは起こりはしない.そこは,『ソウル・ハンターズ』で書かれていたような「相似的な同一化」「部分的な同一化」でいいのかもしれない.ヒトとモノとの双方の履歴を「部分的に同一化」することで,「憑依」を可能なものとして示してみる.この辺りをもう少し,考えてみたい.

私が「類似的同一化」や「二重のパースペクティヴ」,「動物ではないが,動物でないわけでもない」などのフレーズを用いながら捉えようと試みてきたのは,自己と他者が同一であると同時に別様であり,似てはいるが同じではないこの境界領域である.このことによって私が提起したいのは,もし我々がアニミズムを真剣に受け取ろうとするなら,世界との(ハイデガー的伝統における)完全な一致,あるいは世界からの(デカルト的伝統における)完全な分離といった考えは放棄しなければならず,その上で我々を世界に接触させつつそこから切り離す存在様態について説明しなければならないということだ.そして,もちろんこのような存在様態がある.それは模倣[ミメーシス]に基づく様態である.p.313  
ソウル・ハンターズ,レーン・ウィラースレフ

と,ここまでnoteで「014:物理世界と仮想世界とが相互に憑依する」というタイトルでメモ✍️を書いたのだけれど,今回の作品《アバターズ》は 「模倣[ミメーシス]に基づく様態」をつくるわけではない.「模倣[ミメーシス]に基づく様態」をつくることなく,いきなり「憑依」できてしまう.ここにテクノロジーが大きく関わっているのかもしれない.私が考えてきたことで言えば「カーソル」への憑依というか,身体変容を経て,ヒトはテクノロジーを介して,いかなるものとも連動して,憑依することが可能になっているのではないのか.「模倣[ミメーシス]に基づく様態」ではなく,「連動に基づく様態」を考える必要があるのかもしれない.連動しているあいだに,履歴が上書きされていく.真似ることなき連動による部分的な同一化ということが起こっていると考えてみたとき,《アバターズ》は何を示すのだろうか.

あとは,「憑依する/される」だけではなく,YCAMの展示の際に感じた憑依の依り代となるモノたちがある場所の不穏な感じというのも考えみたい.不穏さは,会場にいる人が憑依の先を見る・感じることができないのに対して,憑依した人は会場を見ることができるという非対称性から生まれるのかもしれない.

この辺りは,『ソウル・ハンターズ』でいきなり精霊と比較されるものとしてコンピュータがでてくるところから考えてみたら面白いかもしれない.精霊とのつながるコンピュータからの《アバターズ》.

したがって精霊は世界のうちに「見出される」ものであり,世界との活発な交流の中で人々によって「作られる」ものでもある.これは矛盾に聞こえるかもしれないが,ここで述べられていることよく検討してみれば矛盾は解決する.それはコンピュータの存在がその本質的属性だけではなく,コンピューターとしてどのように用いられるかにも依存すると主張することよりも矛盾しているわけではないのだ.したがって精霊とコンピューターは両者とも完全に現実世界に属していると言えるのだが,それらは人々の活動との関わりによってその世界の構成要素になっているのである.要点は,デカルト的な自己と世界の二元性を乗り越えるとともに,現実世界は人間経験から独立して存在するという主張を乗り越えねばならないということだ.世界とは我々から分離した何かではなく,そのうちに私たちが生きる場なのである.そして,私たちが世界と活発に交流するからこそ,世界は意味ある存在となる.pp.304-305 
ソウル・ハンターズ,レーン・ウィラースレフ 

「私たちが世界と活発に交流するからこそ,世界は意味ある存在となる」のであれば,《アバターズ》でモノとヒトとが活発に交流するになって,世界はより意味のある存在となっているはずである.そして,より意味のある存在となった世界の意味をまだ読み取れないから,私は会場で不穏さを感じたのかもしれない.

追記をnoteに書きました.
021:認識の枠がバラバラになっていく《アバターズ》

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