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ポスト・インターネットで途方にくれないためのメモ

Gene McHugh, Post Internet: Note on the Internet and Art 12.29.09 > 09.05.10   (これは 本 にもなっているし, 全文のPDFもネットあった .)を読みながら,「ポスト・インターネット」って何だろうと考えていたけれど,どこに手をかければいいのかわからないくらいその世界は広大すぎて,何があるのかワクワクしつつも,途方にくれてもいる.自分のためのリンク集を兼ねて思いつつメモを書いてみたい. ポスト・インターネットを巡る言説は, Louis Doulas, Within Post-Internet | PartⅠ で簡単にまとめられているので,これをさらに簡単にまとめてみる.ポスト・インターネットという言葉は,2008年に Marisa Olson というアーティストが インタビュー の中で言ったことがはじまりらしい.インターネット・アートがもはやコンピュータとネットを使ったアートを指すものでなくなり,インターネットやデジタル・メディアに影響力されたものなら,どんな種類のアートであってもそれはポスト・インターネット(・アート)になる.作品がたとえオフラインであっても,ネットなどから影響を受けていれば,それはポスト・インターネットと呼ぶことできる.Olson はインタビューの中で,ネットアーティストのGuthrie Lonergan が Internet Aware art と言っていることにも言及している. そして,最初に挙げた『ポスト・インターネット』というブログを書き続けた Gene McHugh はインターネットはもはや目新しいものではなく,平凡・陳腐(banality)なものになったとしている.次に, Artie Vierkant が2010年に書いたエッセイ, The Image Object Post-Internet  では,ポスト・インターネットでは,作家性がユビキタスなものになり,作品への注目が重要になっていると言っている(作品への注目というは,McHugh も言っていて,彼の場合は「承認」という言葉であった) と,Doulas はポスト・インターネットを巡る言説を辿って,それぞれの違いはあるけれど,究極的には,変化しているインターネット社会

映像から離れていっている

大名古屋電脳博覧会 に行って, 伊藤明倫さん の《波打つ大地,吹き抜ける瞬き》を見てきた.これは伊藤さんが去年の同じ時期に同じ場所で展示した作品 《瞬きの中,瞬きの外》 と同じ原理を作った作品です.今回の作品へのTextから引用します. 作品へのText1   このインスタレーション作品は,モニターの映像が Fade In, Out することによって生じる明るさの明滅が照明代わりになり,壁に貼られた写真作品を見ることができる,それらの空間的要素すべてを含めた作品となっています.       このような構造になっていることから考えられるのは,発光体で光るモニターによって,反射光としてしか認知できない写真が表層してくるという入り組んだ構造である事と,モニターは映像を見せる為に光るのであり,それが照明として機能してしまうことは副次的,もしくは本来意図していない現象であるということなどが上げられます. 展示室に入ると,暗い.その先に,液晶ディスプレイが2台.見る人に背面を見せて,向こう側の壁に向かって光を放っている.光は一定ではなく,不規則に明滅している.明滅する光によって,壁に張られている写真が見える.鳥の写真.ディスプレイと向かい合っている壁,その両脇の壁にも鳥の写真が貼られている.明滅する光の中で写真を見る. 部屋に光を生み出しているディスプレイの黒い背面を見つめる.この黒い物体の壁に面している平面は発光している.黒い物体から発光する光.それが何を示しているのかは,後ろからでは分からない.ただ光っている.それはただの光でしかない.それが写真を見えるようにして,そこに鳥が写っていることを示していくれる.回りこんでディスプレイに発光する面を見てみる.水面が映っている.波が映っている.波が太陽の光を反射している.もしくは光る波.反射光をカメラが捉え,ディスプレイは自ら発光する. この作品をしばらく見ていると,そこにはただの光があると思えた.ディスプレイという「何か」を表示する装置だけれども,そして実際に波を映しているのだけれども,背面から見ていると,そこにはただの光しかない.光の明滅しかない.2011年3月11日から9ヶ月たった今でも,波は津波を意識させる.波でなくても,水を使うことは津波を意識させる.大地震,津波,そして天高く飛ぶ鳥たち.物語

版ズレとスペーサーGIF

高校生といっしょに新聞社の見学に行ってきた.印刷現場の見学はとてもテンションが上がった.カラー原稿がある新聞の刷り始めは,版ズレが生じているのに驚いた.工場の人が刷り上がった新聞を広げてチェックしては,「青,右,赤,左」などと版のズレを直していく.素人目にはズレなんか生じていないなものでも,どんどん修正が入る.修正しているあいだにもどんどん新聞は刷られていく.修正完了前の新聞は古紙回収に回されると説明を受けた. 紙の印刷でカラーをやると版ズレが起こる.デジタルの世界,ディスプレイの世界は版ズレは起きないのか? ディスプレイのキャリブレーションをとるという行為はあるが,版ズレはないかもしれない.グリッチが版ズレか? 版ズレはないけれど,ウェブページにはスペーサーGIFがある.空間をしっかりと空けるためにスペーサーGIFを必要とするリアリティと,カラー印刷における版ズレというエラーが示すリアリティはなんとなく通じるところがあるのではないか,ということを思った.

上海スライド

上海の発表でのスライド(共同発表の水野担当部分).最初は原稿を読み上げるだけにしようと思ったのだけれど,時間オーバーだったのと,少しでも理解の助けになるようにとスライドを作成した.そうしたら,講義のようになってしまった. スライドを作っていて思ったのは,Lionの「ミッション・コントロール」という機能では,カーソルが本当に自由に様々な世界を行き来できるということでした. Nature|cursor|destruction View more presentations from Masanori MIzuno 上海発表関連の他の記事 自然|カーソル|破壊:上海での発表のための日本語でのメモ 中国・上海での発表 (英語テキスト) 中国・上海での発表 上海での発表を終えて,帰る飛行機の中で書いたメモ

上海での発表を終えて,帰る飛行機の中で書いたメモ

上海では,エキソニモ《断末魔ウス》を用いて,コンピュータの中の「魂(spirit)」というものがあるのではないかということを発表した.思ったよりもウケが良かった.日本ではほとんどもらえない発表へのリアクションが結構あったので,それだけでも上海まで行ったかいがあった. コメンテーターの先生からは,キャサリン・へイルズらの「ポストヒューマン」との関係を問われた.ヘイルズの「ポストヒューマン」は理念的な感じがするのに対して,ヒトはカーソルという日常的に慣れしたしんだ存在に寄り添うことで,既に「ポストヒューマン」になっているのではないかということを答えた.もっと端的にいえば,ヒトはカーソルになっている.タッチパネルを考えると,GUIのカーソルを経て,ヒトの指自体がカーソルになっている.こんな感じで,ヒトはトランスフォームしていくのかもしれない. ヘイルズの「ポストヒューマン」の本の内容はほとんど忘れてしまったので,お正月に読みたいなと思いつつ,「ポストヒューマン」の基本的文献をおさらいして,来年度の講義で考えてみたい.その際に,コンピュータが持っている「ハイブリッド」や「キメラ」という怪物性・異質性みたいなものと,ディスプレイ上でヒトの意識の依代にもなっているカーソルとの関係も探ってみたい.

中国・上海での発表

明後日,上海に行きます. 国際シンポジウム『文化の越境、メディアの越境──翻訳とトランスメディア』 で発表します.共同発表ですが,私の発表の内容はエキソニモの『断末魔ウス』を「トランスメディア」という観点から論じるというものです.詳しくは,以前書いた 日本語メモ . ここには発表とは異なるヴァージョンの英語テキストを置いておきます. -- Nature and Destruction on the computer Nature | Cursor | Destruction 1. Hybrid | Metamedium | Chimera Just as there was no fully development media theory before (or without) the computer, there was no fully developed human before (or without) technology. (p.196) Hardware/Software/Wetware, Geoffrey Winthrop-Young If Young’s statement is true, we must ask what the computer is in order to fully develop a media theory. Although there are many answers for what the computer is, I would like to focus on a computer scientist's, Alan Kay’s, idea--the computer is metamedium--because he is one of the fathers of the personal computer itself. Every message is, in one sense or another, a simulation of some idea. It may be representational or abstract. The essence of a medium is very much dependent

視線|フォーカス|意識:エキソニモ《The EyeWalker》から考えたこと

山口へ行ってきた.目的地は YCAM .体験した作品は エキソニモ 《EyeWalker》( セミトラ 《eyeFont》は視線入力の判定がシビアで私の目ではダメでした,残念). エキソニモ 「EyeWalker(アイウォーカー) 」  新作(YCAM委嘱作品)  2011|インスタレーション 視線の動きによって,視覚の跳躍を体験することができる作品.YCAM館内には,オブジェとなるビデオカメラ付きモニターが様々な角度で,距離を置いて配置され,体験者がいるブース内のモニターには,会場の風景が映し出されます.体験者が,モニター画面に映るオブジェを見つめると,その画面は,オブジェからの中継映像へと次々と切り替わっていきます. 本作では,「The EyeWriter」のソフトウェアを応用して,体験者が,モニター内のどのオブジェを見ているかを検出し,中継映像を選択しています.ブース内のモニターに映る映像に没入する体験者の視覚は,自らの視線が向くオブジェへと転移し,次々と展開されていくことになります.映像に囚われた私たちの没入感覚を極端に増幅し,現実の空間を次々に跳躍するかのような視覚をもたらす本作は,見る行為と自身の存在にある関係をも揺さぶります.   エキソニモ《EyeWalker》作品説明 from YCAM:視線を通じて世界と繋がる。― 視線入力技術
LabACT vol.1「The EyeWriter」 作品を体験する前に書いたテキスト で,《EyeWalker》は《↑》に通じるところがあるのではないかと思っていた.体験した今も,この2つはつながりがあると考えている.《↑》は有無を言わさない強烈な力で,体験者の意識を「現実|仮想」とのあいだで曲げてしまうような作用があると感じたのに対して,《EyeWalker》で感じたことは,確かに意識をモニターの中や外へ持って行かれるのだけれど,それがいつも「ちょっと手前」で起こっている感じがした. 「ちょっと手前」というのは,「意識のちょっと手前」という感じである.無意識というのではなくて,意識的に視線をコントロールしているけれど不自由さがあって思ったとおりできないという,なんとももどかしい感覚.まさに「 隔靴掻痒 」という感覚.画面の中のモニターを見るのだけ