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10月, 2009の投稿を表示しています

Pushbutton / ボタンを押すこと

"Pushbutton" convenience was a hallmark of a modern age only recently freed from bodily  work. The industrial button was once understood as an abstraction. The automated operations it triggered were still fresh substitutes for something much more tedious. The postindustrial button frequently lacks a referent in bodily experience, however. This is partly because its logic leads to cumbersome convolution. Hundreds of buttons, or hundreds of expressions for entry by buttons, depart from the realm of comprehensible experience. This is why the household videocassette recorder has become a standard emblem of incomprehensibility. (p.85) in Malcolm McCullough (2005) Digital Ground, Mit press 「ボタンを押すこと」の便利さは,つい最近になって身体的作業から解放された近代の特徴であった.工業的なボタンは,かつては一種の抽象化として理解されていた.ボタンを押すことによる自動化された操作は,より単調で退屈な仕事を今もなお新鮮なものへと変えた.しかし,ポスト工業化時代のボタンは,しばしば身体的経験における対象を欠いている.身体的経験における対象を欠くことは,その論理から扱いにくい複雑さが生じる理由の一部である.多くのボタンや,ボタンによる多くの表現への入力が,理解できる経験の領域と離れてしまっている.このことから家庭用ビデオが理解できない機器の代表となっているのだ.

マルチタッチジェスチャーは詩的言語か散文か? / Is multi-touch gesture poetic language or prose?

マルチタッチジェスチャーは詩的言語か散文か? こんな問いの立て方をすること自体が間違っているのかもしれないけれど,なんか気になるのです.コンピュータが身近になるときに「メタファー」を使ったこと.その「メタファー」を持ち込んだデスクトップ・メタファーとマウスとの組み合わせが当たり前になった今,丁度一般化しつつあるマルチタッチジェスチャー.マルチタッチジェスチャーは,何かのメタファーなのか.メタファーは,2つの領域を結びつけるものでもあり,私たちの身体感覚に深く関係しているものでもある.マウスという物理的なものを「握る」感覚を,デスクトップ・メタファーとしてコンピュータのディスプレイに持ち込んだとすれば,マルチタッチジェスチャーは何をコンピュータに持ち込んでいるのか.私は,散文的な感覚,なんか文法的な規則,一対一の辞書的な対応を,ヒトとコンピュータとの間に持ち込んだのではないかとなんとなく考えていたわけです.そこに,ある人とから,マルチタッチジェスチャーは詩的言語ではないかと指摘されて,うーんとうなったわけです.なんか,詩的言語としてのマルチタッチジェスチャーもとても納得という感じで. iPhoneで持ち込まれた2本の指の広げて,イメージを拡大するピンチ.今まで,この「ピンチ」と同じように指を動かしても何も拡大はしなかったわけです.それが,いきなり2本の指をディスプレイにくっつけて,離すように動かすと,ディスプレイ上のイメージが拡大するわけです.そして,この2本の指の動きがなんかもともと「拡大」のためにあったような気がしてきてしまうのです.この突然現れる感覚をどう説明すればいいのか.これはただ単に2本の指の行為とディスプレイ上のイメージの動きを対応付けただけなのか.もともとヒトの中に2本の指をそのように動かすと何かモノが大きくなるような感覚があったのか.ただ対応付けただけなら,そこには辞書的な対応しかないような気がするし,もし何かしら感覚があったとしたらその感覚をアップルのデザイナーやエンジニアが掬い取ったという感じになる.どちらにしても,私たちの行為が iPhone などのデジタルガジェットによって大きく規定されてきている時代になってきているわけですから.それが私たちに対して何を意味しているのかを考えなければならないと思うのです.そのときに,身体とデジタル機器

マジックマウスの「重さ」/ "Weight" of Magic Mouse

マジックマウスを触ってきた.最初の印象は,薄いなあ,ちょっと表面の滑りが悪いなあということでした.マウスは手でしっかり握って使うものだと思い込んでいるせいもあって,マジックマウスの薄さはとてもきになりました.でも,twitter をみていると,みなさんわりとすぐに慣れてしまうみたいです. Gizmode では,この薄さは人間工学というよりも航空工学と言われていますがどうなのでしょうか.個人的には,マジックマウスは手で「握る」というよりも手を「置く」という感じですね.手を置いて,指をその上で動かす.そこで重要なのは,マジックマウスの表面の材質になってくると思うのです.指をその上で自由に動かせるようなものになっていないといけない.ピカピカのプラスチックはつなぎ目がなくスムーズな見た目で期待を持たせます.が,MacBook のガラス製のトラックパッドに比べると,ちょっと指に引っかかる感じがします.これは薄さよりも気になりました.前にも書きましたが,マルチタッチジェスチャーで重要なのは,指の動きをスムーズにするような表面の滑らかさだと思うのです.情報ではなく物質に触れる指がさほどの引っかかりを感じずに動かせるような滑らかさ.それは,情報には重さとか物理的な摩擦がないだけに,とても重要だと思うのです.指を滑らかに動かせて,ディスプレイ上のイメージ,つまり情報がそれに吸い付くように動くことで,気持ちよさを感じる.この気持ちよさは,前に「 吸い付きながらも滑りがよい 」と書きましたが「重さ」を感じさせないということなのかもしれません.しかし,指の汗などでプラスチックとの間に引っかかりが生じてしまうと,そこに何か違和感が生じてしまう.また,ガラス製のトラックパッドという新たな滑らかさの基準を知った身体には,プラスチックの表面を指でなぞる自体にちょっとした引っかかりを感じてしまう.そうするとそこに「重さ」のようなものを感じる.この「重さ」は,物理的な重さというよりも筋肉の緊張というものかもしれません.ディスプレイ上のイメージを動かすためになんか身構えてしまうような感覚.アップルストアで少し使ってきただけの印象ですので,長時間使ってみての感覚を自分で感じるとともに,多くの人が示す感覚を収集して,マジックマウス及びこれから出てくるマルチタッチジェスチャー対応のマウスの意義を考えてい

10/GUIの可能性:吸い付きながらも滑りがよい / A possibility of 10/GUI: Smooth but sticky

10/GUI from C. Miller on Vimeo . 10/GUI の可能性.マルチタッチ・ジェスチャーを用いたインターフェイスの提案です.今のマウスを中心にしたインターフェイスは,もう30年以上も用いられてきたのだから,そろそろ新しいものになってもいいときかもしれません.が,僕はマウスという物理的なモノを「握る」ということが,ディスプレイ上のイメージという「つかみ」どころのないものを扱うには重要なのかなと考えてきました.「握る」ことと「触れる」ことは全く異なる行為だと思うのです.といいつつ,今は,MacBook のガラス製のトラックパッドに慣れて,マウスで行っていた作業を違和感なく行っています.でも,少し身体に意識を向けると,マウスとトラックパッドでは微妙に感覚が異なるんですね.特に,スクロール.マウスだと,スクロールバーをまさに「掴んで」上下させる感じだったのが,トラックパッドでは「掴む」というよりも,紙を指の先で上下させるという感じで,画面全体に指が吸い付いているような感じがします.そんなときに,スクロールバーが上下しているのを見ると変な感じなんですね.「掴んで」何かを動かすということは,ヒトが昔から行ってきた事だと思います.でも,指の先に何か吸い付いてそれを動かすということはあまりというか,普通に生活してきたなかではめったになかったことだと思います.「吸い付き」と書きましたが,実際にトラックパッドに指が吸い付いたら機能しないわけです.だから,トラックパッドの表面は滑りがよくないといけないわけです.アップルがマルチタッチとともにトラックパッドをガラス製に変えたのは,こうした機能的なことがあると思うんですけれども,僕たちの身体の奥底では「吸い付きながらも滑りがよい」というような相反することを実は感じているのかもしれません.そして,それはまったく新しいということでヒトに好奇心に基づく気持ちよさを与えるかもしれないし,拒絶反応を引き起こすかもしれません.僕は,とても気持ちよく使っています. 話を,10/GUI に戻すと,指の動きに吸い付くように動くディスプレイ上のイメージとそれを活かす画面設計が優れているので,話題になっているのでしょう.僕は,最初,なんか指がつりそうだなと感じましたが,実際使ってみるとすぐに慣れてしまうのでしょう.キーボー

世界からイメージを抽出するのではなく,世界にイメージを重ねていくこと / Not to be taken the image from the world, but to pile up the image on the world.

フィリップス・エレクトリック・タトゥーを体験している映像.コンセプト映像よりも普通のメディアアートな感じですが,こっちの方は見ていると何か手の甲がくすぐったい.プロジェクターで映像が手に映し出されているということを頭で理解していても,実際に手の甲に描かれていると体が感じでいるのかもしれない.低解像度の映像で見ているからかもしれないので,こういった作品は実際に体験してみないとなんとも言えないのですが,私たちの皮膚にもう一枚映像のスキンを重ねる,ただ重ねるのではなく密着させるようにするということはこれからいっぱい起こってくると思う.メディアアーティストの藤幡正樹さんが有機EL によって「印刷物のように物質化した(かのような)イメージを自由に扱えるようになるだろう」と言っているようなことがプロジェクターの投影も含めていろんなところで起きてくるのだと思う.世界からイメージを抽出するのではなく,世界にイメージを重ねていくこと.イメージを直接的に重ねられた身体は何を感じるのでしょうか.モノに触れたときの物質的な感じを,イメージにも感じるのでしょうか.ぴったりとイメージが皮膚に密着したら見ている自分は本当にくすぐったさを感じるのかもしれないけど,皮膚は何も感じないということも起こってくるのではないでしょうか.一度,身体がバラバラになるのかもしれませんし,実はもうすでに,マウスというプラスチックを触れながら,いろいろなイメージを見たり,クリックしているのだから,見ているものと触れているものの分離は起こっているのかもしれません.だとしたら,なぜそれを感じないかということも考えないといけないかもしれませんし,そんなことはまったく起こっていないのかもしれません.何も問題が出て来ていないので起こっていない可能性の方が高いのかもしれませんが,なんか私はここに違和感を感じているのです. This moving image is an experience of Phillips Design Electric Tattoo. This is more like Media Art than Concept moving image. Watching it, I feel ticklish on my hand. I understand that the image is proje

デジタルとヒトの「欲望」を結びつける / To connect our desire to digital technologies

フィリップス・エレクトリック・タトゥー.触れているところからタトゥーが描かれていくというものだけれど,描かれる模様は「欲望」に基づくとされる.自分の指で砂とかに絵を描いていく感じに近いのでしょうか.砂に指で絵を直接描いていくという感覚は,鉛筆とかを用いるよりも何か直接的な感じがするし,ただ思いのままに描いているような感じがする.なんでだろう.デッサンとか描く訓練を積んだ人はそうでもないかもしれないけど.砂に指で何かを描くことは,すぐに消せるとかいうことも意識のどこかにあるのかもしれないけれど,筆とかの道具を使わずに自分の体の一部を使って描くというとても根源的なことのような気がする.根源的だから,より欲望のままに描いているような.だから,結局,描き終えると,何を描いているのかわからないけど,描いているときはとても気持ちよい.何を描くかというよりも,気持ちよさが重要なのです.このエレクトリック・タトゥーのことを考え文章を書き始めたら,そんなことに辿り来ました.デジタルとヒトの「欲望」を結びつけること.それは気持ちよさを,僕たちの中に生み出さないといけなくて,そのためにはヒトと環境との根源的な結びつきを見つめなければならないのかもしれません.エレクトリック・タトゥーがなんかそんなことを考えさせるとすれば,タトゥーという皮膚に描くということが,僕たちの記憶の奥底に眠っている何かを呼び起こすかもしれないし,それがデジタル,電子的な技術と結びつくことによって「今」に蘇ってきているかもしれない.服を着るということで個性とか主張とかをしてきたわけだけれど,次は,タトゥーがそういった役割を担うのかもしれないし,実際皮膚に描かれることがなくても,AR とかで自分の情報がディスプレイ越しに体の周りに表示されることも実はこのタトゥーの感覚に近いのかもしれない. Philips Design Electric Tattoo. When someone touches someone's skin, a tattoo is drawn from the place he/she touches. Phillips design says "Simulated by touch, an Electronic Tattoo traverses across the lands

フリック入力の指の動き

フリック入力の指の動き.押しているのではなく,滑らしている感じ.指がとても器用に動いている.この時のそれぞれの指,手全体,手首,腕の筋肉の緊張具合はどのようになっているのでしょうか.自分でやってみるしかないですね.なんかタイルゲームをやっているみたいです.1個ずつタイルを動かして絵を完成させるやつ.指の動きとディスプレイ上のイメージとの関係の滑らかさ.音の小気味よさ.リズムの良さ.入力している人が慣れているからだろうけど,とても見ていて気持ちよい.あまり力を入れているという感じがしないのが新鮮.ケータイで文字を打つとき,これも僕はできないけど,キーボードを打つとき,これはできるけど,これらの何か物理的なキーを押すというのは明らかに違う感じがする.もっと密接にイメージと指とが関わっている感じ.イメージに指が吸い付いているというか,指にイメージが吸い付いているというか.今は,いろいろと観察していろいろと想像してみよう.そうして,自分でやってみて,その感覚を今見ているだけで書いていることにフィードバックしてみよう.

ただモノの表面に触れていくこと

触れること.何かに触れること.それはだいたいは持つためだったり,握るためだったり,押したり引いたりしたりするときに,手とモノとが接触することだったような気がする.ヒトとヒトとが触れ合うときには,触れ合うことが目的になることが多いけれど,ヒトとモノとの関係において触れることがメインになるときは,手触りを確かめるためが多いような気がする.指をモノの表面でツーと動かして,その感触を確かめる.感触を確かめるだけで,他に何をするわけでもない.愛でる,という感じ.そこではモノは動かずただあり,その表面だけを私たちに向けている.そのとき,手にはあまり力が入っていない.モノを動かしたりしないわけだから,そのモノが重そうに見えていようが,軽そうだろうが関係なく,指をただスーッと動かすだけ.押すという感触ともちとちがう.表面を指を滑らすようにする.なんかこのモノはまったく動く気配もなくというか,私たちがモノを動かす気配もなく,モノに手を伸ばすときというのは,あまり実用的ではないような.だから,愛でる,という感じ.でも,愛でているとき,触れているときに,指の感覚の解像度はドッとあがる.持っているときや握っているとき,押したり引いたりしているときとは全く違う.そう,まさに指の表面が主役となっている.折り曲げる指の関節や,手のひら,手首,肘,肩と続く筋肉が連動して何か動作を行う際の,モノへの接触面というなんか末端の役割のような感じではなく,指の表面の感覚こそに意識を集中するような.ただモノの表面に触れていくこと.モノを動かさずに,ただ触れること. そんなことを iPhone を操作しているヒトの手の動きを見ていると考えてしまう.使っているヒトの手の動きは何かを愛でているような,とても優しげというか,モノを扱っているように見えない.別に大切に扱っているというわけではないのだけれど,指の動きがなんか見慣れないのです.自分はまだ iPhone 持っていないので,まだ観察のみですが.実際に観察したり,youtube で動画を見ていたりすると,なんか興味深い指の動きをしているのです.自分が Macbook のガラス製のトラックパッドに触れているときも,とても滑りがよいときは,スースーと触っているような.どこにもひっかかりがなく淀みなく,ただ触れている.スクロールするためだったり,カーソルを動かすた

手とマウスとの関係

アップルからマルチタッチジェスチャーに対応する新しいマウスが出るかもしれないという噂が出て久しいし,もうちょっとで本当にでるかもしれない.マイクロソフトも,マルチタッチジェスチャーを採用したマウスの研究成果を発表している. マウスは「握る」ものであったと僕は考えました.それは,指と手のひらを使って「握る」ことが,ヒトにとってとても原初的な行為であって,それが,コンピュータとの対話を一般化するための初期の段階でするするとインターフェイスに入り込んできたと思うのです.コンピュータという未知のものとのやりとりにおいて,ヒトの身体は古くから行ってきた「握る」という行為に頼った.「握る」ということは,持つことでもあって,持つことは,移動することでもあってと,いろいろと応用ができます.で,もっともっといろいろなことをしたいとヒトは手の使い方,とくに指の使い方を洗練させていったのではないでしょうか.で,マウスにマルチタッチジェスチャーが採用されますと.「握る」+「触れる」ということなるでしょうか.「触れる」は,対象の危険性を判断するために必要な行為であったりするし,愛撫などで触れるということは,感情を伝えるということもあるでしょう.でも,「握る」のようにものを何処かに動かしたりという物理的な変化,目に見えるような移動とかの変化を認めにくいような感じがしています.それがどうしたということなんですが.特になんでもないことなのですが,なんか引っかかっています.で,自分の感覚だと,何かを握っているときより,何かを触れている時の方が感覚の解像度が高い気がします.触れるっていうことに基づいたジェスチャーを頻繁に行うということは,指の感覚の解像度を上げることだったり,運動の可能性を開くことになるのでしょうか.

曖昧なものを曖昧なままでヴィヴィッドになぞれるような方法

明滅する光を見る.映画でもテレビでもビデオでもケータイでも.いろいろところで明滅する光を見る.「明滅する光を見る」と書いたけれども,「明滅する光」を見ていると考える人,感じる人は少ない.僕たちはそこに仮現運動という現象に基づいた「動き」を見ている.でも,「動き」を見ていると考える人,感じる人は少ない.で,なんで映画でもテレビでもなんでもいいのですが,僕たちはこんなにも多くの仮現運動に基づいた「動き」を見ているのかということ.「明滅する光」「動き」が暗闇に閉じ込められた映画から,それが家庭に入り込んできたテレビ,ビデオ,それを手にもつことをできるようなったケータイ.実際には動いていないものを,眼の錯覚を利用して動いているように見えるようにするメカニズムに基づいた「動き」を見続けること.このことは,僕たちの身体にどのような影響を与えているのでしょうか.あと,「明滅する光」と「動き」がコンピュータと結びついて,僕たちの行為に即時に反応するにようになっていること.「反応する光」と触れ合うこと.こういったことをどのように考えていけばいいのか.自分の書くものに論理的説得力が足りないのはもう仕方ないとすると,それに代わるものを手に入れる必要があります.曖昧なものを曖昧なままでヴィヴィッドになぞれるような方法.そして,生きている「今」から考えること.

光とプラスチックと仮現運動:ビデオゲームにおける「ない」けど「ある」という曖昧さを認識できる能力

これは短剣か? 目の前に見える、 柄を俺の方に向けて。来い、掴んでやる── 掴めない、だが見える。 不吉な幻、目には見えても 手には触れないのか? それとも貴様は、 心の描き出す短剣か、熱にやられた脳が生み出す まやかしにすぎないのか? まだ見える、あの形、今抜いた こいつと同じ手応えがありそうだ。 俺の手引きをするのか、いま行こうとしていた所へ。 まさに、こういうやつを使うつもりだった── 目が狂ったのか、それとも他の感覚がおかしくなり 目だけが鋭くなったのか。まだ見える。 貴様の刃にも、柄にも、血がべっとりだ。 さっきはついていなかった。──こんなものがあってたまるか、 血なまぐさいたくらみがこういう形をとって 目に映るだけだ。 [マクベス:第二幕第一場](シェクスピア 1606[?]=1996:50-51) はじめに  ビデオゲーム 1 の「パックマン」には、ワープ通路と呼ばれる場所がある。画面右側のワープ通路を端まで行くと、パックマンが一度暗闇に消えて、一呼吸おいて、左側のワープ通路からひょっこり現れる。ワープ通路を通るパックマンの消滅と現れに対して、映像作家の佐藤雅彦は、<ワープ>がどういうことかわかったと書いている。 仮現運動が、例えば猛獣などのが草木に隠れながら素早く移動するときにそれを認知するといった、現実に根ざした生得的能力であるのに対して、<ワープ>を認知する能力は、メディアの発達が目覚めさせた生得的能力なのではないだろうか。われわれがそれをSF小説やSF漫画で知識として知るのは、もちろん《パックマン》よりはるか前のことであろうが、その<ワープ>という表象をわれわれの内部に実際生むこととなったのは、パックマンをはじめてプレイしたときだという人が多いのではないだろうか。もしかして、それ以前のゲームに同様な動きが組み込まれていたとすれば、そのゲームで<ワープ>の表象を初体験した方もいるだろうが、重要なのは、どのゲームで知ったとか、いつ知ったとかいうことではなく、<ワープ>については現実として体験したことがないのにもかかわらず、そのテレビゲームに触れた瞬間に、大人でも子どもでも、世界中の人がなんの抵抗もなくわかった(=表象した)ということなのである(佐藤 2007

身体は何も言うことを聞いてくれない

熱がずっとでている.気持ち悪かったりもする.そんなとき,自分ではどうにもならない身体を,普段は,意のままに操っているように感じている自分って,何なんだと思う.キーボードを打つとか,歩くとか,そういった行為はできるのだけれど,もうどうしようもなく,熱の制御か頭痛とかに関しては,身体は何も言うことを聞いてくれない.だから,身を任せるしかないわけです.身体が自分に休めと言っていると思うのは見当違いで,ただ単に身体が休みたいのです.ただそれだけなのですと思ってしまっている.こういった状況からどのように回復していくかを感じていきたい.

意識にのぼらない形・切り取られる「形」

爪が伸びてくるととても違和感を感じる.だから咬んでしまう.ある閾値を超えると,突然爪が伸びていることに,体中がムズムズしてくる.このムズムズは,身体の中のお腹のあたりから起きてきているように感じられる.ムズムズしてきて,爪を咬む.自分を咬んで,そして,咬みきる.まったく気にもしてこなかった爪を突然意識し,咬みきるという一連の流れの中に,僕は入れられる.僕が一連の行為の流れをつくり出すというより,爪が勝手に伸びて,閾値を超え,それに対して訳もわからずムズムズし,知らないうちに爪を咬み,いけないと思いつつも咬みきってしまう.「いけないと思いつつ」も行ってしまっていること.今,爪を意識してみて,爪と爪とを会わせたり,爪で爪を弾いたりしているけれど,全然ムズムズしない.爪がしなったりするのが,気持ちよい.咬もうとも思わない.身体でいつ,どこで,なにが気持ちよい・わるいは,意識できないことなんでしょう.徹底的に意識できない身体だから,可塑性をもつ? ある一定まではとても柔軟というか気持ちよいままで,閾値を超える「形」を形成し,その「形」に対してムズムズする.ほとんど液体でできている身体は,不定型なままでいたいと思うのか.でも,「形」を意識をムズムズして,爪を咬みきることで,いつもの同じような爪の長さ,形を保つことになる.いつも同じ形を保つことで意識にのぼらない形.でも少しずつ変わっていて,それが閾値を超えると急に意識され,切り取られる「形」.