曖昧なものを曖昧なままでヴィヴィッドになぞれるような方法

明滅する光を見る.映画でもテレビでもビデオでもケータイでも.いろいろところで明滅する光を見る.「明滅する光を見る」と書いたけれども,「明滅する光」を見ていると考える人,感じる人は少ない.僕たちはそこに仮現運動という現象に基づいた「動き」を見ている.でも,「動き」を見ていると考える人,感じる人は少ない.で,なんで映画でもテレビでもなんでもいいのですが,僕たちはこんなにも多くの仮現運動に基づいた「動き」を見ているのかということ.「明滅する光」「動き」が暗闇に閉じ込められた映画から,それが家庭に入り込んできたテレビ,ビデオ,それを手にもつことをできるようなったケータイ.実際には動いていないものを,眼の錯覚を利用して動いているように見えるようにするメカニズムに基づいた「動き」を見続けること.このことは,僕たちの身体にどのような影響を与えているのでしょうか.あと,「明滅する光」と「動き」がコンピュータと結びついて,僕たちの行為に即時に反応するにようになっていること.「反応する光」と触れ合うこと.こういったことをどのように考えていけばいいのか.自分の書くものに論理的説得力が足りないのはもう仕方ないとすると,それに代わるものを手に入れる必要があります.曖昧なものを曖昧なままでヴィヴィッドになぞれるような方法.そして,生きている「今」から考えること.

このブログの人気の投稿

マジック・メモ:行為=痕跡=イメージの解体可能性

インスタグラムの設定にある「元の写真を保存」について

お仕事:「MASSAGE 10」に記事を書きました.

[GIF]ボタンに納得がいかない

デスクトップ・メタファーと「ディスプレイ行為」 

各世代の動きをとめてしまう「ベタさ」でしか「インターネットおじさん」を考えることができない

画面分割と認知に関するメモ

マウスとカーソル:カーソルによる選択行為

ラファエル・ローゼンダールの「ガスのような作品」

中途半端な存在|カーソル|コンピュータの身体性