光とプラスチックと仮現運動:ビデオゲームにおける「ない」けど「ある」という曖昧さを認識できる能力

これは短剣か? 目の前に見える、
柄を俺の方に向けて。来い、掴んでやる──
掴めない、だが見える。
不吉な幻、目には見えても
手には触れないのか? それとも貴様は、
心の描き出す短剣か、熱にやられた脳が生み出す
まやかしにすぎないのか?
まだ見える、あの形、今抜いた
こいつと同じ手応えがありそうだ。
俺の手引きをするのか、いま行こうとしていた所へ。
まさに、こういうやつを使うつもりだった──
目が狂ったのか、それとも他の感覚がおかしくなり
目だけが鋭くなったのか。まだ見える。
貴様の刃にも、柄にも、血がべっとりだ。
さっきはついていなかった。──こんなものがあってたまるか、
血なまぐさいたくらみがこういう形をとって
目に映るだけだ。
[マクベス:第二幕第一場](シェクスピア 1606[?]=1996:50-51)

はじめに
 ビデオゲームの「パックマン」には、ワープ通路と呼ばれる場所がある。画面右側のワープ通路を端まで行くと、パックマンが一度暗闇に消えて、一呼吸おいて、左側のワープ通路からひょっこり現れる。ワープ通路を通るパックマンの消滅と現れに対して、映像作家の佐藤雅彦は、<ワープ>がどういうことかわかったと書いている。

仮現運動が、例えば猛獣などのが草木に隠れながら素早く移動するときにそれを認知するといった、現実に根ざした生得的能力であるのに対して、<ワープ>を認知する能力は、メディアの発達が目覚めさせた生得的能力なのではないだろうか。われわれがそれをSF小説やSF漫画で知識として知るのは、もちろん《パックマン》よりはるか前のことであろうが、その<ワープ>という表象をわれわれの内部に実際生むこととなったのは、パックマンをはじめてプレイしたときだという人が多いのではないだろうか。もしかして、それ以前のゲームに同様な動きが組み込まれていたとすれば、そのゲームで<ワープ>の表象を初体験した方もいるだろうが、重要なのは、どのゲームで知ったとか、いつ知ったとかいうことではなく、<ワープ>については現実として体験したことがないのにもかかわらず、そのテレビゲームに触れた瞬間に、大人でも子どもでも、世界中の人がなんの抵抗もなくわかった(=表象した)ということなのである(佐藤 2007:46)。

 ここで興味深いのは、佐藤が「テレビゲームに触れた瞬間に」と書いているところである。「パックマン」を含むビデオゲームは、見るだけではなく、手元のコントローラで画面上のキャラクターを操作できる。レバーを右に左に動かしながら、パックマンを動かす中で、<ワープ>が生じる。この瞬間移動を、パックマンをプレイしている人は、実際に体験したことがないにもかかわらず、なにも考えずに納得してしまう。しかも、それを理解するために言葉は必要なく、私たちの前に、<ワープ>の映像があるただそれだけなのだ。<ワープ>に限らず、私たちはビデオゲームをプレイするときに、現実では起きないことを自分で体験しているような感覚になっている。しかし、このような体験は、ビデオゲームにしか現れないものだろうか。
 宇野邦一(2008:180)は、ジル・ドゥルーズの『シネマ2』と向き合う中で書いた『映像身体論』の中で、映像と身体の関わりから生まれる「未生」の概念を提示している。「未生」の概念は、映画をはじめとする新たな映像メディアが「たんに部分的に視覚や聴覚を革新するだけでなく、それらの連結と、他の知覚との新たな結合さえももたらす」(宇野 2008:183)ことから生じる。さらに、宇野は次のように書く。

映像は、多くの場合、何かを伝達し、あるいは物語るという次元で受けとられて消費されるが、同時に映像は、視覚・聴覚、そしてそれらを通じて他の知覚にまで作用し、知覚の構成を決定し変化させる。そのようにして映像は有機的な身体の中に浸透し、別の身体を構成しうる。おそらく機械による映像を経験して一世紀を経た人間の身体は、すでに別のものになっている(宇野 2008:197)。

 映画を中心にした論考ではあるが、映像によって身体が以前とは別のものになっているという宇野の指摘は、デジタル以後の映像論が身体を中心に展開されてきたとこととも関係しているだろう。映画だけではなく、現在私たちが目にするビデオゲームやヒューマン・インタフェースなども含めた現代における映像を論じる『映像論序説』の中で、北野圭介(2009:109-187)は映像を巡る身体について詳細な考察を行っている。そこで、彼は、映像を体験する身体に「厚み」と「膨らみ」という言葉を与えている。「厚み」とは、映像に映し出されている身体の痕跡であり、「膨らみ」とは「映像というものをめぐって施された身体の軌跡」を示すとしている(北野 2009:117 [強調は著者による])。
 以上のことから、佐藤がパックマンの<ワープ>にみた「メディアの発達が目覚めさせた生得性」とは、映像というものを巡る身体の「膨らみ」の中に生じた、「未生」の概念だと考えられる。それは、ビデオゲームだけに発現するものではなく、映像に向かい合う身体すべてに生じるものだといえる。
 だが、ここでは、ビデオゲームにこだわりたい。なぜなら、ビデオゲームは、<ワープ>という現象を「大人でも子どもでも、世界中の人がなんの抵抗もなくわかった」(佐藤 2007:46)ものにしてしまう力を持つからである。<ワープ>を認知すること。ここでは身体の中に新たな認知が生じている。その認知のために、私たちがすることはほとんど何もない。ただゲームをプレイすればいい。映画が私たちの身体を別のものにしてきたように、ビデオゲームも私たちの身体を膨らませ「未生」の概念を発現させている。そして、映画に比べ歴史が浅いビデオゲームだからこそ、 誰もがなんの抵抗もなくわかってしまうような力が、まだ鮮明に残っていると考えられる。それゆえに、新たな生得的能力を発生させる土台に、アクセスすることがまだできるはずである。
 パックマンを左に動かしたいと思ったら、コントローラのレバーを左に傾けたり、十字キーの左ボタンを押せばいい。そうすると、パックマンは、左に動く。ただここで注意したいのは、レバーを左に動かしたらパックマンも左に動くが、それは物理的な因果関係ではなく、プログラムを介在した計算の結果にすぎないことである。物理的な世界では、何かを持って、それを左に動かしたら、持っているものも左に動く。見ているもの、触れているもの、身体の動き、そして、それらを統括している意識のすべてが何の問題もなく一緒に作用している。ビデオゲームというコンピュータと電子的ディスプレイによって構成される世界も、物理的世界と同じように私たちの身体に作用するようデザインされている。だから、私たちは、そこで様々な作業ができる。
 しかし、そこに感覚を組み換えるひとつの仕掛けがしてある。それが画面の左端から右端へ、右端から左端へと、パックマンが移動する<ワープ>なのだ。映画が現実と同じように見えながら、私たちの視覚と聴覚に対して働きかけ、五感の構成を組み換えていったように、「パックマン」が組み換えようとしている感覚は、ディスプレイに向けられる視覚と、パックマンを動かすためにコントローラに触れている触覚である。ビデオゲームは、視覚と触覚とを新たにつないでいる。けれど、そのつながりをどのように記述すればよいのだろうか。グレゴリー・ベイトソンは、二重記述という方法を示している。ベイトソンは、シェークスピアの『マクベス』から、マクベスが幻影の短剣を見る一幕(本論文の冒頭に掲示)を引用して、次のように書く。

二つ以上の異なった感覚器の集めるデータが組み合わされるときの二重記述のケースは、すべてこの一節に集約される。マクベスはまず、触覚でチェックすることによって、この短剣が幻影に過ぎないことを一応証明するが、それでもなお疑いは晴れない。彼の眼が、他の感覚すべてを凌いでいるかも知れないからだ。短剣に血のしたたりが現われてはじめてマクベスはこんな剣があるものかと断定するのである。
一つの感覚による情報と、もう一つ別の感覚による情報とを比較し、それに視覚上の変化を組み合わせることによって、マクベスは自分の経験が幻覚だというメタ情報を得たことになる(ベイトソン 1989=2006:99)。

ベイトソンが示すように、私たちは、ビデオゲームをしているときの二重記述を試みなければならない。ディスプレイに何を見ていて、何を手で触っているのか、まずはこのそれぞれを確かめなければならない。その後、再び、ディスプレイに見ているものを考えることで、私たちがビデオゲームで何を体験しているのかを示すメタ情報を明らかにして、「未生」の概念を発現させる土台にアクセスしていきたい。

1.光に徹底的に寄り添う「何か物理的なもの」
 中沢新一は、パックマンとともに初期のビデオゲームの代表作である「スペースインベーダー」に私たちが熱狂した理由の根底に、光と物質の関係があると考えている。

黒い空間の中からとつじょとして、白い小さな光の固まりが出現する。それが「敵のインベーダー」で、それらは集合して編隊をつくったり、分散して多方向にカーブを描いていったりする。その光点に向かってプレイヤーは射撃を加えるのだ。そして、撃たれたインベーダーはその場であっけなく光の滴となって飛び散って、ふたたび真っ黒な空間に吸い込まれて消えていってしまう。こんな単純な動作のくりかえしが加算されていって、ひとつのゲームが出来上がっていたのである。
さて問題は、この光の固まりの出現と消滅の「軽やかさ」にひそんでいる、と私はにらんでいた。「インベーダー」と名づけられたその光の固まりは、真っ黒な空間から、とつじょとして出現する。それがどこから来るのかは、まったくわからない。しかも、つぎからつぎへとあらわれてくるのである。全身が光でできているだけあって、その「侵入者」には、物質がしめす特有な抵抗感のようなものがまるで感じられない。「侵入者」たちは、存在の軽さを楽しむかのようにして、ふわっと出現して、ひらひらと飛行し、そしてまたふっとかき消すように消えていってしまうのだ(中沢 1997:20-21)。

 中沢の指摘は、論理との対話(タークル 1984=1984:93-96、安川 1992:149-150)やインタラクションの面白さ(安川 1992:166)といったビデオゲーム分析によくある視点とは全く異なっている。それは、私たちに光を投射してくるビデオ映像に関するものである。ビデオ映像は、光の点の連続的な置き換えでできている。その光の点の集まりによって、そこに映し出されているのがインベーダーになったり、パックマンになったり、マリオになったりするのであるが、もとをたどれば、それらすべては光の点の集まりにすぎない。私たちは、ビデオゲームのディスプレイに光を見ている。光であるから、それは物質とは異なる性質をもつ。中沢が言うように、それは物質がもっている抵抗感がなく、軽やかに動く。そして、出現しては消えていく。消えてしまった後には、何も残っていない。こんなことは、現実世界ではありえない。物質は視界に突然入ってきたり出て行くことはあっても、決して、ふわっと出現してかき消すように消えていってはしまわない。
 マクベスが幻影を見ていたように、私たちは、触れることができず、自在に現れては消えていく光をビデオゲームに見ている。だとすれば、ゲームもまた幻影ではないのだろうか。しかし、そこにある「光の固まりの出現と消滅の『軽やかさ』」を前に、私たちは「そんなものはありえない」と苦悩するのではなく、楽しんでプレイしている。この違いはなんだろうか。映像の「軽やかさ」を楽しんでいるときに、私たちはコントローラに触れている。インベーダーの場合は、左手で十字レバーを掴み、右手で弾を撃つためのボタンを押す。パックマンには十字レバーしかない。ファミリーコンピュータなどの家庭用ビデオゲームでは、両手でコントローラを持って、十字ボタン、押しボタンを素早く操作している。いずれにしても、ビデオゲームをプレイしている際に、私たちは手元にあるコントローラで、物質性を感じさせない光を操作している。手元にあるコントーラで、光を思いのままに操作することができるから、幻影とは異なり、私たちはゲームを楽しむことができるのではないか。
 しかし、いきなり極論を言ってしまえば、ディスプレイに見ている光が物質性をもたないのならば、それを操作するにも物質を介さない方がいいのではないか、つまりコントーラがないほうがいいのではないか。実際、技術が進んだ現在では、様々なセンサーを用いて、コントローラなしでゲームをプレイすることが多く試されている。この試みは、ゲームをより身体的なものにするためのものだが、その先駆けとなった任天堂のWiiはコントローラを用いている。「任天堂はかつてコントローラを用いずにゲーム体験を作ろうと試みていたが、Wiiはコントローラを使っている。それはどうしてか」という質問に対して、マリオの生みの親として知られる宮本茂は「鋭い質問だね」と言った後で、「インタラクションには、何か物理的なものを持っている必要がある」と答えている(Wired.com 2009)。宮本の発言から、コントローラとは、操作のために必要なものだが、最も本質的には手で触れることができる「何か物理的なもの」だといえる。
 任天堂は、コントローラの開発に力を入れてきた。1980年に発売されたゲームウォッチに搭載された十字キーは、ゲームの操作感に大きな変化をもたらした。それまでジョイスティックなどの立体的なもので構成され、主に手首を使って操作するものであったコントローラを、十字キーは指で操作する平面的なものにした。任天堂は、2D画面に対応する十字キーと複数ボタンというビデオゲームのコントローラの基本を作りあげた(桝山 2000:52-54)。さらに、3D画面に対応する3Dスティックという新たな要素を取り込んだNINTENDO64のコントローラについて書かれたページには、「コントローラを握ったときの手のひらや指先の触感は、ゲームプレイに大きく影響する大切な部分」(Nintendo Online Magazine 1991)とあり、3Dスティックを快適に使ってもらうための形を工夫したとしている。このような工夫が行われる理由は、「コントローラは個性豊かなキャラクターとプレイヤーを結ぶ唯一のインタフェースであり、キャラクターとの心地良い一体感の演出に直結している」(Nintendo 2001)と、ニンテンドーゲームキューブのウェブページに書かれている。
 細馬宏通(2006:193)はプレイヤーの立場から、NITENDO64のゲーム「スーパーマリオ64」の3D空間を動き回ることが非常に気持ちがよいとして、「この周到な3D行為空間は、3Dスティックコントローラーという新しいインターフェースに、ゲーム空間を徹底的に寄り添わせた結果生まれたものだろう」と書いている。開発者側の任天堂、ゲームをプレイする側の細馬の発言から考えると、コントローラの開発とは、2Dであれ3Dであれディスプレイを埋め尽くす光に徹底的に寄り添う「何か物理的なもの」を作っていく作業であったといえる。それゆえに、私たちと物質性を感じさせない光の固まりとの間に一体感が生じ、光でできた世界に触れているような感覚が得られる。手にフィットしたコントローラに触れているという感覚と、コントローラと光とが徹底的に寄り添って世界を作り上げていることによって、光に物質感を与え、幻影を見ているのではないかという不安を、私たちから取り除くのである。
 
2.認識の消失をもたらすプラスチック
 次に、私たちがゲームをプレイしている間、常に触れているコントローラという「何か物理的なもの」を構成するプラスチックという物質を考えていきたい。プラスチックだけが、私たちと映像との接点ではないと言われれば、その通りである。しかし、私たちが映像に触れる際に、手元にあるコントローラはプラスチック製のものが圧倒的に多いことは事実である。それは、コストの問題が大きな理由だが、それだけではないのではないか。プラスチックという物質の性質が、私たちの感覚や映像との結びつきに大きな影響を与えているのではないだろうか。
 プラスチックは、19世紀中頃に発明された新しい物質である。プラスチックは、その名前が示すように、変幻自在に形を変化させる物質である。プラスチックは、ありとあらゆる形で、私たちの日常生活の中に入り込んでいる。1957年に出版された『現代社会の神話』の中で、ロラン・バルト(1957=2005:285)は、プラスチックのことを「ひとつの実質であることを越えて、無限の変形という観念そのものである」とまで書いている。この物質は、自らを変形させながら、私たちが古くから親しんできた鉄や木などの物質に取って代わっていった。バルトは、プラスチックの自在さの代償を次のように指摘している。

しかし、この成功の代償として、運動として昇華されたプラスチックは、実質としてはほとんど存在しなくなる。その構成は消極的である。固くもなければ深くもないプラスチックは、有用な利点にもかかわらず、実質については中性的な性質に甘んじねばならない。つまり耐久性という性質のこと、廃棄のたんなる中断を前提とした状態のことである。偉大な諸実質がかたちづくる詩的な次元においては、プラスチックはゴムの流動と金属の平坦な硬さの間をさまよう、不興をこうむった物質である。それは泡、繊維、層といった、鉱物の領域に属するような本物の産物を何一つとして実現しない。それは変質した実質である。どんな状態に導かれようと、プラスチックが保っているのは綿のようなふらふわした外観であり、不透明で、クリーム状で、凝結したような何かであり、<自然>の勝ち誇った滑らかな状態には決して到達しえないという不可能性である。だが、最もよくプラスチックを裏切っているのは、それが立てる虚ろで平坦な音だ。その物音はプラスチックを台無しにしている。が、その色彩も同じである。プラスチックは、最も化学的な色彩しか定着できないように見えるからだ。プラスチックは、黄、赤、緑の攻撃的な状態しか留めていない。たんに色彩の概念を誇示しうる名前としてしか、それらの色を使っていないのだ(バルト 1957=2005:286-287 [強調は著者による])。

 バルトの指摘には、「固くもなければ深くもない」「ゴムの流動性と金属の平坦な硬さの間をさまよう」「本物の産物を何一つとして実現していない」「綿のようなふわふわした外観」「虚ろで平坦な音」「最も化学的な色彩しか定着できない」といったプラスチックという物質の性質が欠点として、これでもかと挙げられている。確かに、バルトがこのエッセイを書いた1956年の段階では、プラスチックはまだ何か他の素材の代用品であり、模造品を作るために使われる物質であった。バルトに「変質した実質」と呼ばれる欠点は、何かをまねるという点では大きな利点となる。そして、その利点を活かしたプラスチックは、「諸々の実質の階層秩序」を廃止し、「すべての実質に取って代わって」いく(バルト 1957:287)。
 バルトの予想通り、現在、プラスチックは至るところにある。しかも、バルトの時代には考えられない機能をもって、私たちの前に存在している。バルトが指摘したプラスチックの負の部分が、50年以上経った今、私たちの感覚にどのような影響を与えているのかを見ていきたい。建築家の太田浩史(1999:6)は「物質性が判然としない、曖昧なあらわれを持ったオブジェクト」の筆頭としてプラスチックをあげ、この新たな物質が「今世紀の物の体系を書き換えた」としている。この書き換えによって、大量に現れたプラスチックが私たちに与えた影響を、太田は次のように書く。

今や数千種にまで増加したプラスチックは、均質化された素材であるがゆえに、組成が外観に現れない。みかけの情報の少なさが我々の失語感を誘うのだ。そしてさらに我々を戸惑わせるのは、機能性が、プラスチックにうまく見て取れないということである。プラスチックの形成されたオブジェクトには継ぎ目がない。部分はひとつの素材のなかに一体化して配置され、機能単位の輪郭が定かではない。部分と全体、機能と物質性。それらの関係をうまく指し示せないことが、戸惑いの源になる(太田 1999:6)。

 プラスチックという新たな物質が、生活に入り込んできた初期のころの衝撃はバルトの言葉に示されている。そこで生じていたこの物質が示す曖昧さは、物質形成の技術革新が進んだ現在において、見かけと機能との不一致による戸惑いを生みだしている。太田(1999:7)は「マテリアルの発展史という史学が存在する。そしてそれに対応した、感性と論理と技術の史学が存在する」と書く。ならば、見かけと機能との不一致による戸惑いの中で、私たちの感覚はどのように、プラスチックに対応してきたのであろうか。太田が、デザインと物質との関係において先駆け的な論考と評価する『発明の物質 [The Material of Invention]』の著者エツィオ・マンジーニは、プラスチックと鉄とを比較して、次のように書く。

プラスチックは流体-固体という特別な地位(ガラスもまた流体-固体であるが、それを見せる度合いははるかに少ない)を誇示している。このことから、プラスチックは、別の技術文化を必要としている。金属の世界とプラスチックの世界との衝突は、固体の技術文化と流体-固体のそれとの違いの表れでもある。時間が経つにつれて、ふたつの世界の境界線ははっきりとしなくなっていくだろう。異なるマテリアルと文化を混ぜ合わせる複合材料の広がりは、ふたつの異なる文化の伝統を結ぶ架け橋になっていくだろう。しかし、当分は、この移行の状態のままである(マンジーニ 1986:67)。

 プラスチックは金属とは異なる世界に属するものだと、マンジーニは明言している。私たちは、多くの物質と長い時間かけて接する中で、膨大な記憶を蓄積してきた。それが固体の技術文化を形成してきた。それは技術的領域に留まらず、文化的にも物質に特定の意味を付与することになった。その結果として、特定の物質に対して、「高価な」「あたたかい」「なごむ」といった言葉が与えられるようになった。固体としての物質が確かにあるところからはじまり、私たちはそれを手で加工しながら、その特性を学び、世界を認識していったと、マンジーニ(1986:31-32)は考えている。この構造は、ジョージ・レイコフとマーク・ジョンソン(1980=1986)のメタファー論を想起させる。鉄は固いものであって、その固さの感覚が「鉄の絆」などといったメタファーを作り出し、世界を認識していく。世界を認識していくメカニズムとしてのメタファーを作り出す足がかがりとして、確かな形をもつ物質が機能している。マンジーニが金属の世界、固体の技術文化と呼ぶものは、物質が世界の認識のために機能している世界・文化だと考えることができる。
 しかし、プラスチックという流体-固体という特殊な性質をもつ物質は、金属の世界・固体の技術文化とは、全く異なる独自の世界・技術文化を形成していると、マンジーニは考えている。この新しい物質を前にすると、私たちの「記憶、経験、直観はもはや助けてくれない」と、マンジーニ(1986:31)は指摘する。確かに、プラスチックは新しい物質であるから、記憶と経験は役に立たないだろう。では、なぜ直観も役に立たないのか。それは、プラスチックが、その外観からは、何からできているのかがよく分からない物質であると同時に、私たちはその外観しか知覚し得ないからである(マンジーニ 1986:31)。以上のことから、マンジーニは次のように書く。

プラスチックのイメージの歴史は、物質の伝統的な認識可能性から認識不可能性へと移行していく歴史である。高いレベルの人工性とその歴史のなさによって、プラスチックは、すべて自然の性質に基づく物質、及び知覚的・記号的伝統によって強化された性質をもつ物質を破壊することに決定的な役割を果たした(マンジーニ 1986:32)。

 「認識の消失」を生み出すプラスチックは機能を増すことで、ますます日常生活の至るところに存在していくと同時に、さらに外観と機能が分離していく。機能は同一のまま外観を変えたり、外観は同一のまま機能が代わったり、その自在な変化が私たちの認識を戸惑わせる。私たちは、プラスチックという物質を認識することができなくなっただけでなく、世界を認識するための足がかりを失ってしまったといえる。しかし、一度認識を消失したことは、新たな認識を作りだせる機会でもある。例えば、色彩学者の小町谷朝生(1991:78-79)は、その光沢のある色彩から、プラスチックは「形と色とが分離して見えやすい対象」だと書く。小町谷の指摘は、バルトによるプラスチックの色への批判と重なるところがある。しかし、小町谷は、プラスチックの色の特徴を、物質から分離した新たな色として受け止めている。形と色とが分離して見える物質としては、古来からガラスのような透明なものがあったが、プラスチックのように大量に生活に入り込んではいなかった。だからこそ、プラスチックは、視覚作用の点でとても興味深い物質だと小町谷(1991:78-79)は考える。小町谷が指摘するように、プラスチックは日常生活に大量に入り込むことによって、私たちを新しい認識へと導いているといえる。しかし、プラスチックが空気みたいな存在になっているがゆえに、この新たな物質に意識的にならなければ、自分たちの感覚が変えられていることに気づかないままになってしまう。
 ここで、プラスチックの歴史が、模造品・代用品としてスタートしたことに戻りたい。プラスチックは、今でもその多くが、従来からあった多くの物質が形成してきたものを肩代わりしたものであることには変わりがない。そのことによって、世界を認識するための足がかりとしての物質の層が、すっかりと様変わりした。しかし、模造品・代用品であるがゆえに、たとえプラスチックによって物質としての認識が消失していても、私たちは、それらが従来からの機能を果たしていれば問題にしてこなかった。けれど、プラスチックをオリジナルの物質として構成されたものは、どうであろうか。数は少ないが、プラスチックとともに、世界に入り込んできたものはある。その代表例が、電子機器である。プラスチックは、安価で造形の自由度が高いことに加え、絶縁性に優れているため、電気設計を楽にする効果があるからだ(佐藤 2006:180)。遠藤徹(1999:19)は『プラスチックの文化史』の中で、「MDウォークマンもパソコンも、その表面を覆い、電子回路の基盤や回線ケーブルを包む、安価で丈夫な絶縁体の存在なくしては考えらないのではないだろうか。これらの物質は、かつては自然界に存在しなかったものである」と、電子機器とプラスチックの結びつきの強さを指摘する。そして、情報社会を支えている電子機器を物質レベルで支えているのがプラスチックなのだから、現代は「プラスチック・エイジ」と呼ぶべきだとしている(遠藤 1999:96-97)。さらに、情報社会を概念的に支えているデジタル化とプラスチックの関係を、遠藤は次のように述べる。

デジタル化とは、物質から情報という非物質へという、現実認知の中心の移行を指し示してるが、この物質から非物質への移行を橋渡しした素材が、半分物質であり、半分情報だともいえるプラスチックだったことはいうまでもない。ある意味で、デジタル化とは、プラスチック化の極限、プラスティシティ(可塑性)の極限への移行なのだとみなすこともできる。(無論、これらのデジタル機器を素材レベルにおいて支えているのもプラスチックであることは、改めて述べる必要はないだろう)。プラスチックの分子の長い鎖が、電子の流れに置き換えられただけのことなのだ。そこには本質的な相違はないのだということも可能だろう(遠藤 1999:178)。

 この遠藤の指摘は、色彩の面からみたプラスチックの形と色の分離にも通じるところがある。デジタル化が、映像表現を大きく変えたことは明らかである。そのひとつに色を物質から解放し、自由に扱えるようになったということがある(藤幡 1997:5)。私たちは、可塑性の極限で、物質から解放された色、つまり光の組み合わせをディスプレイに見ながら、物質性が曖昧で形から分離した色を示すというプラスチックに触れることで、ビデオゲームをプレイしていることになる。先に、光の世界に寄り添うコントローラによって、私たちは幻影を見ているという不安から解放されるとした。しかし、コントローラの素材であるプラスチックは、世界への認識を消失させるような曖昧さを私たちに与える物質であった。それゆれに、私たちは、ビデオゲームをプレイしている際に、幻影に触れているのではないだろうかという疑いが再びでてくる。プラスチックという曖昧な物質に触れながら、光を見ることで、私たちは何を体験しているのか。もう一度、ディスプレイを見るということに戻って考える必要がある。

3.光による仮現運動とプラスチックという物質の組み合わせ
 光の明滅とプラスチックとが組み合わせられたビデオゲームをプレイしている際に、私たちが見ているのは「動き」である。その「動き」は、仮現運動という原理から生じている。仮現運動は、実際は動いていないにもかかわらず、動いているように見えるというものであり、映画、アニメーションの原理として知られている。佐藤(2007:46)は、仮現運動を現実に根ざした生得的な性質だとし、<ワープ>を認知する能力と対比させた。それは猛獣から身を守るために危険を察知する能力として機能していたと思われるのだが、現在では、映画やテレビ、ビデオで仮現運動を日常的に体験している。ネルソン・グッドマンは哲学のみならず工学、デザインの分野まで影響を与えた『世界制作の方法』の中で、「知覚がみずからの事実をどのように制作するか」を表す顕著な例として仮現運動を取りあげ、次のように書いている。

問題の事実が「現実の」または物理的な運動ではなく「見かけの」運動に属するとしても、それを発見する仕事が勝手気儘なものになったり無益になったりしない。この場合の「見かけの」とか「現実の」という語は、さまざまな事実に対して、陰険にも人に偏見をもたせるレッテルである。スクリーンを横切る点の運動は、刺激や対象という形態では時として「存在しない」。これとちょうど同じで、別個の静止した発光は知覚としては時として「存在しない」のである(グッドマン 1978=2008:161)。

仮現運動は「存在しない」ものを見るという事実を作りあげる。実際には光の明滅しか起こっていないにもかかわらず、私たちはディスプレイ上に「動き」を見ている。この「動き」を見るとき、光の明滅は、実際に起こっているにもかかわらず、存在しなくなる。私たちは、このような「ない」のか「ある」のかはっきりしない曖昧な状況を人工的に作り出し、環境の至るところに配置している。
 アルヴァ・ノエ(2004:217)は、知覚というのものは、盲点があるにかかわらず視界に欠損がないように、そもそも「ない中にある」というヴァーチャルな性質をもつものだとしている。『知覚の中の行為 [Action in perception]』という著書のタイトルからも伺えるように、ノエは認識活動における身体を重視する哲学者である。この著書の冒頭に彼が提唱する知覚への「身体的なアプローチ」について、次のように書かれている。

この本のもっとも重要な考えは、知覚することは一種の行為だとするところにある。知覚は、私たちに、あるいは私たちの中で起こる何かではない。それは、私たちが行う何かなのだ。目が見えない人が、彼や彼女のまわりの散らかった空間を軽く叩いているのを思い出してもらいたい。一挙にではなく、時間の中で熟練した探索とその動きによって触れながら空間を知覚すること。これは、知覚することに関する私たちのパラダイムなのだ。いや正確には、パラダイムにすべきなのだ。知覚者の物理的な動き、インタラクションを通して世界は利用可能になる(ノエ 2004:1)。

この考えに基づいて知覚を考える際に、モデルとなる感覚は視覚ではなく触覚であるという考えをノエは示し、そのために「知覚理論の表象について考え直す必要がある」 (ノエ 2004:22)としている。知覚による表象が一枚の静止画として瞬時に与えられて、私たちがそれを一挙に認識するのではなく、ある連続性の中で認識されるということを、ノエは提唱する。
 ノエに従うならば、私たちは、一枚一枚の静止画が入れ替わっていく映画よりも、常に画面上のどこかが入れ替わっているビデオのような構造で、私たちは世界を知覚していることになる。今まで、知覚を考える際に、写真、映画は、私たちの見ることのモデルとなっていたの対して、ビデオはまったく考えられてこなかった。それは、知覚のモデルとして考えられた「見る」ことが、身体から切りはなされてきたことと大きく関係している。しかし、現在、映像と向かい合う私たちの身体は「膨らみ」の中にあり、「見る」ことは身体行為の一部としてある。この「膨らみ」の文脈の中にあるノエの触覚をモデルとした知覚理論に最もちかい映像メディアは、マーシャル・マクルーハン(1964=1987:325-326)が触覚的メディアと指摘した、テレビやビデオといった電子的映像メディアになるはずである。いや、ノエ流に言うならば、ビデオを知覚のモデルにすべきなのだ。
 ローラ・マークス(2002:2-3)は、ビデオが触覚的な近さを見る人に与えるのは興味深いことであると書く。同時に、マークスは、ビデオやテレビだけでなく、映画も触覚的感覚を見る人に与えており、映像が視覚的か、触覚的かは程度の問題であるとも指摘する。程度の問題であるがゆえに、私たちは長い間、テレビやビデオを触ることなく見てきた。確かに、私たちが、映像に触れるようになったのはつい最近のことのように思える。メディア考古学を提唱するエルキ・フータモ(2008:130)は、「古典的な映画や、テレビ放送でさえ、見ることに関しては距離を保ち、体を動かさないことを強調していた。しかし、ビデオゲーム、携帯電話、ラップトップ、iPodや他の『手で持つ』電子機器は、『触れることの次元』を馴染みのあるものにしている」と書く。重要なことは、いつからビデオ映像に触れるようになったのかを明らかにすることではなく、「触れることの次元」に、私たちが慣れ親しんでいるという事実なのだ。
 藤幡正樹(2009:244)は「ビデオ技術が生まれて間もないころに、映画とビデオの違いについて誰もが話していたのは、ビデオの「生っぽさ」である」と書き、次のように続ける。

映画は間欠運動によって上映されるために、その不連続さが生み出す現実離れした幻想的な質感があるのに対して、ビデオがモニター上で見せる像は、途切れずに連続しているために、対象がそのままそこにあるかのような感覚が呼び起こされる。それを「生っぽい」と呼んだのである。ビデオの表示では、映画の映写機が行っているような間欠運動がない。表示されている映像の上に、新たな映像を左から右へ、上から下へと塗り足していくという方法で、画面を映像で埋め尽くすのであり、画面内のどこかが常に置き換わっているのである(藤幡 2009:244-246)。

 ノエが提唱した知覚への身体的アプローチを踏まえると、藤幡がビデオの映像に「生っぽさ」を感じる理由は、それが私たちの世界の認識の仕方と似た構造で生成されているからだと考えられる。しかし、ビデオ映像は光によって構成されるため、物質性を感じられないものであったはずである。この光の物質性のなさと生っぽさとの間には、ひとつのパラドックスがあるように思われる。「対象がそのままそこにあるかのような感覚」と「光の物質感がない感覚」を同時に感じていること。このことから、ビデオは見ているだけでは、そこに対象があるのかないのかがわからないどっちつかずの状態の度合いが映画よりも高いのである。その不確実性を少しでも減らすために、マクベスのように見るだけではなく触れることが求められるのだ。
 そして、ビデオゲームは、35年という短い歴史にもかかわらず、既に「触れるメディア」の最有力の領域のひとつとして存在している(フータモ 2006:94)。その要因が、光の画面に密接に寄り添うと同時に、私たちの手にフィットするように工夫されたプラスチック製のコントローラの存在だと考えられる。光の明滅で構成される仮現運動を見ながら、プラスチックに触れる。物質性は「ない」が生っぽさが「ある」光の明滅、物理的な運動は「ない」が見かけの運動が「ある」仮現運動の組み合わせが、常に「動き」を生成している。そこに物質の認識を導く要素は「ない」 が、形と色としては「ある」プラスチックが、光による仮現運動の「動き」と一体化するためのコントーラとして差し込まれる。ここには、常に何かが「ない」中に「ある」が生じている。光の「ない」けど「ある」、仮現運動の「ない」けど「ある」、物質の「ない」けど「ある」。映像だけでもなく、コントーラだけでもない。ビデオゲームは、光を見ているだけでも、物質に触れているだけでもなく、「ない」のか「ある」のはっきりしない曖昧な仮現運動の「動き」の中で、光と物質とが「ない」と「ある」との間を行き来することによってはじめて成立する。つまり、ビデオゲームをプレイしている際に、 私たちは、時として存在しない光、動き、物質を体験しているのである。  
 その際に、プラスチックが示す曖昧さが大きな役割を果たす。 プラスチックは、私たちの体内に拒否反応なしに入り込んだように(ダゴニェ 1988=1992:17)、成型の自在さを駆使して、私たちの手にフィットするとともに、光の世界に入り込んでいく。プラスチックの薄い膜が、私たちを手で直接魚や肉を触れたときのヌメッとした感じから遠ざけてくれるように(中沢 1997:97、鷲田 2001:23)、私たちの物質の認識を一度リセットするプラスチックは、光の明滅が作り出す映像から生じる物質がそこにそのままあるような「生ぽっさ」と、それが光で形成されているがゆえの「物質感のなさ」というふたつの状態から程よく距離をとってくれる。つまり、プラスチックはその曖昧さによって、触れているものは認識できないが、目の前の映像は理解できる状況を作り出す。その時、コントローラに触れているという触感は、映像へと投射される。この投射が、映像に触れているような感覚をもたらす。私たちは、何かに触れているという感覚の中で、映像を見て、今自分が何に触れているのかを認識する。映像と結びついたプラスチックは、映像との関わりの中で、はじめて具体的に認識されるものなのだ。私たちの手元にあるコントローラは、画面上のキャラクターと一体化するためのものであり、私たちとキャラクターが一体化している際に、コントローラの存在は忘れられる。忘れられることが一番大切なのだ。それゆえに、プラスチックは、光の明滅と仮現運動が作り出す「動き」と一体化して、自らの認識の可能性を映像に委ねることができる。  
 そして、ビデオゲームをプレイすることは、 <ワープ>のように実際には「ない」体験を、「ある」ものとしていく。しかし、一度「ある」と納得していたものも、仮現運動の「動き」のように物理的には存在しない。「ない」けど「ある」けど「ない」という流れが動き続けること。「ない」けど「ある」へ、そして、「ある」けど「ない」へ。この流れを淀みなくなめらかにすることによって、プレイヤーとキャラクターの「心地よい統一感」が生み出される。見るだけでもなく、触れるだけでもなく、触れながら見ることで、そこにあるものが、実際には「ない」体験でありながら、「ある」ものとして一度納得しかけて、やはり「ない」となる。しかし、この流れの中で「ある」と納得しかけたときの感覚は、プラスチックという物質の手触りを通じて、「ない」けど「ある」という曖昧さを認識できる能力を発現させるメタ情報として、私たちに伝えられる。それは、見ること触れることができる何かがそこに「ある」ことを、私たちに信じさせる。これが「未生」の概念なのだ。マクベスが経験した幻影とは異なり、ビデオゲームは、映像にプラスチックという変幻自在で曖昧な物質を取り入れることで、光の物質性のなさの中で生じている仮現運動が示す曖昧さを、光の世界の外にある物質の世界に接続するための土台を作りあげたのである。つまり、幻影を「ある」ものとして認識できる感覚が、私たちの身体に発現したのである。
 
おわりに
 ビデオゲームは、光の明滅と仮現運動とプラスチックとを強く結びつけて、私たちの世界に入り込み、「未生」の概念を発現させている。ディスプレイを埋め尽くす光に徹底的に寄り添った物質としてのコントローラ。コントローラの素材であるプラスチックによる世界の認識の消失。光の明滅による仮現運動と一体化するプラスチック製のコントローラで、存在しない「動き」を操作すること。これらはあっと言う間に私たちの生活の中に入り込み、プラスチックという物質を通して、「ない」けど「ある」という曖昧さを認識できる能力を発現させていることを本論文は明らかにした。
 しかし、技術の進展は止まらない。私たちは、プラスチック以外の物質を通して、映像に触れ始めている。ビデオゲームではないが、現に、映像に直接触る感覚を与えている iPhone で、私たちが触れているのはガラスである。同じアップル社の MacBook Pro のトラックパッドにもガラスが採用されている。ガラスを通して映像に触れることは、やはりプラスチックとはまったく異なる感覚を与える。とてもなめらかなのだ。バルト(1957:286)が言っていたように、プラスチックでは表現できない自然のなめらかさがそこにはある。ここではひとつの転倒が起きている。自然の物質が、プラスチックという人工の物質を模しているのだ。自然の物質は、光の明滅と仮現運動とプラスチックとの結びつきで作ってきた感覚を解体し、作り直す。マンジーニ(1986:67)が指摘したように、プラスチックと自然の物質という異なるふたつの世界は、混じり合っていくのである。本論文は、プラスチックが映像に触れるためのひとつの土台を作ったことを明らかにしたが、自然の物質がそれを解体し、新たな「未生」の概念を生じさせていく。映像も、それを支える物質もすべては可塑的なものとなっている現代の状況では、映像環境は常に変化していく。そして、 映像との関わりの中で、私たちの身体は、常に別の身体に変化していく。その変化についていきながら、映像と向き合う身体についての言説を蓄積していくことがこれからの課題である。

1.本論文では、アーケードゲーム、テレビゲームを含んだビデオ映像を使用しているゲームの呼称としてビデオゲームを用いる。
2.ビデオゲームではないが、2005年に発表された小栗康平の『埋もれ木』について、宇野(2008:280)は「ハイビジョンを用いた『埋もれ木』の映像は、奇妙な重量感をつくりだす。光のきらめきではない。物質そのものから放たれるかのような固有の光が、そのような重さと軽さを生み出すのである」と指摘している。


参考文献・URL
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