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Poi Vol.2 featuring Tomoya Watanabe_PDF

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科研費「ポストインターネットにおける視聴覚表現の作者性にかんする批判的考察」研究グループは,2017年1月7日から29日にかけて,京都の ARTZONE とともに開催した展覧会渡邉朋也個展「 信頼と実績 」を中心にして,渡邉さんを特集した「Poi Vol.2 featuring Tomoya Watanabe」を刊行しました. 渡邉さんを特集した科研費の報告書でもある「Poi Vol.2 featuring Tomoya Watanabe」を各所で配布してきましたが,より多くの人に届いてほしいためPDFの配布も行いたいと思います.下のタイトルのリンク先にあるPDFは,「A4横1枚あたり2頁+小冊子」という設定でプリントしてステープラーで綴じてもらうと,実際の冊子の雰囲気が味わえます. よろしくお願いします😊 🗄🗄🗄🗄🗄 PDF版のPoiの置き場📚 https://shwca.se/poi 目次 イントロダクション 松谷容作 特集|渡邉朋也個展「信頼と実績」 作品解説 渡邉朋也、きりとりめでる、水野勝仁 落合のこと 渡邉朋也 誠実さの誠実さ 砂山太一 連鎖する出来事の流れの一部となり その全体をうまく動かすこと  秋庭史典 論考|サイボーグの歌声 デジタル音楽をめぐる試論  秋吉康晴 編集責任:松谷容作 ゲスト:Nukeme 編集:秋吉康晴、田川莉那、増田展大、水野勝仁 協力:守屋友樹 デザイン:増田展大 発行:2017/09/25 印刷・製本:株式会社太洋堂 主催:科学研究費基盤研究(C) 「ポストインターネットにおける視聴覚表現の作者性にかんする批判的考察」 研究課題番号:15K02203 研究代表者:松谷容作(同志社女子大学)

出張報告書_HELLO, YCAM!

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12月15-17日に開催された「 HELLO, YCAM! 」では多くのトークを聞いた.そこから感じたのは,YCAMがハックできる施設であり,ハックできる人たちがいるということだった.どこでも使おうと思える建物の空間を実際に使ってみたり,多くの異なる領域を拠点とする集団がそれぞれの集団をハックしてみたりと,施設と組織自体を中の人たちが改変していく.アーティストという何もないところから始める人とともに作業をしてきたYCAMのスタッフは,0から考えることに慣れているとR&Dディレクターの伊藤隆之さんが言っていたように,YCAMは0から1にする行為を行い続けている.しかし,よく考えてみると0ではない.そこにはすでにアーティストがいて,建物があり,組織がある.けれど,YCAMはそれを既定のものとせずに,常に改変できないかと様子を伺っている.専門委員の城一裕さんを中心にして,展示施設としてだけでなく研究施設へと整備されていく様子は,国の制度をハックして,YCAM自体が改変されているように見える.HELLO, YCAM!のトークセッションは,YCAMが自らを改変していくプロセスが話されていたと思う. Sports Hackathon & Yamaguchi Future Sports Day from YCAM on Vimeo . エデュケーターの菅沼聖さんがエキソニモをゲストに迎えた「教育」をテーマとしたトークで「書き込み可能性」と言っていた.この言葉を聞いたとき,YCAMのスタッフは「書き込み可能性」を自ら拡張していると私は考えた.公共施設という縛りがきつそうで書き込みの余白がほとんどなさそうなYCAMで,なぜ「書き込み可能性」自体を拡げることができるのであろうか,ということを大学という組織に属している私はトークを聞きながら考えていた.このテキストを書いている時点ででた一つの答えは,彼らはテクノロジーをうまく使っている,ということだった.YCAMはテクノロジー万能主義ではないけれど,テクノロジーを使うことで「これまで違うことができる」ということをポジティブに考えている.「それは単にあたらしいテクノロジーを使っただけではないのか」という問いがあったとしても,それは単に「問い」でしかない.YCAMの施設,スタッフはテクノロジーを作品...

Poi vol.2 featuring Tomoya WATANABE

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私が参加している科学研究費の研究グループ「ポストインターネットにおける視聴覚表現の作者性にかんする批判的考察」の年次報告書みたいなもの & ARTZONEで行われた渡邉朋也個展「 信頼と実績 」の記録として「 Poi vol.2 featuring Tomoya WATANABE 」を刊行しました.デザインは前号に引き続き,『 科学者の網膜 』が話題の増田展大さんです. 目次は以下の通りです. 目次にもあるように,私は「 作品解説 」を書いています.渡邉さんと田川さんが懇切丁寧な解説を解説を書いているので,私はタイトルの文字列から考えられることを書きました. また,秋庭さんの論考で触れられている私のブログはこちらです 告知:トークショー 「アートと計算(コンピュテーション)」と,出来事を複製する→出来事を個別化する 8部配布できるものがありますので,希望者の方は以下のフォームに記入をお願いします😊 Poi Vol.2 への興味,ありがとうございます🙏 手持ちがなくなったのでひとまず回答受付を停止しました. 読み込んでいます... [科学研究費基盤研究(C)「ポストインターネットにおける視聴覚表現の作者性にかんする批判的考察」研究課題番号:15K02203 研究代表者:松谷容作(同志社女子大学)]

告知:トークショー 「アートと計算(コンピュテーション)」と,出来事を複製する→出来事を個別化する

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29日に京都の ARTZONE で開催されている 渡邉朋也個展「信頼と実績」 で,渡邉朋也さんと美学者の秋庭史典さんのトーク「アートと計算(コンピュテーション)」の司会をします.ふたりとも話がおもしろいので,どんな話になるのか楽しみです! 是非,お越しください! −− トークショー 「アートと計算(コンピュテーション)」 日程:2017年1月29日(日) 18:00– 入場料:無料 会場:MEDIA SHOP gallery 登壇者:渡邉朋也氏、秋庭史典氏、水野勝仁(司会) −− このトークのために渡邉さんの作品を考えてみたのが,こちらです.渡邉さんといえば「落合博満」などの野球の話ですが,野球のことがキャプションで言及されているのは,《ツナとマヨネーズ》と《敬遠とフォアボール》だけなんですよね.下に書いたテキストは,最初は渡邉さんの作品全体を視野に入れていたのですが,書き終えてみると,キャプションで野球について触れている,上のふたつの作品にもっともフィットするようなテキストになっているような気がします.当日のトークとは関係あるかもしれないし,ないかもしれません.あくまでも,渡邉さんの作品に対する,私のメモです. 出来事を複製する→出来事を個別化する 渡邉さんの作品を見続けて,浮かんできたのが「出来事が複製される」という言葉である.《ツナとマヨネーズ》のレシートや《敬遠とフォアボール》の試合の再演のようにアルゴリズムをもとに生みだされたフォルムが複数展示されることで「同一性」というフォルムの問題がでてくる.それは単体としてのフォルムではなく,アルゴリズムを経たフォルム,もしくは,アルゴリズムと癒着したフォルムというあたらしいモノとして,そこに存在している.そして,アルゴリズムと癒着したフォルムをもつモノが生まれたときに,「出来事が複製される」という事態が起こっている.しかし,それだと渡邉さんが良く引き合いに出す落合のホームランの説明がつかない.とすれば,「出来事が複製された」結果として,アルゴリズムと癒着したフォルムをもつモノが生まれるときもあると考えてみたらどうだろう.そうすれば,落合にはホームランが残り,渡邉にはモノや映像が残る. 落合はホームランを打つための行...

MASSAGE連載02_「光の明滅」というディスプレイの原型的性質

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MASSAGE での連載「モノとディスプレイとの重なり」の第二回「 「光の明滅」というディスプレイの原型的性質 」が公開されました. 渡邉朋也さんの《 画面のプロパティ 》を,gnckさんの テキスト を経由して考えつつ,たかくらかずきさんによってtoggetterにまとめられた「 メディウム・スペシフィシティを巡って 」を参照して,ディスプレイで光が明滅していることについて書きました. 今回のテキストは書き進めて,修正を重ねていくなかで, 谷口暁彦 さんが作成してくれたイメージのように,自分がディスプレイとともに荒野に投げ出された感じがあります. 次回もがんばります😊

出張報告書_2016/04/15-17(別紙)あるいは,モノの「意思」の情報化/ヒトの意思の情報化

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15日は東京・神保町の SOBO Gallery に 渡邉朋也 の「科学と学習」展を見に行った. 3階にあるギャラリーに階段を登っていくと,クレヨンで描かれたようなドローイングが壁一面に展示されているのが見えた.近づいて見てみると,ドローイングはドラえもんやディズニーのキャラクターの塗り絵の上にされていた.ドローイングの反対側の壁には,同じように折られた5枚のレシートとその折りを指示する折図(=折り紙の設計図)とを一組にしたものが,3つ展示されていた.さらに,床にはカップラーメンの空き容器,食べたものの包装がゴミとしてまとめて入られたコンビニの袋,コンビニに売っている焼きそばか何かの空き容器の3つが薄い金属製の台座に置かれていた.これら3つのモノに共通してあるのが食べたときに使われた割り箸であり,割り箸の片割れは3Dプリントされたものに置き換わっている. レシートと3Dプリントされた箸は,渡邉が参加したグループ展「マテリアライジングⅡ・Ⅲ」や「みえないものとの対話」で見たことがあった作品であった.はじめて見た塗り絵の上にドローイングを行った作品には,レシートと箸の作品とは異なる感じを受けて,見ているときに,それが何を意味しているのかがわからずにモヤモヤした.渡邉はレシートの作品を《ツナとマヨネーズ》というタイトルで出品したマテリアライジングⅡ展のときに「情報と物質と私」というタイトルのエッセイを書いている.しかし,渡邉はこれまでの割り箸やレシートの作品で「情報」と「物質」との関係を処理していく過程に「私」が出てくることを極力抑えていたのではないだろうか.割り箸の3Dプリントであり,折図に基づいて折られたレシートにおいて,「私」は「物質」を計測して「情報」にし,その「情報」を具現化して「物質」をつくる処理装置に徹していた.けれど,塗り絵の作品においては「私」が「情報」と「物質」とのあいだに入り込んできている.その「私」が,作品を見ている私にモヤモヤを引き起こしたのではないだろうか. レシートの作品と割り箸の片割れを3Dプリントした作品とは構造が似ていると考えられる.割り箸の作品の値段はその割り箸で食べたものの値段なので,作品価格のつけ方はレシートとは少し異なるけれど,作品自体のつくられかたは似ている.割り箸が割られる,レシートが...

出張報告書_12/18-20(別紙)_「どうにでもなる」がゆえに「もう,どっちでもいいよ」とは言えない世界

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撮影:永田康祐 出張報告書_12/18-20(別紙)は,東京・八丁堀の milkyeast で開催された展覧会「無条件修復 第III期」に展示されていた永田康祐の作品を考察したものである.永田の作品は3つあり,それぞれ《裂かれた紙の写真》《4つのオブジェクトによるコンポジション》《石の上に木を落とす/木の上に石を落とす》というタイトルであった. 《裂かれた紙の写真》は,紙の中心あたりで下から中ほどまで裂かれた方眼紙を撮影した画像をプリントされた紙も裂かれた方眼紙と重なるように裂かれている作品である.撮影された方眼紙も裂かれていて,その支持体となる紙も裂かれている.展覧会のタイトルである《無条件修復》から考えると,支持体の紙を修復すれば,撮影された方眼紙も修復されるように思ってしまうが,そうはならない.支持体の紙を完璧に修復すればするほど,方眼紙の裂け目が鮮明に見えてくるだろう.当たり前だが,支持体の紙が保持しているのは「裂かれた紙」だからである.支持体の紙が裂かれているから,物質としての裂け目がイメージとして保持されている方眼紙の裂け目を「修復」していると言うのは言い過ぎかもしれないけれど,それを見えにくくしていることは確かである. 撮影:永田康祐 さらに《裂かれた紙の写真》で興味深いのは,支持体の紙がクリップで挟まれて,そのクリップが釘で留められた状態で展示されていることである.物体としての紙がクリップに挟まれているのに対して,紙にプリントされた方眼紙は釘で直接壁に打ち付けられた状態を撮影されている.方眼紙の支持体となっている紙には余白があって,そこに釘を打ち付けて,展示することもできそうではあるが,永田は紙をクリップで留めて作品を展示する.クリップで挟まれる紙という現象は,紙には表と裏があることを示し,支持体の紙をイメージの方眼紙から引き離し,それがモノであるという当たり前のことを強調する. 《裂かれた紙の写真》ではイメージの方眼紙と支持体のプリント用紙に物質的なちがいはある.しかし,それらは「紙」という言葉で括られる認識において,同一の物性を見ている人に与える.それゆえに,「紙」という物性で2種類の紙は重なりあって,方眼紙とプリント用紙の物質的なちがいは前面にはでてこない.対して,《4つのオブジェクトによるコンポジショ...

出張報告書_20151030 もしくは,「みえないものとの対話」の対話

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福岡県福岡市の三菱地所アルティアムで開催されている「 みえないものとの対話 」展を見た.「みえないものとの対話」展は,1980年代生まれの久門剛史,ラファエル・ローゼンダール,谷口暁彦,渡邉朋也によるグループ展である. 展示は 久門剛史 の《 after that. 》(2013年)からはじまる.細長い通路のような空間にミラーボールのようなモノに光があたり,壁や床に無数の反射が映し出されている.「ミラーボール」に近づいてみるとそれは無数の時計を組み合わせてつくられていた.一目見たときに「きれいだ」と感じた作品であった. 通路を抜けた空間には ラファエル・ローゼンダール の《 looking at something.com 》(2013年)が展示されていた.この作品はタイトルからもわかるようにウェブサイトであるから,ChromeやSafariなどのブラウザによって誰もがいつでもどこでも自由に見られるようになっている.その作品が今回はインスタレーションバージョンで展開されている.壁面にプロジェクションされた3つの画面に《looking at something.com》が映し出され,トラックパッドでカーソルを動かすと,画面上の天気が晴れから雨,そして雷雨と変化していく.鑑賞者はコンピュータの「窓」から自身の行為に即応する「天気」を見ることになるが,タイトルの《looking at something.com》は,そこで見ているもの「何か」としか言っていない.そこで見ているものは自然なものでもなく,人工的なものでもなく,単に「何か」なのである. [《looking at something.com》を考察した記事→ そこに見えているのは「雷雨」か,それとも「何か」か? ] 次の部屋には, 谷口暁彦 によるiPadやiPod touchを組み合わせた連作《 思い過ごすものたち 》(2013年)が置かれていた.サーキュレーターの風に揺れている天井から吊り下げられたiPadのディスプレイには「風」に揺れるティッシュペーパーの3DCGが映し出されていたり,iPadの画面に水が流れることでメモに文字が入力されていたり,2台のiPod touchがビデオ通話アプリFaceTimeでつながれていたりする.私はこの作品を過去に何度か見ている.今回興味深かったのは...

インターネットヤミ市インタビュー_エキソニモ/渡邉朋也編

金曜日(10/31)の夜からドバイに行きます.ドバイで ISEA2014 (電子芸術国際会議)が行われていて,そこで「A relationship between the Internet and the physical for the art」という発表をしてきます.発表の「インターネットヤミ市」を海外の事例と比較しながら分析するというものです. 取り上げるのはインターネットヤミ市の他に,Send me the JPEG by Winkleman Gallery,DISown by DIS です. 分析は以下のようになっています. −− 作品のJPEG画像をギャラリーのリアル空間で展示したグループ展: Send me the JPEG by Winkleman Gallery がアートワールドで「インターネット」と「現実空間」のあいだに起こる混乱を示している. アートのディフュージョンラインとして小売店舗を模したインスタレーションをリアルに展示し,その後オンラインストアを開設した: DISown by DIS は「インターネット」と「現実空間」の重なりの部分を「ポスト・インターネット」というあたらしい価値観で上書きしようとしている. スマホからポチるキミに悲報.わざわざ行かないと買えない,残念なECこと The Internet Yami-ichi by IDPW は 「インターネット」と「現実空間」のあいだの混乱を避けて,ネットと現実の重なりの余白の部分,つまりネットそのものと現実そのものをハッキングして,リアルに「インターネット的感覚」をインストールしている. DISとIDPWは感覚は似ているが,DISには明確にディスる対象として「アート」があるのに対して,IDPWにはそのような対象がない.その結果としてIDPWは「インターネット」そのものに対して意識を向けている.だから,IDPWはインターネットヤミ市でインターネット自体をハッキングして,インターネットが着地するフィジカルな場所というこれまでにないものをつくっているのではないか.そして,「インターネットヤミ市」自体がひとつのコンセプチャルなアートになっているのではないか,というものです. −− 前置きが長くなりましたが,今回の発表のためにインターネットヤミ市関係者にインタ...

JAGDAトーク_復習

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7月28日に行なわれたJAGDAトークの復習. 取り上げたアーティスト・作品 John Rafman《9 eyes》 Doug Rickard《A New American Picture》 Justin Kemp《Adding to the Internet》 Parker Ito《The Most Infamous Girl in the History of the Internet》 Ryder Ripps《Adrianne Ho Paintings》 Artie Vierkant《Image Objects》 Joshua Citarella《Compression Artifacts》 渡邉朋也《ツナとマヨネーズ》 −− トークを終えて,「情報」と「物質」との結合が解かれて,抽出された「情報」が常にそこにある状態で,その「情報」を「概念」として提示していくのか,「物質」に再び定着させるのか.これが「インターネット以後のアート/グラフィック」の問題なのではないかと考えた.もちろん,情報が抽出されていくことは「インターネット」にはじまったことではないけれど,「インターネット」によって「情報」の抽出とその拡散のインフラが整ったとは言える. トークのなかで,「情報」が「物質」から切り離されてきたことから生じる問題も「情報」を「概念」のまま作品を提示できるアートと,「情報」を「物質」に定着・固定化する必要があるデザインとでは異なることがわかった.「情報」を「物質」に固定しなければならないデザインは,その成果物に「情報」と「物質」とが一度は切り離されつつあることの痕跡を見つけるのは難しい.しかし,デザインにも確実に変化が起こっていて,作品のテイストがここ3〜5年のあいだに変化していると,菊地さんは指摘していた.この指摘から,アートでは既に「物質」のみならず現実との関係を疑うような作品が出てきているが,それは「情報」を「概念」として流通させることが可能なフォーマットだからだと考えるようにあった.「アート」というフォーマットゆえに渡邉さんの《ツナとマヨネーズ》のような「物質」に「情報」が定着した彫刻作品と情報のみの平面作品とをセットで提示することが可能...

JAGDAトーク_予習

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明日(7月28日)に行なわれる JAGDAトーク の予習.あくまでも頭を整理すための予習であって,この通り話す(した)わけではありません. 「ポスト・インターネット」というお題を頂いたときには何度も取り上げているArtie Vierkantの「image-objects」.最初,デジタル画像でそれをモノにプリントアウトして,展示して記録する.その後に,展示写真をPhotoshopで加工する.展示したオブジェクトが「主」で,他のデジタル画像や加工されてネットを流れている画像が「従」というわけではない.どちらかというと加工された画像が「主」.リアル展示を見たことがないのだけれど,彼の作品はもう充分に見ている感が強い.モノの存在感がとても希薄. Artie Vierkantはどのようにして作品を売っているのであろうか? ギャラリーの展示したオブジェクトを売っているのか,それともネット上を流通する画像も売っているのか,それらをセットにして売っているのか,最初につくったデジタル画像は売るのかどうか.彼のテキスト,インタビューにはこのあたりのことは書かれていない. Artie Vierkantも参加している「Compression Artifacts」.キュレーションはJoshua Citarella.この展示は,どこかの山のなかに展示室をつくって作品を展示,その後,すべてを燃やしてしまって,残ったのは灰のみというもの.実際にはもう誰も見ることができない展示を記録画像を通してみる.林のなかに展示室が忽然とあるという画像は,Joshua CitarellaとArtie Vierkantも参加しているTumblr「the jogging」っぽい.それ以外にも多くの展示記録画像があるのだが,それらは展示室に「天井」があったり,部屋の広さがまちまちであったりと多分に加工されている.「写真は見えている現実とのギャップを埋めるものではなくて,主観とのギャップを埋めるもの」とJoshua Citarellaは展示のテキストに書く.「image-objects」と同様にモノの存在感が希薄なようでいて,写真に映っている「砂=灰」がどこかモノ感を醸し出してて,「火」という現象とその粗い画像が強いドキュメント感をつくってもいる. ...

飲み会テキスト:「体言止め」にしたのは,何かここで「切り落とし」たい気持ちがあったから

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マテリアライジング展2を見に行った.OAMASの2つの研究室の展示:谷口暁彦研究室《物的証拠》,渡邉朋也研究室《ツナとマヨネーズ》を見に行ったという方が正しいかもしれない.なんだろう,情報と物質とそのあいだ,にあるのはヒトという感じ.ヒトってなんだろう.ヒトがかんじられる「不在」ということ.「ない」ということ.紙に書かれた山折り谷折りが示す情報と,そのまま折ること.いや,物的証拠はそこにあるけれども,それとともにある情報はまた別の次元にあるようで,物的証拠にくっついている. 「ない」ことに感覚・関心・興味を向けること.それが重要.「ない」ことを感じるには,まず「ある」ことを考えないといけない.それは感覚を研ぎ澄ますとかではなくて,そこに「ある」ことを素直に認めればいいということ.「ある」ことを「ある」ものとして認識していくこと. 「ある」という認識があって,そこから「ない」ことへの考察・分析がはじまる.「ある」と確かに実感できないものをデータにして,かたちにしたころで,それは「あー,そうですか」というものにしかならない.もっと,「ある」ことを認識して,それに実感をもたないといけない. 「ある」を考えることは「生きていること」をどう考えるのかということにつながるのかなと思う.でも,このように考えるのは僕がOAMASのふたりに最近,インタビューしたという事実,そこでナマのふたりに会っているということが大きな影響を与えているかもしれないけれども,そんなことなんだと思う.どこか1つの場所からしか物事は見ることができないのであって,そのときにそのひとつの場所に「ある」ことを肯定できるかどうかが問題なのだと思う. 「肯定」は少し違うかもしれないけれど,なんだろう,目の前にある物事を受け容れ,分析していくこと.分析が先にあるのではなくて,物事の認識が先にあること.これが大切な気がする. 認識したあとに,それを分析して,バラしていく.分析して,バラして,認識するとは逆の手順. 上の文字列を書いてから,歯を磨いてたりして,ちょっと時間がたったあとで,また書き始めているわけだけれど,このあとを続けられるかはわからない. こうした自分のこと[書いている時間]を含めた認識をすること,それが大切なような気がする.それ以外の手法が悪いというわけではなくて,...