告知:トークショー 「アートと計算(コンピュテーション)」と,出来事を複製する→出来事を個別化する
29日に京都のARTZONEで開催されている渡邉朋也個展「信頼と実績」で,渡邉朋也さんと美学者の秋庭史典さんのトーク「アートと計算(コンピュテーション)」の司会をします.ふたりとも話がおもしろいので,どんな話になるのか楽しみです!
是非,お越しください!
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トークショー
「アートと計算(コンピュテーション)」
日程:2017年1月29日(日) 18:00–
入場料:無料
会場:MEDIA SHOP gallery
登壇者:渡邉朋也氏、秋庭史典氏、水野勝仁(司会)
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このトークのために渡邉さんの作品を考えてみたのが,こちらです.渡邉さんといえば「落合博満」などの野球の話ですが,野球のことがキャプションで言及されているのは,《ツナとマヨネーズ》と《敬遠とフォアボール》だけなんですよね.下に書いたテキストは,最初は渡邉さんの作品全体を視野に入れていたのですが,書き終えてみると,キャプションで野球について触れている,上のふたつの作品にもっともフィットするようなテキストになっているような気がします.当日のトークとは関係あるかもしれないし,ないかもしれません.あくまでも,渡邉さんの作品に対する,私のメモです.
出来事を複製する→出来事を個別化する
渡邉さんの作品を見続けて,浮かんできたのが「出来事が複製される」という言葉である.《ツナとマヨネーズ》のレシートや《敬遠とフォアボール》の試合の再演のようにアルゴリズムをもとに生みだされたフォルムが複数展示されることで「同一性」というフォルムの問題がでてくる.それは単体としてのフォルムではなく,アルゴリズムを経たフォルム,もしくは,アルゴリズムと癒着したフォルムというあたらしいモノとして,そこに存在している.そして,アルゴリズムと癒着したフォルムをもつモノが生まれたときに,「出来事が複製される」という事態が起こっている.しかし,それだと渡邉さんが良く引き合いに出す落合のホームランの説明がつかない.とすれば,「出来事が複製された」結果として,アルゴリズムと癒着したフォルムをもつモノが生まれるときもあると考えてみたらどうだろう.そうすれば,落合にはホームランが残り,渡邉にはモノや映像が残る.
落合はホームランを打つための行為を複製しているのではなく,その場のパラメータを調整して「ホームランを打つ」という出来事を複製している.「行為を複製する」だと,落合はまだ身体に留まっているし,比較対象が過去のホームランを生み出した自分の行為となっている.しかし,「ホームランを打つ」を行為ではなく,出来事と考えてみると,自分の身体も物理世界の一部のパラメータであり,行為を物理世界で自分が最も操作可能なものとして認識できる.ここでは過去の自分の行為が持ち出されるのではなく,「ホームランを打つ」という出来事をなすために行為のパラメータを調整すればいいということになる.となると,ホームランは複製されたものではなく,それぞれが「ホームランを打つ」という個別の出来事ということになる.それはとても普通のことであるが,ここでは一度,自分の行為を物理世界のパラメータのひとつとして認識しているという点が重要である.
渡邉も「レシートを折る」「野球ゲームをプレイする」「スクリセーバーを表示する」「割り箸を3Dプリントする」「塗り絵を塗る」と,一見,行為の複製をしているようで,そこで行われているのは行為を含んだ出来事を個別化する作業である.出来事の結果として残される折れたレシートや3Dプリントされた割り箸などのモノは複製されたり,再現されたりしたように見える.けれど,それは自分の行為を一度物理世界のなかに組み込んで操作した結果生まれる個別化された出来事としてそこにある.それらは渡邉の行為をひとつのパラメータとして含んだ物理世界のアルゴリズムで処理されるものであり,アルゴリズムと癒着したフォルムをもつモノといえる.しかし,それは単体でみれば,個別の出来事の結果でしかなく,何の不思議もなくそこにあるものである.そこで,渡邉は個別化された出来事の特異性を示すために,それらを複数並べる.それは複製されたモノが複数並んでいるのではなく,個別化された出来事をその回数だけ行った結果なのである.そして,個別化されていながらも,同一の出来事に見えるようにして,あたかもそれら自体がひとつの個別化された出来事に見えるような状況を設定しているところが,渡邉作品の肝なのである.だから,渡邉の作品はモノと癒着したアルゴリズムよりも,状況を設定するモノや映像のフォルムのほうが重要になってくるのである.