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お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_18

記事を書きました→ 「いま、映像でしゃべること?- Orality in Moving Image -」が開催 12月7日、8日に渋谷ヒカリエ 8/ COURTで開催された東京藝術大学大学院映像研究科オープンラボ「いま、映像でしゃべること? – Orality in Moving Image -」presented by GALAXY Lab. について書きました. 記事のなかで「私はここ1年くらいのあいだ,スマートフォンを使った作品に対して言語化できないモヤモヤしたもの感じていた」と書いていますが,このモヤモヤのキッカケは今回も出品していた谷口暁彦さんの個展「 思い過ごすものたち 」でした.この展示を見てブログを書いたのですがそのタイトルが「 ユラユラフラフラしているモノ 」なので,ユラユラフラフラしたモノに対してモヤモヤをずっと抱いていたといことになるでしょうか. 「いま、映像でしゃべること?」ではサムスン電子のGALAXY というスマートフォンが使われていました.タッチ型インターフェイスを備えたデバイスですが,今回は「タッチ」という部分ではなく,その板状のかたちがフィーチャーされていました.板状のデバイスがつくることができる映像の可能性を探るという感じです.ただその際に「映像」だけが取り上げられていることが気になりました.1日目のトークに出ていた徳井直井さんは私とは逆の観点ですがこのことを上手く指摘してくれています. モバイル端末を使った映像表現というとどうしてもOSが取り込んだ映像データをソフトウェアの上でごにょごにょすることを考えがち.  一方で開発者でない芸大生はまず端末を設置するフレームをレーザーカッターで作ったり,カメラにつけるアタッチメントを作ったり,端末をのせて走らせるラジコンを作ったりと、 OSがデータとして取り込む前の映像,そしてディスプレイに表示され出力される映像の見せ方,端末の「外」を最大限に利用していました. Nao Tokui loves to write.  私は徳井さんとは逆に端末の「外」を利用したものよりも,「センサーをハックする」というテキストを会場で販売されていたブックレットに書いていた谷口さんの作品のように端末の「内」も最大限に利用したものに惹かれました.それは目の前にある一枚の...

グリッチの表と裏:「幸村真佐男 glitch」展を見て

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名古屋の ギャラリーノイボイ で開催された「 幸村真佐男 glitch 」展を見てきた.ギャラリーの壁面に大きくプリントされたグリッチの画像が展示されていた.そのなかで特にガラス面に展示された作品が興味深かった.ガラス面のほうにグリッチ面=印刷された面を向けているので,展示室内からみると印刷面の裏を見ることになる.単に印刷の裏面なんだけれども,グリッチの「裏」を見ている感じがして面白かった.「グリッチの裏」ってなんだろうという疑問自体が面白い. ヌケメ さんのグリッチ刺繍の裏側とかも面白いかもしれない.見たことはなけれども,表はグリッチで,裏もグリッチぽい感じでも1本の糸がつながっている感じではないだろうか. Exhibition of Glitch Embroidery in ARS Electronica Center Main Gallery | 2013 works | Until the End of this Nov. | Photo:Dorita 幸村さんのは画像をプリントしたものだから,表と裏とではズレがないというか,表の画像が裏に透けているだけなのだけれど,裏から見たグリッチは異質な感じがした. 作品を見ていて,幸村さんが「デジタル写真はCGだ」と言っていたことを思い出した.今回のグリッチの展示はその「CGさ」が際立っていた.データの不具合が表出されたことによって,データを具現化していく演算との関係が見えてくる.不具合を起こすことでそこに「演算」が見えてくる.グリッチの裏側を見ることは「演算」の裏を見るということには直に結びつきはしないけれど,表が「演算」を強く意識させればさせるほど,裏の意味を考えてしまう. 印刷されたものの表と裏.データの印刷の表と裏.グリッチの印刷の表と裏.データの表と裏.グリッチの表と裏.表があったら裏があるのか? 表もなければ裏もない.そんな世界もあるのではないか?

ユラユラフラフラしているモノ

この週末はICCのトーク[ インターネット アート これから つづき ]があり,ゲンロンカフェでのエキソニモのトーク「 芸術係数「夜の世界のネット・アート」エキソニモ×辻憲行  」があり,谷口暁彦さんの個展「 思い過ごすものたち 」と盛りだくさんの内容でした.どれから考えるべきなのか,頭がいっぱいいっぱいな状態です.2012年度を締めるためにも,ちょっとずつ書いていきたいな思っています. -- 谷口暁彦さんの個展については,いろいろなところで書かれてると思うのですが(写真がたくさんあります→ 谷口暁彦 個展「思い過ごすものたち」フォトレポート ),僕的にはタッチデバイスしか使っていないというところが面白いなと思ったわけです.「思い過ごすものたち」というタイトルの掴めなさ.ここにはメタファーがありそうでなくて,物語が紡がれそうで紡がれることもなく,「思い過ごしたものたち」でもなくて,「思い過ごすものたち」ということで,時制が行ったり来ている感じがして,どことどことが触れ合っているのかもわからない感じがする. なんかこの言葉の届かなさ.「でも」というか「さらに」というか,谷口さんは自分でテキストを用意していたりする.なにかこの「ものたち」と「言葉」のあいだにあるものを考える必要がある感じする.いや,言葉は必要ないのかもしれない.吊られているものたちとテキスト.水で書かれるテキスト.iPadからつられる鉛筆.鉛筆が書くテキストと水が書くテキスト.そして,揺れるiOSデバイスというものたち. 谷口さんがiOSデバイスを使っていて,そのなかでも「吊るされている」ものたちがとても気になる.天井から吊られてゆらゆらしているものたち.ディスプレイと一体となっているものたちがゆらゆらとしている.その掴みどろころのなさというのか,なんだろう.そこには吊られているものたちがゆらゆらしているものがあって,それは平面的なデバイスを際立たせている感じがした.それは「ものたち」なんだけど,ディスプレイという平面に映っているイメージでもある.それはイメージのようでありモノではない感じ.でも,それは「ものたち」.イメージが映された平面はたしかにモノたちということが重要な気がする. 例えば,天井から吊られたiPadにCGで描かれた箱に入ったティッシュペーパーが映されていて,ゆら...

GIF 3D Galleryの考察:最前面の画像の立体感/モノ感

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谷口暁彦さんの「 GIF 3D Gallery 」.気になっていたけれど,取っ掛かりがなくてそのまま.そのあいだに 海外のサイト にも紹介されていて,それでもなかなか考えられずにいて,多分今もそうなんだと思う. 「GIF 3D Galleryの考察:最前面の画像の立体感/モノ感」というメモ書きが,僕のMacのディスプレイにあります. GIF BOOK で「 The Gif Connoisseur 」を考察したときに,「最前面−前面−背面−最背面」という重なり=距離の問題を指摘しました.GIFをみている「おじさん」は「最前面」でGIFを見ているということを考えました.そのあと,GIF論文を書きながら,GIFを見ている「おじさん」は,GIFを見ているのではなくGIFと衝突しているのではないかと考えました.でも,よくよく考えてみると「衝突」はしていない,だけど「遭遇」はしていると考えるようになりました.「見る」というよりも,もう少しなんか「モノ」というか,そこに存在するものに出くわすという感じ.そして,ディスプレイにGIFを見ている「おじさん=私」も,GIFと遭遇しているのではと考えたわけです. おじさんが最前面にいるように,ディスプレイを見ている「私」も「最前面」にいるという感じ.「レイヤー=層」というような別々の平面にいるのではなく,同一平面にありながら,重なり順が異なるという感じ.Illustratorを習得するときに,オブジェクトの重なり順というのがイマイチ体感できかなった.「レイヤー」はすんなり理解できたけど,オブジェクトの重なり順は違和感があった.でも,考えてみれば,描いた順に重なるというのは,リアルの世界で出来事に近いというか,そのものなんですね.でも,それに対して違和感を懐いた.「レイヤー」という程には明示されない感じに違和感を感じたのだと思う.Illustratorのレイヤーのウィンドウを開いて,さらにひとつのレイヤーを見れば,オブジェクトの重なり順を確認することができるから,レイヤーと同じと言えば同じなんだけれど… レイヤーのなかにレイヤーがあるような入れ子になっている部分に違和感を感じているのかもしれないと,書きながら思った.で,言葉もちがう.「レイヤー」と「オブジェクトの重なり」.言葉がちがうのであればその存在のニュアンスもやはりちがう. ...

映像から離れていっている

大名古屋電脳博覧会 に行って, 伊藤明倫さん の《波打つ大地,吹き抜ける瞬き》を見てきた.これは伊藤さんが去年の同じ時期に同じ場所で展示した作品 《瞬きの中,瞬きの外》 と同じ原理を作った作品です.今回の作品へのTextから引用します. 作品へのText1   このインスタレーション作品は,モニターの映像が Fade In, Out することによって生じる明るさの明滅が照明代わりになり,壁に貼られた写真作品を見ることができる,それらの空間的要素すべてを含めた作品となっています.          このような構造になっていることから考えられるのは,発光体で光るモニターによって,反射光としてしか認知できない写真が表層してくるという入り組んだ構造である事と,モニターは映像を見せる為に光るのであり,それが照明として機能してしまうことは副次的,もしくは本来意図していない現象であるということなどが上げられます.     展示室に入ると,暗い.その先に,液晶ディスプレイが2台.見る人に背面を見せて,向こう側の壁に向かって光を放っている.光は一定ではなく,不規則に明滅している.明滅する光によって,壁に張られている写真が見える.鳥の写真.ディスプレイと向かい合っている壁,その両脇の壁にも鳥の写真が貼られている.明滅する光の中で写真を見る. 部屋に光を生み出しているディスプレイの黒い背面を見つめる.この黒い物体の壁に面している平面は発光している.黒い物体から発光する光.それが何を示しているのかは,後ろからでは分からない.ただ光っている.それはただの光でしかない.それが写真を見えるようにして,そこに鳥が写っていることを示していくれる.回りこんでディスプレイに発光する面を見てみる.水面が映っている.波が映っている.波が太陽の光を反射している.もしくは光る波.反射光をカメラが捉え,ディスプレイは自ら発光する. この作品をしばらく見ていると,そこにはただの光があると思えた.ディスプレイという「何か」を表示する装置だけれども,そして実際に波を映しているのだけれども,背面から見ていると,そこにはただの光しかない.光の明滅しかない.2011年3月11日から9ヶ月たった今でも,波は津波を意識させる.波でなくても,水を使うことは...

「レイヤーではない重なり」としての「最前面・前面・背面・最背面」

「レイヤーではない重なり」としての「最前面・前面・背面・最背面」を考えてみるー.レイヤーは横からの見る.最前面ー最背面は上からしか見ることができない.視点の移動がない.垂直構造・統合.視点の移動がないから,そこに重なりが起こっているのかどうか,重ねてみなければ分からない.イラストレーターのオブジェクトの重なりのように.オブジェクトの重なり順はレイヤーのようにすべてを見渡すことができない.レイヤーはマノヴィッチを始め,多くの人が言及しているので,そこの知見を応用しながら,次を考えるために「最前面ー最背面」のあり方を探っていくことはできるだろうか. カーソルはつねに最前面にあり,デスクトップは最背面にある.そのあいだにフォルダが置かれている.「アクティブ」なウィンドウとそうではないウィンドウの重なり.「レイヤー」というとひとつの層すべてを覆うかたちで次の層があるが,「最前面ー最背面」では一部は重なっているが,そうでないところもある.ここにひとつの違いがあるのかもしれない.

「最前面|最背面 on レイヤー」みたいなメモ

最前面と最背面をもつ垂直構造.最前面と最背面のあいだには少なくともひとつの面があるはずなので,最小では3層構造.面と層とのあいだにはちがいはあるのかもしれないと思いつつ,とりあえず進めていく.レイヤーのなかで,それぞれ最前面と最背面があるとすれば,「最前面|最背面 on レイヤー」みたいな感じかもしれない.最前面にカーソルがあるとすれば,最背面には何があるのだろうか.データかなとも考えていたけれど,この面がレイヤーに載っているとすると,もっと考えなければならない.それはカーソルの先に何があるのかということで,カーソルがなくなったときには,その「先」だけがのこるわけだから,よりわからなくなっていくような気がする.

invisible loophole 展のギャラリートークの前|後

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invisible loophole 展のギャラリートークの前 カーソルという「見えない記し」.フロイトが示したような意識と無意識の2層構造.ここで,マジックメモに注目すると,3層構造がでてくる.カーソルはヒトとコンピュータとが作り出す3つめの層.カーソルの層|意識|無意識.という3層.意識の方向付けを行う「カーソル層」.意識の流れ.志向性.意識の方向.意識と無意識に影響を与える「向き」を示す層.ヒトとコンピュータとが融合することでできた新たな層.でも,それは「見えない」,見えているけど,見えない.だから,「見えない記し」.この見えない記しが見える記しを動かし続け,何かが記され続ける.  マウスからグリッチへ.  データが直接破壊されるグリッチ.すべてが記号の中で破壊が遂行される.ヒトのみが記号の破壊を認識できるのかといえるのが,コンピュータも,アプリケーションごとにその破壊を認識している,という面白さ.記号の破壊.見える破壊と見えない破壊.  グリッチからiPadへ.  iPadはデータとともに粉々に砕け散る.フィジカルに散る.リモートなし.現実にべったりとマッピングされたガジェットとしてのiPad.べったりだけど,その表面は記号の世界.現実にべったりとしたフィジカルな記号の世界.それゆえに,iPad Head Girl では「顔」から「その他のもの」に変わった時に,それが「フィジカルな」記号であるがゆえに,フィジカルと記号とが引き離されるのを見ることになる.だから,とても違和感を感じる.  invisible loophole 展のギャラリートークの後  昨日は,invisible loophle という展覧会のギャラリートークをした.トークしている中で,カーソルというヒトとコンピュータとの複合体の最前面を介して,コンピュータがヒトをまねているし,ヒトもコンピュータをまねているのではないかという考えがでてきた.コンピュータの反復性を,ヒトが行うようになる.コンピュータの思考にまねる.コンピュータの身体性をまねる.  映像に関して.今まで映像は,深層と表層から成り立っていたと考えられる.そこにコンピュータ...

スライド:映像文化 第9回|映像の極小化と極大化とそのあいだ

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愛知淑徳大学 映像文化  第9回|映像の極小化と極大化とそのあいだ→ スライド 参考資料 不完全な現実―デジタル・メディアの経験 ポケットフィルム・アーカイブ Sony 薄さ0.3mmの有機ELパネル ソニー、巻き取れる4.1型有機ELディスプレイを開発 -薄さ80μm。「大画面化にも適応性の高い技術」 Google Earth Google で,もっと. Google Earth で,エア・スカイダイビング Google で,もっと. 画像検索で,ファッション・ショー The Official Ralph Lauren 4D Experience - London Living Room "chair" Videoart Projection by Masaru Ozaki iうるる Web Designing 2011年05月号 講義を終えて 「iうるる」を紹介したときの学生の反応は,おそらく今学期一番の盛り上がりだった.「バカらしい」というコメントがあったけれど,この「バカ」のなかには映像の可能性が込められていると思っている.プロジェクション・マッピングで映像とモノとの境目を曖昧していくこと.同時に,ケータイでいつでもどこでも映像が撮れるようになって,それはどんなモノもすぐに映像となり,それがすぐに配信される.極小化においても,映像とモノとは入れ替え可能になっておりその存在の境界は曖昧になっている.そこに「iうるる」.これは極大化と極小化のあいだで,映像のモノ化というべき方向で,映像の在り方をかえてきている. この前の講義で「仮想世界」に関する映像を扱って,そこで「仮想世界」の前提として多くの映像が世界に溢れていることと考えた.今回扱ったプロジェクション・マッピングやケータイ,そしてiPadアプリ「iうるる」といった様々なサイズの映像は,モノの世界と重ね合わされることでフィジカルな存在になり,一種の「仮想世界」を作り上げているように思えた.

「薄さ」を与えられた平面:藤幡正樹の作品における平面の諸相

名古屋大学大学院文学研究科付属日本近現代文化研究センター が発行する『 JunCture 』第2号に「「薄さ」を与えられた平面:藤幡正樹の作品における平面の諸相」が掲載されました. この論文は藤幡正樹の作品《禁断の果実》《Beyond Pages》《未成熟なシンボル》における「平面」の性質を GUI の「平面」などとと対比しながら考察したものです. はじめに コンピュータと出会い、コンピュータ・グラフィクスにとりつかれてとうとう十年経ってしまった。私にとってアニメーションというメディアがコンピュータへの入り口であったなら、立体物を作ることはそこからの出口であるのかも知れない1。 このテキストは、アーティストの藤幡正樹が今から20年前に書いた「四次元からの投影物:デュシャンのオブジェからアルゴリズミック・ビューティーへ」の冒頭部分である。しかし、藤幡はこの立体物《禁断の果実》(1990)を作った後も、ZKMのパーマネントコレクションになった《Beyond Pages》(1995-97)ほかコンピュータを用いた作品を作り続ける。そして、いまでは日本のメディアアートを代表するひとりとなっている。 藤幡正樹と言えば、コンピュータを用いたインタラクティブな作品を誰もが思い浮かべる中、2006年にアニメーション作品《未成熟なシンボル》が発表される。自らコンピュータからの出口と書いた《禁断の果実》の制作後もコンピュータを使い続け、インタラクティブな作品で世界中の評価を得た藤幡が2、なぜインタラクティブではないアニメーション作品を作るのであろうか。 きっかけから言えば、平面性という問題なんです。トランプは平面でできています。写真などをはじめとするイメージ画像というものは、平面であることが前提になっていますので、平面的な物はイメージと実体のあいだの行き来が可能ですが、立体的な物は扱い難いんです。その意味で、テーブルとトランプという組み合わせは、イリュージョンを作りやすいということがあったんです3。 《未成熟なシンボル》をつくるきっかけのひとつに「平面性」の問題があったと藤幡は述べている。アニメーションという平面から作品を作り始めて CG に行き着き、CG を立体化した彫刻を作り、インタラクティブな作品を数多く作った後に、再...

コントローラの問題 for touch-touch-touch

「コントローラに関するメモ」を書くきっかけになった講義のためのスライドのブログヴァージョン. コントローラの問題 for touch-touch-touch View more presentations from Masanori MIzuno .

ゲームのコントローラに関するメモ

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ゲーム&ウオッチ「ドンキーコング」 ファミリコンピューターのコントローラ 薄型のゲーム&ウオッチにジョイスティックを納めて,なおかつ確実に押している方向がわかるということから考案したんです.  橫井軍平ゲーム館:ゲームボーイを生んだ発想力,橫井軍平・牧野武文 講義の準備をするために読んだ本からの引用.近頃考えている「薄い」という言葉がでてきている.考えてみれば,ファミコンのコンピュータは薄かった.それに十字ボタンが貢献していることを知る.ファミコンの二次元の世界には,「十字ボタン」というジョイスティックを平面化したデバイスが 有効であった.ディスプレイ上の世界が二次元なら,それを操作するコントローラも平面的な「薄い」ものであった.二次元と平面/薄さの対応関係. NINTENDO64のコントローラ 家庭用ゲームに「奥行き」が出現し始めたとき,その空間を操作するインターフェイスも「3D化」が迫られた.ニンテンドウ64の3Dスティックは形としてはジョイスティックを小さくしたものだが,それをコントローラの中央に大きく据えたことで,左右どちらかの「親指で操作」することを可能にしたのだ. 「テレビゲームのインターフェイス」,桝山寛 in BIT GENERATION 2000 ゲームの世界が立体化していくと,コントローラも厚みを帯びて立体化していく.このコントローラは,ファミコンのように「平面的/薄い」ものではなく,立体的なオブジェである.握りやすさを考慮したひとつのオブジェ.オブジェは言い過ぎかもしれないが,少なくても平面的なものではなくなっている. NINTENDO64の1年半前に発売された,3Dグラフィックスの描画を特長としたプレイステーションのコントローラには「3Dスティック」はついていないが,これももはや「平面的」ではない. プレイステーションのコントローラ(初期型) スーパーファミコンのコントローラは,真上からみれば「平面的」であるが,上面にLRボタンがついたために『立体化』の兆しが見える. スーパーファミコンのコントローラ コントローラを「平面/立体」で考えてみると何か見えてくるだろうか.アタリ 2600 のジョイスティックも考えると,ファミコンのコントローラが示す「平面性」は家庭用ゲームのコントローラでは異...

「接触|感知|表示」という3層構造

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iPhone4 マルチタッチの仕組み iPhone4などに使われているこの3層構造で何か考えることができないかと思っている.3層構造がマルチタッチを実現していることには,何かしらの意味があるのではないか. フロイトのマジックメモ も3層構造なので,何か考えるヒントがここにはあるような気がしている. iPhoneは大きなマルチタッチディスプレイと革新的なソフトウェアを搭載しているので,指先だけですべてをコントロールできます.その仕組みをちょっとだけご紹介しましょう.まず,ガラスに貼付けられたパネルが,電界を利用して指先の接触を感知します.さらに複数の指による接触を識別し,ピンチして拡大,2本指でタップなどの高度なジェスチャーも読みとります.このパネルで収集した情報が,その下にあるRetinaディスプレイに伝達され,思いのままの操作をできるようにするのです. http://www.apple.com/jp/iphone/design/ 保護層としての「ガラス」,接触層としての「電解を利用して指先の接触を感知する」パネル,その下にある表示層としての「Retinaディスプレイ」. パネルを「接触層」としてみたけれど,実際に指と接触しているのは「ガラス」である.しかし,指の接触を感知する層として機能している.接触層としての「ガラス」,感知層としての「パネル」となるのだろうか.「接触|感知|表示」という3層構造が,マルチタッチを可能にしている.これが,ディスプレイ上のイメージに「直接」 触れている という感覚をつくり出している. 仕組みを説明する図では,感知層が盛り上がったりように表示されていることから,「層」というよりももっと柔軟な感じがする「膜」といったほうがいいのかもしれない.そして,図では3つがそれぞれ離れているが,実際は密着している.3つの層が密着して一枚の薄い膜として機能することで「直接」という感覚をつくり出しているのであろうか? 

限りなく薄く柔らかい膜

清水穣氏がリヒターの「ゼロ面」と呼ぶものと,フレキシブル有機ELによって「柔らかさ」を与えられたディスプレイは何となく似たものがあるようなと考えている. 映像の物質化と物質の映像化のあいだに生じる「ゼロ面」.「柔らかさ」を与えられたディスプレイは,文字通りに映像の物質化を可能にする支持体かもしれない.と同時に,物質の表面を映像がぴったり覆うことで物質が映像化する.「あいだ」なのだが,ゼロ面はどちらでもないことから生じるのに対して,「柔らかさ」を与えられたディスプレイは,どちらでもあることを生じさせる.ゼロ面はもともと存在を認めることができないで,どちらでもないことから,あとからその存在が認められる.対して,ディスプレイはもともとその存在が認められる.そこから,「柔らかさ」が認められて,映像の物質化と物質の映像化のどちらもが生じることになる. あと気になるのは,ゼロ面が「限りなく薄い膜」のようなものであること.ここには「柔らかい」という形容詞はない.もしかしたら,「膜」という語が「柔らかさ」をほのめかしているのかもしれないが,「柔らかさ」と明示して考える事で,新しい何かが見えてくるかもしれない.「限りなく薄く柔らかい膜」と,それを現実にモノにするフレキシブル有機ELディスプレイとのあいだを考えてみること.

モノの「柔らかさ」に貼りついた映像

ディスプレイに関して,「薄さ」「軽さ」はよく聞くけれど,「柔らかさ」はあたらしい感覚だと考えられる.未来のコンピュータを考えるときによく出てくる「丸められる紙のような」ディスプレイを実現するには,「柔らかさ」が必要である.しかし,私たちはまだ「柔らかい」ディスプレイというものに慣れていないのではないか.たとえば,プロジェクターから映像が投影されるスクリーン.これは柔らかいので,丸めることができる.しかし,丸めると,当たり前だが,映像はスクリーンの表面からなくなってしまう.フレキシブル有機ELでは,丸めても映像はしっかりと映っているはずである.見えなくなっても,ディスプレイの表面にしっかりと存在し続ける映像.ディスプレイがどのような形になろうとも,それに適応してディスプレイに留まり続ける映像. プロジェクターからスクリーンの投影された映像は,自らの存在のためにスクリーンの表面を一時のあいだだけ借りているだけである.映像がスクリーンの表面を借りているのだが,映像が映っているあいだ,スクリーンは柔らかさを失い,硬直する.プロジェクションではない映像に関しては,ディスプレイの硬さが映像を成立させてきた.いや,映像は自らが成立するために,モノが持つ「硬さ」を利用して,「垂直」「水平」「直線」を生み出し,そこに貼りついてきたともいえる. しかし,フレキシブル有機ELは「柔軟」である.映像がモノの表面にまさに貼りついている.ここでは,ディスプレイというモノと映像とが一体化している.モノの「柔らかさ」に貼りついた映像と言えるかもしれない.今まで映像に硬直させられてきたモノが自らの存在を「柔らかさ」でアピールしている.「薄さ」「軽さ」とモノは存在を消去する方向で映像を支えてきたのだが,フレキシブル有機ELは「柔らかさ」を示すことで,モノは映像の支持体でありながら,その存在を前面に押し出すことが可能になったといえる. -- (メモ) 私たちは,まだモノとしての映像にはまだ慣れていない.写真がそれに近いかもしれない.親しい人の写真をくしゃとしたり,破いたりしたときに,私たちは単にモノのしての紙を破いているにも関わらず,奇妙な感覚を覚える.写真は静止画である,それが動画だったらどうだろう.くしゃくしゃにされたり,破かれたフレキシブル有機ELのディスプレイで,延々と人が微笑...

「影|映像|薄さ」に関する朧げなメモ

ブログを,10月になって全く書けていないことに気がついた,というか確認した.ということ,歩きながら思った. そのとき,フト,「影」について考えみようと思った.「影」と「薄さ」について,二次元と三次元との変換装置としての「影」というか,この場合,変換装置は「光」になるのかな.「影|光|薄さ」,三つの項目が揃ったのかもしれないが,これで何か考えられるのかというと,難しいかもしれない.「影|光/映像|薄さ」として考えて見たらどうであろうか.「影|映像|薄さ」で考えられること. 行為についても考えたいというか,「行為を二通りの仕方で記述すること」を考えたい.これを「影|映像|薄さ」との関連で考えてみること.映像という次元変換装置と,それによって捨象される「影」,及び,それによって付与される「薄さ」.そこで起こる「行為」,及び,行為の記述の二重化.

「平面|カーソル|薄さ」に関するメモ

「薄さ」を考えると,すぐに思い浮かぶのがマルセル・デュシャンの「アンフラマンス」.避けては通れないけれど,触れると火傷するような概念でもある.けれど,もしかしたら,アンフラマンスとテクノロジーという関係が成り立つのではないだろうかと思う.いや,アンフラマンスではない言葉,概念を見つけるというか,成立させることが求められている. コンピュータの世界と物理法則の世界との関係に回収されない概念を見つけること.このことを考えると,カーソルというのは,コンピュータの世界にも物理法則の世界にも回収されないひとつの概念ではないだろうか,と考えたくなる.どちらの世界にも属し,どちらの世界にも属さないあいまいな存在・概念としてのカーソル. カーソルが作り出しているディスプレイ上の薄い平面.カーソル自体が活動するために必要な「薄さ」.横から眺めることができない「薄さ」.横からも,斜めからも眺めることができないできない平面.それゆえに,そこの「薄さ」は確かめることができない.けれど,「薄さ」を感じてしまうような平面. ひとつの動く記号自体が,平面であること.平面の上に記号が乗っているのではなく,記号自体が平面であること.地も図もなく,それらがあいまいなっている平面.斜めからも,横からも,その存在を眺めることができないがゆえに,平面と認めざる得ない平面であり,それを構成する記号とその薄さ. ひとつの埃が動くことで,半透明な薄さを作り出すようなものであろうか.埃は積もることで,半透明な感覚を作り出す.カーソルは,それ単体で半透明な感覚を作り出す.埃という集合体のヴェールの薄さと,カーソルという単体の記号による薄さ. 埃に指で触れると,埃がなくなる.埃がなくなった指のあとは,なんとなく落ち着かない.せっかくの埃のヴェールを壊してしまったという後ろめたい感覚.薄さを突き破ってしまったという感覚.カーソルは,薄さを作っているという感覚.カーソルを動かすことで,ひとつの薄さが生じる.薄い平面が,ひとつの平面の上に重ねられる.カーソルが動いた箇所に,埃の上で動かした指の跡のような居心地の悪さはない. いや,カーソルが風車になっているときの,何もできなさ感じの居心地の悪さはある.下の平面上にある記号にアクセスできなくなる,これもまた記号であり,平面を作り出すカーソル.自らが作った平面の薄さを突き破ること...

キーボードにおける「薄さ/平面」という切断

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http://gtokio.tumblr.com/post/865929130/evolution-of-apple-keyboards 2007年に発表されたアップルのキーボードを見ていると,平面の上に平面を重ねている感じがしてくる.重ねられた平面がキー/ボタンなわけでだが,キー/ボタンという言葉から感じられるモノとして質感が,このキーボードから感じられない.平面の重なりという印象が強い.キー/ボタンがモノから平面になっている.そして,上の平面が引き剥がされてひとつの平面としてトラックパッドがでてきているような.この見方は,1984年からのキーボードを順々に見てきても思い浮かばない.2010年のトラックパッドから,2007年のキーボードを見たときに思い浮かんだ.2007年のキーボードと,それまでのキーボードのかたちとのあいだにには,「薄さ/平面」という切断がある気がする. 「薄さ/平面」以前のキーボードは,どこまでもキーボードであり続ける.「薄さ/平面」以後のキーボードは,平面の重なりを変えればキーボードにもなるし,トラックパッドになるというように,何にでもなることができると考えることはできないだろうか.

石上純也「建築の新しい大きさ」から考えた「薄さ」の構築のメモ

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石上さんのメッセージ できるだけ薄く,軽やかに,広く,できるだけぼやかしてゆく.すべてが,量子の揺らぎのなかに,ゆっくりとひろがってゆくように.ぼんやりした概念,ぼんやりした機能,ぼんやりした領域,ぼんやりした集まり,ぼんやりした方向.あらわれつつあるあたらしい環境のなかに建築が溶け込んでゆき,同時に,建築があたらしい環境をかたちづくるようになる. 建築の新しい大きさ,石上純也 石上さんの建築はたわんでいる.ゆらゆらしている.ちょっと間違えると倒壊してしまう.でも,危ういバランスという印象はない.鋭くない.ぼんやりしている. 石上さんの建築はとても薄い.今の自分の興味から,この薄さに惹かれている.薄いから,ゆらゆらしているが,しっかりと立っている.《雲を積層する scale=1/1000》で,眼の前のゆらゆらとしたものが自立してることに気づいたときは,ちょっとした驚きがあった. 薄くてゆらゆらしている平面を支える構造.「支える」という感じではない,平面に構造が密着している.眼の前にあるのは確かに三次元の立体なんだけれど,ぺらぺらした二次元の平面のように感じられる.三次元でもあり,二次元でもあるような不思議な次元が広がっている. たわんで,ゆらゆらしている立体でもあり,平面でもあるようなモノ.あるいは,単に「薄さ」.「薄さ」の構築.この展覧会に展示されている作品は,どのようにすれば「薄さ」が作られるのかを実験しているかのようにもみえた.物理的に薄いというよりも,薄さを生み出す「スケール」を作ること.

「側面」についてカフェで書いたメモ

側面が気になる. 横の「平面」.平面を支える側面. 同じ「面」なのに,側面と平面では扱いが違う. 平面をはだいたい,というかほぼ正面からみた面. メインの面.でも,側面は横にあって,普段は目立たない. でも,側面がなければ平面はなりたたない. それが水平であっても,垂直であっても. モノとしある時点で,平面には側面がある. でも,コンピュータのなかには,側面がないような. デスクトップメタファーには平面しかない. 側面がないのではないか.これが面白い点. 自分で勝手に面白がっているだけなのかもしれないが. 側面が薄いと,それは側面とは呼ばれなくなる. 面という意識がなくなるから. 側面がなくなって,単なる平面になる. 実際には極薄の側面があるのだけれど, ヒトはその極薄の側面を無視する. 側面.デスクトップではカーソルを横から眺めたらどうだろうという疑問を思い浮かべる.こんなことを思うのヒトは少ないかもしれないが,確実にいるはずです.では,iPhone とかのディスプレイの中を横から眺めるということを思い浮かべるヒトはいるだろうか.少なくとも,これを書く今のいままで,そんなことを思ったことはなかった.iPhone のディスプレイの中には側面を想像させる,側面というか,横から眺める・覗くという発想を呼び起こすモノや出来事がないのかもしれない. カーソルが作る半透明な層みたいなものがないからかもしれない.平面は重なると側面を作る.