中村夏野さんの個展《we, topologically.》のトークイベント「イメージと物語をめぐる認知」に登壇しました。
| 中村夏野《Duality》 |
2026年7月25日(土)、大阪・西成のSUCHSIZEで、中村夏野さんの個展《we, topologically.》のトークイベント「イメージと物語をめぐる認知」に登壇しました。その記録を、トークに向かっていった経路と、トークで実際に話したこととに分けて、書いてみたいと思います。
「跨がされる」から始まった
5月の終わりに、Yukawa-Nakayasuさんからトークとレビューのオファーをもらいました。共有された資料を読んで最初に書いたのは、中村さんの作品が「デジタルとフィジカルを横断している」という説明ではなくて、作品を見るわたしの方が二つのあいだへ「跨がされる」ということでした。これはデジタルか、フィジカルか。オリジナルか、コピーか。発光か、反射か。判定しようとするたびに判定の足場がふっと浮いて、右足と左足はそれぞれの領域に接地しているのに、身体全体はどこにも接地しない。この宙に浮いた感じを軸にする、と引き受けの返信に書きました。
展示初日に行われたトークの打ち合わせで、わたしが「物語に興味がない」と言ったら、それってどういうこと、となって、中村さんが「イメージと物語」をテーマにしましょうと言って、わたしは「困ったな」と思いつつ、それでいきましょうと言いました。
初日、「発光の粘度」を持って行く(7/3)
展示を見に行く前にオンラインカタログを全部読みました。というのも、SUCHSIZEは展示までにしっかりと展示に基づいたカタログができているのだから、それを読んで展示に臨むというのが、今回のトークや、そのあとに書くテキストに活かせると思ったからでした。このような体験ができるのであったら、しっかりとその体験をして、そこからテキストを生成してみたいと思いました。
テキストを読んで、電車の中でAIと対話しながら、作品を実際に見る前に、オンラインカタログを読んだ感じとして、「発光の粘度」という言葉が出てきました。光には粘度なんていう物性はないのに、その物性を合わせてみると中村さんの作品が面白く見れるんじゃないかと、わたしは感じていました。見る前から見るためのフレームを決めて行くという、わたしとしては珍しいことをしたと言えます。
会場で作品を見ながら書いたメモには、「発光が先にあって、認知と物質があとにある」と書いてありました。ふつうは光る物質がまずあって、それを受け取る認知があって、二つが出会ったところに現象が起こると考えるものですが、バラッドの「内部作用」に強いリアリティを感じていたわたしにとっては、その順序を逆に捉えてしまうというか、文字列にしてしまうようになっていました。循環が先にあると書いてしまって、そこからその言葉に追いつくように考えてみようと思っていたのだと思います。見るわたしと見られる作品は、発光のあとから分かれてくると考えようとして見るということです。
低空飛行の三週間
それから会期のあいだ、中村さんの《Duality》をパソコンの壁紙にして、開くたびに見ていました。24時間考えているわけではないけれど、低空飛行でずっとどこかで意識し続けたいと思っていました。
- 7/10:作品に映る影を自分で動かしながら見ていたら、いつのまにか、からだをくねくねさせながら見ていた。「ダンス生成装置としての絵画」と書いてしまう。
- 7/13:noteに「ひとつであることが、歪む。——《we, topologically.》の前で」を書きました。
- 7/15:町屋良平『IDOL』を再読しました。ハッコウしているときにしかないものがあると思っていて、認知の発光と物質の発光とが折り重なるのでは、と考えました。
- 7/20:山本浩貴さんの「テキストは指示書」という言葉から、認知のチューニングということを考えました。作品がそのようにしか見えなくなってしまう文章をいつも書きたいと思っているということを、改めて、考えました。
- 7/24:お風呂に入っているときに、「発光の粘度」ではまだこの作品を掴めていないんじゃないか、と思いながら、作品にフィットする擬態語をまだ思い浮かんでいないと考え続けていたら、「シーンと光っている」という言葉がやってきました。7/3の言葉には瞬発力があったけれど、三週間ずっと考え続けたあとに、中村さんの作品、特に、ずっと見ていた《Duality》にフィットする自分の言葉がやっと出た、という感じがしました。
トークで話したこと(7/25)
「物語に興味がない」の来歴
自己紹介を兼ねて、なぜ物語に興味がないのかを話しました。大学院のとき、研究科の名前から「人間」が取れて、アートの研究ができなくなってしまったこと。映像に興味があったけれど、映像の研究で物語を研究したら文学研究になってしまうと考えていたこと。じゃあ物語のない映像とは何か、と考えたら、それがインターフェイスだったこと。私たちに認知と行為の循環を生じさせる映像をインターフェイスと考えて、そこから研究が始まりましたということを、ざっと話しました。
もうひとつは批評の話。緻密な映像研究が最後にドゥルーズの引用で終わるのが嫌だった。作品を権威ある言説に回収させて研究を権威づけるのではなく、自分が見ているということを重視したいなと思っていたことを話したのですが、自分もまた誰かの権威に乗っかっていることも確かだなと思いつつも、このように話しました。中村さんの作品を見に来て何を見ているのか。何を感じているのかは、当たり前ですが、わたしにしか考えられないものであって、それを書きたいということです。
中村さんの話——視覚体験と「予感」
中村さんは一貫して、伝えたい物語よりも「見に来た人がどういう視覚体験をするか」が主軸だと話しました。動線は考えるけれど、こう見たら正解、というものはない。iPadでの制作は、ペンと紙の感覚で線を引くのではなく、色の塊を作ってカラー粘土のように引き伸ばしたり、つまんだりする。図案を見て「これは大きいのいける」という判断は、予感としてやってくる。どこで判断しているかは、本人にもわからない。中村さんは「わからない」と言っていたけれど、そこまでに至るプロセスの多くを言葉にしてくれていて、わたしは聞いていて、いいなと思っていました。
わたしの「発光の粘度」は、来る前にオンラインカタログで読んだ「カラー粘土」の記述から来ていたことを電車の中では忘れていて、昨日読み返して気づいたのでした。認知は直前に読んだものにフレーミングされていると思います。物語はそのフレームのもっと大きいやつで、起承転結の強さでわかりやすい方へどんどん回収していく。フレーミングされていることを意識して、引き離しながら、でも取り入れながら書かないといけないということを話しました。
ダンス生成装置と指示書
中村さんがわたしが書いたnoteから話を振ってくれた、影を動かしながらくねくね見ていたということから、絵画は「見ろ」というだけではなく、見方や身体の動かし方の指示の塊なんじゃないか、という話をしました。作品から受け取った指示で、わたしの行為が変わり、認知が変わっていきます。そして、わたしがその認知のあり方を言葉にしたテキストを書いて、文字列が示す意味とともに認知のフレームをつくって、他の誰かへの指示書になって、それを読んだ人が会期中に見に来て踊ってくれたら、認知のリレーが生まれます。いや、そうじゃない、そのフレームはおかしいとなって、別のフレームをつくろうとして、できあがっても、それはそれで認知のリレーになります。このような作品、批評、鑑賞という循環が起こるといいなと、わたしは思っています。
《Before the Tornado》と香港
中村さんが、はじめて作品に入ってきた「物語」の話をしてくれました。10年来の憧れだった香港。雨傘運動の時代には行けなかった場所に、言論が抑圧された状態になってから行けるようになったことの罪悪感を覚えたこと。そのようなことがあって、真ん中の青い丸が、最後に蝶になった。バタフライエフェクトのように、市民の一人一人が頑張っていたことを思い出して描かれた蝶。
いいビジュアルを作れるということは説得力があって強いということになりますが、今は、自分の思想とは違うものに回収される危険がある時代になっていると、中村さんは言いました。だから物語を「やりたい」というより「やらざるを得ない」と感じているとも、言っていました。この感覚は、トークのなかで強く響きました。それに対してわたしが返したのは、変化したことを変化したまま捉える、ということでした。
テキストを書くと視点は固定されていきます。でも書いている最中の自分の変化を細かく書くことで、自分のテキストも一つの大きな物語に回収させないようにできるのではないかということを信じて、書き続けるのが大切なのではないかと、トークで話したことを改めて今、書いてみました。トークでは「信じる」という言葉を思い浮かべて、言うのをやめました。「信じる」という言葉を使うと、それはそれでどこかに回収されてしまいそうになってしまうと感じたからですが、今は書けてしまっていて、そのまま残しています。このような注釈を含めてなら、書いてもいいと、わたしは思っているのかもしれません。
デジタルからフィジカルへ、身体の脱着
中村さんは、デジタルは早いけれど、それがフィジカル空間に立ち上がるのはものすごい労力だという話をしていました。インスタレーションは融通が効かないから、現実世界にフィットするように、CGでめちゃめちゃシミュレーションしていくというのは、想像世界に近いデジタル世界ということを思い出しながら、聞いていました。
そして、中村さんは、シミュレーションは自分の身体にとらわれずに済むのがいい、と言ってくれたので、わたしはそこから、AIで書くことの話をしました。わたしは身体を持って会場でくねくね動ける。AIは身体のない、関係の塊でしかないものです。でも、それは欠点ではなくて、わたしの身体を通した言葉を一回AIに通すと身体が抜け落ちたテキストが返ってくるというのは、身体なしのテキストでありながら、しっかりと意味を示す別の文字列が体験できるという、これまでには体験することが難しかったものです。その身体なしのテキストを通して、また自分の身体でテキストを書くというサイクルを通して、これまでとは異なるテキストが生成されていくのではないかと、わたしは期待しています。一回身体をなしにして試行錯誤ができることで、書けるものの幅が広がっているんじゃないかということです。
と、トークでは一般論のように話したのですが、今回のわたし自身の言葉を振り返ると、もう少し具体的なことを書けると思います。「発光の粘度」は、展示を見る前、電車の中でAIと対話しているときに出てきた言葉でした。「シーンと光っている」は、三週間《Duality》を見続けたあと、お風呂で、誰とも話していないときにやってきた言葉でした。AIとの対話は、まだ見ていない作品に対して、AIとの対話は、まだ見ていない作品に対して、作品を見るわたしの身体をまだ経由していない言葉を出してきて、わたしはそれをいいなと思いました。その言葉とともに、わたしは作品を見続けて、わたしの身体が出してきたのが「シーンと光っている」という言葉でした。どちらがいいということではなくて、AIによって身体なしで、かつ、わたしの思考や体験を先回りした言葉があったから、それが作品にフィットしているのだけれど、どこかわたしの言葉ではないような違和感を三週間持ち続けられて、その違和感の先でわたしの身体から別の言葉が出てきた、という順序だったのだと思います。身体を外して書くことと、身体に戻って待つことという往復から、作品を記述するための二つの言葉が生まれていて、その二つとも最後のテキストに書こうと思っている、わたしがいます。
トークを終えて
トークの締めくくりでYukawa-Nakayasuさんが、「わからなかったことの解像度が上がった」と言っていました。わからなかったことが、ひとつの説明によってわかるようになったのではなく、何がわからないのかが、それまでより細かく見えるようになった、ということだと思います。物語は認知のあとに来て、見たものをひとつの理解へとまとめようとします。それを防ぐことはできません。でも、まとめられたあとでも、もう一度イメージに戻り、そこで何を見ていたのかを考え直すことはできるでしょう。「シーンと光っている」は、たぶんこれから書くレビューのタイトルになると思います。三週間の低空飛行の先で出てきたこの擬態語が、《Duality》の前でどう作用するのか、わたしはまだ確かめきれていません。9月末のレビューまで、もう少しこの作品と一緒にいて、考えようと思います。