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中国・上海での発表

明後日,上海に行きます. 国際シンポジウム『文化の越境、メディアの越境──翻訳とトランスメディア』 で発表します.共同発表ですが,私の発表の内容はエキソニモの『断末魔ウス』を「トランスメディア」という観点から論じるというものです.詳しくは,以前書いた 日本語メモ . ここには発表とは異なるヴァージョンの英語テキストを置いておきます. -- Nature and Destruction on the computer Nature | Cursor | Destruction 1. Hybrid | Metamedium | Chimera Just as there was no fully development media theory before (or without) the computer, there was no fully developed human before (or without) technology. (p.196) Hardware/Software/Wetware, Geoffrey Winthrop-Young If Young’s statement is true, we must ask what the computer is in order to fully develop a media theory. Although there are many answers for what the computer is, I would like to focus on a computer scientist's, Alan Kay’s, idea--the computer is metamedium--because he is one of the fathers of the personal computer itself. Every message is, in one sense or another, a simulation of some idea. It may be representational or abstract. The essence of a medium is very much dependent...

山口に行くための考えごと

YCAM に展示されているエキソニモの《EyeWalker》を体験したい.山口は遠いなと思っていたのですが, CBCNETでの紹介記事 を読んだらとても体験したくなった.そこには作品の背景として「自分のいる世界、モニタの中の世界、移動する事、移動しない事、フィクション、ノンフィクション」ということが書かれていた.さらに,栗田さんの言葉で「見る」と「選択」のあいだの行き来,その中間地点にある違和感というとても興味深い言葉書かれている. この記事を読んで,まだ体験していないこの作品はエキソニモが ICC で展示した 《↑》 に通じるものがあるのではないかと思い始めた.《↑》は現実世界にモノとして置かれた「カーソル」がカメラで撮られ,ディスプレイに映しだされる.ディスプレイ上にカーソルがあるのだけれど,それは「こちら」側に置かれたモノの映像であって,いつものコンピュータが生成しているカーソルとは異なっている.私はこの作品を体験した時,カーソルという「こちら」側にあるのか,「あちら」側にあるのかよく分からない,その中間地点にあるようなイメージを起点にして,強制的に現実と仮想とのあいだを行き来させられる感覚を覚えた.それはとても否応なく意識を持って行かれる感じだった.《EyeWalker》もこのような拒否できない強い流れみたいなものを感じることができるのんではないか. カーソルはこの先の未来にもあり続けるだろうか.カーソルは iPhone には存在しないようにもしかたしたら,マウスとともに消えていくかもしれない.しかし,EyeWriter のような視線誘導のデバイスが普及するとしたら,そこでは,私たちが見ているところを示すものとして「↑」のかたちをしたカーソルが普通に使われている可能性が高いのではないかと思っている.なぜなら,カーソルは私たちの意識な関係を築いていると思われるからである. 現在のマウスと結びついたカーソルでも,私たちは極々普通にカーソルに自分に意識を持っていかれているときがある.それは,カーソルがひとつの依代になって自分の意識がコンピュータが作る情報の流れに取り込まれてしまうような感じである.ヒトが操作主体となってカーソルを動かしているのではなく,カーソルがヒトを動かすことが起こる.ヒトが長い年月を掛けてその制御の訓練をしてきた手と...

《ゴット・イズ・デット》が示すインターネットの「不穏さ」

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国立国際美術館に「世界制作の方法」 を見に行った.エキソニモとクワクボリョウタというメディアアートの作家が現代美術の領域で紹介されるという展覧会で,タイトルはネルソン・グッドマンの哲学書( 世界制作の方法 (ちくま学芸文庫) )からとられていてとても興味深い. エキソニモの《ゴット・イズ・デット》がとても良かった.古びた扉を開けると「ギー」と軋んだ音がする.音とともに暗闇の部屋に入る.暗闇の中にスポットライトが光っている.ライトの先にあるのは……(この先はまだまだ会期があるので,是非自分の目で見てください). 暗闇が支配する空間にスポットライトひとつという空間構成が,この展覧会の他のどの展示よりも,自分の感覚にしっくりきた.この空間を作り出しているのが「エキソニモ」というネットで主に活動してきたユニットということがとても興味深い.現代美術ではインスタレーションというかたちで,多くの空間構成が行われてきた.「世界制作の方法」でも,多くの現代美術の作家がインスタレーションを行なって空間を作り上げている.しかし,それらにはなにか感じるところがなかった.「リアル」に溢れる乱雑さのみが表現されているという感じで,そこには今では「リアル」に寄り添う「もうひとつのリアル」となっているインターネットという存在への配慮というか気遣いといえるようなものがなかったような気がしている. エキソニモの《ゴット・イズ・デット》には「インターネット」という「もうひとつのリアル」がそこにある存在として示されていたような気がする.「ネットは広大だわ」という草薙素子のつぶやきがしめすような茫漠とした拡がりと,そこを占めることになった猥雑で雑然とした感覚.どこまでも広がる茫漠した論理空間.それは今まではとてもクールで無機質なものとして現れていたけれど,それは今では雑然としたリアルの延長となっている.広大な論理空間と雑然とした生活空間という矛盾するふたつの空間の同居という要素が,《ゴット・イズ・デット》という作品の中にはあると思う. だからかもしれないが,《ゴット・イズ・デット》には,いつ何が起こるか分からないという「不穏さ」を多分に感じる.インターネットはいつもそこにある「もうひとつのリアル」となっているけれど,その存在を改めて明確に示されると,ヒトはそこで何が起こる...

memo:safari 5.1|← →|chrome 15 beta

前回のエントリーを受けて書いた memo から.  Chrome 15 beta のMac版だとスワイプすると矢印がでてページが戻ったり進んだりするのが興味深くて書いたのだけれど,どうもよくわからなかった.矢印の力はすごいなと思いつつ,それが行為と一致しないなかでも機能する.これらのズレを含んで自分に帰属しているという意識をもってしまうような,情報処理のプロセス.Chromeとユーザとの複合体による情報処理プロセスが生じている.なんかオリジナルな感じがするんですよねー.現実を模していない,行為をしているけれども,それを見ているだけにもなっているヒト.見ているだけでありながら,自分が行った行為をコンピュータが続行してしてくれている.しかも,自分の行為とは異なった方向で.行為の意図には沿っているけれども,そこから生じるイメージが異なるというか.異なると言っても,それはコンピュータ以前,ヒトと道具とのあいだでは想像出来なかったというだけで,今は実際に目の前に起こっている.それを受け入れている.

safari 5.1|← →|chrome 15 beta

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safari のウェブページを進めたり戻したりするときのアニメーション.指に吸いついてくるような感じで,ウェブページをスワイプすることができる.「進む・戻る」ボタンの矢印とは逆の方向に指を払うことになるのだけれど,そんなことは関係なしにすんなり受け入れることができた.アニメーションを入れることで,指とページがつながり,ページが自分の延長となっているような感じだろうか. chrome も2本指のスワイプでページを戻したり進めたりできていたのだけれど,今まではアニメーションなどの手がかりがなかったので,とても違和感があった.3本指でのスワイプでは「進む・戻る」ボタンの矢印と同じ方向に指を払えばよかったのだけれど,2本指では逆になる.どっちがどっちかわからなくなることがよくあった.それが chrome 15 beta では,2本指でスワイプする時に「進む」なら「→」,「戻る」なら「←」が画面の中央くらいに表示されるようになった. 矢印の表示が指の動きとは別の方向を指し示していることは変わらないが,自分が何をやっているのか迷わなくなって,断然使いやすくなった.手の動きと矢印の方向の一致よりも,アニメーションで動く矢印が示す方向に私の意識は向かっているのだろうか.しかし,上の映像のように手の動きと独立したかたちでみると,矢印の動きとその向きが逆になっていることに何となく違和感を覚える.矢印の向きよりも,指と矢印のアニメーションが一致していることが重要なのかもしれない.自分の身体として矢印を捉えて,思考は「←」もしくは「→」が示す向きに制御される.身体と思考とのあいだに微妙なズレがあるのだけれど,身体とアニメーションによって動く矢印とが一体化することの心地よさによってズレが回収されている.そうして,ページは自分の延長となる. safari はページを直接操っているような感じを身体と一体化したアニメーションで 作っているが,chrome は何だろうか.今までの3本指でページをスワイプしているのとも違うし,もちろん safari とも違う.iPhone のロックを外すような感じが一番近い気がする.ここではロックを外すのではなくて,ページを進めたり戻したりしているのだけれど.いや,一回一回ロックをはずして,ページを進めたり戻したりしているのか...

「レイヤーではない重なり」としての「最前面・前面・背面・最背面」

「レイヤーではない重なり」としての「最前面・前面・背面・最背面」を考えてみるー.レイヤーは横からの見る.最前面ー最背面は上からしか見ることができない.視点の移動がない.垂直構造・統合.視点の移動がないから,そこに重なりが起こっているのかどうか,重ねてみなければ分からない.イラストレーターのオブジェクトの重なりのように.オブジェクトの重なり順はレイヤーのようにすべてを見渡すことができない.レイヤーはマノヴィッチを始め,多くの人が言及しているので,そこの知見を応用しながら,次を考えるために「最前面ー最背面」のあり方を探っていくことはできるだろうか. カーソルはつねに最前面にあり,デスクトップは最背面にある.そのあいだにフォルダが置かれている.「アクティブ」なウィンドウとそうではないウィンドウの重なり.「レイヤー」というとひとつの層すべてを覆うかたちで次の層があるが,「最前面ー最背面」では一部は重なっているが,そうでないところもある.ここにひとつの違いがあるのかもしれない.

メモのメモのメモそのまたメモ

僕はエキソニモの作品を使って「カーソル」がメディアを跨いでいることを示そうといて,それは今までのトランスメディアがメディアを水平方向に並べてその枠を移動しているイメージだったのが,カーソルはメディアを垂直方向にひとつ層を重ねることで起こっている → なんてことを言おうとしていました.そこにグリッチを組み込むと,カーソル|映像|データという層の最背面の部分でのメディアの破壊というか,すべてを壊してしまうような可能性があるのではないかと,つらつらと思ったので,...…

「グリッチワークショップ」を見学して考えたこと

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東京藝術大学 芸術情報センター で8月20・21日に開催された公開講座「 グリッチワークショップ 」を見学しました. 「データを壊す」ってどういうことなんだろうと疑問から見学させてもらったのですが,とても興味深い内容でした. ucnv さん, 林洋介さんによるグリッジの技術的な講義と 針谷周作 さんによるグリッチの歴史とその可能性を示す講義といった,グリッチをめぐる技術と概念を端的に学べました.ワークショップ参加者は,技術を学んだあとに,グループごとに作品作りをしていたので,単に見学していた私よりもはるかに深く「グリッチ」のことを理解できたのではないかと思います.制作には参加しませんでしたが,私自身もこれから自分がメディアアートを考える上で役に立つような「グリッチ」という概念を得たような気がします. ここからはワークショップに参加した私の個人的な感想です. ucnv さんがグリッチの定義として「データは壊れているけれども再生できる」と言われていて,ここでの「壊れている」って何だろうと思いました. バイナリエディタで画像ファイルを開くと,その画像を構成しているデータが文字と数字ででてきて,この時点で自分的にはファイルが「壊れている」と感じてしまうわけですが,それは,画像を構成するデータの別の見え方であるわけです.「攻殻機動隊」や「マトリックス」で,緑の文字・数字が画面を覆い尽くすことのイメージや,概念では画像データを文字・数字で示すことは知っていても,バイナリエディタで画像ファイルを開くだけで,それが文字・数字ででてくると,やはりそれまでとは違って,やはりそうだったのかということを感じます.その文字・数字を適当なところで消したり,コピペなどで編集,保存して,その画像ファイルを画像として開くと,画像が変な感じになっている.バイナリエディタでやっていることは,自分の感覚からいうと「編集」という行為ですが,その結果生じた画像は「壊れた」と感じる.「編集」から「破壊」が生じるという変な感覚です.さらに,コンピュータにとっては別にそのデータが「壊れている」というわけではなくて,それをデータ通りに画像として表示しているわけです. 元画像 バイナリエディタで編集 (ちょっとした)グリッチ画像 コンピュータはデータは壊れ...

memo20110814からの抜粋+:ヒトとコンピュータとの複合「体」

囚われの身の身体は,囚われているからこそ,その囚われの空間で自由に動くことができる.けど,そのあと囚われていた身体は消えていった.ヒトとコンピュータの複合体における「身体図式/イメージ」を記していることが問題にされていることはないのではないか.だから,カーソルに注目がいかなかったのではないか.行為も思考もヒトとコンピュータとの複合体/回路の流れとして考えてみることが面白いのではないだろうか.フルッサーが言っているようなヒトと装置の複合体みたいなものに与える「人称」は何なのだろうかと思いつつ,そこにある「身体」はどのようなものなのだろうかを考えつつ,自らの身を省みる.動物との対比ではなく,コンピュータとの対比でもなく,ヒトとコンピュータとの複合体との対比から,ヒトの身体を考えてみること. + 「複合体」には「体」という文字が使われていることも考える必要がある.モノがあると,それがヒトと結びつくことになるとそれが「体」となる.ヒトの身体の延長になるのか.しかし,「延長」という考えだけでは,もはや考えることはできない.マクルーハンではないけれど「外破」と「内破」という感じで,内側への意識も必要.イヤ,「外」と「内」という考えではなく,自分的に今とても気になっている「流れ」として考える必要があるのかもしれない,これはとても自分的なことです.「回路」という「流れ」を作り出すものを考えつつ,そこを何かが流れていく「流れ」自体を考えてみること.何も具体的には思い浮かばないけれど,今はこんな感じだけが,自分の周りに流れているような感じ.

「情報美学概論A」を終えて

この春から東京藝術大学 情報芸術センター でやっていた「 情報美学概論A 」が終わった.私自身がインターフェイスからメディアアートへと研究の領域を広げようと思っていたところに,藝大のこの講義の非常勤講師の公募があったので申し込み,採用された.とてもいい時期だった.GUIというここ30年使っているインターフェイスと接する中で,ヒトの身体に蓄積されていった感覚がメディアアートに反映さているのではないかという考えから講義を組み立てていった.インターフェイス→メディアアート(もうメディアをとってアートと言ってもいいかもしれないが…)という身体感覚の流れは,学生にとっても新鮮だったようで,これだけでも示せたのは良かったかなと思っている. しかし,である.講義の中盤でインターフェイス→メディアアートという身体感覚の流れの最後に「カーソル」を持ってきて,エキソニモの《断末魔ウス》を例に説明するというところまでは良かったのであるが,その後が問題だった.「インターフェイス|メディアアート」のあいだの身体感覚の往来という軸だけでは「情報美学概論A」という講義を成立させることはできなかった. 軸がなくなった後も講義は続く.その中で徐々に出てきたのが「思考の流れ」という言葉である.「思考の流れ」が出てくる前に,コンピュータの「他者性」を強く主張するコスタス・テルジディスの『 アルゴリズミック・アーキテクチャ 』に出会った.そこには,ヒトの思考の終端からコンピュータとともに思考を始める「人間の思考のサイボーグ化」やコンピュータによるヒトとは全く異なる思考を「allo」と呼ぶことなどが書かれていた.私自身もコンピュータは全くの「他者」で,その「全くの他者」とのあいだにコミュニケーションをどのように成立させてきたのかということを理解したくて,インターフェイスの研究を進めてきた.その際にマウスの発明者であるダグラス・エンゲルバートの思想:ヒトとコンピュータとの身体レベルでの交わりの変化が,徐々にヒトの思考を変えていくことが研究の大きな推進剤となっていた.エンゲルバートの思想とそこから得た自分の研究に,テルジディスの「他者性」及びその思考に対する「allo」という考え方を結びつけることで,ヒトとコンピュータとのあいだの理解が自分のなかで更に進むと思いながら講義を進めていた.そして,...

スライド:情報美学概論A 第10回|情報としての自然

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東京藝術大学 芸術情報センター :情報美学概論A 第10回:情報としての自然→スライド 参考資料 展覧会 オープン・ネイチャー:情報としての自然が開くもの ミッションG:地球を知覚せよ! → 映像 書籍 Virtual Art: From Illusion to Immersion (Leonardo Book Series) 電子美術論 コンピュータ・グラフィックスの軌跡 FORBIDDEN FRUITS―藤幡正樹作品集 Critical Terms for Media Studies オープン・ネイチャー―情報としての自然が開くもの JunCture〈01〉―超域的日本文化研究 あたらしい美学をつくる コメントのコメント 今回の講義で扱ったことは,私自身がこれから向い合っていかないとならないとために,だいぶ詰め込みすぎてしまいました.申し訳ないです.また,みなさんからのコメントからのフィードバック,大変ありがたいです. アルゴリズムを記述する作家は「神」であったのかもしれません.しかし,徐々にその座が降りているようにも見えます.それは講義でも示した,世界との関係の中でのヒトの立ち位置の変化の中に作家もいるということではないでしょうか.アルゴリズムを記述していても,それがすべてを決定しないような作品が増えてきている.それは,明確な入出力を必要とするインタラクションではない,曖昧な,とても間接的なインタラクションの作品なのではないでしょうか. 建築でも,音楽でも何が自然かは問題になって,その自然が徐々にアルゴリズムで捉えられるようになっている.しかし,「自然+アルゴリズム」を「自然」と捉えるかどうか.「アルゴリズム」という言葉の中に,身体=感性が含まれているのか否か. 秋庭さんは「感性」などの主観から離れたところにも「美」があるということを「ナチュラル・コンピューティング」という自然科学に寄り添うことで示しています.そこでは「フォルム」ではなく「アルゴリズム」が,世界を認識するための大きな役割を担うことになっています. まだ自分の中でもうまく考えられていないのですが,四方さんや秋庭さんが示している世界認識の方法では,エキソニモの《断末魔ウス》のときに示したような「痛み=傷み」を捉えることができないのではないかと思っ...

見ているモノが触れているモノか?_pdf

以前書いたものをまとめてみた. 見ているモノが触れているモノか? まだまだ「カーソル」から離れられないでいる. 思考が凝り固まってしまったのだろうか……

コンピュータを前にした身体をめぐる想像力

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レフ・マノヴィッチは,コンピュータと向き合う身体は囚われていると考える.それは,遠近法から映画へと続く,西洋の表象システムの伝統である,マノヴィッチは指摘する.ただ今までと異なる点があり,それは身体が動かなければならないということである.コンピュータの前の身体は,囚われつつも,動かなければならないのである. さらに,マノヴィッチはコンピュータにおけるインタラクティヴィティはトートロジーであると考える.そして,ヒトとコンピュータとのあいだの字義通りのインタラクティヴィティを考察する際に,私たちはそこに物理的なやりとりを超えて,イメージを用いた精神の外面化をどうしてもみてしまう.それは西洋の表象システムの伝統でもあると,マノヴィッチは指摘する. 西洋の表象システムの伝統から,マノヴィッチは一方でコンピュータの前の位置する身体は囚われていると考え,もう一方で,コンピュータとのやりとりはヒトの精神を直接イメージとして外在化されていると示す.コンピュータの前にある身体は,一方で囚われの身であり,一方でその存在が忘却されている.ただどちらにおいても,身体は,動かなければならない. このマノヴィッチの論から,コンピュータの前に位置するヒトの身体の状況をどう考えればいいのであろうか? 私は次のように考えてみたい.コンピュータの前では,ヒトの身体はその存在が忘却され,消滅されつつある.しかし,コンピュータは自らの存在のためにヒトの身体を完全に消滅させるのではなく,「囚われの身」という多くの自由を奪うかたちで,ただ動き続ける存在として存続させ続けている. マーク・ハンセンは,マノヴィッチが「映画」のメタファーに縛られていると批判する.そこには,身体が「囚われの身」であることに対する批判もあるのではないだろうか.ハンセンはデジタル・メディアの前にある位置するのは「コードの中の身体」だと考える.コードの中での身体においては,身体スキーマと身体イメージとのあいだに乖離が生じると,ハンセンは指摘する.ハンセンが「身体スキーマ」と呼ぶものは,私たちが身体に対する観念みたいなものだと思われる.デジタル技術によって,変幻自在に変化する身体イメージは,私たちが抱く自らの身体スキーマを超えるような存在になる.このことを示すように,ハンセンは鏡や影をモチーフとして身体イメージを用いた作品を取り上げ...

Fragmentation メモ:中心への「↑」とループ|バラバラ|往復の「↑」

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伏木啓さんの Fragmentation を考えていたときに描いた図. 作品の時間の流れを示そうとしている.中心へと流れ込む時間.これは,フルッサーがテクノイマジネーションでの時間意識といったものに近い.バラバラな時間の向きの中に点線で囲まれた選択範囲があってその中だけ時間がループしたり往復しているのは,テクノイマジネーションの「あと」の時間意識なのではないだろうかと考えている.テクノイマジネーションが歴史の「あと」にあるとすれば,歴史の「あと」にあるテクノイマジネーションではない「もうひとつ」の時間意識.多くの視点をとることがテクノイマジネーションだとすれば,この「もうひとつ」の時間意識もテクノイマジネーションの中にあるものなのか? しかしそれとは異なる感じがする.「もうひとつの」という言葉や,自分が気になっている矢印が示す「その先にあるもの」というのは多様な視点をとることとも違う.そこには,私たちがどうしても「入り込めない」領域があるような気がする.そこに入り込んでしまうと,ループや往復している時間が示す「退屈さ」があるのではないか. ループや往復している時間が「退屈」なのだろうか.それとも,それらの時間に入り込めそうで,入り込めずにバラバラな時間の中にいることが「退屈」なのか.バラバラでもなく,ループしているわけでもなく,かといって時間の中心にいることもない,といった居場所のなさからくる「退屈さ」とも考えられる.時間の中にたしかにいるのだけれど,そこに居場所を定めることができない.居場所がないととすれば,不安になるのではだろうか.しかし,作品を見ているときの感覚は「退屈」であった.居場所がなくなり,時間との関係が切れてしまったことで,すべての対象が自分と関係なくなってしまったことからくる「退屈さ」だったのかもしれない.自分が全く選択されていない.自分が点線で囲まれていないことからくる「退屈さ」.そこで選択範囲が反転して,自分が時間が中心となり「退屈さ」がなくなる.

あいだを移行する「↑」──エキソニモ《断末魔ウス》、《↑》におけるカーソルの諸相──

日本映像学会の学会誌『映像学』85号に「あいだを移行する「↑」──エキソニモ《断末魔ウス》、《↑》におけるカーソルの諸相──」が掲載されました. この論文は「カーソル」の性質を,エキソニモさんの《断末魔ウス》と《↑》から考えたものです. はじめに 本論考が考察の対象とするのは、ユーザ・インターフェイスにおける「カーソル」である。とはいえ一口にカーソルといっても、それは CUI(コマンド・ライン・インターフェイス)にもあり、GUI(グラフィカル・ユーザ・インターフェイス)にもあり、iPad に代表されるタッチ型インターフェイスではその存在が消えかかっているように、その現れ方も一様ではない。そこで本論考はさしあたり、GUI におけるカーソルに焦点を絞る。なぜなら、四半世紀のあいだ、私たちとコンピュータとを結びつけてきたのは GUI だからである。GUI でカーソルは手の「拡張」やマウスの「分身」として機能して、人間とコンピュータというふたつの異なる存在を結びつけてきたと考えられている。しかし、私たちはカーソルのことをどれほど理解しているのであろうか。「拡張」や「分身」という言葉でカーソルを理解したつもりになっているだけではないだろうか。そこで、まず GUI におけるカーソルが曖昧で多くの「わからなさ」を抱えたイメージであることを確認する。そして、カーソルを「中途半端な存在」として受け入れるエキソニモによるふたつの作品、《断末魔ウス》(2007)と《↑》(2010)を論じる。この作品の考察から、カーソルが現実世界と仮想世界との「あいだ」を作り出し、その「あいだ」を移行していく存在であることを明らかにする。  興味ありましたら,本当は学会誌を手に入れて読んで頂きたいのですが,普通の書店で売っていないものなので,ドラフトを ここ においておきます.ドラフトなので,『映像学』に掲載されているものと若干異なります.もし引用される場合は,『映像学』を参照ください.『映像学』が手に入りづらい方はご連絡ください.

矢印についての寄せ集めメモ

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「矢印」について考えたいと思っていて,Youtube で見つけた動画.いろいろなところに矢印があるな. 以前,教えてもらった廣村正影さんの矢印関する仕事も気になる. 矢印 意識と行動予測の視覚化 去年銀座で展覧会やったときにいくつかのムービーをつくったんですね。矢印っていうのは面白いなって思ってサインをやることになると矢印たくさんつかうじゃないですか。それで矢印が動いたらどうなるんだろうなって思ったんですよ。人間の頭に矢印をつけて歩いてもらったらどう見えるんだろうなって思ったんですよ。頭に矢印ついてると、興味がある方向に少しぶれたりするんじゃないかなって思ったんですね。  地球大学クリエイティブ 第2回 廣村正彰「意味のコンテクストをデザインする 」from tamalog (C)廣村正影 2次元(2 dimension)の平面的とも言えるサインデザインが、3次元(3 dimension)の空間の中に位置付けられたときにいかなる視覚効果をもたらすかということに注目し、これまでの「サイン計画」や「VI計画」の概念を取り払い、様々な建築家や写真家とのコラボレーションを手がけてきた異色のクリエイター・ 廣村正彰 。  今回の展覧会では、1階では「矢印→」や「アルファベット」をモチーフに、矢印という記号それ自体が、空間の中で動きをもった表情を得ることによって、平面にはない新たな意味をもつのではないか。  http://www.tokyoartbeat.com/event/2007/5284 2次元と3次元のあいだを移行する「矢印→」.カーソルも含めてというか,カーソルから派生して出てきた「矢印→」そのものへの興味をどう研究に結びつけるか.アートの領域では,クレーとか,荒川修作とデュシャンとかも「矢印」を考えるうえで重要.アートとかデザインとか区別せずに,「矢印→」を中心にしてそれらをリンクさせていければおもしろことになりそう. 矢印は位置と向きと長さの3つの情報を同時に表すことができる記号だ。だから力や運動の位置、向き、大きさを過不足なく表すことができる。ふむ、そう考えるとサインに使われている矢印はたいてい情報が余ってるな。  https://twitter.com/yam_eye/status/27793247926 その際...