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7月, 2015の投稿を表示しています

ナウシカの世界におけるメディア・コミュニケーション(4)

自然との対話:サイレント・ダイアローグ ここまでは,ナウシカの世界における「見える」ことを考えてきました.その世界では通信やインターフェイスは直接「見える」ことが重要な要素になっていました.では,ナウシカの世界では「みえないちから」は,全く力を持たないのでしょうか,そこで最後に,ナウシカにおける「見えない」ことを考えてみたいと思います.まずは,現在の私たちの状況を確認するために,再びICCの展覧会のテキストを参照してみたいと思います.その展覧会のタイトルは「サイレント・ダイアローグ」といいます. 自然とは,私たちの抗うことのできない大きな力であるという意味で,コントロール不可能な,人間の意志を受けつけることのない私たちの身体もまた同様な「他者」としてある.自然の中で,私たち自身その生態系の一部となって,意識を自身の外部へ,内部へとめぐらせること.自然から何かを受けとる,そして自然へと何かを返してみる.これらの自然という「他者」とのコミュニケーションの試行から,私たちは何を感じ,何を知り,何を学ぶことができるのか.「サイレント・ダイアローグ」とは,それを考えるための展覧会であり,私たちと自然との「見えないコミュニケーション」を見つけだすための,いわば予行演習のようなものと言えるのではないだろうか.(p.14)  見えない世界との対話:サイレント・ダイアローグ,畠中実 このテキストでの「見えない」はメッセージを伝えるメディアが見えないという意味ではありません.私たちがメッセージの媒体として利用してしてきた自然の力,つまり「みえないちから」そのものとコミュニケーションを行おうとする試みなのです.メディアアートが常に「メディア」を問題にしてきたからこそ,その「メディア」そのものとコミュニケーションすることを,アートという手段を使って「予行演習」を行うという発想が出てきたのでしょう.そこには,私たちが自分勝手に利用するだけ利用してきた自然の「声」を静かに聴いて,自らの行いを反省しようという意味もあると思います.  自然の「声」を真剣に聴いてこなかった私たちに比べ,ナウシカの世界では,多くの人々が自然とのコミュニケーションをしているようにみえます.この点では,ナウシカ世界の住人たちは,私たちがするべき「サイレント・ダイアローグ」のお手本みたいな

ナウシカの世界におけるメディア・コミュニケーション(3)

ガンシップの速度計 ナウシカの世界における「見える」に関してもうひとつ興味深いところが,ガンシップのコクピットの速度計です.この速度計は,私たちがよく知っているように「時速◯◯㎞」と数字で表示されていません.何かが燃えているような5つの玉があって,その燃え方の具合で,速度を読み取っています.私たちは普段,車のスピードを数字で把握します.だから,道路標識にも制限速度「50」などと書いてあるわけです.標識の「50」と速度計の「50」をあわせる.これは簡単にできそうです.しかし,ナウシカが乗っているガンシップの速度計では,このように「50」と「50」を合わせるといったようなことはできません.なぜなら,数字で示されていないので,玉の燃え方でなんとなく合わせるしかないからです(そもそも戦闘機なので制限速度に合わせるということ自体がないですが…).あくまでなんとなく「今はこのくらいスピード」で飛んでいるとわかればいい.そして,ナウシカの世界では,それでまったく問題ないので,これでいいのでしょう. ガンシップの速度計にも,信号弾や鏡の通信と同じように,「知覚を直接行うこと」が重要だというナウシカ世界のあり方が示されていると考えられます.速度を数字で時速〇〇㎞と示すことは,誰にでも分かる方法です.しかし,その速さを生み出しているエンジンの状態を数字は何も表していません.エンジンが激しく動いていても,速度計にはただ「100」などの数字が表示されるだけです.もちろん現在の飛行機のコクピット,車のダッシュボードには速度計以外にも多くのメーターがついていて,それらの数字を読み取って,機体の状態を確認しているわけです.ガンシップの場合は,エンジンが激しく燃えていると速度計の玉も激しく燃えて,そしてスピードもでます.ナウシカはエンジンの状態が速度へと変換された数字を見ているのではなく,エンジンの状態そのもの,つまり速さを作り出しているおおもとの実体の状態を直接見ているといえます.これは,私たちの世界での速度計とは全く異なる表示の在り方です.もちろん,私たちも速度計などの数字だけで判断しているわけではなく,エンジンの音とか匂いとかを直接感じとって,判断している部分もあります.しかし,それらの情報は常にインターフェイスの「外」,つまり環境に置かれたままなのです.インターフェイスの「中

ナウシカの世界におけるメディア・コミュニケーション(2)

みえないちから」を利用する では,今の私たちを取り巻く通信環境はなんなのだと言えば,それは「みえないちから」によって支えられているといえます.いきなり「みえないちから」という言葉を使いましたが.この言葉は,インターコミュニケーション・センター(ICC)で行われた展覧会のタイトルです.ICCというのは通信会社のNTTがもっているメディアアートのための機関です.前のふたつの文の中に,このテキストが扱っている主要な要素「通信」「メディア」が入っていることに気づいたでしょうか.そこで,ナウシカの世界におけるコミュニケーションを考えるために,現在のメディアの状況を批判的に捉えるメディアアートを参照してみたいと思います.今回は作品ではなく,展覧会のテキストに注目して,メディアアートでどのようなことが問題になっているのかをみていきたいと思います.それでは早速,「みえないちから」展の主旨を引用してみましょう. このたび,NTTインターコミュニケーション・センター [ICC] では,「みえないちから」展を開催いたします. ドイツのアニメーション作家であり,音楽映画の名作として知られるウォルト・ディズニーのアニメーション作品《ファンタジア》(1940)の制作初期の段階に協力したオスカー・フィッシンガー(1900–67)は,「すべてのものに精霊が宿っている」と言い,その精霊を解き放つためには「そのものを響かせればよい」と言いました.この言葉は,アニメーションの語源が「アニマ(生命を吹き込むこと)」であることを想起させるとも言えますが,それ以上に,あらゆる物質がその中にエネルギーを宿しているということをほのめかす言葉だと言えるでしょう. アメリカの作曲家ジョン・ケージは,このフィッシンガーの言葉にインスピレーションを得て以来,物質の中に宿る音を探求し,見えないものや聴こえないものの中から音を引き出そうと試みます.それはある「もの」を叩くことによってではなく,「もの」に内在するエネルギーを聴こうとすることへと深化していきました. 音や光といったものは振動現象の一種であることはよく知られていますが,わたしたちは,たとえば人間どうしの関係性の中からも,わたしたちの知覚を超え,物理的な振動としては知覚しえない,エネルギーの交感のようなものを感じとることもあります.この展覧会では

京都工芸繊維大学_技術革新とデザイン_インターフェイスの歴史

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スライドのPDF 授業メモ マーシャル・マクルーハンの『メディア論』はメディアによる「人間の拡張」を論じたものである.メディアの変化によって,ヒトの身体が拡張するともに,意識も変化していくとマクルーハンは論じた.それは,マクルーハンが機械の時代=身体の拡張と電気の時代=意識の拡張のはざまに生き,機械と電気という2つの技術を同時に生きたからである.ただ,マクルーハンが生きた時代の多くは機械の時代であり,それゆえに彼のメディア論は「身体の拡張」が主に扱われている.そのなかで,メディア論の最後の3章「31 テレビ 臆病な巨人」「32 兵器 図像の戦い」「33 オートメーション 生き方の学習」では機械と電気の技術の戦いが描かれ,電気時代のヒトの意識のあり方が強く描かれている. マクルーハンのメディア論と同時代にアメリカでは今日のコンピュータ・インターフェイスに至る研究開発が行われてた.アイヴァン・サザーランド,ダグラス・エンゲルバート,アラン・ケイというコンピュータ科学者によるインターフェイス研究開発とその思想は,マクルーハンが論じた電気時代のヒトの意識のあり方を,コンピュータというメディアを用いてあらたに考えたものと考えられる.サザーランド,エンゲルバート,ケイはコンピュータ用いて「ヒトの知能をいかに補強増大していくのか」ということを考えていた. ヒトの知能補強増大という思想に基づいたインターフェイス研究開発のなかで,ケイはコンピュータを「メタメディア」と定義し,これまでのメディアをひとつの場所で受け入れる傘のようなものと考えた.「メタメディア」は単にこれまでのメディアをコンピュータというひとつの場所に集めるだけではなく,コンピュータ特有のプロパティが既存のメディアに与えられていった.それらはこれまでのメディアをメタファーとして使いながらも,全く異なるものになっていた.そして,あたらしい行為があたらしい思考方法導くという考えのもとエンゲルバートが開発し現在でも広く使われている「マウス」とケイの「メタメディア」という考えが結びついた現在のGUIは,複数のメディアがもっていた多種多様なヒトの行為を「ボタンを押す」という最小限な行為にしてした. ここで,ヒトの知能補強増大のひとつの結果としてインターネットができたと考えみるとどうだろうか

ナウシカの世界におけるメディア・コミュニケーション(1)

みなさんはケータイで友人と話,インターネットで動画を見たりすることが当たり前だと思います.もし明日からこれらの通信・情報技術がなくなってしまったらどうするでしょうか.友人とも連絡がとれないし,時間をどうやってすごしたらいいのか分からなくなってしまうのではないでしょうか.   今回は『風の谷のナウシカ』で描かれている世界を通信・情報技術が可能にしたメディア・コミュニケーションという観点から,私たちが生きている世界と比較していきます.その中で,私たちの世界のあり方を考えていくことになります. 復活しない通信・情報技術 宮崎駿監督の「風の谷ナウシカ」は一度文明が滅んだ後の物語です.一度リセットされた技術.リセットされる前には,車も飛行機などの移動技術もあっただろうし,電話などの通信技術,コンピュータに代表される情報技術もあったでしょう.しかし,ナウシカの世界では通信・情報技術はまったくと言っていいほどに復活していないのです.飛行機は復活して「船」と呼ばれて空を飛んでいます.しかも現在とは異なるより高度なエンジンを用いて飛んでいるにもかかわらず,この世界には電話すらないというのが,今の私たちから見たときの感想ではないでしょうか.ナウシカの世界では,なぜ通信・情報技術は復活しないのでしょうか.  【問い: もし今の技術すべてが失われたとしたら,「通信.情報技術」を再生させますか? 「再生する/しない」を選択して,その理由を考えみましょう.】 通信・情報技術は,私たちにとってごくごくあたり前の存在です.ケータイでいつでもどこでも友達と話し,メールする.それが便利だとも思わないくらいにあたりまえになっています.確かに,ナウシカが映画化された1984年(マンガは1982年から連載開始)には,ケータイはなかった.けれど,宮崎さんの想像力を持ってすれば,容易に描くことができる未来だったのではないでしょうか.1984年と言えば,コンピュータをディスプレイ,キーボード,マウスという「今」のかたちにすることを決定づけた,アップル社のマッキントシュが発売されています.多くの人がコンピュータを使うようになっている「現在」につながる「未来」が1984年に示されていたのです.だとすれば,「風の谷のナウシカ」の世界に通信・情報技術が「ない」という状況は,宮崎さんの明確な意思でなされた

インターフェイスの消失と「より感覚的」な外界の認識(3)

電脳と2つの世界 私たちのなかの「ノイズ」というと,それは「意識」に対する「無意識」のことだと考える人がいるでしょう.「無意識」とは,精神分析家のジークムント・フロイトが発明(発見)した人間が自分ではコントロールできない意識の領域のことです.しかし,電脳と無意識とが異なるのは,電脳が脳の情報を操作可能にするBMIの究極の形であるところです. BMI技術は,今までの脳科学がもっていなかった,脳内の情報表現に対する操作性を獲得するためのツールなのではないかと思うのです.この,脳科学最大の問題点であった操作不可能性を克服することが,僕のBMI研究の中で最大の感心事になってきました.今後のBMI研究は,その技術の工学的応用もさることながら,より深い脳機能の理解のためのツール開発と応用という目的で進めるつもりです.(pp.240-241)  藤井直敬『つながる脳』新潮社,2009年 BMIによって,脳のなかの情報が操作可能になるという脳科学者の藤井直敬氏の指摘は興味深いです.それは今まで知ることができなかった脳をBMIによって操作することで,「科学的な知」の対象にしていくことになります.そして,電脳がBMIの究極のかたちだとすると,BMIによって知り得た脳の情報のすべてがそこには詰め込まれているといえます.だから,電脳は「脳」として機能できるのです. しかし,「電脳」はどこまでもいっても人間ではなく,インターフェイスを介して操作してきたコンピュータです.では,「攻殻機動隊」の世界では,そのコンピュータを自分の脳として迎え入れることに抵抗はなかったのでしょうか.もちろん,抵抗はあったと考えられます.それでは,それはどうやって乗り越えられたのか.何が一番の障害となっていたのでしょうか.建築家のコスタス・テルジディスは人間とコンピュータとが結びつけるためにもっとも大きな障害は「人間中心主義」だとしています.「人間中心主義」とは,人間の考え方が一番ということです.例えば,コンピュータは「思考」を行なっているのではなく「計算」するものであり,それは人間の思考を補助するものだということです.この考えは私たちの多くが信じていることだといます.しかし,テルジディスは「人間中心主義」を取り払うとしたら,知的なサイボーグが生まれるだろうとしています.引用してみます. しかしな

SOBOギャラリートークで使うかもしれないリンク集

視点 Aram Bartholl http://www.datenform.de http://www.datenform.de/point-of-view.html モデルとテクスチャ Jon Rafman http://jonrafman.com http://theheadquarters.org/Ionline.htm >モデルを覆うテクスチャとなって,作品が「装飾」になる Clement Valla http://clementvalla.com http://clementvalla.com/work/tex-archive/ 地図 「未知の風景」を描く地図:「The Amazing iOS6 Maps」と《9-Eyes》 人類は多大な労力をかけて世界を測量して地図を描き,世界から未知の領域を失くしてきた.だが,アップルの地図やグーグル・ストリートビューはこれを反転させてしまった.地図にだけ「未知の風景」を生み出したのである.いや,そもそも地図には建物や遠路などの「記述」はあっても「風景」はなかったはずである.しかし,地図が画像とデータ上で組み合わされ,そこに「風景」が出現しているのである.つまり,アップルとグーグルによる「地図」は新しい機能を実装していくなかで,未踏の地を自ら作り出し,自ら測量しているといえる.これからも,この2つのテクノロジー企業がデータと現実との接点に「未知の風景」を描いていくことに期待したい. 2D-3Dのあいだで宙に浮く感じ Joe Hamilton http://www.joehamilton.info http://indirect.flights Artie Vierkant http://artievierkant.com http://artievierkant.com/imageobjects.php Lucas Blalock http://www.lucasblalock.com lucas blalock 谷口暁彦 http://okikata.org http://okikata.org/☃/shimideruita/ THE COPY TRAVELERS by THE COPY TRAVELERS http://www.nadiff

インターフェイスの消失と「より感覚的」な外界の認識(2)

私たちの「内側」で発生するノイズ 公安9課の草薙素子がホテルの一室を監視しています.そして,素子の首からは何本かのケーブルがでています.ノイズまじりの音声,ぼやっとした緑色の視界.この冒頭のシーンは,BMIについて多くのことを教えてくれます.例えば,ここで素子が見ているものは,サングラス型のディスプレイに流れている映像なのでしょうか,それともBMIを介して脳に直接流れている「映像」なのでしょうか.ここで「映像」とカッコ付けで書いたのは,脳内に直接流れることを映像と呼ぶのか分からないからです.脳内のなかでの「映像」のことを,私たちは「想像」とか「妄想」と呼んだりしていたりしますが,それが機械的に再生されるとなると,それは何と呼ばれるものなのでしょうか. 攻殻機動隊は「BMI」技術が一般化した世界を描いています.BMIには「脳の情報を読み出し,機械に出力する出力型のBMI」と「脳に入力される感覚情報が機械から入るようにする入力型BMI」とがあります.常に外界とのインタクションを実行している「電脳」はこのふたつの技術をまとめた「出入力型のBMI」と言えるでしょう.しかし,「電脳」と「BMI」との関係はとても曖昧なものです.BMIは脳と機械とのをつなぐインターフェイスのことですが,電脳は脳そのものを機械・コンピュータにしてしまうことです.脳そのものがインターフェイスになると言ってもいいでしょう.ただどちらも,外界からの入力された情報を変換して,身体による運動や脳内再生される「映像」に出力する「入出力経路」を人工化することには変わりがありません.それは情報理論を提唱したクロード・シャノンによる「コミュニケーション図」を自分の身体のなかに作るということです.電話やテレビなどの「メディア」を考える際に,シャノンのコミュニケーション回路は使われてきました.これらの「メディア」やこれまでこの本でも扱ってきた「インターフェイス」は人間の「外」にあるものでした.しかし,BMIや電脳は人間の「内」に装着されるものであり,それはシャノンのコミュニケーション回路を人間のなかに人工的に作ってしまおうという試みなのです. 私たちの内部にシャノンのコミュニケーション回路をつくるということは,同時に「ノイズ」という概念が,私たちの身体に入り込んでくることを意味します.なぜなら,シ

メモ:2Dでも3Dでもある/ないような「Vacant Room」

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「 Vacant Room 」は展示の記録写真であって,Virtual Reality=VRとはあまり関係がないような気がしてきた.インタラクティブなVRだと思うのは,360度写真とスマートフォンが連動しているからだから,確かにVR的要素はあるのだけれど,それは大したことではない.というか,VRだと見る人に思わせておいて,でも「Vacant Room」は単なる「写真」であって,だから,ピンチアウトで拡大できたりする.これは「写真」というよりも「カメラアプリ」でリアルタイムにリアル空間を見ているときの感覚に近い.でも,拡大はできたと思って,スワイプして画像を動かそうとするとできない.ここでの画像は「写真」ではなくて,リアカメラからのリアルタイム画像のようになっている. 2Dでありながら3Dという感覚を醸し出しつつ,見る人の意識が3Dに行こうとするとそれを妨げる仕掛けがいくつもしてある.仕掛けは「カメラアプリ」のようなリアルタイム映像と「写真」として表示される画像とのあいだの行き来であったり,ホワイトキューブを再現したVRと思わせつつも360度写真であって,作品に寄ることができないというか,スマートフォンを固定しながら前後に歩いても,上下に屈伸運動してもディスプレイ内の映像は変化しない=写真のようだったりするものである.これらの体験をしていると,展示を見ていてそれが3Dだと認識しそうになると同時に2Dに引き戻されるという感覚になって,2Dでも3Dでもある/ないような「Vacant Room」に連れて行かれる. この感覚は Joe Hamilton の作品《 Indirect Flights 》にちかいものがある.この作品は航空写真のコラージュの上にもうひとつ金網やサッシ,絵具,筆跡といった平面的質感を強調するモノのコラージュが重ねられている.Googleマップのようにドラッグしてふたつのレイヤーを動かすことができるけれど,ふたつのレイヤーの動きはそれぞれ異なる.この作品を見ていると,航空写真を見た際生じる立体的な感覚が常に阻害される感じがする.ディスプレイに映っている映像が3D的なものであろうと,そこに見ているものは物質的に2Dのディスプレイでしかないのだから,3Dなんてそこにはない.あるのは徹底的に2Dの重なりでしかな

インターフェイスの消失と「より感覚的」な外界の認識(1)

インターフェイスの消失 「攻殻機動隊」は近未来SFです.ですが,そこに私たちが今もっとも未来を見ているともいえる「スマートフォン」は一切でてきません.というか,「電話する」「メールする」「ツイートする」ということが描かれません.それは,それらの「インターフェイス」が電脳とそれに付随するBMIとして身体の内部に入り込んでしまったからです.それは,今の私たちの感覚からすると「インターフェイスの消失」と呼べることです. 「インターフェイスの消失」を考えるために,身近な例として,「カーソル」と「プッシュ通知」について考えてみましょう.コンピュータのインターフェイスを用いて多くの作品を制作しているアートユニット・エキソニモが「カーソル」について,次のように書いています. カーソルって,中途半端な存在なんですよね.映像なんだけど,映像とはみなされない.動画を再生するときは,脇に避けられる.動きがカクると,不安に思われる.画面の中にありつつ,自分自身の身体の一つのような存在.みんなが当たり前に受け入れているのだけど,それが何なのか,ちゃんと理解されていません.コンピュータの身体性を語る上で,カーソルには重要な秘密が隠されていると感じます.(p.77)  exonemo's view 「カーソル」 「エキソニモが知っている」,『Web Designing』Vol.108,マイナビ,2010年 このように書かれると,普段気にもとめない「カーソル」がとても不思議な存在に見えてきませんか.裏を返せば,このように指摘されないと気づかないほどに,カーソルは私たちの感覚と同化してしまっているといえます.マウスとカーソルとでコンピュータを使うことに,今では多くの人が特に「操作する」という意識を持っていないと思います.それは,それらのインターフェイスを身体に取り込んでしまったともえいるのです.なので,カーソルが少しでも挙動不審な動きをすると,自分の身体もおかしな感覚になるのです.この感覚は,カーソルという身体の外側がノイズの発生源でありながら,それがダイレクトに身体につながり,内側からのノイズとして感じられるようなとても妙なものです. そして,ここに出てきている「コンピュータの身体(性)」という言葉は大変興味深いものです.普段,コンピュータ

サマーウォーズ:身体とアバターのデザイン(3)

ポストシンボリックコミュニケーション 最後にOZのアバターのもうひとつの可能性を考えてみたいと思います.それは「コミュニケーション」についてです.今までの考察で暗黙に前提にしていたことがあります,それは今では多くの人が「インターフェイスの非対称性」を自分の感覚として持っているということです.作品のなかでも,若い人に限らず,老若男女誰もがOZにログインして,アバターを操作している.そして,作品を見ている人も特に何の違和感もなく「OZのアバター」といったものを受け入れられるし,それについて考えるもことができる.つまり,ゲームやコンピュータの体験:「インターフェイスの非対称性」が一般化した今だからこそ,サマーウォーズという作品は生まれたのです.このことの意味はしっかりと考える必要があります.次の引用は,マリオの生みの親として有名な任天堂の宮本茂さんの対談での細田さんの発言です. 細田 本当に,その社会情勢がもたらしたのがあの映画の設定だったと思うんです.そうじゃなければ,とてもああいう設定で普通の人が活躍するってことはできなかったと思いますね.アクション映画はやっぱり,特別な人が活躍するものみたいな部分があって.『マトリックス』じゃないけど,「キミは選ばれし人だ」とか言われないと活躍できない.でも,DSがこれだけ広まっているという世界的な状況があれば,DSや携帯も含めてそこからアクセスできる身近な道具を使うことによって,普通の人でも活躍できるアクション映画が成り立つんじゃないかと.(p.169)  「PLUS MADHOUSE 03:細田守」キネマ旬報社,2009年 ゲームやコンピュータが当たり前の存在となって,選ばれた誰かがヒーローになるのではなく,誰もがヒーローになれる作品が生まれた,というふたりの話はとても興味深いです.では,誰もがヒーローになれる作品の舞台になっているOZについて改めて考えてみたいと思います. 細田監督作品の特徴と言われる記号的表現.その効用のひとつが,色や形態などを単純化する記号を使うことで,表現にある種のスピード感が得られることだ.単純化とは表現力に制限を加えることだが,その反面,視認性がアップする.たとえばその性質は交通標識などによく現われていて,標識に向かい合った人間はその表示内容にすぐさま反応することが求められる.つ

告知:SOBOでucnvさんとトークします

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7月25日(土)16:30から神保町にある SOBO で開催中の展覧会「Vacant Room」で,企画・展示設計を行った ucnv さんとトークをします.トークでは,今のところ先日の映像学会で発表した「 テクスチャを透してモデルを見てみると:ポストインターネットにおける2D−3D 」から考えた「テクスチャ」と「画像/写真」との関係や展示のドキュメントのことなどを話そうと考えています. テクスチャとなったリアルの重ねるかたちで3Dモデルを置いてみる.リアル3Dモデルからその表面=テクスチャだけを抜き取るのが写真=画像. — mizuno masanori (@mmmmm_mmmmm) 2015, 7月 5 ( リアルの →リアルに) 反射光で見ていることにはなるが,どっか世界を透過している感じを与えているという感覚が興味深いのかもしれない.枠を透して世界を見る.カメラで世界を枠付けるのではなく,枠そのもので世界を切り取ること.薄い板というかたちから考える. — mizuno masanori (@mmmmm_mmmmm) 2015, 7月 5

サマーウォーズ:身体とアバターのデザイン(2)

インターフェイスの非対称性 グレーゴルは虫のかたちになった自分を行動させるのにとても苦労していました.たくさんの足はどうやって動かせばいいのか,触覚の使い方など具体的に学んでいき,そのからだに慣れていきました.では,私たちはグレーゴルのように自分の身体をヒトのかたちではない何か他のもの,OZでのアバターやビデオゲームのキャラクターになったことに慣れることができるのでしょうか.この質問は少し変かもしれません.なぜなら,ビデオゲームなどの画面内の存在を操作する経験において,私たちはゲーム内に存在するキャラクターの具体的な感覚を体験することはないからです.例えば,スーパーマリオブラザーズで「マリオ」を操作しているときに,敵にあたって「イテッ」と言ったりすることはあるけれど,具体的にその「痛み」を自分の体が感じているわけではありません.つまり,グレーゴルは虫そのものになっているのに対して,私たちはアバターそのものにはなっていないのです.アバターは私たちの分身であり,それを動かすためにはディスプレイや十字ボタン,キーボード,マウスといった「インターフェイス」が前提となっているのです.「インターフェイス」があるからこそ,私たちは苦悩もなく,自分の身体のかたちを変えることができるのです.しかし同時に,「インターフェイス」は「両手で持てる」などといったようにヒトのかたちに合わせて作ってありますので,コントローラやキーボード,マウスなどと密接な関係にあるアバターやキャラクターがヒトのかたちから抜け出せないということもおこるわけです. しかし,他の章でも何度か書いているように,「インターフェイス」は透明な存在になることを目指していて,私たちに意識されにくい存在です.「インターフェイスを意識しない」という段階では,私たちはグレーゴルと同じように「虫」そのものになっていると言えるのです.だから,ちょっとゲームでミスったりしたときに思わず「イテッ」などと言ってしまう.けれど,たとえ意識はしなくても,そこには「インターフェイス」が確かに存在しているので,グレーゴルのような苦悩を味わうことがないのです.私たちの多くが「虫そのものになる」といったカフカのような想像力を持たないことは事実でしょう.しかしそれ以前に.「インターフェイス」がカフカのような「何かになる」という想像力をもつため

サマーウォーズ:身体とアバターのデザイン(1)

ようこそOZの世界へ OZは,世界中の人々が集い, 楽しむことができるインターネット上の仮想世界です. アクセスはお持ちのパソコン,携帯電話,テレビなどから簡単に行えます. では,これからOZの世界を体験してみましょう. グレーゴルの苦悩とOZの楽しさ 「OZ」は,映画「サマーウォーズ」に登場したひとつの仮想世界です.OZに住むためにはアカウントを登録して,自分の分身となるアバターを設定する必要があります.OZの説明では次のように言われています.「まずはあなた自身のアバターを設定しましょう.アバターとはOZ上でのあなたの分身です.服,ヘアスタイル,尻尾などあなたの思うままに着せ替えできます.かわいいアバターができましたね」この説明とともに,画面上でははじめに白いヒト型のアバターが提示されて,それを頭,胴体,足といった順番で自分の好きなかたちにしていく様子が描かれています.ここで行われているのは,仮想世界上での自分を作ることであり,それは自らの身体をデザインすることでもあります.自分の身体をデザインするとは少しおかしな感じです.持って生まれた身体ではなく,ゼロから自分の身体を作る機会をもつことは,今までなかったことです.けれど,自分の身体をヒトのかたちではないものも含めて,自由にデザインすることが許されているのが,OZであり,仮想世界なのです.そこでは,好きな動物にもなれるし,空想上の何かになることもできます. 何にでもなれてしまう.とてもいい感じです.しかし,ここでちょっと考えてみましょう.自分の身体が自分以外というか,ヒトのかたちではなくなるというのは,どうゆうことなのでしょうか.例えば,チェコの作家フランツ・カフカは『変身』という短編小説を書きました.小説の書き出しはこうです. ある朝,不安な夢から目を覚ますと,グレーゴル・ザムザは,自分がベッドのなかで馬鹿でかい虫に変わっているのに気がついた.甲羅みたいに固い背中をして,あおむけに寝ている.頭をちょっともちあげてみると,アーチ状に段々になった,ドームのような茶色の腹が見える.その腹のてっぺんには毛布が,ずり落ちそうになりながら,なんとかひっかかっている.図体のわりにはみじめなほど細い,たくさんの脚が,目の前でむなしくわなわなと揺れている.(p.32)  フ

「インターフェイス」に意識を向ける(4)

界面の消滅 小室はインターフェイスと一体化してしまったゆえの悲劇になりましたが,界面そのものを消滅させてしまった人たちがいます.それは,理事長と小山内です.彼らはテクノロジーを自らのうちに取り込んでしまうことで,インターフェイスを消滅させてしまったのです. 物語の終盤で,敦子は理事長の家へと向かいます.そこには温室があります.ガラスでできた温室は,外部の環境から切り離されたもうひとつの世界を作り上げています.敦子はその世界へと入っていきます.夢からさめた後にくるのは現実です.しかし,誰もが一度はその現実もまた夢ではないかと疑ったことがあるのではないでしょうか.理事長の温室のなかで,再びの夢というか,これもまだ夢の続きであることに気づいた敦子は誰しもが持っているインターフェイスの存在に気づきます.それは,理事長とともにいた小山内が気づかせてくれたと言ったほうがいいのかもしれません.そのインターフェイスというのは「皮膚」です.その場面の詳しい説明の前に,インターフェイスと皮膚とを結びつけたテキストを情報科学の分野から引用してみます. ビットとアトムの融合は,現実との接点でも発生すると予測される.たとえば現状のコンピュータディスプレイはネットワークと現実の界面(interface)であり,コンピュータ(ネットワーク)上の情報をピクセルとして現実世界に放射する「サーフェイス」である.人間の入力のセンシングとと合わせて,ディスプレイは「ビット入出力界面」として機能している.筆者は,この考えを一歩進めて,全ての人工物の表面は生物の「皮膚(skin)」に相当するという発想のシステム「スマートスキン(SmartSkin)」を提案している.  (暦本純一「サイバネティックアースへ――サイボーグ化する地球とその可能性」『オープンシステムサイエンス』195−196頁) ビットとアトムというはじめての言葉ができていますが,何となく理解できると思います.簡単に言ってしまえば,ビットがコンピュータで,アトムがヒトということです.ディスプレイがひとつの表面(サーフェイス)であり「ビット入出力界面」となっています.そして,それを進めていくとそれらは生物の「皮膚」に相当するものになっていくという流れは,とても刺激的です.逆に,コンピュータのインターフェイスというあたらしい存在と,

「インターフェイス」に意識を向ける(3)

界面との一体化 DCミニによって立体化された界面で,パプリカは現実と同じうように自由に動きますが,異なる点は面から面への移動です.そして,夢と現実とのあいだの界面も自由に行き来します.しかし,この行き来に失敗した人が出てきます.それが,小室です.小室は悪夢に似た狂乱した夢を見続けていますが,その夢は小室本人のものではないことが判明します.小室は夢から出れなくなってしまっていたのです.小室は夢から脱しようとします.しかし,その移動は失敗に終わります.その失敗は次のように描かれてます.遊園地で空から落ちてきた小室はガラスの天井をぶち破り,地面に激突します.その際,DCミニは暴走しており,小室の顔の皮膚のなかへに入り込んでいます.ここでのDCミニは蟲のように蠢いています. 小室は夢から現実へと戻るさいに,ひとつの界面(ガラス)を破壊して,その先にあるひとつの面(地面)に激突します.そのとき,DCミニという有機的なかたちにデザインされたインターフェイスが暴走している.そして,ヒトの内側に比喩的な意味ではなく,文字どおりに入り込んでいる.小室はインターフェイスと一体化してしまっていたのです.ここでは,夢そのものではなく,その夢との界面であるインターフェイスと一体化することの意味を考えていきたいと思います. 敦子はパプリカとガラス/鏡ごしに会話していることがあります.DCミニを使っていなくても,鏡を介せば会話できます.あるいは,会話していると思っています.ここでは,古来から私たちの姿を映してきた鏡というテクノロジーがインターフェイスとして大きな役割を担っています.おそらくDCミニに侵食された小室は,鏡に映る自分の姿を認識することができなかったのでしょう.あたらしいテクノロジーは,ヒトの奥へ奥へと作用します.それはヒトの表面をただただ写し出していた鏡とは大きく異なります.しかし,鏡は表面にとどまるからこそ,見ているヒトの内面をそのヒト自身の力で探しだすことができるように作用してきたとも言えます.あたらしいテクノロジーは,私たちの表面ではなく奥の方に直接作用していきます.それゆえに今,インターフェイスが問題になっているのかもしれないのです.なぜなら,あたらしいテクノロジーがもつ奥へ奥へと作用する力を隠すかのように,インターフェイスが私たちの意識に対して最も手前に位置する最

「スピリチュアルからこんにちは」にこんにちは

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ポストインターネットの表現には「スピリチュアル」という要素が多分に入り込んでいる.ネット上の「スピリチュアル」と比較するためにリアルな世界でのスピリチュアルな表現を見るためにアール・ブリュットの展示を企画している美術館「 鞆の浦ミュージアム 」で開催されている「スピリチュアルからこんにちは」にこんにちはしにいった. インターネット上のスピリチュアルな表現は写真加工ソフトのPhotoshopの機能を活かしてつくられたものが多い.そのため,そこにはコンピュータ独特のグラデーション表現が多く使われている.また,デジタルでは画像のコラージュが容易なためシュルレアリスムを想起されるような事物の配置がある.多く見られる事物の配置はギリシャ彫刻や大理石の台と植物が並置されているといったものである.それらは誰かひとりがつくったものではなく,集団的に,あるいはPhotoshopというソフトウェア的につくられたものとしてネット上の漂っている.対して,鞆の浦ミュージアムに展示されていた表現は極々個人的な物語に基づいたものが多かった.例えば,千葉県の精神病院に入院中の土屋正彦の作品は「アンドロメダ星雲にある星の大総裁として正義のために戦い続ける自分の亡き父」という想念に基づいているし,神霊研究家,歌手の青樹亜依は「人の想念も含めた地球環境の浄化に全力」を尽くしている.この表現を支える物語の有無が,ソフトウェアという表現媒体から生じるインターネットの集団的なスピリチュアルとリアルの個人的なスピリチュアルを分ける大きなちがいなのではないかと考えた.しかし,これはインターネット上でスピリチュアルな表現を制作している人たちにその制作意図を聞いてみないとわからないことである. しかし,鞆の浦ミュージアムに展示された圧倒的な物量の表現はネット上で急速に拡散・増殖していくスピリチュアルな画像と似たような圧迫感をもっていた.そして,視覚的な要素だけでなく,普段よりマスクをして生活して素顔を明かさない自称・岡田昇氏のインタビュー音声や青樹亜依の歌声が響く館内はそれ自体がひとつのスピリチュアル空間になっていた.ひとつひとつの表現は表現者個人が強く求める「自分の存在を肯定してくれる絶対的な何者かを精神的に探し求め,最終的には,自分自身でそれを創造」[ 展示導入のテキストより引用 ]したものであ

「インターフェイス」に意識を向ける(2)

界面を立体化させるインターフェイスのかたち 私たちはパプリカのように夢の世界には意識を保ったままいくことができませんが,多くの人は夢を見るし,また,コンピュータとのインターフェイスを通して仮想世界と呼ばれもうひとつの世界は行ったことがあるような感覚はもっていると思います.ディスプレイという面の上に対して,マウス.キーボード,カーソル,あるいは最近では自分の指を使って,「仮想世界」というもうひとつの世界とのインターフェイスとなっている面を自在に動いているように見えます.しかし,同時にディスプレイという「面」が「仮想世界」への移動を妨げているように見えます.このことを考えるために,私たちはディスプレイという平面だけではなく,マウスやキーボードのことも「インターフェイス」と呼んでいることに注目してみましょう.それは「界面」というイメージでありませんが,そのように呼ばれています.それはなぜでしょうか.それらはコンピュータとの関係において,私たちが自在に動くことを許してくれている面を立体化して,「界面」に「奥」をつくり出すように助ける装置なのです. 私たちが日々使っている「マウス」を考えてみましょう.アップル社のマジックマウスは丸みを帯びていて,有機的と言えなくはないかたちをしています.マジックマウスと同じ機能を果たすマジックトラックパッドは,単なる一枚の板みたいなデザインです.これは私個人の感覚ですが,マジックマウスの方が意識せずにディスプレイ上の世界にアクセスできるような気がします.ディスプレイという面の上までのアクセスにすぎないですが,そこでの行為がヒトの手のかたちあわせてある有機的なかたちをもつマウスの方が,トラックパッドという一枚の板よりも世界に入り込めるような感じがします.あるいは逆に,面には面をということで,トラックパッドのほうがしっくりくる人もいるかもしれせん.どちらにしても,界面へ作用を及ぼすモノのかたちが意味をもっているのです.マウスはもうひとつの世界を私たちの身体に合わせるインターフェイスで,トラックパッドはその逆なのかもしれません.これらのモノによって,単なる面であった界面が立体化するのです.立体化した界面によって,私たちはその向こうの世界に対してより奥深くまで作用(これが「幻想」かもしれません)を及ぼすことができるようになるのです. (問い

「インターフェイス」に意識を向ける(1)

面から界面へ 今敏監督の「パプリカ」のオープニング映像は,プロジェクション・マッピングのようにスタッフの名前が様々なモノに映し出されています.名前が映し出されるのは,ビルの壁面,自動車のドア,横断歩道,ハンバーガー屋の柱などで,あらゆる平面に文字が映し出されます.ここで使われている手法は,厳密にはプロジェクション・マッピングではなくて,平面にただ文字を投射しているにすぎません.プロジェクション・マッピングのように面の凹凸を計算して,それに合わせて映像を生成して,映像とモノの面とを一体化してしまうような厳密さはないのです. プロジェクション・マッピングのような厳密さをもたないオープニングのスタッフロールは,どこか別のところから投射された映像という感じがします.「パプリカ」自体がアニメーションという描かれた映像ですが,スタッフロールの名前はそこで描かれたモノと一体化していません.どこか別のところから来た存在という感じがあります.何が言いたいのかというと,ここには「映像」と「モノ」があり,それぞれが「面」を介して向かい合っているということです.つまり,ひとつのように見えるのですが,よくよく観察してみるとふたつであり,そして実際にふたつの存在があるということが,オープニングで示されているのです.このことは何を示しているのでしょうか. ひとつがふたつ.ひとつに見えるかもしれないが,ふたつであること.ここには私たちとテクノロジーとの関係が示されているのです.映像とモノとのあいだに「面」が出現しています.あるいはは,「面」を介して映像とモノというふたつの存在が接しています.モノ|映像のあいだにある「面」,ふたつのあいだにあるそれらを出会わせる「面」.それは「界面=インターフェイス」と呼ばれる特別な面なのです.ここでいくつかこの「界面=インターフェイス」について書かれたテキストを引用してみたいと思います. この段階[シミュレーション映像が日常に入り込んできた]に至って,私たちはイメージと現実との関係に大きな変化が起きていることに気がつきはじめている.それは「見る」という行為が,感覚信号を受動的に処理する,一方的な経験であることを超えて,見ている対象を直接的に動かしてゆくような,物理的な意味で能動的な経験の領域へとシフトしてい

2046年の携帯電話と2007年のスマートフォンのあいだにある変化(5)

電話を握りしめる 電話もまた,インターネットの登場によってメタファになりつつある.なぜならインターネットは,当初電話回線網の上に構築されたわけだが,皮肉にも電話回線はデジタル化されてインターネットに使われることになり,今ではインターネット専用の光回線に置き換わった.「電話」はアプリ化し,あるひとつの音声インターフェイスとなった.LINEやSkypeなどの複数の音声コミュニケーションインターフェイスがある今,「受話器アイコン」の意味は徐々に失われていく.(p.224)  渡邊恵太『融けるデザイン』 インターフェイス研究者の渡邊さんがここで指摘していることはとても興味深いことです.受話器をもった「電話」とそれをつなぐ電話線によって,私たちは遠く人といつでも話せるようになりました.電話と電話線という物理的モノを「電話」という機能ではなく「インターネット」という別の機能で使うようになっていきました.すると,インターネットのなかに「電話」の機能をもったアプリができたというのです.これはとても大きな変化ですが,多くの人はそれほど気にしないかもしれません.「LINEは通話料がかからないからうれしい」といった感じで使っていることが多いかもしれません.でも,「電話」というモノが持っていた機能がアプリになって,「電話」という個別のインターフェイスを持ったモノが失われていくということが起こっているのです.渡邊さんが例としてあげている「受話器アイコン」の「受話器って何?」という人もいるかもしれません.モノが失われていくということは,そういった個別のかたちが失われていくことなのです. (問い:このテキストではノボルとミカコが使っている電話を「携帯電話」と書いてきましたが,みなさんはそれを「ケータイ」と呼んでいたかもしれません.「携帯電話」を「ケータイ」と呼ぶ時に,その言葉指している意味は変わっているでしょうか?) 私たちは多くの時間を個別のかたちをもった「物理的インターフェイス」と過ごして来ました.それは機能と結びついたかたちをしていて,確かに触れられるものでした.機能のためのかたちです.ですが,スマートホンはちがいます.かたちが機能に縛られないため必要最低限の一枚の薄い板・ディスプレイとなっています.だから,スマートフォンは「受話器」のかたちをもた

2046年の携帯電話と2007年のスマートフォンのあいだにある変化(4)

モノが失われていく時代でモノを保存する 新海監督も「ほしのこえ」を制作する際に,一度はタッチ式インターフェイスを物語に採用することを考えていたようです.このことは新海監督が最新の技術動向に詳しいことを示すとともに,技術から生まれる想像力が物語にフィットするのかどうか判断していることを示しています.以下,DVDの用語解説からの引用です. ペーパーディスプレイ 一見すると見た目は現代と変わらない21世紀中頃の風景だが,そんな中で確実に進歩している技術の一つ.紙にデータを自由に記入/消去する技術で,電子インクとも呼ばれ作中では「E-Ink」という電子インク全般のトレードマークが付けられている.2056年のノボルの部屋にあったカレンダーもこのペーパーディスプレイの一種であり,カレンダーの表面を指でなぞってデータを入力・消去することができる.よく見るとアイコンが表示されている.  以下,新海誠のメモから引用. 「ノボルが勉強をしたりメールの送受信を行う時に,一見普通のノートに書き込んでいるのだけれど,書き込んだ文字に自在に色を付けられたりノートの隙な場所にWEBブラウザを開けたり一括で全文を消したり,ということを当たり前のように行っているという場面を盛り込みたいなと考えていました.(オペレーションは,ペンOSのようにジェスチャーでするとか,ノートの隅にアイコンがあるとか) このシチュエーションは物語からの必然性はないので結局使わなかったのですが,Hパートの大人のノボルが登場する場面で時代の変化を示すためにも新聞とカレンダーにちょっと盛り込みました.」(p.15) 「ペーパーディスプレイ」というタッチ型インターフェイスを物語で描こうとしたけれども,結局は「物語からの必然性」がなくて,「時代の変化を示す」という目的でしか採用しなかったということが重要です.ここで考えられているペーパーディスプレイの描写は,私たちが普段,スマートフォンで行っていることです.だから,新海監督はペーパーディスプレイを使って携帯電話を今のスマートフォンのようにデザインすることもできたのです.でも,採用されなかった.もちろん,上の引用ではペーパーディスプレイを携帯電話に応用することは直接語られていませんし,ここに「2007年」というPhoneの発表年が影響している

2046年の携帯電話と2007年のスマートフォンのあいだにある変化 (3)

モノへの懐かしさを示す「アンティークモデル」の携帯電話 次に,携帯電話とスマートフォンのインターフェイスのちがいから「懐かしさ」を考えていきます.先に結論を言ってしまうと,携帯電話からスマートフォンというインターフェイスの変化はモバイル通信機器のひとつの変化を示すだけではなく,ヒトが使う道具の大きな転換点を示しているのです.それは,道具が徐々にモノのかたちをなくしていく,というとても大きな変化を示しているのです.人類はモノとともに長い時間を過ごしてきました.しかし,スマートフォンはヒトとモノとの別れを示しているのです.新海監督が2046年に保存した「アンティークモデル」の携帯電話はモノへの懐かしさを示しているともいえるのです.携帯電話は電話を「握る」やボタンを「押す」といったような,どこかモノを扱っている感じがしますが,スマートフォンはどうでしょうか.スマートフォンは「タッチ」という感じで,そこにあまりモノの存在を感じないのではないでしょうか.「タッチ」も「押す」という行為にちがいありません.けれど,「押す」と「タッチ」はどこかちがう感じがしないでしょうか. 携帯電話をスマートフォンに置き換えるきっかけとなったのはiPhoneです.iPhoneの前にも「スマートフォン」と呼ばれる高機能携帯電話は存在していました.それはガラケーよりも少し大きな液晶と物理的なキーボードを備えたものでした.そのようなガラケーとあまり変わらない「スマートフォン」のかたちを今のようなタッチ型インターフェイスに変えたのがiPhoneだったのです.2007年に当時アップル社のCEOであったスティーブ・ジョブスはiPhoneを初披露したプレゼンテーションで,物理的なキーボードはデザインを一度決めてしまったら変えることができないと批判します.あとからあたらしい機能をスマートフォンに導入したくなっても,キーボードを変えられないじゃないか,どうすればいいんだ,と聴衆に質問を投げかけます.それはこれまで誰も疑うことがなかった「物理的なボタン」の是非を問うものでした.ジョブズは大前提をひっくり返す解決策として,スマートフォンから物理的なキーボードを取り払い,その前面を大型の液晶タッチディスプレイにして,そこにキーボードをイメージとして表示すればいいと主張し,その具体的なかたちとして「iPh

2046年の携帯電話と2007年のスマートフォンのあいだにある変化(2)

宇宙と地上に引き裂かれる恋人をつなぎとめる携帯電話 新海監督が「SFというよりは超長距離恋アニメを目指し」て「ほしのこえ」を制作したと言っているように,このアニメはミカコとノボルの恋のお話です.「タルシアン」という異星人は出てくるし,ミカコが操縦する「トレーサー」というロボットもでてきますが,それらと並んで,私たちが普段目にするような日常の風景もでてきます.新海監督によると「全世界あげての戦時下ということもありタルシアンのテクノロジーを拝借した軍事技術は著しく進化しているが,日常のテクノロジーの多くはほぼ現代と同等で停止したまま」という設定になっています.こうした状況のなかで,ミカコとノボルはお互いのことを想いながらも,SF的な未来の風景と現実的な日常な風景というふたつの異なる世界で生きていくことになります.このことをアニメのキャッチコピー「私たちは,たぶん,宇宙と地上に引き裂かれる恋人の,最初の世代だ」は端的に示しているのです. そして,「宇宙と地上に引き裂かれる恋人」をつなぐという重要な役割を果たすことになるのが,2000年前後のかたちを保存した携帯電話なのです.ミカコとノボルがお揃いで持つ携帯電話は,SF的世界と日常的風景をつなぐ大切な道具なのです.そのとき,SF的世界側の道具として携帯電話を私たちが見たことがない装置として描くと,そこにはふたりの距離を瞬時につなげてしまうあたらしいメッセージサービスが実装されている可能性がでてきます.そうすると,ふたりはいつでもどこでも好きなときにメッセージを送り合えます.これでは「宇宙と地上に引き裂かれる恋人」になれません.だから,携帯電話は日常側の道具として描かれる必要があるのです.そこには「超長距離メールサービス」というあたらしい技術が実装されていますが,あくまでもそれは「メール」という私たちにとって日常的な存在で描かれています. ここで「メール」と書いているのは正確には「電子メール」という技術になります.「電子メール」はもともと「手紙」としてやり取りされていたメッセージを電子化して送受信できるようにしたものです.「電子メール」は携帯電話の登場以来,誰もが使うようになっていって,いつの間にか「電子」という言葉はとれていきました.ここで興味深いのは,2046年のメールは宇宙を超えるような技術にな

2046年の携帯電話と2007年のスマートフォンのあいだにある変化(1)

2046年の携帯電話 新海誠監督のSFアニメ「ほしのこえ」を「インターフェイス」の観点から見ると何が見えてくるでしょうか.「SF」というジャンルには近未来を予測した様々な「インターフェイス」がでてきますが,「ほしのこえ」では主にミカコとノボルをつなぐ「携帯電話」を扱いたいと思います. ノボルとミカコの物語は2046年が舞台です.2046年の中学生3年生がもっている携帯電話は,大きな液晶タッチパネルで操作するスマートフォンとは異なり,小さな液晶ディスプレイと多くのボタンを備えたものです.2046年という未来であるにもかかわらず,「ガラケー」とも呼ばれる古いかたちの携帯電話を持っているのはおかしいと思う人もいるでしょう.しかし,現在のスマートフォンのかたちを決定づけたアップル社のiPhoneが発表されたのは2007年ですから,「ほしのこえ」が発表された2002年には液晶タッチパネルを備えた携帯電話は一般的ではなかったことになります.2002年にはiPhoneがまだ存在していなかったけれど,今(2015年)では携帯通信機器の主流は,ノボルとミカコがもつような携帯電話からタッチ型インターフェイスのスマートフォンへとシフトしました.この事実は「ほしのこえ」を考察する上で重要な意味を持ちます. 「ほしのこえ」はSFなので,iPhoneのようなタッチ型インターフェイスの携帯電話の登場を正確に予測する必要はありません.なぜなら,SFは「サイエンス」という言葉がついていても,あくまで「フィクション」なので,現実的な未来の予測に囚われる必要はないからです.しかし,SFは現実世界の正確な予測ではないけれど,単なる絵空事でもありません.SFと現実とのあいだには独特なつながりがあります.例えば,『SF映画で学ぶインタフェースデザイン』には携帯電話に関する例が挙げられています. SFに見られるフィクションの技術によって,ファンは来るべき刺激的な何かを期待します.顕著な例は,『宇宙大作戦』の通信機です.1960年代後半,一般的な通信機といえば,トランシーバーないしは壁にコードにつながっているお姫様型電話だったころ,『宇宙大作戦』に登場した通信機によってモバイル電話の期待が高まりました.その使い方は電話というよりもややトランシーバー寄りではありましたが,初期の