2046年の携帯電話と2007年のスマートフォンのあいだにある変化(4)

モノが失われていく時代でモノを保存する

新海監督も「ほしのこえ」を制作する際に,一度はタッチ式インターフェイスを物語に採用することを考えていたようです.このことは新海監督が最新の技術動向に詳しいことを示すとともに,技術から生まれる想像力が物語にフィットするのかどうか判断していることを示しています.以下,DVDの用語解説からの引用です.


ペーパーディスプレイ
一見すると見た目は現代と変わらない21世紀中頃の風景だが,そんな中で確実に進歩している技術の一つ.紙にデータを自由に記入/消去する技術で,電子インクとも呼ばれ作中では「E-Ink」という電子インク全般のトレードマークが付けられている.2056年のノボルの部屋にあったカレンダーもこのペーパーディスプレイの一種であり,カレンダーの表面を指でなぞってデータを入力・消去することができる.よく見るとアイコンが表示されている. 
以下,新海誠のメモから引用.
「ノボルが勉強をしたりメールの送受信を行う時に,一見普通のノートに書き込んでいるのだけれど,書き込んだ文字に自在に色を付けられたりノートの隙な場所にWEBブラウザを開けたり一括で全文を消したり,ということを当たり前のように行っているという場面を盛り込みたいなと考えていました.(オペレーションは,ペンOSのようにジェスチャーでするとか,ノートの隅にアイコンがあるとか)
このシチュエーションは物語からの必然性はないので結局使わなかったのですが,Hパートの大人のノボルが登場する場面で時代の変化を示すためにも新聞とカレンダーにちょっと盛り込みました.」(p.15)


「ペーパーディスプレイ」というタッチ型インターフェイスを物語で描こうとしたけれども,結局は「物語からの必然性」がなくて,「時代の変化を示す」という目的でしか採用しなかったということが重要です.ここで考えられているペーパーディスプレイの描写は,私たちが普段,スマートフォンで行っていることです.だから,新海監督はペーパーディスプレイを使って携帯電話を今のスマートフォンのようにデザインすることもできたのです.でも,採用されなかった.もちろん,上の引用ではペーパーディスプレイを携帯電話に応用することは直接語られていませんし,ここに「2007年」というPhoneの発表年が影響しているのかもしれません.しかし,「ほしのこえ」制作時にiPhoneが既に一般化していたとしても,新海監督は2000年前後の携帯電話を描いたと考えられます.それは,「ペーパーディスプレイ」を採用した先のひとつである「新聞」が,今の時代と同じように廃品回収のためにモノとしてまとめられていたり,「ペーパーディスプレイ」を「紙」というモノに印刷するための「eINKプリント」という機能を携帯電話につけていたりするからです.「ペーパーディスプレイ」という変幻自在に画像を表示する装置は,最終的にモノとして扱われているのです.このことは,「ほしのこえ」での新海監督が,画像として表示される情報をモノとしてどのように保存していくのかを重要視していることを示しています.

だから,新海監督が描く恋の物語でミカコとノボルがお互いのことを想いながらメールを書くのは,スマートフォンではなくて,携帯電話なのです.物理的なボタンを押しながら,自分の想いを相手に伝えためのテキストを入力する.ミカコはボタンをひとつひとつ押しながら,ノボルへのメッセージを書いていき,涙が溢れてきます.ボタンを「押す」ということや,モノとしての携帯電話を「握る」ということが,遠くの恋人への想いを強くします.そうして打たれたメッセージが宇宙を超えて,小さなモノクロの液晶に表示されます.それがフルカラーのタッチスクリーンを備えたスマートホンだったらどうでしょうか.ガラスの面をタッチしていく指.せわしなくフリック入力していく指.そこで書かれているテキストはガラケーと同じ恋人への言葉だとしても,それを見ている方は,どこかそこに入り込めない感じします.同じテキストを書くという行為がインターネットによって変わっているのです.それはとても微か変化かもしれません.ですが,携帯電話とスマートフォンのその微かなちがいが宇宙に引き裂かれるはじめてのふたりの若い恋人の想いを保存しながら話を支えているのです.

しかしここで,私たちはディスプレイで展開される画像とタッチを組み合わせたインターフェイスに慣れていないから,そこに感情を投影できるほどの親しみをまだ覚えていないだけではないだろうか,と考える人もいるでしょう.確かに,インターフェイスに感情を投影できるかどうかは,単に「慣れ」の問題なのかもしれません.しかし,「慣れ」だけでは片付けられない問題がここにはあります.新海監督が保存した2000前後の携帯電話と現在のスマートフォンのあいだには,モノよりも情報を重要視し始めたという私たちの大きな態度変更があるのです.しっかりと握りしめ,ボタンを押すガラケーとディスプレイの上を滑るように動かされる指による入力のスマートフォン.このふたつのあいだのちがいはモノらしさです.インターフェイスからどんどんモノが失われていっています.私たちは長いあいだモノに触れてきました.もちろん,スマートホンもインターフェイスとして機能しているモノです.しかし,そのインターフェイスはディスプレイに表示されたイメージであり,情報なのです.そのことを示しているのが,現在のスマートフォンのディスプレイの大型化です.ディスプレイの面積を広げて多くの情報を表示できるようになっていますが,大画面化したスマートホンを握り締めることは難しくなっています.人類はその歴史のなかではその殆どを「物理的インターフェイス」に触れてきたのに対して,イメージによるインターフェイスに触れ始めたのは本当につい最近の出来事なのです.そして,私たちはどんどんモノが失われていく時代に生きているのです.2046年の「アンティークモデル」の携帯電話は,これから次々に失われていくモノを保存したものなのです.

2046年の携帯電話と2007年のスマートフォンのあいだにある変化(5)

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