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【2023~2024 私のこの3点】を書きました.あと,期間を確認しないで期間外の3点を選んで書いてしまったテキストもあるよ

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美術評論家連盟 会報24号の 【2023~2024 私のこの3点】に,「宮下恵太|わたしたちの光、おおらかなしるし」,Apple Pencil Proの「影」,藤倉麻子「Sunlight Announcements / 日当たりの予告群」をあげて,短い文章を書きました🩻 https://critique.aicajapan.com/7886 3つを選ぶときに選んでいい期間を間違えて,以下の3つについても短文を書いたので,ここに載せておきます. 新津保建秀展「消え入りそうなほど 細かくて 微妙な」  MIZUMA ART GALLERY 2023年4月19日 → 2023年5月20日 新津保建秀の写真は目の前の景色だけではなく,撮影者の新津保の,そして,その写真を見る人の認知プロセスをも一瞬止めてしまうような感じがある.私の認知プロセスが止まると同時に,そこに写っている景色の時間が止まる.結果,「写真が時を止めた」と感じる. エキソニモ「On Memory」 WAITINGROOM 2023年7月5日 → 2023年8月6日 この個展は記憶・メモリをテーマにしたもので,撮影禁止だった.記憶は消失もするけど,改変されながらも,残り続ける.「On Memory」に関する私の記憶がテキストデータになって,メモリに記録される.さらに,書くたびに改変される私の記憶を誰かが読んで.別の記憶が生じることを願って,この文章を書いていてる. 余宮飛翔「Mask」 PHOTO GALLERY FLOW NAGOYA 2024年10月5日 → 2024年10月27日 Photoshopでつくられた凸凹のない平面を囲む額縁の凹凸とが私の意識で組み合わされて,瞼を閉じると,作品平面と展示空間とが私の意識に現れる空間においてスムーズにつながり,互いに置き換わることも可能かもしれないと感じさせる状況が,とても新鮮で驚きだった.

出張報告_20151023−25

23日(金)はりんかい線東雲駅に隣接する東雲鉄鋼団地内にあるギャラリーG/P gallery SHINONOMEに行き,NORIKONAKAZATO + 小林健太 feat. Psychic VR Labによる展示「ISLAND IS ISLANDS」に行った.この展示は四つん這いにならないと通れない薄暗い通路を抜けた先に常夏の海辺を模した空間がつくられており,そこでヘッドマウントディスプレイ(HMD)を装着して立体映像を体験するものであった.映像では編集者の後藤繁雄氏が「ここで起こっていることはメタファーではなく,あたらしい次元の出来事なのだ」と述べていた.薄暗く,四つん這いでしか進めない通路を通るという儀式の先でHDMによる立体映像を体験するというこの一連の流れは「あたらしい次元の出来事」であったかもしれない.この1年であっという間に当たり前になったHDMによる立体映像はそれをただ見せるだけでは単なる技術的デモにすぎず,その映像体験までにどのような導線を用意するのかが重要になっているのかもしれないと考えた. その後,神保町のギャラリーSOBOに移り,デザインチーム・NNNNYの「エレクトリカル大0界(ダイレーカイ)」を見た.この展示は光と音の組み合わせによるエンターテイメントであった.タイトルにもあるようにどこか「あの世」を意識させるようなオブジェ群が展示空間に置かれている.そして,それらのオブジェが順々に光り,その光が空間を満たす.人は空間を満たす光と音を楽しむことができると同時に,その体験は宗教的な存在に導かれる.光と音によるエンターテイメントが宗教的な体験になるのか,宗教的な体験がそもそもエンターテイメントなのかということを考えながら,3回ほど「エレクトリカルパレード」を体験していた. 24日(土)は谷中の最小文化複合施設 HAGISO(HAGI ART)に磯谷博史,新津保建秀による展覧会「Sequence」と浅草橋のパラボリカ・ビスに「三上晴子と80年代」展を見に行った.「Sequence」では新津保氏の写真が示す「意識の移動」について考えた.特に,左右反転させた2つの大判の画像を隣り合わせで展示した作品は,プリントした画像の余白が重なった真ん中の白いラインによって意識も「左右反転」するような奇妙な体験を味合うことができた.また,印刷した画像を丸...

シンポジウムのための抜き書きとメモ

「 シンポジウム_デジタルメディア時代の視覚と世界変容 」のための抜き書きとメモ メディア論,マーシャル・マクルーハン 電気の知識を獲得して以来,われわれはもう原子を物質として語ることはできなくなった.このことは大多数の科学者がはっきりと認識していることである.さらに,電気の放電やエネルギーに関する知識が増すにつれて,電気を水のように電線の中を「流れる」ものだとか,バッテリーの中に「含まれる」ものだとか考える傾向も減ってきている.むしろ,全般的に,電気は画家にとっての空間のようなものだとみなす傾向になる.すなわち,電気は,2ないしそれ以上の物体の特殊な位置関係を包含する可変的条件,とみなすのである.もはや,電気が何かに「含まれる」とする見方はない.画家たちは,かなり以前から,対象物は空間の中に含まれるものではなくて,みずからの空間を生み出すものであることを知っていた.(pp.164-165) Most scientists are quite aware that since we have acquired some knowledge of electricity it is not possible to speak of atoms as pieces of matter. Again, as more is known about electrical "discharges" and energy, there is less and less tendency to speak of electricity as a thing that "flows" like water through a wire, or is "contained" in a battery. Rather, the tendency is to speak of electricity as painters speak of space; namely, that it is a variable condition that involves the special positions of two or more bodies. There is no longer any tendency to ...

シンポジウム_デジタルメディア時代の視覚と世界変容

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シンポジウムで話します.今年度から勤めている甲南女子大学の同僚の馬場伸彦さんたちと「画像」の話をしたいと考えています.基調講演は港千尋さんで,ディスカッションには新津保建秀さんも参加します. 私の「報告」のタイトル「画像は2ないしそれ以上の状態を包含する可変的条件」 はマクルーハンのメディア論の「オートメーション 生き方の学習」の章に出てくる以下のテキストからもってきたものです. 電気の知識を獲得して以来,われわれはもう原子を物質として語ることはできなくなった.このことは大多数の科学者がはっきりと認識していることである.さらに,電気の放電やエネルギーに関する知識が増すにつれて,電気を水のように電線の中を「流れる」ものだとか,バッテリーの中に「含まれる」ものだとか考える傾向も減ってきている.むしろ,全般的に,電気は画家にとっての空間のようなものだとみなす傾向になる.すなわち, 電気は,2ないしそれ以上の物体の特殊な位置関係を包含する可変的条件,とみなすのである .もはや,電気が何かに「含まれる」とする見方はない.画家たちは,かなり以前から,対象物は空間の中に含まれるものではなくて,みずからの空間を生み出すものであることを知っていた.(pp.164-165) −− テーマ「デジタルメディア時代の視覚と世界変容—写真とその周辺領域において何が起きているのか」 メディアは人間の身体と感覚に大きな影響をもたらしてきた.それは身体の外部を取り囲む「環境」であると同時に,内部の問題である「知覚」と有機的に絡み合っている.メディアは物理的な生活を変化させ,記号を操作し,「世界の意味」を変容させた.つまり世界そのものを変化させてしまう力をメディア/テクノロジーは蓄えていると言えるだろう.デジタルメディアにおける世界変容の本質は何か,それは視覚芸術においてどのような相貌を見せているのか.アナログからデジタルへと移行する過渡期的な現在において,それを考察することは視覚芸術の分野において決して無益ではないと思われる. 開催日時:2014年9月7日(日)13時00分〜17時30分 場所:六甲山YMCA(神戸)〒657-0101 兵庫県 神戸市 灘区六甲山町北六甲875 TEL:078-891-0050 FAX:078-891-0054 [第1部...

「光るグラフィック」展から考えた「光」への感受性

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「 光るグラフィック 」展を見てきた.タイトル通りグラフィックが光っていた.「光」を放つというだけで,それが動いても動いていなくても,どこかモノとしての重さから離れていたような気がした.だから,光るグラフィックは動いて当然で,中村至男さんの作品のようにグラフィックが動かないとそれだけで注目してしまう.少し前に「モーション・グラフィック」がでてきてグラフィックが「動く」ということが強調されていたが,それとは違う段階に入ったのかなと思った.このことは宮越裕生さんによるインタビューでラファエル・ローゼンダールさんも同じようなことを言っている. - 今回のテーマは「光るグラフィック」ということですが,そういったアイデアは以前から意識されていましたか?  僕の表現の中に,そういった側面はあったと思います.ただ今回,田中さんのキュレーションによってその側面がある文脈に入り,色々なことに気づかされました.たとえば静止画であっても動画であっても,その絵の後ろから自分に向かって光が投影されている.そういう時代なんだと思いましたね. 宮越裕生さんによる「光るグラフィック展」レポート  動く,動かないに関係なく光るグラフィックが当たり前になってきた今だからこそ,今回の展示を構成する「RGB/CMYK」というグループ分けが可能になったといえる.いや「光るグラフィックが当たり前」と書いたけれど少し違うかもしれない.「RGB」や「CMYK」の違いということはデザイナーの人は常に意識してきたはずであって,それは紙であれウェブであれ変わりはないだろう.そういった意味では「RGB」と「CMYK」の違いはだいぶ前から当たり前であったわけで,これらの違いを「光るグラフィック」というフォーマットで一度同じ平面に置いてしまおうとする意識が出てきたのが2014年ということになるのかもしれない.だから, セミトランスペアレント・デザイン の田中良治さんがその意識を具体化させる展示を実現させたことはとても重要になってくる.田中さんを含め制作側からの意識にキュレーターや研究者は追いついていけているのだろうか.あるいは別の視点をあなたたちは出せますかと求められている感じもする. ということで,別の視点を出せるかどうかわからないけれど,今回の展示で気になったふたつの作品, 新津...

2013年の振り返り

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「エキソニモの『猿へ』」の会場写真 2013年にはこの投稿を含めて95本の記事を書いています.そして,この投稿がブログ全体で499本目の投稿になります! 2013年は 新津保建秀さんの写真集『\風景』への考察 と 21_21 DESIGN SIGHTで行なわれたセミトランスペアレント・デザイン とのトークからはじまり, GIF BOOK 及び 恵比寿映像祭 への寄稿,インターネット・リアリティ研究会の座談会「 [インターネット アート あれから] と つづき 」への参加と,最初の3ヶ月に多くの活動していました. また,メディア芸術カレントコンテンツで月1でメディアアートの紹介してきました. [2012年度] 新津保建秀氏の個展「\風景+」が開催 (1月11日更新) 書評『イメージの進行形───ソーシャル時代の映画と映像文化』 (1月11日更新) 制作者から見た「GIF」:『GIF BOOK』と「GIFアニメ再起動!」 (2月8日更新) The World's First Tumblr Art Symposium がニューヨークで開催 (3月15日更新) 《Data Centers Grand Tour (This Data Belongs Here)》が示す地球の上の「データの場所」 (3月29日更新) [2013年度] 作品をコピーしあう仲間たちのクラブ:《The Copy Companion Club》 (6月26日更新) リアクションが全く生じないメッセージアプリ「ETHIRA」 (7月24日更新) オリア・リアリナ氏が新作GIFアニメ《Summer》を公開 (8月21日更新) OKFocusが顔文字ジェネレーター「Newmoticons」を発表 ლ,ᔑ^人^ᔐ.ლ (9月19日更新) デジタルアートのオークションPaddles On!が開催中 (10月9日更新) アートユニット・エキソニモの個展「エキソニモの『猿へ』」が福岡で開催 (11月13日更新) 「いま、映像でしゃべること?- Orality in Moving Image -」が開催 (12月11日更新) メディア芸術カレントコンテンツでも取り上げたけれども, エキソニモの個展「エキソニモの『猿へ』」 は, 三輪眞弘さんとのト...

新津保建秀さんの写真集『\風景』のレビューを書きました

名古屋大学大学院文学研究科付属日本近現代文化研究センター が発行している「 JunCture 超域的日本文化研究 」の第4号「特集:インタラクトする風景」に,新津保建秀さんの写真集『\風景 』についてのレビュー「 『\風景』で体験する居場所がはっきりしないフラフラした感覚 」を書きました. 新津保建秀さんの写真集『 \風景 』をはじめに見たときの衝撃をどうにか言葉にしたくて,このレビューを書いていました. 「\風景=風景」を眺める|「\風景」をスクリーンショットで撮る|写真集『\風景』をめくる ,という小見出しでレビューを書きました.以前ブログに書いていたものをまとめればどうにかなるだろうと思っていたのですが,ブログと印刷物というメディアのちがいが影響して,全く異なるものになりました.その結果,レビュー自体も最後は「写真集」というモノとそこにある「\風景」との関係を探るものになりました.(これは逆ですね.レビューをそのように考えて書いたら,いまここに「ブログと印刷物というメディアのちがいが影響して」と書いているのでしょう,本当のところは.じゃ,そうやって書きなさいという感じですが,なんかこの書き方の順序が面白かったので,このままカッコ書きをいれてみます) そして,「\風景」についてはいろいろと書いてきました.いろいろと書いてるうちに,「\風景」は写真集だけではなく,展示というかたちになり,電子書籍になりました.そして,それらについても考えました.まだまだ「\風景」の体験を言葉に移すことはできていないですが,リアルとネットというか,データというか,そんな感じのものを含んだ「あたらしい風景」を捉えるための言葉を考えていきたいなと思っています. 『\風景』から感じたざわついた感じをいつかまとめるためのメモ 他人のディスプレイに表示された,無造作でだらしないウィンドウの配置とその枠に記された情報を読むこと 「\風景=風景」あるいは「システム=風景」 お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_5 「\風景」電子版:「\landscape」と「\landscape_archive_7.5」 新津保建秀氏の個展「\風景+」が開催 最後に,興味がありましたら,『JunCture』は 笠間書院 を通して書店やネットで販売されております...

お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_7, 8

記事を2つ書きました → 新津保建秀氏の個展「\風景+」が開催 → 書評『イメージの進行形───ソーシャル時代の映画と映像文化』 この2つについてはもっと書きたいことがたくさんあります.とても刺激的な展示と論考です. ですが,その前に 大きな仕事 があるので,そこで話したことも含めて後日まとめてみたいと思っています. 新津保建秀さんの「\風景」や渡邉大輔さんの『イメージの進行形』も示している「デジタル|リアル」とのあいだで揺れ動きながら,私たちの意識が拡がっているのではないかということを,13日に21_21でセミトラさんとお話できればと思っています. https://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/289673230317387776

「\風景」電子版:「\landscape」と「\landscape_archive_7.5」

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新津保建秀の写真集『 \風景 』の電子版が出たので,早速アマゾンで購入してみた.電子版は『\風景』を再構成した「 \landscape 」と,ももいろクローバーZ,やくしまるえつこなどの写真を追加した「 \landscape_archive_7.5 」の2種類でている. まずは,「\landscape」をiPhoneのKindleにダウンロードしてみた.表紙をスワイプして次の「ページ」へ行くと,写真集「\風景」では多くが1ページに1枚の写真だったのが,「\landscape」では下のように表示される. 2枚の写真=画像が画面に余白を残して配置されている.iPhoneだとだいぶ小さく感じる.なので,ピンチして拡大する.これは写真集でもできないし,「 \風景+ 」で展示された作品でもできないこと.当たり前のようだが,電子版だからできるのである. 「\landscape」と「\landscape_archive_7.5」は基本的に,自分で勝手に画像を拡大・縮小,移動させながら見ていくものだと思う.スワイプして次にいき,ピンチして拡大して,移動する.その繰り返しで「写真」を見ていく.そうしていると「ずいぶんと雑に扱っているな」というか,「『写真』に触り放題だな」という感じなった.新津保の個展「\風景+」 では作品に触れるということは,自分のなかのモラルと社会的に一線を超えないとできないことであり,写真集『\風景』を見ているときは,とても丁寧にページをめくって見ていたのに比べると,ディスプレイに触りまくって「写真」を動かすというのは異質の感じであった. 私は「\風景」を写真集,展示,電子版で体験しているのでるが,写真集では見ることに集中していて,そこに写っている「スクリーンショット」の意味などから「ネット」と「リアル」とのあいだで意識がフラフラさせられたのを覚えている.展示の「\風景+」ではもちろん見ることに集中していたわけだが,不意にとても強く作品に触れたくなり,写真の体験が「視覚」と「触覚」とのあいだを彷徨った.それは作品提示の仕方が「紙にプリント」や「アルミマウント」などととても効果的であったからである.それらの展示による写真の質感と,普段触れているようで触れていない「デスクトップ」や,実際に触れているiPhoneのガラス面の感覚な...

お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_5

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記事を書きました→ スクリーンショットと「死」:Feréstecの2つのオンライン展 http://www.sametitled.org/ferestecforst/ 1980年にバロセロナに生まれ、現在はマドリッドを拠点とするフェラン・プラ(Ferran Pla)さんによるひとりアートユニット Feréstec の2つのオンライン展についてです.プラさんも「ポスト・インターネット」の範疇に入るだろうかと思いつつ, 新津保建秀 さんの『 \風景 』以来気になっている「スクリーンショット」についての考察をしてみました. Feréstecの Tumblr を見ていると,プラさん,今,日本に来ているみたいです. 新津保さんの写真集や, ラファエル・ローゼンダール さんのブラウザを用いた「 動的なコンポジション 」とも絡めてテキストを書きたかったのですが,文字数と私の思考がたりませんでした.改めて考えたい. 以下,ボツテキストから. ここで考えたいのは「スクリーンショット」という機能である.Feréstecは画面のスクリーンショットをとることで作品をつくる.それは完成した絵画などを記録したものなのだろうか.それとも,スクリーンショットで「撮る」という行為自体が作品なのだろうか.ネットアートが作品を記録するために用いていたスクリーンショットというフレームを,Feréstecは自らの作品を成立させるフレームとして用いている.ラファエロ・ローゼンダールはウィンドウを用いたコンポジションは,常に動き続けるものだと指摘した.スクリーンショットはデスクトップ上のウィンドウを「静物画」にする.ウィンドウというフレームでありながら可変的であった枠をスクリーンショットは不動のものに変える.つまり,スクリーンショットはウィンドに「死」を与える.しかし,スクリーンショットで撮られて画像は,再び動的なウィンドウに表示され「生」のなかに放り込まれ,動的な構成の要素となる.しかし,それは再びスクリーンショットで撮影される.どこまでも続く繰り返しを終えるのもスクリーンショットであれば,それはあらたな繰り返しのはじまりでもある.  写真家の新津保建秀も「スクリーンショット」で撮影した画像を写真集『\風景』に組み込んだ.タイトルにある「\(バック...

「\風景=風景」あるいは「システム=風景」

「風景」をめぐる2つの作品, 新津保建秀『\風景』 と ペトラ・コートライト 《 System Landscape 》を考えているけれど,考えれば考えるほど,広がりをもつトピックだなと感じています. 『\風景』では,ページをめくるごとに,意識がネットに行ったり,写真で撮られている「現実」にいったり,デスクトップ上のウィンドウに行ったりする.意識がフラフラする.この意識のフラフラが,最後にある「バックスラッシュ」の説明ですっきりする.「すっきりする」と言っても,写真を見ているときの意識がネットに行ったり,「現実」に行ったりする感じのすべてを理解できたわけではいのだけれど,「あぁ,そういうことか」と思う.池上高志さんが 美術手帖 に書いている「安定した解の存在しない関係式『\a = a』」によって,意識が落ち着く感じがある.今まで見ていたものが風景なのなか,デスクトップも風景なのか,そうしたことが「\風景」として無効化されて,その上でそれが「\風景=風景」となるという感じ. ペトラのときに書いたことでいうと,写真集の写真の隣接性によって意味がわからないけれど,とても強烈な結びつきを感じていたものが,最後の一文によってまとめ上げられて,意味を持つ感じ.これは言いすぎかもしれない,池上さんの「\a = a」という式によってこそ,まとめ上げられるというべきかもしれない.まとめ上げられるといっても,隠喩的なものではなくて,「\風景=風景」という直結回路ができた感じ.メタファーを経由しないから,デスクトップ・メタファーで特権的に位置にある「カーソル」が写真に写っていなくてもいいのかなと思えるようになった.以前は,「カーソル」が写っていないことに違和感を感じたのだけれど,今の解釈だと感じない. 新津保さんはインタビュー( アサヒカメラ2012年5月 :あたらしい「風景」をとらえるために,インタビュー 島貫泰介)で「ネットワーク内の膨大な情報は、第二の自然環境といえるのではないでしょうか。写真は見えるものしか撮ることができないけど、写真が持つ『フレーム』の意味を拡張することで現れる風景があるんです」と言っています.コンピュータのディスプレイに映っているもののスクリーン・ショットを撮ることで,「第二の自然環境」を撮影しているとすれば,ペトラの《System L...

他人のディスプレイに表示された,無造作でだらしないウィンドウの配置とその枠に記された情報を読むこと

美術手帖の8月号の特集は「写真2.0:パラダイムシフトを遂げる写真環境 」.特集内でトーマス・ルフや新津保建秀『\風景』が取り上げられていたので,久しぶりに美術手帖を買って読んでみた.写真自体には興味がないのだが, 「ポスト・インターネット」という私の今の関心のなかで 一度自分なりに考えたことがある , JPEGの圧縮ノイズ:アーティファクトがひとつの特徴である写真集『 jpegs 』を出したトーマス・ルフと,新津保建秀のデスクトップのスクリーンショットを巧みに入れ込んだ写真『 \風景 』が取り上げられており,この特集のなかでこれらがどんな風に扱われているのかなという興味があった. jpegs→ GIFの質感:ポスト・インターネットから考える画像形式_発表ノート (Google documentへ) \風景→ 『\風景』から感じたざわついた感じをいつかまとめるためのメモ トーマス・ルフの方は,インタビューのなかで「jpegs」シリーズに少し触れられている程度で,あたらしく得たことはなかった. 新津保さんの方は作品が再構成されて掲載されており,再構成版の最後には複雑系研究者の池上高志さんのテキスト「\写真=写真」と美学研究者の星野太さんの「情報/欲望のアレンジメント」が載っており,とても勉強になった. 上記2つのテキスト読んで,自分が書いたテキストにツッコミを入れたもの → https://docs.google.com/document/d/1GXQgGs2ei0GznVwPry8Useo6RJjWFJmo05qXZL6pL8E/edit 星野さんの写真に写っているものへの詳細な読みに対して,私は写っているものの細部はほとんどどうてもいいといような態度であったことに気付かされた.「\風景」の最初の写真はGoogle マップのものだが,私はその写真が「Google マップのスクリーンショット」であるというだけで,意識が「ネット」と「デスクトップ」と「写真」とのあいだを行き来するようになって,この写真集は「おもしろい」と思っていた.星野さんのテキストを読むまでは,そのマップが「不審者情報マップ」であることを知らなかった.星野さんは「不審者情報マップ」という言葉から,このスクリーンショットに折り重ねられた複数の視線を読み解...

『\風景』から感じたざわついた感じをいつかまとめるためのメモ

新津保建秀 さんの写真集『 \風景 』を眺めた.ざわついた感じがした.そのざわつきをいつかまとめるためのメモ. \風景とは,風景の持つ本来の意味を無効化する.無効化すると言うことに「強い」感じがしている.この強い感じが, new jpegs と違うのかもしれない. new jpegs は,もっと投げている感じがある.どこかへ投げてしまうようなこと. でも, \風景もどこにいるのかわからなくなるような感覚がある.デスクトップで「風景」を見ること.これが風景の無効化につながる?  デスクトップの風景には,今までの風景とは異なる情報が多くある.ウィンドウの情報 ファイル名 拡張子jpeg ping raw デスクトップの青さ もう一つの風景.写真家が見ている風景. スクリーンショット.スクリーンショット /デスクトップの重なりによる風景の多重化.けれど,ウィンドウの枠を隠してしまえば,ただの風景に見える.そして,写真をめくっていくと,いくつかのページは「ウィンドウ」を隠して構成されているのではないかと,勝手に思ってしまう. 風景の多重化.これも一つのきっかけかもしれない.風景のバージョン化.ウィンドウの枠や,その他デスクトップから読み取れる情報.写真をめぐるメタデータがそこに記されている.そこに意識が強く向かう人と,そうではない人がいるだろう.しかし,メタデータがあることで,意識するにしてもしないにしても,何かしらブレが生じる. 写真集を見ている時の感覚のブレ.風景を見ているのかテスクトップを見ているのか.ここにデスクトップと言う選択肢が出てくることによって新しいブレが生じているのではないだろうか.それはおそらく藤幡さんが言っていた3つの空間ということとも関係しているのであろう. コンピュータ・ディスプレイ上の写真イメージは,画面内の特定の場所にしか表示されないわけではなく,画面内の自由な位置に置くことができる.イメージとディスプレイのピクセルは一対一対応する必要がない.見ている対象であるディスプレイ・メディアと,その内部に表示されているイメージは,写真の印画紙のように,一対一対応している必要がない.コンピュータの内部に仮想の空間があることを理解しなくてはならない.つまり,現在のわれわれは,現実空間,仮想空間,イメージの空間という三重の空...