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8月, 2010の投稿を表示しています

「『薄さ』を与えられた平面」で使われなかったテキスト

きっかけから言えば,平面性という問題なんです.トランプは平面でできています.写真などをはじめとするイメージ画像というものは,平面であることが前提になっていますので,平面的な物はイメージと実体のあいだの行き来が可能ですが,立体的な物は扱い難いんです.その意味で,テーブルとトランプという組み合わせは,イリュージョンを作りやすいということがあったんです.(pp.120-145) -- 藤幡作品を考えるためのキーワードとして「平面」,「投影」,「重なり」があると考える.「投影」は「平面」を必要するし,「投影」すれば「平面」に「重なり」が生じる.「重なり」が生じた「平面」は立体なのではないかという疑問も起こる. 《Beyond Pages》と《未成熟なシンボル》の共通点.記号.行為と出来事.シンボルとオブジェクト.意味と無意味. 本という平面の重なりでできた物体.「平面の重なり」 -- 言語というある意味1次元な連なりが3次元のオブジェを作るのだが,それはひとつだけではなく,多くの可能性のなかのひとつであり,その可能性すべての言葉のつながりは2次元の地図を構成する. -- 平面(?)→立体 「形をめぐる探検隊の残した地図」 ところがここに提示された地図というのはそこでの出来事,プロセスが二次元的に拡げられて示されている.例えば,ヴィデオを再生するようにプロセスをトレースするリニアなヴィデオを再生するようにプロセスをトレースするリニアな「ホット・プロセス」ではなく,ノンリニアに示された「コールド・プロセス」として示されているのだ. この図版はコンピュータに対して行われたすべての行為の時間軸を忘れさせるようなかたちで,フラットにして見せてくれているのである. 密着する平面 -- 《Beyond Pages》は,行為と出来事の地図を立体化した作品なのだ.《禁断の果実》では作品を支えるためにあり表には出てこずに,制作者である藤幡のためにのみ存在していた地図が,3次元化することで観者が体験できる出来事として出てきたのである.ここでも,問題は「平面」と「立体」のあいだの行き来なのである. -- ヒトが言語によってコードを作り上げていて,そのコードに基づいてコミュニケーションを行っているというのが普通の理解である.しかし,ドナルド・ディヴィドソンは言語には

「あいだを移行する『↑』」で使われなかったテキスト

この連続を,私たちはよく「インタラクション」と呼んでいる.実際のところは,インタラクションとは,カーソルによって,ディスプレイ上のどこかのアイコンやメニューを「ここ」「これ」と指し示し続けることだといえる.  -- 上下左右斜めを意識することもなく,ディスプレイという平面を「↑」が動くことは,カーソルを手の代理だとみなすために必要なことだといえる. -- -- 川崎は論考の最後で「交代」でも「並置」でもない「根拠なき分身」という存在を提唱する.カーソルはカーソルでありながらマウスでもあり,マウスはマウスでありながらカーソルでもあるような状態.カーソルとマウスはヒトとコンピュータを使うヒトを二重化したものなのではないだろうか.つまり,コンピュータと接するヒトをモノとイメージへの「分岐の可能性を孕んだ存在」へと変容させる.しかも,私たちはこの存在の根拠が曖昧なカーソルを簡単に受け入れている.「カーソル」をそのまま「分身」として認識し,それを根拠を欠いたまま受け容れること.カーソルはヒトの分身でありながら,コンピュータの分身でもあり,モノでありながらイメージでもある.私たちはGUIでコンピュータを操作するときに, このような曖昧な存在をそのまま「分身」と受け容れている. -- カーソルをヒトの「分身」と考えるならば,それはヒトが属している大きな秩序のひとつである物理法則に則っていなくてはならない. ーー カーソルをめぐる言説を集めてみると,それは「手の代理」であったり,「視線の代理」であったり,ただの「分身」だったりしながら,コンピュータがヒトの意識を我が物にする記号であったりする.さらに,デスクトップ・メタファーの中で,現実世界にないのに存在している記号であって,まさに「カーソルって何だ?」という状況になってくる. ーー だから,私たちはカーソルというよく分からない映像を語るときに,身体やマウスといったモノとして確かにある既知のものと関係付けるのかもしれない. ーー ここで「カーソルとは何か」を改めて考えるために,カーソルを動かすことを考えてみよう.哲学者のフレッド・ドレツキは次のように書く. 私のコンピュータのキーボードにあるバックスペース・キーを叩くことは,カーソルを左へと動かす.運動の原因は,バックスペース・キーへの圧力であり,この出

ふたつの英語の要旨の初稿へのリンク

今書いている文章の英語の要旨を書いてみた.まだ字数を埋めただけという感じ. 英語で書く(単語を並べるてるだけですが)と,自分の考えを別の方向から眺められていて,なんとなく行き詰まってところが突破できるような気がする.でも,また日本語で書くと行き詰まったりするんだけど…… ーー First draft: The cursor is the switchover entity between the real and the virtual: Two works about the cursor by exonemo First draft:A ‘plane’ on Masaki Fujihata’s works: Gravity/Projection/Overlapping

カーソルとアンフラマンスに関するメモ

エキソニモの作品タイトルが《↑》であることに注目しよう.タイトルが「カーソル」ではなくて「↑」であること.カーソルの形は「↑」でなくてもいいが多くが「↑」であることを考える必要がある. カーソルが画面上にあることで,いくつもの「あいだ」が生じる.カーソルは,その「あいだ」を行き来して,これでもあり,あれでもある存在になる.どちらにもなれるが,どちらかでしかない. 私たちは現実空間と仮想空間の存在を自明ものだと思い始めている.ここに確かにふたつの空間があり,その境界線があると.しかし,エキソニモの作品はこの境界線の存在自体を疑うものだ.もともとふたつの世界のあいだに境界線があるのではなく,境界線を生み出すような何かがあるので,「あいだ」が生まれ,ふたつの世界の存在が意識される.エキソニモはその「何か」のひとつが「カーソル」だと考える.カーソルを使った現実空間と仮想空間とのあいだを明確に作り出し,意識させる.エキソニモの作品が興味深いのはあいだを作り出しながら,その境界線を曖昧にしてしまうことだ.明確に境界線を示しながら,それを曖昧にすること.それは境界線をとても薄いもの,マルセル・デュシャンが提示した「アンフラマンス」にすることである.カーソルはアンフラマンスを作り出す.そして「↑」の形が,アンフラマンスを通り抜けていく.ふたつの世界のあいだを行き来する「↑」.カーソルはふたつの世界のあいだを行き来するという重要な役割ゆえに,その形が,「↑」なのである. 「矢印は超薄膜現象をひきおこす」 矢印は単体思考の否定である.またその連続は実体を痕跡に変えるが故に実体よりも経過を,経過の軌跡を重要視する.(p.238) 宇佐美圭司『デュシャン』 「↑」は現実空間と仮想空間のあいだに薄い膜をつくり,そこを通り抜ける. エキソニモはカーソルをマウスとの関係から考察をはじめ,最新作ではカーソルそのものの存在の意味を「↑」という形から明らかにしている.カーソルは「モノと映像」,「映像とデータ」のあいだ明確に示しつつ,それを乗り越える存在であり,それは現実空間と仮想空間とのあいだにある境界線を曖昧にするアンフラマンスな現象を作り出す存在なのだ.

今書いているものたち

夏の暑い中,どこにも行かずに部屋で書きつづけている2つの文章.月末までにすべて書ききれるのか?  ーー カーソルをめぐるエキソニモの冒険(仮) はじめに 本稿が考察の対象とするのは,ユーザ・インターフェイスにおける「カーソル」である.とはいえ一口に「カーソル」といっても,それはCUIにもあり,GUIにもあり,iPadに代表されるタッチ型インターフェイスではその存在が消えかかっているように,その現れ方も当然一様ではない.そこで本稿はさしあたり,GUIにおける「カーソル」に焦点を絞る.なぜならこの30年間私たちとコンピュータとを結びつけてきたGUIの中で,「カーソル」ほど訳のわからないイメージはないからである.まずは「カーソル」という映像の「訳のわからなさ」を明確にした上で,そこでの問題を積極的に受け容れつつ創造的に乗り越えた作品として,エキソニモのカーソルをめぐる3つの作品《断末魔ウス》(2007),《ゴットは,存在する.》(2009)の中の《祈》と《gotexsit.com》,《↑》(2010)を論じる.カーソルがインターフェイスのみに留まらない,ヒトとコンピュータとの関係から生じた現実と仮想とを切り替えながらループしていくスイッチのような新たな存在様態の可能性を明らかにすること.それが本稿の目的である. ーー 藤幡正樹の作品における平面:平面を組み立てる(仮) はじめに コンピュータと出会い,コンピュータ・グラフィクスにとりつかれてとうとう十年経ってしまった.私にとってアニメーションというメディアがコンピュータへの入り口であったなら,立体物を作ることはそこからの出口であるのかも知れない.(p.119)  藤幡正樹『アートとコンピュータ』(1990) このテキストは,アーティストの藤幡正樹が今から20年前に書いた「四次元からの投影物:デュシャンのオブジェからアルゴリズミック・ビューティーへ」の冒頭部分である.しかし,藤幡はこの立体物《禁断の果実》(1990)を作った後も,ZKMのパーマネントコレクションになった《Beyond Pages》(1995-97)ほかコンピュータを用いた作品を作り続ける.そして,日本のメディアアートを代表するひとりとなっている. 藤幡正樹と言えば,コンピュータを用いたインタラクティブな作品を誰もが思い浮かべる中,20

「身体/記号の拡張の手前」を考える一歩手前のメモ

《Beyond Pages》は,とてもスムーズに身体を拡張し,記号を拡張する.モノとイメージとのあいだに身体を入れ込んで,そこで新たな記号が生じる.モノとイメージのあいだに入り込んだ身体が新しい体験をする.これまでにない仕方で林檎を齧る. 本という平面の重なりでできた物体.平面と立体.机の上に投影された本には重なりがない.机の天板という平面に隙間なく密着している本の映像.本はモノだが意識はページという平面に集中している.だからこそ,《Beyond Pages》での「ぺらぺら」ともすることができない本の映像を誰もが受け入れる.それは本のような映像だと知りながら,本として受け入れる.本というモノが,平面に投影されたイメージになる.この「本」を受け入れた瞬間,私たちにの身体はイメージとモノとのあいだに入り込む.そして,インタラクションがはじまる. インタラクションの中で拡張した身体は,いつもの馴染みの身体になり,拡張した記号は記号全体のネットワークに組み込まれる. ここで,投影されている本の薄さに戸惑ってみよう.それは机の木の天板に密着している.ページが重なっているように表現されているが,それは映像上だけで,机の上には何ひとつ立体的なモノがない.なぜこのような映像を本のようなものとして受け入れてしまうのか. インタラクションの手前に留まること.それは身体と記号を拡張する一歩手前のわからなさで止まること.

フラットベッドについてのメモ

フラットベッドではあらゆるモノがコラージュされる.あらゆるものが平面に重ねられる.垂直ではなく,水平であること.机の上に映像をプロジェクションするように. デュシャンの大ガラスはヒトが直立姿勢で知覚した世界を表しているのではなく,情報のマトリックスが垂直状態に都合よく置かれているのだ.デュシャンのレディメイドは90度,モノを回転させる. 「平面的な物はイメージと実体とのあいだの行き来が可能です」という藤幡の言葉. モノをどんどんキャンバスという平面の上にコラージュしていくラウシェンバーグ. 藤幡とラウシェンバーグの比較を行いたいわけではない.平面にいろいろとコラージュしていくことの意味を考えたい.というか,藤幡の重ならないモノとイメージとのコラージュ(《未成熟なシンボル》)と平面の重なりから作られた立体(《禁断の果実》)における「平面」を考えたい.そこで,レオ・スタインバーグの「フラットベット絵画平面」での「平面」に言及してみること. 「フラットベット絵画平面」における「平面」は,なんでも受け入れる概念的な「平面」である.デュシャンやラウシェンバーグは,この「平面」にモノを置いていく.どれだけモノをおいても平面でありつづける不思議な平面を作っていく. 「フラットベッド絵画平面」はGUIでの不思議な平面と似ている.コンピュータは可能にしたなんでもシミュレートすることで,あらゆることが可能になるような平面.藤幡はこの概念的な「平面」を基盤にしている.そして,《禁断の果実》では「平面」を重ねて立体にしようとする.重さを感じさせない立体ができがある.それは重さを持たない概念が具体化したモノだからである.《未成熟なシンボル》では,「平面」の上に平面的なモノとイメージとを並べる.いや違う.平面的なモノとイメージという重ならない2つの存在を並べることで,普通の机の上を概念的な「平面」に変えてしまう.

「四次元からの投影物」に関するメモ

イメージ
藤幡は「四次元からの投影物」というテキストを書いている.その冒頭には次のようにある. コンピュータと出会い,コンピュータ・グラフィクスにとりつかれてとうとう十年経ってしまった.私にとってアニメーションというメディアがコンピュータへの入り口であったなら,立体物を作ることはそこからの出口であるのかも知れない.(p.119) 「四次元からの投影物:デュシャンのオブジェからアルゴリズミック・ビューティーへ」 実際は,この立体物《禁断の果実》を作ったあともコンピュータを用いた作品を藤幡は作り続ける.しかし,2006年にコンピュータを用いないアニメーション作品《未成熟なシンボル》を作ることになる.アニメーションからコンピュータと出会い,アニメーションでコンピュータを別れる.そしてこのアニメーション作品をつくるきっかけは「平面性」の問題であったと藤幡は述べている.アニメーションという平面から始まり,立体を作り,また平面へと至るこの藤幡の作品制作のプロセスから,今まであまり考えられてこなかった藤幡の作品における「平面」を考えてみたい. そのためにアニメーションに回帰した《未成熟なシンボル》と立体物の《禁断の果実》,インタラクティブな作品《Beyond Pages》を取り上げる. -- 冒頭に引用した「四次元からの投影物」の最後には次のように書かれている. 形の変形や生成をめぐる私的アルゴリズムへの探求は,おのずと四次元感覚に触れることを意味する.ここではイメージも立体もその根源において同一のものとして扱われ,なんの区別もされないのである.(p.124) 「四次元からの投影物:デュシャンのオブジェからアルゴリズミック・ビューティーへ」  冒頭に引用した「四次元からの投影物」の最後には次のように書かれている.コンピュータを用いる中で,イメージと立体が区別されない領域を見つけたことは藤幡の作品における「平面」を考える際に重要である.藤幡はコンピュータを,平面と立体が別々の形態としてあるのではなく同一のものとして扱える場所として考えている.現実世界では平面と立体とのあいだに超えられない境界があるが,コンピュータにはその境界が存在しない.藤幡はその境界があたかもないこととして作品を制作する. 《禁断の果実》をつくる際に用いたステレオリソグラフィーというシステムに対して藤幡は次の

メモをメモったメモ

どっちが中心と問いかける.アナログとデジタル,どっちが中心と問いかける.あるいは,バーチャルとリアル.バーチャルを中心としてみる.最後にリアルが勝つのではなく,バーチャルがいい. (カーソルはモノでもあり,映像でもあり,データでもある.どれが中心? データ中心主義.) 切り貼り.カット&ペースト.コラージュ. 世界をコラージュしていく.その中でのカーソル.ひとつの基準点としてのカーソル.コラージュの外に位置するカーソル. 身体性.コンピュータの身体性.ここには一度言及しなくてはならない. 《↑》でのカーソルの反転.ループするカーソル.消失するカーソル. どっちが中心? どちらも中心? どれも中心? 結局,カーソルは中途半端な存在.中途半端という認識が大切.(なんにでもなれて,なんにもなれない.曖昧な存在.) 切り貼りされる世界.その上(手前)にあるカーソル.切り貼りを逃れるカーソル. 論理の世界に落とされたヒトの染みとしてのカーソル.アナログとデジタルとの接点.アナログから染み出したのか.デジタルから染み出したのか.いずれにしてもアナログでありながら,デジタルの領域にあり,デジタルでありながら,アナログの領域にある. 移動する染み.消失する染み.反転する染み. 染みが反転しても染み? 移動する中心.消失する中心.反転する中心. 中心が反転しても中心? マウスとカーソル. グレーの領域.この曖昧な領域を増幅する. 物理法則.コミュニケーションの破綻.ブレークダウン. カーソルから解放されたら,ゴットが見えました. ループするカーソルと破壊されるマウス. ループするカーソルと祈る2つのマウス. 「光学マウス二つを絶妙な位置関係で合わせると,カーソルが勝手に動き出すことを発見し,それを"祈ることで奇跡が起こる状況"として表現した《祈》.」 マウスも位置,カーソルも位置. アナログ━━━デジタル (どっちが中心,ずらす,切り貼り) 分身/コミュニケーション/物理法則 どっちが中心/アナログとデジタル ループするカーソル/カーソルの消失/反転するカーソル 壊れていくマウスと接続されたカーソル 何事もなかったように手元のマウスと接続されたカーソル プログラムによる分岐の可能性,切り貼りされるモノとイメージ ここでもひとつのコラージ

カーソルと分身

ホラー映画における「分身」を考察した川崎公平(「根拠なき分身:黒沢清『ドッペルゲンガー』における断続の諸相」,「映像学」No.83)は,分身には「交代」と「並置」があると指摘している.死んだりした人が,もうひとりの人として画面にあらわれるのが交代.また,同じ人が画面に同時に登場するのが並置.マウスの分身としてカーソルを考えると,それは「交代」なのか,それとも「並置」なのか.画面上にはカーソルが1つしかないところから,カーソルはマウスと交代しているとも言えるが,インターフェイス全体からみればマウスとカーソルとは同時に存在して機能しているとも言えるので,並置とも考えられる.いや,そもそもマウスとカーソルは同一の存在ではないから「分身」ではないとも言える. 川崎は論考の最後で「交代」でも「並置」でもない「根拠なき分身」という存在を提唱する.カーソルはカーソルでありながらマウスでもあり,マウスはマウスでありながらカーソルでもあるような状態.カーソルとマウスはイメージとモノとのあいだでそれぞれの存在が二重化したものなのだ.私たちはこの存在の根拠が二重化して,曖昧になっているカーソルを簡単に受け入れている.カーソルはヒトの分身でありながら,コンピュータの分身でもあり,モノでありながらイメージでもある.「カーソル」をそのまま「分身」として認識し,それを根拠を欠いたまま受け容れることは,コンピュータと接するヒトをモノとイメージへの「分岐の可能性を孕んだ存在」へと変容させる.だから,カーソルというイメージを身体の拡張と感じてしまうのである.

メモ:「唐突ですが、カーソルは、半死状態なのかもしれない」

《断末魔ウス》では,映像とともにカーソルの動きが記録されている.カーソルは映像だが,映像ではないように扱われている.だから,映像とは別にその動きが記録されている. カーソルは映像であるということから,何がいえるのか.カーソルは映像ではないということから,何がいえるのか.カーソルは映像であり,かつ,映像ではないから何がいえるのか. カーソルは,写真や映画のような「かつてそこにあった」タイプの映像ではない.では,ライブ映像のように今起こっていることを映し出しているような映像だろうか.確かに,カーソルは,今の状況を映し出しているので,ライブ映像と言える.しかし,《断末魔ウス》は「かつてそこで起った」破壊行為を記録した映像である.カーソルの動きもその過去の破壊行為とともに記録されている.ということは,カーソルは,ライブ映像ではなくなるのではないだろうか. 《断末魔ウス》はDVD-ROMに収められたソフトウェア作品である.しかも鑑賞の方法が,フルスクリーンとそうではないものと2通りある.フルスクリーンのときは,カーソルは記録映像に近い振る舞いをする.過去に記録された動きを画面いっぱいに行う.しかし,その際に,鑑賞者が自分の手元にあるマウスを動かすと,カーソルはマウスの動きに一瞬従う.マウスに引っ張られているときにカーソルは,記録映像からライブ映像に切り替わる.もしくは,映像からPC環境に切り替わっている.エキソニモが書いているようにカーソルは,記録映像とライブ映像,映像とPC環境のあいだを揺れ動く. フルスクリーンで鑑賞しない場合は,カーソルは振る舞いはさらに複雑になる.基本は,上記の2つのあいだの行き来をすることになるのだが,ここでは位置情報に基づいた動きの変化だけではなく,PC環境に応じて,カーソルはその形を変えたり,周りのイメージを選択したりする.また,Macでエクスポゼやスペーシーズを行うとマウスの破壊行為が行われている映像が見えなくなり,カーソルだけがその破壊行為を示すようになる.こうした見方は想定されていないのかもしれない.ソフトウェア作品として《断末魔ウス》は,OS上の他のソフトウェアと同列の扱い受け,その中で破壊行為の記録映像が見えなくなり,カーソルの動きだけがその行為を示すということも起こりうるのだ. カーソルは,映像であり,同時に位置情

仕事前にカーソルについて考えたメモ

カーソルは,ヒトとコンピュータとあいだを遠くしているとともに,近くもしている. カーソルは映像である.しかし,PC環境の中で,他の映像に影響を与えることができる. カーソルが単なる位置情報であることと,CUIとGUIにおけるヒトとコンピュータとあいだにおけるカーソルの関わりを考えること.そこから,《断末魔ウス》のカーソルについて考えること. CUIとGUIでは位置情報のあり方がちがうにも関わらず,その双方に存在するカーソルとは何か? アイヴァン・サザーランドがカーソルについて「あなたが望むことをする」と書いていることを考えること.

実家、電車、バスで断続的に書いたメモ

《断末魔ウス》でディスプレイだけではなく,その周辺も含めて見てみる.そこには恐らく壊されることがないマウスがあるであろう.カーソルは動くが,マウスは動かない.カーソルが動くように,自分の机の上のマウスが動いたらどう思うだろうか. マウスを動かさなくても,カーソルが動く.しかし,カーソルが動いても,マウスは動かない.ここには非対称性がある. 《祈》では,マウスが動かないで,カーソルが動いている.一見《断末魔ウス》と同じである.しかし,この作品では重ね合わされた2つの動かないマウスがカーソルを動かしているのだ.物理的には光が干渉することで,マウスが動きがを読み取ってしまっている.ある意味,マウスのエラーである.しかし,外から見れば動かないマウスがカーソルを動かしているのであり,1つの奇蹟に見える.エキソニモが手を加えているのは,マウスの重ね方とカーソルが画面上をループするようにプログラムを変えることだけで,《断末魔ウス》と違ってカーソルとマウスとのあいだの関係はハックされていない.ここでは,電気が供給される限り,画面上のカーソルは無限にループし続ける.ヒトから自律したモノ→プログラム→イメージの出来事が成立している.カーソルが動くことで,出来事のループを示している. 《gotexists.com》では,逆にカーソルが消えることでループが成立する. 《祈》では,コンピュータの「意思」みたいなものがカーソルによって表象されているように鑑賞者は解釈してしまう.コンピュータに「意思」などないとしても,カクカクと動きながら延々とループするカーソルに対して何かしら意味を付与してしまう. カーソルがなくても作品のタイトルと重ね合わされた2つのマウス,そして「祈り」のイメージ検索の結果を表示しているディスプレイから,鑑賞者はそこに「祈り」を見い出すだろう.だが,そこにカーソルがあることで,その意味が強化される.静止した世界の動きが加わる.時間のないフラットな論理の世界に動きが加わる.循環する時間が生じる.カーソルという「↑」がヒトの感情をコントロールする.それは言い過ぎかもしれないが,ある感情を想起するトリガーになっている. カーソルをハックするということを行わずにヒトなしのデータの流れが《祈》では出来上がっている.データは延々と生成し,カーソルは画面上をループし

100805 実家で夏の暑い午前中に書いたメモ

エキソニモは「モノ⇄プログラム⇄イメージ」のつながりのコミュニケーションを破壊し,一時のコードもなかったことにしてしまう.しかもそれを,モノ,プログラム,イメージの各部分で行っている.そしてその3つがバラバラになっても,バラバラのまま別のコミュニケーションが始まることを示している. 3つがバラバラになっても,データは流れ続ける. 《祈》ではマウスを重ね合わされるカーソルはどちらのマウスの分身なのであろうか.見た目にはわからない.《断末魔ウス》では,カーソルはマウスの分身である. エキソニモは現実と仮想をズラし続ける.現実の中に仮想があって,その仮想のなかに現実が生まれ,新しく生まれた現実に再び仮想が生まれる.現実と仮想はそれぞれがそれぞれに対してコピペされていく.切り貼りが「コピペ」としてボタン一つで簡単にできるようになったように,現実と仮想は次々に切り貼りされていく.エキソニモは現実と仮想とのコピペを行う際に,ひとつの基準点としてカーソルを用いる. PC環境と映像.映像は,かつてあったものやいまあるものを写し取ったものである.それは同じ現実世界を写し取ったものである.PC環境は現実とは異なる世界を写し取っている環境である.そこでは映像が二重化することがある.今までの現実世界の写し取った映像が仮想空間で映される.それはプログラムという一次元的な言語によってコントロールされている.平面で展開されているので,すべてが見渡せるように感じられるが,そこでは今までの映像のようにはすべてを見ることができない.見通しの悪い世界なのだ.だからこそ基準点としてカーソルが必要となってくる. 《断末魔ウス》でカーソルは画面上をワープし,ループし続けている.普段は,上にもって行ったカーソルが下からでてくることはない.でも,ここでは上から下へのワープをユーザーは受け入れ,カーソルが画面上を動き続けるループを見続けることになる.この構造は,マウスへの破壊から,マウスによる祈りへとつながる.《祈》では,重ね合わされたマウスによって,カーソルが動く.2個のマウスだけで,カーソルを動かす.そして,カーソルは《断末魔ウス》と同じ様に画面上をループし続けている.カーソルはカクカクとした動きは,《断末魔ウス》も《祈》も同じであるが,そのカーソルに対する私たちの気持ちはまったく異なってい

「はしもと」さんを見ながら書き始めた「これも自分と認めざるをえない」展のメモ

「はしもと」さんがいま、僕の前で電話している。向こうは僕のことを、全く知らない。ただ同じ展覧会にいたからみたことあるなぁくらいな感じだと思う。でも僕は、「はしもと」さんが僕と同じ身長・体重だということを知っている。と、キーボードを打っているあいだに、「はしもと」さんはいなくなってしまった。 じっくり考えたい。けど、《指紋の海》は、かわいい。指紋をかわいいなんて思ったことは、今までなかった。一度見失って、再び自分のところにもどってくるときのかわいさといったら、もうなかった。かわいすぎるぞ、僕の右手の人差し指の指紋。ここでおもしろいのは、僕が指紋を「かわいい」と思っていること。自分から切り離されたも自分の一部だから「かわいい」と思っているのかもしれないけれど、普段、綺麗な黒い本についたり、iPhone についている自分の指紋はいやーだなと感じることが多いので、いつもは指紋のことを自分との関わりよりも、手が触れたモノの表面を汚す存在として見ているのかもしれない。けど、この作品では、とても「かわいい」と思ってしまう。そこは考えるべきところ。映像の力や、自分との関わりとかいろいろ。あとは、カーソルとの比較もしてみたい。 《2048》はとても好き。まだ人があまりいなかったので、何度もやってしまった。自分の光彩が数値化される。どこまでが自分か、自分では消しながら確かめる。けど、ここでは自分のことは自分では決めることはできない。「自分を消す」という行為自体も変だけれど、それがたんなる0と1の数字の列にすぎないから、自分では自分を消しているという感覚も実はなかったりしたのだけれど、あのピーター・バラカンの声で「まだあなたです」と言われてしまうと、そこに提示されているのが「まだ自分である」と思ってしまう。そこでさらに数字を消すのだけれど、それは自分だから、自分を一所懸命に消すことなる。自分ではなくなるために、一所懸命に数字の列を消すこと。「もうあなたではありません」と言われて納得してしまうこと。しかも、ピーター・バラカンの声で!

21_21 に早く着きすぎたので日陰の涼しいベンチで書いたメモ

エキソニモにカーソルをめぐる作品をおけるループ。「↑」の連鎖で描く入れ子の空間。ディスプレイの平面のなかの「↑」。「↑」はディスプレイの上をループしている。ループするようにプログラムが変えられている。 エキソニモの作品を見ていると、カーソルをどんどん自由になっているような気がする。ヒトから自由になっていく。記録されながらも、再生されているときに、まさに「生き返った」ようにまわりの環境に反応する《断末魔ウス》でのカーソル。マウスを重ね合わせて、勝手に動くようになる《ゴットは、存在する。》のカーソル。仮想空間から抜け出し、現実世界に出てきてヒトを惑わす《↑》でのカーソル。 カーソルが「分身」だとしたら、それは「根拠なき分身」なのであろうか。「位置データ」という根拠をもつカーソル。「位置データ」という根拠から開放されたカーソル。 空間的重ね合わせは、レフ・マノヴィッチの「空間的モンタージュ」を使えば、もっともらしく説明できるかもしれない。でも、それだけではないんだよな、きっと。なんかもっと別の世界が無理矢理重ね合わされているような。無理矢理なんだけど、見た目は普段通りのデスクトップというところがいいんだよな。つまり、私たちの普段見ているデスクトップ自体が、異なる世界の重ね合わせで成立していることを示している。

「カーソルとは何なのであろうか」についてのメモ

吉岡洋はペンと比較して,カーソルのことを次の様に書いている. 書くとき,眼は動くペンの先を注視する.それに対して,パソコンに向かって仕事をする時,眼は表示装置の中のカーソルやポインタを見ている.車のアクセルに置かれた足が意識されないように,そこではマウスの上に置かれた現実の指先は意識されない.指先は電気信号となってケーブルを通り,コンソールの上の(矢印や指の形として示される)アイコンとして経験されるのである.(p.168) スタイルと情報:メディア論を越えて,吉岡洋 このようにカーソルを自分の手だと感じている人たちは多い.自分の手のように扱えるから,手を普段意識しないように,カーソルも意識せずに扱える.長谷川踏太も「もうそこに自分の指先として存在しているので,気にしている人はあまりいないかもしれません」と指摘する. GUIを視覚文化の中に位置づけて考察したボルターとグロラマは,マウスによってカーソルを2次元的に動かせることがCUIに慣れた人たちに驚きを与えたとしている.GUIではあたりまえのカーソルの自由な動きはCUIでは当たり前ではなかった.2次元的な動きの自由さは,カーソルを手の代理だとみなすために必要なことだといえる.カーソルを自由に動くからこそ,ユーザの多くはこの映像を自分の指だと感じるのだ. 須永剛司はカーソルを手の代理ではなく,「視線の代理の記号」だと考える.さらに須永はカーソルをことを次の様に書く. それらは,スクリーン上にある「自己の存在・場所」に近似するものと言える.スクリーン内のカーソルやキャレットは,ユーザがもっているであろう関心の場所を表示している.英語のプロンプト prompt には,文字通り「人を促す」の意味がある.しかし,それはシステム側の期待するユーザの思考の「存在・場所」であり,その時のユーザ自身の関心場所とずれていることも多々ある.(p. 129) インタラクションに関する考察.須永剛司 「視線の先」が「関心の場所」になるのだが,ここで注目したいのは,それがユーザのものであると同時に,システムの側のものでもあるということだ.カーソルをヒトの手や目の代理というだけではなく,コンピュータ側からユーザへの働きかけを行う記号でもあると考えることは重要である. 久保田晃弘はカーソルのことをマウスの「分身」と称している.そして,この「

100802 実家へと向かうバスの中で書いたメモ

藤幡正樹の《未成熟なシンボル》における平面への問いは,村上隆が提唱した「スーパーフラット」と関係しているのであろうか. 村上隆の「スーパーフラット」は2000年に行われた展覧会で大々的に提唱された.それに対して,藤幡の《未成熟なシンボル》は2006年の作品である.また藤幡の作品の平面性を考えるために取り上げた作品はいずれも2000年前のものである(《禁断の果実》は1991年,《Beyond Pages》は1996年).作品の発表年だけをみれば,藤幡の作品のスーパーフラットとはずれている. しかし,スーパーフラットはGUIの不可思議な平面をはじめとするコンピュータに影響されていることは確かなことである.コンピュータはまさに藤幡が探求してきた世界である.また,藤幡はそのアーティストとしてのキャリアをアニメーションからスタートさせていることからも,藤幡とスーパーフラットとのあいだは時期のずれほど大きな隔たりはないと思われる.しかし,村上のスーパーフラットがそのまま藤幡の平面を説明できるかというとそれは難しいと言わざるを得ない.藤幡は,すべてを平面で語るためにはコンピュータを知りすぎている.藤幡はコンピュータの深層を知りすぎているのである. スーパーフラットに影響を与えたGUIは私たちに「at interface value」というすべては表面の出来事であるという価値観を与えた.村上とともにスーパーフラットを推し進めた東浩紀は,GUIがすべてが見えているイメージの効果であるという大きな認識論的転換を起こしたものであるだとしている. 藤幡はすべてが見えるイメージの効果にすぎないになる前から,コンピュータに深く関わっている.それゆえに,その表面に密着するかたちで「行為と出来事の地図」が存在することを知っているのである.さらに,その地図が描く世界はまっさらな論理空間であることも知っている.その論理空間では3次元のオブジェを文字で記述することできるも知っている.藤幡は,GUIが表示している「不可思議さ」がなぜ生まれるのかを知っているのである. その「不可思議さ」をそのまま立体にしようとしたのが《禁断の果実》であり,GUIの表面で起こっている記号とモノとの振幅運動を表したのが《Beyond Pagae》である.《未成熟なシンボル》は,モノとのイメージとを平面で重ね

昨日カフェで書いたメモ

《Beyond Pages》は,藤幡の作品の中でも数多く言及される.インタラクティブの体験で,意味が立ち上がると指摘される. 私はこの問題を,藤幡がCG時代から考えざるをえなくなっている「平面と立体」の問題と捉えてみたい. 《Beyond Pages》は,行為と出来事の地図を立体化した作品なのだ.《禁断の果実》では作品を支えるためにあり表には出てこずに,制作者である藤幡のためにのみ存在していた地図が,3次元化することで観者が体験できる出来事として出てきたのである.ここでも,問題は「平面」と「立体」のあいだの行き来なのである. イメージとモノとインタラクションが混じる状況で,私たちは普段とは異なる体験をすることになる.藤幡が言うように,リンゴにペンで触れると,それが齧られる.そんなことは,普通では起こらない.その体験を文字にすれば「ペンでリンゴに触れると,リンゴが齧られた」であり,どこかの小説の中にでも出てきそうな感じである.しかし,藤幡の作品はこれを見る人の行為とイメージとを組み合わせて表象してしまう.行為とイメージとを組み合わせているのは,コンピュータである.コンピュータが普通ではいっしょに起こることがない出来事をくっつけてしまう.物理法則が無効化される.それでもそこに意味を認めてしまう. ヒトが言語によってコードを作り上げていて,そのコードに基づいてコミュニケーションを行っているというのが普通の理解である.しかし,ドナルド・ディヴィドソンは言語にはコードなどなく,その場その場でそのテキストの真偽を決めつつ,場当たりてきにコミュニケーションを行っていると主張する.ディヴィドソンの考えによれば,私たちは常に手探りでコミュニケーションを行っていることになるのだが,それは藤幡が「形」をめぐって行ったコンピュータとの対話そのものである. 藤幡はCGを作成する際に自分が体験していた地図を3次元化して私たちは提示する.なぜ地図を立体化する必要があったのだろうか.それは時間を地図を中に取り入れるためである.時間を捨象してフラットになっていた地図では,私たちは出来事を出来事として体験することはできない. それは,論理の関係から,「そして」の因果関係へと変換である.コンピュータは論理の世界であるから,そこには時間がない.しかし,ヒトは時間の中に生きている.論

昨日カフェで書いて,そのあと日曜の午前中に書いたメモ

《未成熟なシンボル》では,ヒトの身体は平面化されない.モノとしてのトランプとイメージをトランプとの重なりでひとつの不可思議な平面が成立しているにも関わらず,ヒトの身体は作品に招き入れられない.それはただ単にインタラクティブでないということだけではない. 平面は身体を招き入れないという意味では,平面のままだが,平面的なモノであるトランプとプロジェクションされたトランプのイメージとの重なりによって不可思議な空間が生まれる.そこで,出来事が記号化される.空間でありながらも平面でもあるということが生まれる. 平面的であるがゆえに立体とみなされないモノとしてのトランプ.それは単なる記号として扱われる.平面の記号にヒトがアクセスする.ヒトはモノとしてのトランプを動かすことができる.当たり前のことであるが,机の表面という平面の上で,平面的なトランプを動かすヒト.動かす瞬間にモノとしてのトランプは立体となる.手で持つことで,かすかな厚みが生じる.平面的なモノとしてのトランプは.平面と立体とのあいだを行き来している. 対して,イメージとしてテーブルの上にプロジェクションされているトランプは,常に平面的である.ヒトはこのイメージとしてのトランプにアクセスすることができない.触ることができないが,手の上に「のせる」ことはできる.触るのではなく,「密着」させること.テーブル,トランプ,ヒトの手.このトランプはあらゆるモノの表面に密着する.それは「かさなる」という言葉が単に与えられているだけで,今までの意味での密着とは異なる新しい体験である. 《未成熟なシンボル》は,インタラクティブな作品ではない.しかし,それ故に,プロジェクションの意味に意識が向けられる.モノの表面にイメージが「かさなる」こと.「かさなる」ことでイメージは単なる平面のままでありながら,立体となりそうになる.今までの感覚では「立体になり損ね続ける永遠の平面」.映画は常にそうであったが,スクリーンは手を触れてはいけないモノであるから,このことを忘れることができた.しかし,テーブルという触れられるモノの上に,トランプという手で扱うモノをプロジェクションすることで,藤幡はそこで投影されているイメージが「立体になり損ね続けている平面」であることを意識させる.しかも,このイメージはインタラクティブではない.ゆえに,操作