昨日カフェで書いたメモ
《Beyond Pages》は,藤幡の作品の中でも数多く言及される.インタラクティブの体験で,意味が立ち上がると指摘される.
私はこの問題を,藤幡がCG時代から考えざるをえなくなっている「平面と立体」の問題と捉えてみたい.
《Beyond Pages》は,行為と出来事の地図を立体化した作品なのだ.《禁断の果実》では作品を支えるためにあり表には出てこずに,制作者である藤幡のためにのみ存在していた地図が,3次元化することで観者が体験できる出来事として出てきたのである.ここでも,問題は「平面」と「立体」のあいだの行き来なのである.
イメージとモノとインタラクションが混じる状況で,私たちは普段とは異なる体験をすることになる.藤幡が言うように,リンゴにペンで触れると,それが齧られる.そんなことは,普通では起こらない.その体験を文字にすれば「ペンでリンゴに触れると,リンゴが齧られた」であり,どこかの小説の中にでも出てきそうな感じである.しかし,藤幡の作品はこれを見る人の行為とイメージとを組み合わせて表象してしまう.行為とイメージとを組み合わせているのは,コンピュータである.コンピュータが普通ではいっしょに起こることがない出来事をくっつけてしまう.物理法則が無効化される.それでもそこに意味を認めてしまう.
ヒトが言語によってコードを作り上げていて,そのコードに基づいてコミュニケーションを行っているというのが普通の理解である.しかし,ドナルド・ディヴィドソンは言語にはコードなどなく,その場その場でそのテキストの真偽を決めつつ,場当たりてきにコミュニケーションを行っていると主張する.ディヴィドソンの考えによれば,私たちは常に手探りでコミュニケーションを行っていることになるのだが,それは藤幡が「形」をめぐって行ったコンピュータとの対話そのものである.
藤幡はCGを作成する際に自分が体験していた地図を3次元化して私たちは提示する.なぜ地図を立体化する必要があったのだろうか.それは時間を地図を中に取り入れるためである.時間を捨象してフラットになっていた地図では,私たちは出来事を出来事として体験することはできない.
それは,論理の関係から,「そして」の因果関係へと変換である.コンピュータは論理の世界であるから,そこには時間がない.しかし,ヒトは時間の中に生きている.論理を出来事にするためには,2次元の地図を3次元化しなければならないのである.
3次元化とはどういうことか.それはヒトの中に推論チェーンを作り,記号の全体論を作り上げることであり,同時に,その全体にヒトの身体を招き入れることである.
このことを考えるためにGUIを開発したアラン・ケイの言葉の「イメージを操作してシンボルを作る」というスローガンを考えよう.そこでは,イメージや記号が身体によって操作されるうちに混じりあうことで,でヒトは世界を認識するということが言われる.
GUIは,コンピュータの論理世界をヒトが親しんでいる物理的世界にできるだけ沿うように作り上げた.藤幡はGUIと同じ手法ではあるが,論理世界を通すことで物理世界の認識を変えてしまう記号の全体的関係を作り上げる.
藤幡は記号を出来事にしてしまう.それは記号,そしてそれをになっている映像という平面の中にヒトの身体を招き入れて立体化していくことである.記号は立体化し出来事となるが,同時に,身体はコンピュータにデータとして取り入れられて記号になっている.つまり,身体は平面化されている.
机の上にプロジェクションされているのが「本」であること.これがモノの平面化を表している.平面化した本に対して,ヒトはペンもってあたかもそこにモノとしての本があるかのように行為をする.しかし,手にもっているペンもあくまでもペンのようなものである.ここでは状況が「本」と「ペン」との関係における行為をヒトに与えることになる.実際のモノは,そこでの行為のためにふさわしくない.けれど,状況からヒトはそれらのモノにはふさわしくない行為をするのだ.藤幡は状況を作り出すことで,ヒトの身体を作品に自然と招き入れる.
《Beyond Pages》で起きていることは,記号という平面に身体を招き入れて,コードなきコミュニケーションを行ないながら,コンピュータとの行為と出来事を立体化することなのである.
私はこの問題を,藤幡がCG時代から考えざるをえなくなっている「平面と立体」の問題と捉えてみたい.
《Beyond Pages》は,行為と出来事の地図を立体化した作品なのだ.《禁断の果実》では作品を支えるためにあり表には出てこずに,制作者である藤幡のためにのみ存在していた地図が,3次元化することで観者が体験できる出来事として出てきたのである.ここでも,問題は「平面」と「立体」のあいだの行き来なのである.
イメージとモノとインタラクションが混じる状況で,私たちは普段とは異なる体験をすることになる.藤幡が言うように,リンゴにペンで触れると,それが齧られる.そんなことは,普通では起こらない.その体験を文字にすれば「ペンでリンゴに触れると,リンゴが齧られた」であり,どこかの小説の中にでも出てきそうな感じである.しかし,藤幡の作品はこれを見る人の行為とイメージとを組み合わせて表象してしまう.行為とイメージとを組み合わせているのは,コンピュータである.コンピュータが普通ではいっしょに起こることがない出来事をくっつけてしまう.物理法則が無効化される.それでもそこに意味を認めてしまう.
ヒトが言語によってコードを作り上げていて,そのコードに基づいてコミュニケーションを行っているというのが普通の理解である.しかし,ドナルド・ディヴィドソンは言語にはコードなどなく,その場その場でそのテキストの真偽を決めつつ,場当たりてきにコミュニケーションを行っていると主張する.ディヴィドソンの考えによれば,私たちは常に手探りでコミュニケーションを行っていることになるのだが,それは藤幡が「形」をめぐって行ったコンピュータとの対話そのものである.
藤幡はCGを作成する際に自分が体験していた地図を3次元化して私たちは提示する.なぜ地図を立体化する必要があったのだろうか.それは時間を地図を中に取り入れるためである.時間を捨象してフラットになっていた地図では,私たちは出来事を出来事として体験することはできない.
それは,論理の関係から,「そして」の因果関係へと変換である.コンピュータは論理の世界であるから,そこには時間がない.しかし,ヒトは時間の中に生きている.論理を出来事にするためには,2次元の地図を3次元化しなければならないのである.
3次元化とはどういうことか.それはヒトの中に推論チェーンを作り,記号の全体論を作り上げることであり,同時に,その全体にヒトの身体を招き入れることである.
このことを考えるためにGUIを開発したアラン・ケイの言葉の「イメージを操作してシンボルを作る」というスローガンを考えよう.そこでは,イメージや記号が身体によって操作されるうちに混じりあうことで,でヒトは世界を認識するということが言われる.
GUIは,コンピュータの論理世界をヒトが親しんでいる物理的世界にできるだけ沿うように作り上げた.藤幡はGUIと同じ手法ではあるが,論理世界を通すことで物理世界の認識を変えてしまう記号の全体的関係を作り上げる.
藤幡は記号を出来事にしてしまう.それは記号,そしてそれをになっている映像という平面の中にヒトの身体を招き入れて立体化していくことである.記号は立体化し出来事となるが,同時に,身体はコンピュータにデータとして取り入れられて記号になっている.つまり,身体は平面化されている.
机の上にプロジェクションされているのが「本」であること.これがモノの平面化を表している.平面化した本に対して,ヒトはペンもってあたかもそこにモノとしての本があるかのように行為をする.しかし,手にもっているペンもあくまでもペンのようなものである.ここでは状況が「本」と「ペン」との関係における行為をヒトに与えることになる.実際のモノは,そこでの行為のためにふさわしくない.けれど,状況からヒトはそれらのモノにはふさわしくない行為をするのだ.藤幡は状況を作り出すことで,ヒトの身体を作品に自然と招き入れる.
《Beyond Pages》で起きていることは,記号という平面に身体を招き入れて,コードなきコミュニケーションを行ないながら,コンピュータとの行為と出来事を立体化することなのである.