「はしもと」さんを見ながら書き始めた「これも自分と認めざるをえない」展のメモ

「はしもと」さんがいま、僕の前で電話している。向こうは僕のことを、全く知らない。ただ同じ展覧会にいたからみたことあるなぁくらいな感じだと思う。でも僕は、「はしもと」さんが僕と同じ身長・体重だということを知っている。と、キーボードを打っているあいだに、「はしもと」さんはいなくなってしまった。

じっくり考えたい。けど、《指紋の海》は、かわいい。指紋をかわいいなんて思ったことは、今までなかった。一度見失って、再び自分のところにもどってくるときのかわいさといったら、もうなかった。かわいすぎるぞ、僕の右手の人差し指の指紋。ここでおもしろいのは、僕が指紋を「かわいい」と思っていること。自分から切り離されたも自分の一部だから「かわいい」と思っているのかもしれないけれど、普段、綺麗な黒い本についたり、iPhone についている自分の指紋はいやーだなと感じることが多いので、いつもは指紋のことを自分との関わりよりも、手が触れたモノの表面を汚す存在として見ているのかもしれない。けど、この作品では、とても「かわいい」と思ってしまう。そこは考えるべきところ。映像の力や、自分との関わりとかいろいろ。あとは、カーソルとの比較もしてみたい。

《2048》はとても好き。まだ人があまりいなかったので、何度もやってしまった。自分の光彩が数値化される。どこまでが自分か、自分では消しながら確かめる。けど、ここでは自分のことは自分では決めることはできない。「自分を消す」という行為自体も変だけれど、それがたんなる0と1の数字の列にすぎないから、自分では自分を消しているという感覚も実はなかったりしたのだけれど、あのピーター・バラカンの声で「まだあなたです」と言われてしまうと、そこに提示されているのが「まだ自分である」と思ってしまう。そこでさらに数字を消すのだけれど、それは自分だから、自分を一所懸命に消すことなる。自分ではなくなるために、一所懸命に数字の列を消すこと。「もうあなたではありません」と言われて納得してしまうこと。しかも、ピーター・バラカンの声で!

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