投稿

ラベル(IAMAS)が付いた投稿を表示しています

IAMASの「車輪の再発明」プロジェクトから「物質と情報」という二項対立の先を(少し)考える

マテリアライジング展Ⅱ に出品されていた IAMASの「車輪の再発明」プロジェクト は,情報を物質に変換して終わりではなくて,それを再び現象へと変換しているところが良かった. 「物質と情報」という二項対立を繰り返していくと,そこで変わってくるのは「現象」なのではないかと考えさせられた.「物質」と「情報」と「現象」の明確な区切りはわからないけれど,このプロジェクトは「物質と情報」という二項対立の先に行っていた感じがする. カッティングマシーンやIllustratorなどのソフトウェアを組み合わせて「音」という現象を情報と物質の両面から加工して,その結果を「レコード」として提示して,「レコードプレイヤー」で音を「現象」へと変換したものを聴く.物質としてのレコードとここで聴いている「音」そのものは特別にあたらしいものではないかもしれないけど,そこに至るプロセスのなかで「音」という現象のあり方が変化しているように考えられる. LED光源によるや三原色への分解及びその投影と写植文字の投影も,情報がもともと物質に変換されていたものをあたらしい技術によって「現象」へと変換し直していているように思えた.レコードの作品が既存の再生装置における物質と情報との結びつきそのものである「溝」のつくり方をあたらしくすることで,これまでにない「物質−情報−現象」のプロセスをつくりだす方法を試すものだったとすると,LED光源によるプロジェクションのほうは,あたらしい技術でいかに物質から情報を引き剥がして現象にしていくのかの試みといえるだろうか.

情報科学芸術大学院大学紀要 第5巻に研究ノートを書きました

イメージ
情報科学芸術大学院大学紀要 第5巻に研究ノート「名古屋からIAMASを眺めて 」を書きました.このテキストは,IAMASに落ちて大垣にとても近い名古屋で大学院生活を送ったひとりのインターフェイス研究者の回想+IAMAS卒展カタログからの抜粋+抜粋から改めて考察したことの3つからで構成されています. 今回の紀要の特集「<これからもイアマス> 領家町からソフトピア地区へ」の意図や目次,そして「IAMAS 郵送受付フォーム」が http://www.iamas.ac.jp/8256 にあります.興味がある方は是非,申し込んでください! 

おおがきビエンナーレ 2013:2つの建物と3つの作品

イメージ
IAMASで開催されている「おおがきビエンナーレ 2013」に行ってきた.いちばんの目的は渡邊淳司さんと秋庭史典さんのトーク「〈生命〉を感じる体験デザイン」でした.これについては月一で書いている「 メディア芸術カレントコンテンツ 」の方で紹介したいと思っています. 「おおがきビエンナーレ 2013」のテーマは「 LIFE to LIFE 生活から生命へ|生命から生活へ」で,ウェブには「現代のテクノロジーは、私たちの生活[ライフ]ばかりでなく,生命[ライフ]そのものにも大きく関わっています」と書かれています.ネットやスマートフォンの登場で「生活[ライフ]」が変わっているのは多く人が認めるところではないでしょうか.今回のテーマはその変化を「生命[ライフ]」まで広げています. 私が「ライフ」を感じたのは,確か普段は閉鎖されている妹島和世さんが設計した マルチメディア工房 に入ったときでした.今回は展示で使われているけれども,この建物の「ライフ」は切れてしまっているのかなと感じました.それは普段使われていないということかもしれません.対して,「大垣第一女子高校の痕跡が残る大学院校舎」はマルチメディア工房よりも長い時間そこにあるのにまだまだ「生きている」感じがしました.特に昔の教室に近い状態で展示していた《紡ぐ〜大垣第一女子校の記憶》は記憶を生み出した場所でその「記憶」を展示していたので,そしてまた他の作品とのギャップもあって,なんか場にまとわりついた生々しさがありました. クワクボリョウタさんの作品 《LOST#10 (環境と個体)》 は,ICCなどで見た《 10番目の感傷(点・線・面) 》に比べて,鉄道模型の線路の配置に曲線が取り入れられたり,床に置かれているモチーフが変わっていました.そして,何度見ても飽きない作品だなと思いました.飽きない,いつまでも見てられる,でもそれを説明するとなると言葉が出てこない困った作品でもあります.作品を見ていると小学生3年生くらいの3人組の男の子が入ってきて,影を見ながらずっと解説というか,物語というか,そこに何があるのかを話していました.複数のザルが置いてあるところでは「大きな山です,小さな山です.いま谷です」といったり,電車の終点に「細かい穴が開いた筒(みたいなもの)」置いてあって,そのなかに電車が入ると部屋全体...

IAMASでの勉強会_「The Word "Remix" is Corny.」と言えるけど,実際どうなの?

昨日,IAMASで勉強会をしてきました.城さん,クワクボリョウタさんといった教師陣と多くの学生での「参照・引用」をめぐる意見交換は面白かったです.IAMASの学生は年齢層も幅広く,社会経験も様々なので背景にある「インターネット」が異なっており,それが「参照・引用」に関する問題意識の違いにもつながっていたのではないかと思います. 私はブラッド・トルメルの「The Word "Remix" is Corny.」の紹介を主にしたのですが,ここで言われている「プログレッシブ・バージョニング」という「起源」が抜けて落ちていくリミックスのあり方を話しました.「リミックス」という素材の再構成において,「パクリか,オマージュか」を問題にするのは「古臭い[Corny]」だというのがトルメルの考えです.私は彼の意見に賛同します. 「プログレッシブ・バージョニング」という言葉をつくったとしても,そこでの「リミックス」はこ90年代の「シミュレーショニズム」などとはどう違うのかという意見もありました.このちがいは「言葉」では言うことができると思います.バルトが言った「作者の死」を文字通りに体現することが,現在の「リミックス」のあり方だと.90年代や00年代においては「作者の死」は言われていたけれど,そこにはしつこく「作者」はいたし「オリジナル」という概念は残り続けていたのではないかということです.「そんなのは今も同じじゃないか」と言われればそうかもしれせん.しかし,トルメルが「依り代」とするTumblrというウェブサービスにおいて,リブログされるなかでキャプションが抜け「作者」が死んでいき,アートと日常,プロとアマチュアのイメージが入り交じる,しかも膨大な量が入り交じるなかで,何が「オリジナル」かも問題にならなくなってきています.ひとつのウェブサービスがつくる現象から,トルメルのような考えが生まれてきて,再び「リミックス」という言葉が「作者の死」とともに注目されているのは興味深いことです. リミックスを考察する際にトルメルがTumblrに依拠するとすれば,日本にはニコニコ動画やpixivという存在があります.ニコニコ動画におけるMAD動画は「プログレッシブ・バージョニング」なのかと問えるわけです.この問いは「否」ではないかというのが,昨日の勉強会からの印象です...