おおがきビエンナーレ 2013:2つの建物と3つの作品
IAMASで開催されている「おおがきビエンナーレ 2013」に行ってきた.いちばんの目的は渡邊淳司さんと秋庭史典さんのトーク「〈生命〉を感じる体験デザイン」でした.これについては月一で書いている「メディア芸術カレントコンテンツ」の方で紹介したいと思っています.
「おおがきビエンナーレ 2013」のテーマは「LIFE to LIFE 生活から生命へ|生命から生活へ」で,ウェブには「現代のテクノロジーは、私たちの生活[ライフ]ばかりでなく,生命[ライフ]そのものにも大きく関わっています」と書かれています.ネットやスマートフォンの登場で「生活[ライフ]」が変わっているのは多く人が認めるところではないでしょうか.今回のテーマはその変化を「生命[ライフ]」まで広げています.
私が「ライフ」を感じたのは,確か普段は閉鎖されている妹島和世さんが設計したマルチメディア工房に入ったときでした.今回は展示で使われているけれども,この建物の「ライフ」は切れてしまっているのかなと感じました.それは普段使われていないということかもしれません.対して,「大垣第一女子高校の痕跡が残る大学院校舎」はマルチメディア工房よりも長い時間そこにあるのにまだまだ「生きている」感じがしました.特に昔の教室に近い状態で展示していた《紡ぐ〜大垣第一女子校の記憶》は記憶を生み出した場所でその「記憶」を展示していたので,そしてまた他の作品とのギャップもあって,なんか場にまとわりついた生々しさがありました.
クワクボリョウタさんの作品《LOST#10 (環境と個体)》は,ICCなどで見た《10番目の感傷(点・線・面)》に比べて,鉄道模型の線路の配置に曲線が取り入れられたり,床に置かれているモチーフが変わっていました.そして,何度見ても飽きない作品だなと思いました.飽きない,いつまでも見てられる,でもそれを説明するとなると言葉が出てこない困った作品でもあります.作品を見ていると小学生3年生くらいの3人組の男の子が入ってきて,影を見ながらずっと解説というか,物語というか,そこに何があるのかを話していました.複数のザルが置いてあるところでは「大きな山です,小さな山です.いま谷です」といったり,電車の終点に「細かい穴が開いた筒(みたいなもの)」置いてあって,そのなかに電車が入ると部屋全体に星空のような影が散らばるのですが,そこにいくと「大きなナメクジだ,ナメクジの腹の中に入った」と言ったり,(おそらく)パソコンの内部パーツが置かれたところは工業的な感じするのですが,そこに電車がいくと「街に来ました」と言うわけです.あとここでは「街を壊す」とひとりの男の子がいって少しびっくりしましたが,その子は影の方に攻撃を加えていました.3人組の男の子の声を聞きながら,この作品を見ていると次々と想像が膨らんで意味をつけていくんだなと思っていました.そしてこれを書いている時点の自分も彼らとは異なる意味をそこにつけているわけです.男の子3人が思い思いに話し,私も私で好きに書いているように,この作品ではそこから生まれる意味が向かう先が,どこか漠然しているのが特徴なのではないでしょうか.誰がどんなことをいっても,その言葉と意味は影にのみ込まれていってしまうような感じです.
意味と言えば,伊東宣明さんの《預言者》はそこに多くの意味が溢れている感じでした.映像には手がパックマンのように動いている様子が映し出されていて,その動きはスピーカーから聞こえてくる豪快な笑いを放つ声にシンクロしています.作品の説明には「[精霊の声] が聞こえ、 [預言者]と名乗る者の神託の声と、 [作者自身の手] をシンクロさせる」とあります.最初は「何だろうな?」という感じで,すぐに別の作品を見に行ってしまったのですが,気になってもう一度3分ちょっとの映像をすべて見ることにしました.それは作者の手と声がシンクロしているならば,その作品をすべてみて自分もそれにシンクロしないといけないのではないかと思ったからです.「シンクロ」してはじめて分かることがあるはずと考えていたときに,島尾敏雄さんという人の小説で「死の棘」というのがあって,そのなかに妻が狂ってしまったから,自分も狂ったフリをしようということが書かれていました.狂ったフリをし続けるとどうなるかというと,フリをし続けた夫も狂ってきてしまうのです.で,これを一度自分でもやってみたことがあって,やはりちょっとオカシクなりました.シンクロすると意味がそこに溢れかえる感じがします.それはおそらくその対象が狂っていてもいなくても同じで,誰か他の人とシンクロすること自体が,普段の生活では体験することがない意味の洪水をつくることになると考えられます.残念ながら,1度見ただけでは作品にシンクロすることはできませんでした.この作品をつくった伊東さんは「大丈夫だったのかな」という思いで次のトークに向かいました.
クワクボリョウタさんと伊東宣明さんの作品はともにヒトが意味をつくってきた根源みたいなところにアプローチしているような感じがします.意味が向かう先が曖昧でもヒトはどんどん言葉を発してきて,それがやがて固まっていたともいえるし,その過程で言葉がヒトの身体とシンクロして意味が溢れかえった瞬間というのも人類は体験したのかもしれません.そして個人でも言葉を覚えるプロセスで体験してきたのではないでしょうか.このような体験と対照的に古舘健さんの《Macro / Dynamics》には,意味を感じることができませんでした.これはネガティブなことではなくて,ひとつのチャレンジなのです.コンピュータを道具ではなくて,ヒトとコミュニケーションを行う全くあたらしい「種」だ考えると,それと対面しているヒトはまだそこに漠然とした状態で意味を次々に投げかけていくこともできていなければ,そこにシンクロするという体験もできていない段階にあるということです.古館さんの作品のページには「ある規則をもとに生成される像.それがコンピューターを用いて生成されたものなのか,それとも現実なのか.そこに本質的に違いは無い」と書かれていますが,「ある規則をもとに生成される像」自体にはコンピュータと現実とのあいだに違いはないでしょう.ですが,コンピュータによって生成されたものは,それが何かに似ているとか,見立てられたものであるとかの意味のフックがないかぎり,ヒトにとってまだ「意味」が見出だせない現象なのではないでしょうか.ここにはヒトがそこから意味をどう見出していくかという「適応」の問題があると思われます.目の前で生成されている画像を見続けて,そこに言葉が投げかけ続けることができるかどうか,それとシンクロして意味が溢れてくるかどうか.それはヒトがコンピュータとの関係において,どのように変わっていくのかという,ヒト自体の変化を観察対象にすることです.この作品を見ていると,あなたはコンピュータとともにどう変わっていくのですか? と問われ,そしてそれを自分自身の変化から考え続けなさいと突きつけられている感じがしました.
ヒトはテクノロジーとともにあって,世界を変えてきたし,自らの生命すらも変えつつあるけれども,その変化の渦中にある自分自身のことはあまり対象化したことはないのではないでしょうか,あなた[私]でも,彼でも,彼女でもなく,ほかならぬ私自身「あなた自身」が今まさにテクノロジーによって(もちろんこれだけが要因ではないですが)変わりつつあることに気づかせてくれる展示でした.
「おおがきビエンナーレ 2013」のテーマは「LIFE to LIFE 生活から生命へ|生命から生活へ」で,ウェブには「現代のテクノロジーは、私たちの生活[ライフ]ばかりでなく,生命[ライフ]そのものにも大きく関わっています」と書かれています.ネットやスマートフォンの登場で「生活[ライフ]」が変わっているのは多く人が認めるところではないでしょうか.今回のテーマはその変化を「生命[ライフ]」まで広げています.
私が「ライフ」を感じたのは,確か普段は閉鎖されている妹島和世さんが設計したマルチメディア工房に入ったときでした.今回は展示で使われているけれども,この建物の「ライフ」は切れてしまっているのかなと感じました.それは普段使われていないということかもしれません.対して,「大垣第一女子高校の痕跡が残る大学院校舎」はマルチメディア工房よりも長い時間そこにあるのにまだまだ「生きている」感じがしました.特に昔の教室に近い状態で展示していた《紡ぐ〜大垣第一女子校の記憶》は記憶を生み出した場所でその「記憶」を展示していたので,そしてまた他の作品とのギャップもあって,なんか場にまとわりついた生々しさがありました.
意味と言えば,伊東宣明さんの《預言者》はそこに多くの意味が溢れている感じでした.映像には手がパックマンのように動いている様子が映し出されていて,その動きはスピーカーから聞こえてくる豪快な笑いを放つ声にシンクロしています.作品の説明には「[精霊の声] が聞こえ、 [預言者]と名乗る者の神託の声と、 [作者自身の手] をシンクロさせる」とあります.最初は「何だろうな?」という感じで,すぐに別の作品を見に行ってしまったのですが,気になってもう一度3分ちょっとの映像をすべて見ることにしました.それは作者の手と声がシンクロしているならば,その作品をすべてみて自分もそれにシンクロしないといけないのではないかと思ったからです.「シンクロ」してはじめて分かることがあるはずと考えていたときに,島尾敏雄さんという人の小説で「死の棘」というのがあって,そのなかに妻が狂ってしまったから,自分も狂ったフリをしようということが書かれていました.狂ったフリをし続けるとどうなるかというと,フリをし続けた夫も狂ってきてしまうのです.で,これを一度自分でもやってみたことがあって,やはりちょっとオカシクなりました.シンクロすると意味がそこに溢れかえる感じがします.それはおそらくその対象が狂っていてもいなくても同じで,誰か他の人とシンクロすること自体が,普段の生活では体験することがない意味の洪水をつくることになると考えられます.残念ながら,1度見ただけでは作品にシンクロすることはできませんでした.この作品をつくった伊東さんは「大丈夫だったのかな」という思いで次のトークに向かいました.
クワクボリョウタさんと伊東宣明さんの作品はともにヒトが意味をつくってきた根源みたいなところにアプローチしているような感じがします.意味が向かう先が曖昧でもヒトはどんどん言葉を発してきて,それがやがて固まっていたともいえるし,その過程で言葉がヒトの身体とシンクロして意味が溢れかえった瞬間というのも人類は体験したのかもしれません.そして個人でも言葉を覚えるプロセスで体験してきたのではないでしょうか.このような体験と対照的に古舘健さんの《Macro / Dynamics》には,意味を感じることができませんでした.これはネガティブなことではなくて,ひとつのチャレンジなのです.コンピュータを道具ではなくて,ヒトとコミュニケーションを行う全くあたらしい「種」だ考えると,それと対面しているヒトはまだそこに漠然とした状態で意味を次々に投げかけていくこともできていなければ,そこにシンクロするという体験もできていない段階にあるということです.古館さんの作品のページには「ある規則をもとに生成される像.それがコンピューターを用いて生成されたものなのか,それとも現実なのか.そこに本質的に違いは無い」と書かれていますが,「ある規則をもとに生成される像」自体にはコンピュータと現実とのあいだに違いはないでしょう.ですが,コンピュータによって生成されたものは,それが何かに似ているとか,見立てられたものであるとかの意味のフックがないかぎり,ヒトにとってまだ「意味」が見出だせない現象なのではないでしょうか.ここにはヒトがそこから意味をどう見出していくかという「適応」の問題があると思われます.目の前で生成されている画像を見続けて,そこに言葉が投げかけ続けることができるかどうか,それとシンクロして意味が溢れてくるかどうか.それはヒトがコンピュータとの関係において,どのように変わっていくのかという,ヒト自体の変化を観察対象にすることです.この作品を見ていると,あなたはコンピュータとともにどう変わっていくのですか? と問われ,そしてそれを自分自身の変化から考え続けなさいと突きつけられている感じがしました.
ヒトはテクノロジーとともにあって,世界を変えてきたし,自らの生命すらも変えつつあるけれども,その変化の渦中にある自分自身のことはあまり対象化したことはないのではないでしょうか,あなた[私]でも,彼でも,彼女でもなく,ほかならぬ私自身「あなた自身」が今まさにテクノロジーによって(もちろんこれだけが要因ではないですが)変わりつつあることに気づかせてくれる展示でした.