投稿

11月, 2011の投稿を表示しています

山口に行くための考えごと

YCAM に展示されているエキソニモの《EyeWalker》を体験したい.山口は遠いなと思っていたのですが, CBCNETでの紹介記事 を読んだらとても体験したくなった.そこには作品の背景として「自分のいる世界、モニタの中の世界、移動する事、移動しない事、フィクション、ノンフィクション」ということが書かれていた.さらに,栗田さんの言葉で「見る」と「選択」のあいだの行き来,その中間地点にある違和感というとても興味深い言葉書かれている. この記事を読んで,まだ体験していないこの作品はエキソニモが ICC で展示した 《↑》 に通じるものがあるのではないかと思い始めた.《↑》は現実世界にモノとして置かれた「カーソル」がカメラで撮られ,ディスプレイに映しだされる.ディスプレイ上にカーソルがあるのだけれど,それは「こちら」側に置かれたモノの映像であって,いつものコンピュータが生成しているカーソルとは異なっている.私はこの作品を体験した時,カーソルという「こちら」側にあるのか,「あちら」側にあるのかよく分からない,その中間地点にあるようなイメージを起点にして,強制的に現実と仮想とのあいだを行き来させられる感覚を覚えた.それはとても否応なく意識を持って行かれる感じだった.《EyeWalker》もこのような拒否できない強い流れみたいなものを感じることができるのんではないか. カーソルはこの先の未来にもあり続けるだろうか.カーソルは iPhone には存在しないようにもしかたしたら,マウスとともに消えていくかもしれない.しかし,EyeWriter のような視線誘導のデバイスが普及するとしたら,そこでは,私たちが見ているところを示すものとして「↑」のかたちをしたカーソルが普通に使われている可能性が高いのではないかと思っている.なぜなら,カーソルは私たちの意識な関係を築いていると思われるからである. 現在のマウスと結びついたカーソルでも,私たちは極々普通にカーソルに自分に意識を持っていかれているときがある.それは,カーソルがひとつの依代になって自分の意識がコンピュータが作る情報の流れに取り込まれてしまうような感じである.ヒトが操作主体となってカーソルを動かしているのではなく,カーソルがヒトを動かすことが起こる.ヒトが長い年月を掛けてその制御の訓練をしてきた手と

メディアアートと世界制作→世界実装の方法

今日は 国立国際美術館に「メディアアートと世界制作」 を聴きにいった.このシンポジウムの登壇者は,エキソニモ,クワクボリョウタさん,畠中実さんというメディアアート組と展覧会企画者の中井康之さん.このテキストはシンポジウムのレポートというよりも,そこから得た刺激で考えたことです.なので話の中心はエキソニモになります. 中井さんの「エキソニモは一見してメディアアート」という言葉に,「そうなのかな」と思っているうちにシンポジウムが始まりました.中井さんは「情報技術」を使っていることがメディアアートとファインアートとを端的に分けていると言われていたような気がする.でも,「情報技術」はもう生活の中に入り込んでいるわけだから,ファインアートの制作者だって表立っては使っていないけれど,制作のプロセスのどこかでは使っているだろうし,そこからの影響も受けていると思うので,「情報技術」という言葉では,もう何も分けることができない世界になっているのでないかと思います. メディアアートとファインアートなどといった「しがらみ」から解き放たれたいと,エキソニモの千房さんが言っていって,ネット(ネット以外でもだと思いますが)で「おもしろい」ことをしていくと.その流れで「今のアート」に縛られないということを言われていて,100年後のアートの枠組みは今とは変わっているのだから,その「今」に縛られないということ.そして,「自分がひとつのジャンル」になるような感じでと言われていて,もしかしたら,私は「メディアアート」というジャンルではなくて,「エキソニモ」というジャンルにハマっているのかもしれないと思ったわけです.私自身も「映像学」というジャンルにいるのですが,どうも何かちがうということで「インターフェイスも映像だ」とひとり思って研究をすすめてきたので,「自分がひとつのジャンル」になるという言葉は響いた.その先に何が在るかがわからない楽しさがあるけど,それは怖くもある.けど,おもしろさやたのしさに賭けてやっていくしかないと思いつつ. エキソニモの《ゴットは、存在する。》の展示で,ヒトの意識を操る(ハッキングする)ために発光体であるディスプレイにライトを当てているという話を聞いて,とても面白いなと聞いていました.そしたら,そういったリアルでのヒトの注意の惹き方の集積がアートなのだ

自然|カーソル|破壊:上海での発表のための日本語でのメモ

「トランスメディア」というのが発表のセッションのテーマ.発表のタイトルは「コンピュータにおける自然と破壊」.単独ではなく,共同発表. 発表の基本の流れ(今の段階) 自然|カーソル|破壊 ハイブリッド|メタメディウム|キメラ アラン・ケイの「メタメディウム」から,レフ・マノヴィッチの「ハイブリッド」へとつながって,これがコンピュータの「深い階層」で起こっていることで,デスクトップのような「イメージ−表層」ではソーレン・ポルドが指摘するようなイメージが「メディア」でもあり「道具」でもあるような「キメラ的性質」が表れている.「メタメディウム」には「ハイブリッド」と「キメラ」という得体のしれないものが存在している. 垂直|カーソル|水平 マノヴィッチとポルドが見落としているもの,それが「カーソル」.なぜか,それは「手」のようなものだから,特別意識しないし,意識していたらコンピュータと行為などできない.私たちが普段「手」を意識しないで,さまざまな行為をしているように.しかし,カーソルはGUIの要素のひとつであるから,メタメディウムの一部であるはず.にもかかわらず,メタメディウムというものからはみ出しているような感じがする.それは,現実に対応したメタファー的存在ではないし,マウスという物質的な存在と強く結びついているから.このような理由から,メタメディウムはすべてがシミュレーションから成立しているが,カーソルはシミュレーションという枠からはみ出るような存在である.そしてこのカーソルがイメージ−表層において常に最前面にあり,アイコンなどを操作しているということ.カーソルは,メタメディウムの中に存在する「ハイブリッド|キメラ」的な何かを操作する存在なのではないか. このことを考えるために,アレクサンダー・ガロウェイ(Alexander Galloway)が『プロトコル』という本の中でインターネットを説明していた「水平」と「垂直」を援用する.ガロウェイは,TCP/IP はインターネットに「水平」的な自由な情報のやりとりを作り出しているのに対して,DNSというシステムが階層的な「垂直」性をインターネットに持ち込んでいると考える.そして,DNSが導入した「垂直」性は,インターネットを「人間化」する.そこで,カーソルに戻ると,それはマウスとの関

「Post Internet」的な何かを探ってみようと思った日の記録として

CBCNET のブログで萩原さんのエントリー: インターネット時代の民藝品 を読んで,いいなと思いつつ,そのままCBCNETを読んでいたら, Interview with Parker Ito  という記事がおもしろくて,そこで「Post Internet」という言葉を知る. とても大雑把だけれども,この流れに身を委ねてみようかなと思っている.カーソル, エキソニモ への興味も尽きないけれど,それと並行して「Post Internet」的なものを探っていくことを研究の対象にしようと思う.それは「インターネット・リアリティ」を探ることと同じかもしない. ここはまだあまり研究されていないような気がするし,自分はそこにどっぷり浸かっているわけではないから,適度の距離感もある.だから,次の学会発表は「Post Internet」的な何かでいこうと思った.