メディアアートと世界制作→世界実装の方法
今日は国立国際美術館に「メディアアートと世界制作」を聴きにいった.このシンポジウムの登壇者は,エキソニモ,クワクボリョウタさん,畠中実さんというメディアアート組と展覧会企画者の中井康之さん.このテキストはシンポジウムのレポートというよりも,そこから得た刺激で考えたことです.なので話の中心はエキソニモになります.
中井さんの「エキソニモは一見してメディアアート」という言葉に,「そうなのかな」と思っているうちにシンポジウムが始まりました.中井さんは「情報技術」を使っていることがメディアアートとファインアートとを端的に分けていると言われていたような気がする.でも,「情報技術」はもう生活の中に入り込んでいるわけだから,ファインアートの制作者だって表立っては使っていないけれど,制作のプロセスのどこかでは使っているだろうし,そこからの影響も受けていると思うので,「情報技術」という言葉では,もう何も分けることができない世界になっているのでないかと思います.
メディアアートとファインアートなどといった「しがらみ」から解き放たれたいと,エキソニモの千房さんが言っていって,ネット(ネット以外でもだと思いますが)で「おもしろい」ことをしていくと.その流れで「今のアート」に縛られないということを言われていて,100年後のアートの枠組みは今とは変わっているのだから,その「今」に縛られないということ.そして,「自分がひとつのジャンル」になるような感じでと言われていて,もしかしたら,私は「メディアアート」というジャンルではなくて,「エキソニモ」というジャンルにハマっているのかもしれないと思ったわけです.私自身も「映像学」というジャンルにいるのですが,どうも何かちがうということで「インターフェイスも映像だ」とひとり思って研究をすすめてきたので,「自分がひとつのジャンル」になるという言葉は響いた.その先に何が在るかがわからない楽しさがあるけど,それは怖くもある.けど,おもしろさやたのしさに賭けてやっていくしかないと思いつつ.
エキソニモの《ゴットは、存在する。》の展示で,ヒトの意識を操る(ハッキングする)ために発光体であるディスプレイにライトを当てているという話を聞いて,とても面白いなと聞いていました.そしたら,そういったリアルでのヒトの注意の惹き方の集積がアートなのだから,「千房さんがとても普通のことを言っている」とクワクボさんのツッコミがはいった.
シンポジウムで自分的に一番興味深かったのは,畠中さんが言った「人間中心主義」と「非人間中心主義」という論点で,エキソニモは「非人間中心主義」的な作品を作っていると指摘していたところ.そして,エキソニモは,ヒトとコンピュータとの中間地点のインターフェイスのせめぎあいの部分で作品を作っていると言っていて,ここはとても響いた.自分もヒトとコンピュータとがどうしても触れ合う部分であるインターフェイスを考えることが重要なことだと考えていたからです.
インターフェイスというかコンピュータが出てきたことで,アイデアを「実装」することができるようになったと思う.今まではアイデアはアイデアのままで本などに記されていたのみだったのが,今はアイデアに次の段階として「実装」があるのではないでしょうか.アイデアが実装の段階に入ると,アイデア以上の「何か」がそこに入り込む.例えばデスクトップ・メタファーというアイデアが実装されたときに,ダグラス・エンゲルバートやアラン・ケイなどのアイデアに「何か」が入り込んだのではないか.私はエンゲルバートやケイのアイデアを解読することで,ヒトとコンピュータとの関係を考えたけれど,エキソニモが《ゴットは、存在する。》や《断末魔ウス》でやっているのは「実装」の段階でヒトとコンピュータとのあいだの中間領域に意図せずに出来上がってしまった「何か」を解読しているような気がしている.
中井さんがエキソニモの作品を「新しいメディアの原理・原則」を追求していると言っていて,それは「コンピュータでしかできないことをコンピュータでする」ということで,クレメント・グリーンバーグのモダニズムの考えにも繋がるのではないかと指摘していた.それを受けて,畠中さんが「新しいメディアの原理・原則」を追求していった先に,何か「世界観」のようなものが出てきたのエキソニモ作品なのではないかと言っていた.「原理・原則」の先の「世界観」というのが,アイデアだけで完結するのではなく,アイデアを「実装」したときに生じた「何か」なのではないのかなということを,シンポジウムを聴いて,自分の中で沸き上がってきたこと.
「世界制作の方法」が「世界実装の方法」に変わった,というのは単なる思いつきですが,グッドマンのアイデアを踏まえつつ,情報技術に満ち満ちた世界を考えるために必要なひとつのアップデートなのかなとも思っています.