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「HIVEを用いた「光とメディア・アートとの関係の考察」」を書きました👀

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「HIVEのすゝめ」の第4回目として「 HIVEを用いた「光とメディア・アートとの関係の考察 」」を書きました.学生になった気持ちでHIVEを見たけど,最後は教員というか,いつもの研究者モードになっていました👀 水野が行った夏の課題としてお読みいただけると幸いです🙇‍♂️

インターフェイスのなかのスピリチュアル=「概念としての猿」は解き放たれた

エキソニモの個展「 エキソニモの「猿へ」 」の最後の作品.iPadで「宇宙」がめくられ続ける.「宇宙」がめくられる.それも延々とめくられる.それは誰がめくっているのか? エキソニモの作品はヒトから離れ,コンピュータからも離れ,「 概念としての猿 」へと向かっていっているのか. 「概念としての猿」というのは,生物学的な猿ではなくて,ヒトとコンピュータとのあいだにあり続けたインターフェイスに生じた「スピリチュアル」な領域なのではないか.表層と深層(コード)を自由に行き来してきたエキソニモは,ヒトとコンピュータとの膨大なやり取りが世界中で行なわれているインターフェイスに「概念としての猿」が生まれた,あるいはもともと存在していたことに気づいた.それは「スピリチュアル」な領域であって,そのまま出せば「あぶない」とされる.だから,エキソニモは「概念としての猿」を表層とコードとがせめぎ合う場所=インターフェイスに閉じ込めたのではないか.あるいは,インターフェイスにおけるスピリチュアルの存在を確かめるために連作「ゴットは、存在する。」をつくったのではないか. しかし,今回の作品《神、ヒト、BOT》で,エキソニモは表層とコードのバランスを崩しているように思われる.意図的ではなくて,崩れてしまったのかもしれない.表層とコードが引き離され,そこにいたスピリチュアルな存在としての「概念としての猿」が最大化された状態でディスプレイに映る.最大化された「概念としての猿」とバランスをとるようにBOTとしての地球が置かれた.それはきっとヒトのリアリティに作品を繋ぎ止めるために必要だった.「概念としての猿」という表層は光るヒトと塗りつぶされたディスプレイによって最大化され,それとバランスをとるようにコードは地球をBOT化した.しかし,それらはもう密着していない.離れている.インターフェイスのなかのスピリチュアル=「概念としての猿」は解き放たれた.エキソニモは「概念としての猿」とともにどこに行くのだろうか.とても楽しみである.

神が現われる瞬間,感じるのは,畏れである/エキソニモ《神,ヒト,BOT》_作品単体編

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「 大古事記 」展で展示されている エキソニモ の《神,ヒト,BOT》について書きました.今回は作品単体編です.この作品については,あとでエキソニモの個展「 エキソニモの「猿へ」 」からの流れでも書くつもりです. −− ヒトが発光している.ちかごろヒトはよく発光している.でも,そのことに気づかない.発光したヒトを見ているのに,それに気づかないのはそのヒトが「四角」の枠のなかに入っているからだ.「四角」の枠はそこにあるものを別の次元のものしてしまう.「それはそういったものだ」という感覚を見るものに与える. 「神」と言われる存在はよくそれ自体が発光していたり,後光がさしていたりしている.神々しくて,見ると目が潰れると言われたりするが,それはきっと光がまぶしすぎるからだ.太陽を見つめ続けると失明するのと同じ.ちかごろ発光しているヒトは神や太陽ほどは激しくは発光していない.ディスプレイは 明るすぎない光 でヒトを惹きつける.そのこともヒトが発光していることを気づきにくくしている.しかし,様々なサイズの四角いディスプレイのなかでヒトは神のように発光している.エキソニモの千房けん輔はブログで次のように書いている. 大きめの液晶地デジテレビを買った直後,部屋の中でニュースキャスターと相棒が同じくらいの大きさで並んで見えた.このときに、その二つが全く違うものだって強く感じた.一番の違いは,キャスターが自ら発光しているところだった.  センボーのブログ:最近ふと思ったこと  ここでは大きさが同じになったことから,ヒトの発光の有無が際立っているが,エキソニモの作品《神,ヒト,BOT》は発光するディスプレイを塗りつぶすことによって発光しているヒトを際立たせた.赤,緑,白,黒一色に塗られたヒトが直立不動でディスプレイに映されている.ディスプレイでヒトが映されていない部分は身体に塗られた色で塗りつぶされている.なので,ディスプレイが光っているのではなく,ヒトが光っているように見える.あるいは,発光し続けているにも関わらずモノ感が希薄なディスプレイのモノ感が塗りつぶしによって際立っているとも言えるだろうか. ヒトとディスプレイの境界が揺れている.それはそこに映っているヒトが静止画ではなく動画だからである.ヒトは直立不動だが完全に動きを止めることはでき...

「影|映像|薄さ」に関する朧げなメモ

ブログを,10月になって全く書けていないことに気がついた,というか確認した.ということ,歩きながら思った. そのとき,フト,「影」について考えみようと思った.「影」と「薄さ」について,二次元と三次元との変換装置としての「影」というか,この場合,変換装置は「光」になるのかな.「影|光|薄さ」,三つの項目が揃ったのかもしれないが,これで何か考えられるのかというと,難しいかもしれない.「影|光/映像|薄さ」として考えて見たらどうであろうか.「影|映像|薄さ」で考えられること. 行為についても考えたいというか,「行為を二通りの仕方で記述すること」を考えたい.これを「影|映像|薄さ」との関連で考えてみること.映像という次元変換装置と,それによって捨象される「影」,及び,それによって付与される「薄さ」.そこで起こる「行為」,及び,行為の記述の二重化.

曖昧なものを曖昧なままでヴィヴィッドになぞれるような方法

明滅する光を見る.映画でもテレビでもビデオでもケータイでも.いろいろところで明滅する光を見る.「明滅する光を見る」と書いたけれども,「明滅する光」を見ていると考える人,感じる人は少ない.僕たちはそこに仮現運動という現象に基づいた「動き」を見ている.でも,「動き」を見ていると考える人,感じる人は少ない.で,なんで映画でもテレビでもなんでもいいのですが,僕たちはこんなにも多くの仮現運動に基づいた「動き」を見ているのかということ.「明滅する光」「動き」が暗闇に閉じ込められた映画から,それが家庭に入り込んできたテレビ,ビデオ,それを手にもつことをできるようなったケータイ.実際には動いていないものを,眼の錯覚を利用して動いているように見えるようにするメカニズムに基づいた「動き」を見続けること.このことは,僕たちの身体にどのような影響を与えているのでしょうか.あと,「明滅する光」と「動き」がコンピュータと結びついて,僕たちの行為に即時に反応するにようになっていること.「反応する光」と触れ合うこと.こういったことをどのように考えていけばいいのか.自分の書くものに論理的説得力が足りないのはもう仕方ないとすると,それに代わるものを手に入れる必要があります.曖昧なものを曖昧なままでヴィヴィッドになぞれるような方法.そして,生きている「今」から考えること.

ステンドグラス

明るさに囲まれた世界. それが,私たちが住んでいる世界で,時代なんだと思う. アーツ&クラフト展にいったときに, 美術館の照明のせいもあるけど, 家具も重厚で,壁紙,タペストリーもなんか暗くて, それらに囲まれていた世界はとても暗かったのだろう. なんて,少しも考えていなかったのですが, そんなときに,ステンドグラスの展示を見たのですが, それは,しっかりと後に光源をもっていて, とても明るかったのです. そのときに,今,私たちがいる時代は明るさに囲まれていると思ったのです. そして,今の時代を基準にすると昔はとても暗かったのだろうと. 当たり前のことかもしれませんが, 私たちの周りを囲む明るさの違いは, 私たちの感覚に大きな影響を与えていると思います. そして,こんなに明るさ,つまり光を自由に扱えるようになったのは, 人類史的にはつい最近のことなのです. 今からみた暗さと昔からみた明るさ. その間の人間の実感を考えること.

「anima: Flip, Flap Animation」のメモ

物理運動を仮現運動として知覚してしまうのではないか? 映像の解像度,極小の光の操作可能性とそれを見ることの可能性. 「見る」だけに徹しても,多くの驚きがある. それは,人の眼がだまされやすいからだろうか. これまでも延々とだまされてきたのに.さらにだまされていくのであろうか. anima,生命を吹き込むこと. この意味をアニメーションは考えなければならないと, 早川さん . 早川さんの作品は,きれいだった. 圧倒的に描き込まれていて,その密度とそれを可能にする技術. インタラクティブなものではなく,見ることに徹することを考えさせられた. インタラクティブなものを経由した「見る」ことを考える. 映像を前にして,デバイスがあって,それに触れる際の筋肉の緊張. そのデバイスが馴染みのものであった場合, 私たちはもうその筋肉の緊張に慣れている. とくに何も感じなくなってしまっている. また,センサーで,私たちの動きを捉えて映像に反映させることは, 私たちの身体に何も影響は与えていない, ただ歩いているいたり,止まったりするだけ. そのときに,映像が変化したとなっていも,ああそうかというだけになっている. なぜか,慣れてしまったから. 映像は,私たちによって変化することに慣れてしまった. そこには,もう anima は起こらないかもしれない. 映像と関係する際に,デバイスを操作する身体に適度の緊張をもたらすこと. この筋肉の緊張が,映像に anima を吹き込むのかもしれない. それは,たとえ,見るだけであっても起こる. 私たちの眼はたえず動いているのだから. 動きながら,「ない中にある」を見ること. 見ることの基本とアニメーションはとても親和性がある. アニメーションも「ない中にある」を見ること. この関係をどのように作っていくかがとても大切なんではないか. そして,映像に囲まれた私たちは, 物理的運動を仮現運動に変換して見てしまうような感覚を身につけてしまっているのではないか? 物理的運動と仮現運動との境界があいまいになっていっていること. だから,見るだけで身体が緊張する. 映画を最初に観た人たちが,そこに映る汽車に驚き逃げた際の身体の緊張に,私たちは回帰しているのではないか? もう一度,「見る」こと...

Seeing the ‘light-colour’ seduces a new kind of touching

When we use a computer, what do we do? Almost all of us look at some image on an electric display, grab and move a mouse, and type on a keyboard, then our right hand holds the mouse in order to point to an image called an icon on the display. This is very 'natural' for us; if our body makes some actions, then the images on the electric display change. However, this relationship between our body and the image did not exist until the computer, and especially until the Graphical User Interface, appeared. I call this phenomenon 'Display Acts': the action formed by connecting our body action with the change of images on the electric display. (Mizuno, 2009) Through living with the computer, we have acquired new actions in order to inhabit this new image world. In other words, 'Display Acts' is the first step for our new actions in the man-computer world. I have already discussed ‘Display Acts’ on the first computer graphic system, Sketchpad, concerning the action of ...

the new realm of tactility with the 'light-colour' entity and the smooth materiality

After seeing 'light-colour' for a long time, we just begin full-scale investigation for the new realm of tactility with the smooth materiality. David Katz writes, メWhat has been touched is the true reality that leads to perception. [Emphasis in original] (Katz, 1989, p.240) We re-train our body with the smooth materiality in order to touch and generate new reality of 'light-colour'. Before, we touch something physical in order to feel the weight (in the flow of cause and effect). Now, we touch something smooth in order to give the weight to the 'light-colour' entity (for making its smoothness in the information flow). This demand us to believe our bodyユs weight and density in the 'light-colour' world. And this belief creates new diverse bodily sensations in ヤDisplay Actsユ.

Light, Plastic, Apparent motion: The ability to recognize the ambiguity of ‘not there/be there’ in the video game

This paper investigates what we experience in the video game. When we play the video game, we not only see the video image on the display but also touch the game controller. Therefore, we need double description of seeing and touching in order to make clear what the video game experience is. In order to make the double description, I focus on the light, the plastic and the apparent motion because they are fundamental components of seeing and touching in the video game; the light makes the video image which we see, the plastic makes the game controller which we touch and the apparent motion makes ‘motion’ in the flashing lights which we see again. The light has no materiality but we feel fresh on the video image. The plastic leads us to the loss of recognition for the material, but there is the shape and color which we can touch and see. The apparent motion has no physical motion but just ‘apparent’ motion. The characteristic common to all these three is ‘presence in absence.’ Therefor...

shape is vanished in the electric light

It is a very strange situation. When dark, we can't see anything, but the electric display does not matter because it radiates the light. In the dark room, we can not see anything. But the image made of the electric light, which is the electric display, is vivid for us to see. Not there. Be there. We can believe 'not there'. We can believe the color without the shape in the electric light. It changes everything. We have not been able to touch the color until now. Now, we can touch it. Maybe, it is virtual. But we can believe it. The shape vanishes. It means that the material vanishes. There is no material in the electric light. There is only the color. We should re-consider the relationship between the color and the shape in the electric light. The color achieves autonomy. Electric light merges figure and ground, light color, contour, no contour, color and shape; A shape vanishes in the electric light.

「ない」けど「ある」を納得できる感覚を示すメタ情報

ビデオゲームが触れるメディアの最有力の領域になっている要因が,光の画面に密接に寄り添うと同時に,私たちの手にフィットするように工夫されたプラスチック製のコントローラの存在である.私たちの手元にあるコントローラは,画面上のキャラクターと一体化するためのものである.私たちとキャラクターが一体化している際に,コントローラの存在は忘れられる.忘れられることが一番大切なのだ.その際に,プラスチックの認識不可能性が大きな役割を果たす.触れているものは認識できないが,目の前の映像は理解できる.その時に,コントローラを触れているという触感は,映像へと投射される.この投射が,映像に触れているような感覚をもたらす.私たちは,映像を見ることで,今自分が何に触れているのかを認識するのであって,手元のコントローラからではない.手にフィットしたコントローラはその存在がなくなる.映像と結びついたプラスチックは,物質という認識から離れ,映像との関わりの中ではじめて認識されるものなのだ.つまり,コントローラを含めビデオゲームを構成するプラスチックは自らが認識されることを,映像に委ねているのである. 光に触れるためには,物質に触れなくてはならない.しかも,それは光に触れるという未知の体験に適応した物質でなけば,拒否反応が起こってしまう.そこに,私たちの物質への認識を一度リセットしたプラスチックという「変質した実質」が差し出される.プラスチックは,私たちの体内に拒否反応なしに入り込んだように,成型の自在さを駆使して,光の世界に入り込んでいく.プラスチックの薄い膜が,私たちを手で直接魚や肉を触れたときのヌメッとした感じから遠ざけてくれるように,私たちの物質の認識を一度リセットするプラスチックは,光の明滅が作り出す映像から生じる物質がそこにそのままあるような「生ぽっさ」と,それが光で形成されてるがゆえの「物質感のなさ」というふたつの状態から程よく距離をとってくれる.プラスチックという認識不可能性を示す物質は,光の明滅と仮現運動が作り出す「動き」と一体化して,自らの認識の可能性を映像に委ねる.映像に自らの認識を委ねたプラスチック製のコントローラは,映像との心地よい一体感の中で,「ない」けど「ある」を納得できる感覚を示すメタ情報を,私たちに与えてくれる.

「ある」と納得しかけたときの感覚は残る

「ない」ところに「ある」が生まれる. 光と仮現運動との関係. でも,それは,もともと「ない」ものである. 物質との関与がない. 光と仮現運動との関係に,プラスチックを入れ込む. プラスチックも, 認識を促す要素は「ない」が,形は「ある」ものである. そこで,光と仮現運動との関係に,同じ構造をもった物質が関わってくる. 「ない」けど「ある」けど「ない」を, 見るだけでなく,触れてみて,また見ることで, そこにあるものが,「ない」体験でありつつも「ある」ものとして一度納得しかけて, やはり「ない」となる.一度,分かってしまうとなるところで, 新たな感覚が生じる.そこで認識している対象は,また「ない」の方へ行ってしまうのであるが, 「ある」と納得しかけたときの感覚は残る.

光,プラスチック,仮現運動

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光の明滅で構成される仮現運動を見ながら,プラスチックに触れるということ.このことが意味するのは,<動き>の中で,光と物質との間を常に行き来することである.物質性は「ない」けど,<生っぽさ>が「ある」光の明滅と認識を導く要素が「ない」 けど,物質としての形は「ある」プラスチック.この2つが交わるところに生じる,物理的な運動は「ない」けど,見かけの運動が「ある」仮現運動が,常に「動き」を生成している.ここには,常に何かが「ない」まま,「ある」が生じている.光の「ない」けど「ある」.物質の「ない」けど「ある」,<動き>の「ない」けど「ある」.これらの「ない」と「ある」をつなげていくことで,ビデオゲームは成立している.映像だけでもなく,コントーラだけでもない.それは,見ているだけでも,触れているだけでもなく,これらがつながることによってはじめて成立する領域なのだ.「ない」けど「ある」けど「ない」という流れが動き続けること.「ない」けど「ある」へ,そして,「ある」けど「ない」へ.この流れを淀みなくなめらかにすることによって,プレイヤーとキャラクターの「心地よい統一感」が生み出される.同時に,この流れが,未生の感覚を生み出す回路でもあるのだ.

なめらかさをめざして

 光の明滅を見ながら,プラスチックに触れるということから,何が生じるのか.ここには従来とは異なる世界が広がっているという予感.それが<ワープ>という表象である.パックマンは,左の通路から右の通路に瞬間的に移動するにも関わらず,私たちはそれをとてもなめらかな動きの中に見てしまう.右から左へ,左から右への移動がとてもなめらかなのである.恐らく,ここには「なめらかさ」を基準にした世界がある.マウスを動かして,思ったよりもカーソルの動きが遅いとき,何かひっかかりを感じ,マウスが重たく感じる.私たちの運動感覚も,重いものを動かしているような感覚を示す.ビデオゲームのおいて,操作がスムーズに行えるかどうかという基準がある.それは言語化できるものではないが,私たちは確かにそのなめらかさを感じている.それは映像とコントローラとの間の感覚を行き来をスムーズにしていくことである.なめらかな領域を確保することと抵抗とのバランスであり,私たちは光の明滅とプラスチックとを組み合わせることで,「なめらかさ」の基準を作った.同時に,その基準を構成する視覚と触覚との新たなつながり,前感覚的なリンケージも形成したといえる.  そして,新しい身体行為をゲームやヒューマンインタフェースにとりいれていくこと.そのために生じるなめらかさの変化.その変化に対応するために,よりなめらかなものを求めた結果として,プラスチックが担ってきた機能を代用する物質がでてきている.そこでは,マルチタッチのためによりなめらかな表面を提供するためのガラス,3次元のゲーム空間に対応するためにひっかかりを求めた結果としてのシリコンゴムなどといった物質が使われている.それは,物質だけのなめらかさだけでなく,ディスプレイ上の光の明滅と物質との関係から,私たちの身体がよりなめらかに感じ,動けるようにするためである.なめらかさという前感覚的な領域へのアプローチは,デジタルだけでなされるものではなく,映像と物質を含めたつながりによって可能となるのである.そのつながりから,私たちの身体に未生の感覚が生まれ,それはゲームをプレイしていたり,コンピュータを操作しているときに,自然と受け入れているものなのである.

コントローラ

光には触れることができない.そして,私たちは触れることができないものを操作するという感覚を,今まで経験してこなかった.いずれは経験することになるのかもしれないが,それには段階が必要なのではないか.まずは,光の画面に,コントローラという物質を通して触ること.これが,新たな人間の感覚のために必要なのだ.宮本の言う「何か物理的なもの」は,このことを端的に示している.しかし,ここで重要なのは,コントローラを作っていくためには,人間の手に合うことはもちろんのこと,光の軽やかさに対応できるような物質が必要なのではないか. よく知っているようで,触れたことがない光.光に触れたら,どのような感触がするのであろうか,光に触れるためには,どのような形状が必要なのであろうか.そんなことを考えることがおかしいのかもしれない.今,私たちは,プラスチックでできたコントローラを持って,ゲームを楽しんでプレイしている.この事実から,光に触れるためのコントローラにおける物質性を考えたらどうだろうか.

重さのない映像の「軽やかさ」とプラスチックの「ない」という感触のテクスチャーの組み合わせ

その遍在性ゆえに「ない」という感触をもったテクスチャーとしてのプラスチック.それゆえに,重さのない光の世界にも,fit するマテリアルとして私たちのもとにある.プラスチックを掴む.今までになかった,実質を感じさせないマテリアルを掴みながら,重さのない光の世界を探求していく.そこには,「掴む」というプリミティブな行為が必要であった. 新たな世界を探求するための杖として機能してきたプラスチック. 光の世界にある種の物質性を持ち込むために必要なマテリアルとして機能してきたプラスチック. 光の世界の変幻自由さに対応できる形態変化の自由さをもったマテリアルとしてのプラスチック. 重さのない映像の「軽やかさ」とプラスチックの「ない」という感触のテクスチャーの組み合わせ. プラスチックからはじまり,次はどうか. 何ももたずに重さないのない映像の世界を探求する. プラスチックは得ることができなかった自然の滑らかさをもつガラスに触れながら,光の世界を探求していく.握るよりもより洗練された行為,ジェスチャーが可能になる.

オレンジの色だけが存在するように作られた表面

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自分が変なことに執着していたことを知っていたのだと思う.同時期にあった変な出来事といえば,図画工作の授業で画用紙をオレンジ一色で塗りつぶしたことがある.好きな絵を描けという課題で,当時はオレンジ色が異常に好きだったこともあってのことだと思うが,画用紙の表面の凹凸が激しく,クレバスで描いても紙のテクスチャーが浮き立ってしまうのがいやで,クレパスがなくなるまでべたべたに塗り重ねたのを覚えている.後に,実家の引っ越しの際にその絵が出てきてたまげたのだが.(pp.246-247) — デザインの輪郭 深澤直人(2005) この深澤さんの子供の頃の行為. 凹凸による紙のテクスチャーを,色で塗りつぶしてしまう. 色によってテクスチャーを無くしてしまう. 紙というモノのテクスチャーを消滅させる色. オレンジのクレパスでべたべたに塗り重ねられた画用紙に触れたとき, 私たちには色に触れているのか,クレパスのテクスチャーに触れているのか, それとも,振りたくったクレパスを支持している紙のテクスチャーに触れているのか. ここには色を支えているモノが存在している. でも,紙のテクスチャーは,クレパスによって塗り潰された. クレパスのテクスチャー.紙に塗り重ねられたクレパスのテクスチャー. オレンジという色を求めてつくり出されたテクスチャー. 意識的には,テクスチャーは存在しない.オレンジの色だけが存在するように作られた表面(LAMY の noto に通じるような表面) 深澤さんとプラスチックを結ぶことができるエピソードかもしれない.

映像の軽やかさを,その生得性と考えてみること

映像の軽やかさを,その生得性と考えてみること. 物質性のなさから,私たちの身体が得ること. 新しい世界.物質性がないということから生じる新たな感覚. 新しいとともに古来の感覚. そよ風に手を当てる,そのときの感覚. アニミズムに通じる感覚を,映像に覚えているとしたら. 新たな神話を作り出すこと. 物語るのではつながりを作り出すこと. 映像の軽やかさから,なめらかな物質の類似性を感じること. アナロジー.アナロジーの連鎖.アレゴリー. どこまでもつなげていくこと. それをテキストにしていくこと. テキストも軽やかに. 行為も軽やかに. ただそれだけの行為. ヴィリリオに批判されるような,ただそれだけの行為. ただそれだけの行為を擁護すること. ただそれだけの行為と,映像との組み合わせによって, 新たな感覚が生じていると考えること.

光の軽やかさとなめらかな物質としてのプラスチックをつなげること

さて問題は,この 光の固まりの出現と消滅の「軽やかさ」 にひそんでいる,と私はにらんでいた.「インベーダー」と名づけられたその光の固まりは,真っ黒な空間から,とつじょとして出現する.それがどこから来るのかは,まったくわからない.しかも,つぎからつぎへとあらわれてくるのである.全身が光でできているだけあって,その「侵入者」には, 物質がしめす特有な抵抗感のようなものがまるで感じられない . 「侵入者」たちは,存在の軽さを楽しむかのようにして,ふわっと出現して,ひらひらと飛行し,そしてまたふっとかき消すように消えていってしまうのだ. (pp.20-21) カプセルやボールが介在することで,子どもはその感覚からスマートな分離ができるようになるのだ. プラスチックの表面の乾燥してつるつるしている感触 が,その分離感を強めている.しかも,子どもは「対象 a 」から薄い膜ひとつ隔てて分離されていながら,いまやそれを手に持ったリュックにつめて,持ち運びできるようになったのである.子どもはカプセルやボールの存在によって,母体との接触の記憶につながりをもつあのやっかいな境界物との間に,こうしてはなれもせず近づきもしない,まさに 適正な距離 を見いだすことができたわけだ. (pp.97-98) 中沢新一『ポケットの中の野生』 光の軽やかさとなめらかな物質としてのプラスチックをつなげること. 光という「インベーダー」と,それを囲む,操作する乾燥してつるつるした感触をもつプラスチック. この関係を,もっともっと,自由に,考えていくこと. 福嶋さんの「モノとして記号 」の物質性を生じさせている「インベーダー(侵入者)」としての光. デジタルによる空気感.ディスプレイの光の空気感. 光に多くのものを負わせすぎなのかもしれないけど, 僕たちが常に体験している光を見ることは,確実にヒトの感覚のつながりを変化させていると信じることからはじめる. 強く信じることが,とても大切に思えている. そして,光とプラスチックやガラスといったなめらかな物質との関係とを考える. 光の軽やかさに適正な距離を与えてくれる物質としてのガラスとプラスチック. 現状の認識にすぎないかもしれないけれど. ここから考えることをはじめること.信じることをはじめること.