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2014の投稿を表示しています

2014年の振り返り

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2014年にはこの投稿を含めて76本の記事を書いています.2013年が95本だったから,結構減ってしまいました.それは4月から甲南女子大学文学部メディア表現学科で働くようになったからもしれないし,単に怠けていただけかもしれません. 今年1番の研究上の出来事は,11月にドバイに行ってISEA2014に参加して「インターネットヤミ市」について発表してきたことです.アートの世界には「ポスト・インターネット」といって「リアル」と「インターネット」とが重なり合う部分にあたらしい価値を見出そうとするムーブメントがあるのですが,「重なり合っている部分」だけに注目するだけいいの? というのは「インターネットヤミ市」の考察を通じて言いたかったことです.重なり合っている部分はもちろん重要だけれども,その重なっている部分の「インターネット」はだいぶ「リアル」に侵食されてきているインターネットでもあります.DISはリアルの侵食を「インターネット」から押し返しているのですが,IDPWは「リアル」と「インターネット」との重なりの外にある「インターネット」をリアルに落としこんできて「インターネット的」な感覚をつくっているところが面白い,というような発表をしました. これからどうなるのかわかりませんが,DMM.makeで「 インターネット・リアリティ・マッピング 」という連載をしました.JODI,エキソニモ,ライダー・リップスの分析をこれまでしてきました. また,今年度もメディア芸術カレントコンテンツで月1くらいのペースでメディアアートの紹介してきました. [2013年度] 「インターネット・カルチャー」を特集した「MASSAGE」の第9号が刊行 (1月15日更新) ロッテルダムのMAMAがラファエル・ローゼンダール氏によるJODIの解説ページを開設 (2月12日更新) Googleの新プロジェクト「Tango」と、Holly HernDon氏と谷口暁彦氏によるミュージック・ビデオ「Chorus」に見る「3Dモデリングという表現」の可能性 (3月12日更新) [2014年度] カオス*ラウンジによる展覧会「LITTLE AKIHABARA MARKET」が開催 (5月28日更新) スロベニアのリュブリャナ市民ギャラリーで「net.art Painter

メモ:Spiritual Computing,回路,ヒトの最後/最期の行為の記録

エキソニモの《Spiritual Computing a.k.a. ゴットは、存在する。》シリーズを「ヒトの最後/最期の行為の記録」として位置づけてみたい.ダグラス・エンゲルバートによってヒトとコンピュータとが共進化していく場として「インターフェイス」が設定されていたけれど,ヒトの進化が遅く共進化は遅々として進まない.インターフェイスは「共進化の場」ではなく,ヒトとコンピュータとを取り込んだより大きな存在を構成する「回路」だと考えた方がいい.ヒトはコンピュータの登場によって,コンピュータとともに「回路」を構成するスイッチになっていたことに,エキソニモの《Spiritual Computing》は気づかせてくれる.そして,エキソニモの作品を考えることは,ヒト中心主義から脱却した「Spiritual Computing」を現われを示すことにつながる. 「インターフェイス」を共進化の場として捉えると,そこではヒトはまだヒトであり,コンピュータはまだコンピュータであって,それぞれが各個機能していると考えられる.ヒトはコンピュータに指を置きながら,コンピュータを操作していると思っていたし,コンピュータはヒトから情報入力を受付け,演算処理をして出力していた.けれど,それは「コンピュータの操作」ではなく,ヒトがコンピュータに指を置くことで自分でない,そしてコンピュータでもない,より大きな存在の「回路」を構成するスイッチになることであった. エキソニモはインターフェイスという「回路」からヒトを取り去ってしまった.インターフェイスからヒトが取り除かれたけれど,コンピュータは動いた.エキソニモは《Spiritual Computing》シリーズで,ヒトがいなくなってもコンピュータが作動し続ける「B面の世界」を提示した.ヒトがいなくなってもコンピュータが動くが,インターフェイスはヒトに合わせてつくってあるので,ヒトの行為の痕跡がインターフェイスを組み合わせた作品には残り続ける.コンピュータと共進化していく存在だと思い込んでいたヒトが消滅する前の「最後/最期の行為」が,ヒトの不在によって鮮明に浮かび上がる.ヒトの痕跡を残しつつ,コンピュータ自体はヒトの不在に関係なくこれまで通り回路の一部を構成するスイッチとしてオン・オフを繰り返し,情報をつくり続ける.

回路

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ヒトとコンピュータとがひとつの回路になったあとで,ヒトはどこにいるのだろうか? コンピュータはどこにいるのだろうか? ヒトとコンピュータの回路は,ヒトとコンピュータとの共進化を止めるというか,このふたつがひとつの存在になるということ.誰のための存在なのか? 「神」をここにもってこないかぎりは,その回路が何のために,誰のためにということはわからない.そもそも「何かのために」回路ができあがるのではないかもしれない.ヒトが回路のなかに入ることは悲観することではなくて,これまでとは異なる思考を見つけることだから,興味深いこと.今までの考えから,あらたしい考え方,思考に移行すること.でも,そこで,これまでの「言語」を使っていていいのか.もちろん,これまで考えられてきた言語の思想を捨てることはできないだろうけれど,それが「レガシー」になって,ヒトとコンピュータの回路としての思考の足を引っ張ることもあるではないだろうか.そうだとしても,ヒトは「言語」を使い続ける.そして,これまでの「レガシー」を引用し続ける.それがコンピュータ以前の思考であったとしても引用し続ける.その思想がコンピュータを生み出したとも言えるけれども,だったら,コンピュータを生み出した人の思想を引用するべきではないだろうか.これまでの「思想」を壊したあとに,また「思想」を語ることを考える. -- エキソニモの「スピリチュアル・コンピューティング」からKevin Bewersdorfの「Spirit Surfing」にとんで,上のGIFに至った.ヒトとコンピュータとがひとつの回路になっている.上の画像だと,ヒトとコンピュータが一組になって,その先にもう一組のヒトとコンピュータがあるけれども,もう一組のところに必ずしもヒトがいなくてもいい.ヒトとコンピュータとのインターフェイスではなくて,ヒトとコンピュータとを含んだひとつの回路と考えること.変化のなかのヒトとコンピュータと考えること.モノではなくて変化であって,それは「神」ではないけれども,大きな回路のなかに入ること.そんな感覚が「スピリチュアル」で,「インターフェイス」という言葉でヒトとコンピュータとは向い合ってきたが,そのあいだにヒトとコンピュータとのあいだにはこのふたつの存在を含んだより大きな回路ができあがりつつある.というか,もともと回路はあ

TumblrとInstagramは粒度を膨張させることなく,たんたんと同じような粒度の情報が続いていく

授業でInstagramについて考えた.あと,Tumblrについても考えた.これらふたつのサービスは,そのタイムライン・ダッシュボードに現われる情報の「粒度」[ プログラマーの東窪さんのTumblr論から ]が大きくも小さくもならないで,一定のまま回っていく画像中心のコミュニケーションと考えられる. オリジナルポストをする,Web的に外からSoTする.自分でカメラでとった写真をポストする(空間から選択して切り取った後のものである).人の画像をreblogする.人のテキストをdsbdからreblogする.dsbdから人のテキストの断片を選択してquote的reblogする,webから人のテキストの断片をreblogする.urlの粒度でwebからpostする.チャットをリブログする.みんな同じなんだ.これが大事だ.粒度を近づけたんだ.そりゃそうか.すごい.すごい!   I AM GATHERING YOU  http://toukubo.com/post/51198746794 Tumblrは「言語」も扱うけれども,その言語が「画像」の粒度と同じものに変換されている.そこではもう「言語」は言語としての独自の粒度をもっていない.ならば,画像も独自の粒度を保持できてないとも言える.リブログという意味の粒のレールチェンジを簡単に行える行為を実装することで,「言語」「画像」の区別なく,そして時間の区別もないなかで,ただただダッシュボードに逐次的に現われる「データ」が膨張しないようにしているのが,Tumblrなのではないか.逆かもしれない,「リブログ」を実装した結果,ダッシュボードに逐次的に現われる「情報」が膨張しなくなり,「言語」も「画像」の区別もなく「時間」の区別もなく「情報」を同じ粒度で扱えるようになったのかもしれない. では,Instagramはどうか.Instagramは基本「画像」のコミュニケーションであるが,そこには多くのコメントがつけられる.しかし,それらはその「画像」についてのであろうか.確かに,その画像にコメントはつけられる.しかし,それはその「画像」の意味を膨張させたりしない.画像はテキストは別にそこにありつづける.だが,テキストが膨張して,画像を置き去りにするときがある.テキスト主体のコミュニケーションがはじまってしまう.しかし,次の投稿

メモ:インターネットを受け入れるマインドセットがまずあって

ISEA2014の発表の質疑応答で「ビットコイン」の話題になった.どうしてそうなったのかは,アートは現実に追いついていないという文脈だったような気がする.ビットコインをどうアートであつかうのか,あるいはどう考えるのかだったような.それで,ひとりアーティストがビットコインの技術的な話をしていた. 僕はそれを聞きながら,たぶんそんな技術的なことではなくて,ビットコインを受け入れているマインドセットこそ問題にすべきなのではないだろうか,と思った.それはインターネットヤミ市に通じるところなのだが,インターネットを受け入れるというか,インターネットで起きていることを「リアル」と同等に受け入れるマインドがビットコインを受け入れさせているような気がする.ビットコインはネットから出てきて,リアル通貨とも交換できる.そこが面白いところで,もともと貨幣は仮想的なもので,ただそれがリアルで実行力をもつからあたかもリアルに存在しているかのようだけれども,それはたんに紙切れにすぎない.でも,たんに紙切れにすぎないと言えないところが貨幣で,ビットコインも単にデータにすぎないのだけれど,それがたんにデータにすぎないと言えないマインドセットに私たちがなっているところが,インターネットとそれを構成する膨大なコンピュータ群を受け入れている証拠なのではないかと思ったわけです. そして,それがリアルの貨幣と交換されるとなると,それは単に心情的に受け入れているというわけではなくて,なにかリアルとインターネットとをまたぐ存在になっているわけで,その点がインターネットヤミ市に似ているのかなとも思ったわけです.インターネットを受け入れるマインドセットがまずあって,そのあとにリアルとの接点があって,リアルとインターネットとがマインドとブツというな存在と入り交じることになっているのが,ビットコインであり,インターネットヤミ市なのかなと思ったわけです.

お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_27

記事を書きました→ New Museumのオンラインプロジェクト「Frist Look」で、アマリア・ウルマン氏の《Excellences & Perfections》が公開 大学の一般教養で「インターネットを通して現実をみる」という感じの授業をしているのですが,そこで「Instagram」を取り上げてみました.これまでInstagramに関してはあまり考えたことがなかったのだけれど,Instagramが実現した画像のコミュニケーションは興味深いなと思ってところで,SNSの「アーカイブ」の問題で記事を読んでいたアマリア・ウルマンの《Excellences & Perfections》を思い出しました.この作品はまた画像だからこそ,それもInstagramだからこそ成立するコミュニケーションから生まれた作品だと思います. 授業で取り上げたところ,学生さんの関心も高かったです.彼女たち自身も少なからずウルマンのように演じながら画像をあげているのかもしれませんし,そうしたことを楽しんでいるのかもしれません. 例のごとく長くなってしまったので,僕自身がこの作品をInstagramで見ていった体験を書いたところはカットしたので,ここに置いておきます. 私はこの作品をリアルタイムに体験していないので,「アートだ」という指摘の後に多くのフォロワーがどんな気持ちになったのかわわからない.私自身は「作品」としてウルマン氏のInstagramを眺めていたので,そこで起こっていることはすべてフェイクであることがわかっていた.なので,いつ「これは作品だ」というコメントがつけられるのかを期待していたところもある.Instagramをリアルタイムに見ていた人にとっては,これがアートであろうがなかろうが関係なく「アマリア・ウルマン」という女性,しかも「かわいい」女性を眺めることができればそれで良かったのではないかと,私は考えている.ウルマン氏が言っているように,かわいい女性のパーフェクですばらしい生活とそこから転落していく不幸を見ることはひとつのエンターテイメントだったのだろう.また,《Excellences & Perfections》はパソコンでも見られるのだが,できることならスマートフォンで見ることをお勧めしたい.「スマートフォン」という手のなか

インターフェイスのなかのスピリチュアル=「概念としての猿」は解き放たれた

エキソニモの個展「 エキソニモの「猿へ」 」の最後の作品.iPadで「宇宙」がめくられ続ける.「宇宙」がめくられる.それも延々とめくられる.それは誰がめくっているのか? エキソニモの作品はヒトから離れ,コンピュータからも離れ,「 概念としての猿 」へと向かっていっているのか. 「概念としての猿」というのは,生物学的な猿ではなくて,ヒトとコンピュータとのあいだにあり続けたインターフェイスに生じた「スピリチュアル」な領域なのではないか.表層と深層(コード)を自由に行き来してきたエキソニモは,ヒトとコンピュータとの膨大なやり取りが世界中で行なわれているインターフェイスに「概念としての猿」が生まれた,あるいはもともと存在していたことに気づいた.それは「スピリチュアル」な領域であって,そのまま出せば「あぶない」とされる.だから,エキソニモは「概念としての猿」を表層とコードとがせめぎ合う場所=インターフェイスに閉じ込めたのではないか.あるいは,インターフェイスにおけるスピリチュアルの存在を確かめるために連作「ゴットは、存在する。」をつくったのではないか. しかし,今回の作品《神、ヒト、BOT》で,エキソニモは表層とコードのバランスを崩しているように思われる.意図的ではなくて,崩れてしまったのかもしれない.表層とコードが引き離され,そこにいたスピリチュアルな存在としての「概念としての猿」が最大化された状態でディスプレイに映る.最大化された「概念としての猿」とバランスをとるようにBOTとしての地球が置かれた.それはきっとヒトのリアリティに作品を繋ぎ止めるために必要だった.「概念としての猿」という表層は光るヒトと塗りつぶされたディスプレイによって最大化され,それとバランスをとるようにコードは地球をBOT化した.しかし,それらはもう密着していない.離れている.インターフェイスのなかのスピリチュアル=「概念としての猿」は解き放たれた.エキソニモは「概念としての猿」とともにどこに行くのだろうか.とても楽しみである.

お仕事:インターネット・リアリティ・マッピング(6)「エキソニモとライダー・リップス(後編)」

DMM.make で記事が公開されました. インターネット・リアリティ・マッピング(6)「エキソニモとライダー・リップス(後編)」 これで7月に書き終わって編集部に送っていた分がすべて公開されました! とてもすっきりしました!! これで気持ち的に次にいける!!!  今回もライダー・リップスを使ってエキソニモ論を書いている感じです. 次は,リップスを介して,ということは,エキソニモも経由した感じで谷口暁彦論が書けたらと思っています.

My text and slides for ISEA2014 presentation

My text and slides for ISEA2014 presentation.  Thank for audiences at ISEA2014, IDPW members, the Internet dude and others! -- Slides [PDF in Google Drive]  https://drive.google.com/file/d/0B3RHXdLnqTi-UlRQNmU5cnJVY3c/view?usp=sharing Text A relationship between the Internet and the physical for the art In 'The Aesthetics of Net.Art,' Julian Stallabrass described, "the 'objects' of Internet art are far from being conventional art objects. They are not only reproducible without degradation but are almost free to transmit (or rather, once the initial outlay has been made, the marginal cost of each transmission is close to zero). Cheaply reproducible artistic media have long existed, of course, but attempts at their wide dissemination have foundered on the cost of distribution. "  This point is concerned with the relationship between the Internet and the physical for the art. The Internet art can show artworks as almost perfect copies anywhe

神が現われる瞬間,感じるのは,畏れである/エキソニモ《神,ヒト,BOT》_作品単体編

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「 大古事記 」展で展示されている エキソニモ の《神,ヒト,BOT》について書きました.今回は作品単体編です.この作品については,あとでエキソニモの個展「 エキソニモの「猿へ」 」からの流れでも書くつもりです. −− ヒトが発光している.ちかごろヒトはよく発光している.でも,そのことに気づかない.発光したヒトを見ているのに,それに気づかないのはそのヒトが「四角」の枠のなかに入っているからだ.「四角」の枠はそこにあるものを別の次元のものしてしまう.「それはそういったものだ」という感覚を見るものに与える. 「神」と言われる存在はよくそれ自体が発光していたり,後光がさしていたりしている.神々しくて,見ると目が潰れると言われたりするが,それはきっと光がまぶしすぎるからだ.太陽を見つめ続けると失明するのと同じ.ちかごろ発光しているヒトは神や太陽ほどは激しくは発光していない.ディスプレイは 明るすぎない光 でヒトを惹きつける.そのこともヒトが発光していることを気づきにくくしている.しかし,様々なサイズの四角いディスプレイのなかでヒトは神のように発光している.エキソニモの千房けん輔はブログで次のように書いている. 大きめの液晶地デジテレビを買った直後,部屋の中でニュースキャスターと相棒が同じくらいの大きさで並んで見えた.このときに、その二つが全く違うものだって強く感じた.一番の違いは,キャスターが自ら発光しているところだった.  センボーのブログ:最近ふと思ったこと  ここでは大きさが同じになったことから,ヒトの発光の有無が際立っているが,エキソニモの作品《神,ヒト,BOT》は発光するディスプレイを塗りつぶすことによって発光しているヒトを際立たせた.赤,緑,白,黒一色に塗られたヒトが直立不動でディスプレイに映されている.ディスプレイでヒトが映されていない部分は身体に塗られた色で塗りつぶされている.なので,ディスプレイが光っているのではなく,ヒトが光っているように見える.あるいは,発光し続けているにも関わらずモノ感が希薄なディスプレイのモノ感が塗りつぶしによって際立っているとも言えるだろうか. ヒトとディスプレイの境界が揺れている.それはそこに映っているヒトが静止画ではなく動画だからである.ヒトは直立不動だが完全に動きを止めることはできない.ヒトは呼吸を

お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_26

記事を書きました→ DISが2016年のベルリンビエンナーレのキュレーションを担当 タイトルの通りのことを書きましたが,2年後のインターネットをめぐる状況はどうなっているのか,とても興味があります.2016年のベルリンビエンナーレで「ポストインターネット」がテーマとなりうるのか,それとももう別の言葉が使われているのか? 「インターネット」という言葉自体が抜け落ちたりするのか?

インターネットヤミ市インタビュー_エキソニモ/渡邉朋也編

金曜日(10/31)の夜からドバイに行きます.ドバイで ISEA2014 (電子芸術国際会議)が行われていて,そこで「A relationship between the Internet and the physical for the art」という発表をしてきます.発表の「インターネットヤミ市」を海外の事例と比較しながら分析するというものです. 取り上げるのはインターネットヤミ市の他に,Send me the JPEG by Winkleman Gallery,DISown by DIS です. 分析は以下のようになっています. −− 作品のJPEG画像をギャラリーのリアル空間で展示したグループ展: Send me the JPEG by Winkleman Gallery がアートワールドで「インターネット」と「現実空間」のあいだに起こる混乱を示している. アートのディフュージョンラインとして小売店舗を模したインスタレーションをリアルに展示し,その後オンラインストアを開設した: DISown by DIS は「インターネット」と「現実空間」の重なりの部分を「ポスト・インターネット」というあたらしい価値観で上書きしようとしている. スマホからポチるキミに悲報.わざわざ行かないと買えない,残念なECこと The Internet Yami-ichi by IDPW は 「インターネット」と「現実空間」のあいだの混乱を避けて,ネットと現実の重なりの余白の部分,つまりネットそのものと現実そのものをハッキングして,リアルに「インターネット的感覚」をインストールしている. DISとIDPWは感覚は似ているが,DISには明確にディスる対象として「アート」があるのに対して,IDPWにはそのような対象がない.その結果としてIDPWは「インターネット」そのものに対して意識を向けている.だから,IDPWはインターネットヤミ市でインターネット自体をハッキングして,インターネットが着地するフィジカルな場所というこれまでにないものをつくっているのではないか.そして,「インターネットヤミ市」自体がひとつのコンセプチャルなアートになっているのではないか,というものです. −− 前置きが長くなりましたが,今回の発表のためにインターネットヤミ市関係者にインタ

お仕事:インターネット・リアリティ・マッピング(5)「エキソニモとライダー・リップス(中編)」

DMM.make で記事が公開されました! インターネット・リアリティ・マッピング(5)「エキソニモとライダー・リップス(中編)」 今回はわりと長めのエキソニモ論になっています.エキソニモの作品の流れのなかで彼らがIDPW名義で行っている「インターネットネットヤミ市」を位置づけてもいます.こんな感じでエキソニモ論を書いてみたい.もちろん,ライダー・リップスも登場します.結構長いので,お時間のあるときに読んでみてください!

それはヒトでなくても,犬でもカメでもウォンバットでも,あるいは電動ドリルでもいいかもしれないが,ヒトじゃないとそんなこと意識しないかもしれない_セミトランスペアレント・デザインの「退屈」展(2)

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セミトラ「退屈」展の《6PC 1MC》.ひとつのマウスで5つのカーソルを動かす.どこか落ち着かない感じがしてくる.画像=記号を扱った作品がピクセルとそれが表す記号との「1対1」対応を崩したように(→ 再帰のなかで現われるピクセル感_セミトランスペアレント・デザインの「退屈」展(1) ),ここでもマウスとカーソルとヒトとの「1対1」対応が崩れている.崩れた結果として,どこか落ち着かない. (いや,画像の作品は符号化と復号化の繰り返しだから,厳密に1対1対応をしようとするけど,コンピュータの外でそれを行おうとするから,どうしてもその対応がズレていくのが興味深いということかもしれない) マウスの作品に戻ると,これは今回の退屈展で,ヒトがコンピュータのなかに入り込める,これは言い方がおかしいかもしれない.ヒトがコンピュータを操作するという実感がもてる唯一の作品になっている.でも,セミトラはその前提であるマウスとカーソルの「1対1」対応を崩しているから,そこにズレが生じる.今回,ズレが生じるのはヒトの感覚である.普段,マウスとカーソルを使っているヒトが多いからこそ,そこにズレが生じる.コンピュータにとっては何一つズレていない.1つのマウスで5つのカーソルが動くようにプログラムされているので,その通りに動いているだけ.カーソルがディスプレイの枠の外にでてしまうのも,そのようにプログラムされているから.5つのディスプレイとその周りの空間がXY座標で区切られていて,その座標とマウスの動きとが対応しているだけのこと.でも,ヒトは5つのカーソルと,ディスプレイの枠の外にでるカーソルを見ると「あれっ」っと思う. 「退屈」展は作品の多くが再帰的構造をとっているが,その再帰のプロセスをヒトは眺めるだけであったり,意図せずそのプロセスに入り込んでノイズとして「機能」したりするのだが,《6PC 1MC》ではヒトは入力ソースとして機能している.再帰構造の画像の作品はヒトを必要としていないと書くのは大げさだけれども,この作品はコンピュータの論理構造をノイズあふれる世界に構築してきて,その反応を見る作品と考えられるので,そこではヒトも温度や湿度,地震によるカメラの揺れなどといった論理世界を表現した回路に対するノイズのひとつにすぎない.しかし,

お仕事:インターネット・リアリティ・マッピング(4)「エキソニモとライダー・リップス(前編)」

DMM.make で記事が(やっと)公開されました! インターネット・リアリティ・マッピング(4)「エキソニモとライダー・リップス(前編)」 ネットをメインにとてもコンセプチャルな表現をするエキソニモとライダー・リップスを3回にわたって比較していきます.といっても,初回はもっぱらライダー・リップスについてです. 追記_2014年12月29日 リンク先のテキストは2段落ほど抜けていました. 「リップスはアーティスト活動と並行して、OKFocusというデジタルデザインの会社もやっています。彼は自分のことを「独立(ビジネスオーナー)のことを心配して、(技術、未来について)すぐうんざりしてしまうコンセプチュアル・アーティストだね」(MASSAGE 9( http://themassage.jp/ ) p.84)と言っています。」 このテキストに以下のテキストが続きます. − 空手着を着たリップスに戻りましょう.これは2013年に行なわれた「Hyper Current Living」[http://ryder-ripps.livejournal.com/1099.html]というパフォーマンスの際のリップスの自撮りになります.「Hyper Current Living」は,リップスがRed Bullを飲みながら延々とアイデアをツイートしていくというパフォーマンスです.ツイートするだけなら,別に自分の身体をネット上に出す必要はないのですが,リップスはわざわざ空手着をつくって,それを着て,自らの身体をネットに晒しながら,アイデアを練って,それをツイートしていきます.前回比較したJodiとエキソニモでは,Jodiが「遊ぶ身体」で,エキソニモで「消える身体」だったので,「スポーツ」という言葉を使うリップスはJodiに近いと言えるでしょう. コンセプチャルアートとしてのスポーツ でも,ここで言われている「スポーツ」は「コンセプチャルアートとしてのスポーツ」なんですね.この言葉はとても面白いところがあります.頭でっかちな感じがする「コンセプチャルアート」と身体性が強い「スポーツ」という普段隣り合うことがない言葉が組み合わせされているからです.リップスはこのギャップを際だたせるように空手着を着ているし,身体を強く刺激するRed Bullを飲むわけ

再帰のなかで現われるピクセル感_セミトランスペアレント・デザインの「退屈」展(1)

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ggg で開催されている セミトランスペアレント・デザイン の「退屈」展の1階にはモニター,プロジェクターはない.RGBの世界で主に活動してきたセミトラが自らの作品をCMYKに変換している.といっても,これまでつくってきたRGBの作品のスクリーンショットをプリントしているわけではない. スクリーンショットを拡大して見えてくるピクセルをひとつひとつ絵具に変換している.その変換には多くの時間が掛けられているのだろうし,それは「退屈」な作業だったのではないかと想像される.ウェブサイトはそのままのかたちで展示すると,普段,家で見られるものをわざわざ会場で見ることになり,その体験はとても見る人にとって退屈なものである.だからといって,ウェブサイトを「絵画」に変換されても,それはそれでつくる人にも見る人にも退屈なものになってしまうのではないだろうか.最初にそこにあるものが人の手で描かれたものだと知ったときの驚きはあるだろう.しかし,それを長く見ることがあるだろうか.ウェブがリアル絵画になるとそれはすぐさま比較対象がこれまでに圧倒的な歴史をもつ絵画群のなかでその立ち位置を問われて,リアルの前に敗北して真に退屈なものになってしまう. セミトラは簡単に敗北しない.セミトラは「退屈」を引き伸ばす.1階のブルーバックの前に掛けられた絵画は,カメラに撮影され,地下1階に送られ,映像として表示される.絵画は低解像度の画像になる.セミトラはRGBのウェブサイトをCYMKへ,そして再びRGBへと次々に変換していく.ピクセルを絵具に置き換えていったヒトの痕跡があたかもなくなったかのように「ピクセル感」が強調化された低解像度の画像が最終的に出力されている.「ピクセル感」というのは物理的なピクセルを示しているわけではなく,その画像が「ピクセルで成り立っているような感じ」というアバウトな意味である.「RGB→CMYK→RGB」という再帰的な流れの果てに「ピクセル感」が現われる. ブルーバックに合成されているセミトラのアーカイブもそれぞれの作品が徐々にズームアウトされていき,最終的にひとつのピクセルになって,次の作品の一部になるかのような映像になっている.それが「RGB→CMYK→RGB」を示す画像の背景として流れていく.このように

memo:CCC gets physical

以前, メディア芸術カレントコンテンツ [ お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_12 ]  で紹介した「 COPIE COPAINS CLUB 」が 「フィジカル」を獲得した とのこのことです.存命中のアーティストの作品をコピーし続けることはネットだから許されているのかなと思ったら, アートフェスティバル での展示を行われることになるとは… ネットに上がっているコピー作品のすべてが展示されるわけのはフィジカルな制約からか,果たしてコピーという行為の制約からなのか.まあ「コピー」というよりも「オマージュ」と言っているから,許されるのかな.このあたりは微妙なバランスにあるのでしょう. このネットの活動がリアル展示を行うとは考えられなかったけど, DIS が2016年のベルリンビエンナーレのキュレーションを担当するとかあるから,時代の流れは「ネット→フィジカル」なのでしょうか.「ネット」で普通に行われていることを「フィジカル」にもってきて,そこでの差異を楽しんだり,そこでの認識の変化を味あうような「 インターネットヤミ市 」的な感覚というのが広まってきているのかもしれない.いや,もともとインターネッツの人たちには広く共有されていた感覚を制度が取り込もうとしているのでしょう.この感覚が制度に消費されていくのか,それとも制度を変えていくのか,このあたりに注目していきたい.

500w abstract_A relationship between the Internet and the physical for the art and a memo for my full paper

500w_A relationship between the Internet and the physical for the art In 'The Aesthetics of Net.Art,' Julian Stallabrass described, "The ‘objects’ of Internet art are far from being conventional art objects. They are not only reproducible without degradation but are almost free to transmit." This point is concerned with the immateriality of art. The internet art can show artworks as almost perfect copies anywhere because of its immaterial nature. However, contemporary art is getting the immaterial nature and stepping on the Internet now. The immaterial nature of the Internet throws the art world into confusion. I want to show this disorder situation of the art form the viewpoint of the relationship between the Internet and the physical. I will examine 3 cases: Send me the JPEG by Winkleman Gallery, DISown by DIS, Internet Yami-ichi by IDPW. 1. Send me the JPEG by Winkleman Gallery Now, the physical place is equal to or subordinate to the Internet for the art w

札幌国際芸術祭のメモ:松江泰治とラファエル・ローゼンダール

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札幌国際芸術祭で見た 松江泰治 の作品.高解像度で撮影された街の写真がスクロールしていく様子を見ていて,ラファエル・ローゼンダールの aesthetic echo .com を思い出した.ローゼンダールの作品は俯瞰から街を見たものではなかったのだが,スクロールの感じが松江泰治の作品と似ているように思った.ローゼンダールの新作 neo geo city .com は俯瞰から街を捉えてスクロールさせているので,松江作品と本当によく似ている. スクロールの感じが似ている言っても,ひとつは高解像度画像でループの映像もうひとつは解像度にとらわれないベクター画像でランダムに生成されていく映像でスクロールされていく映像は全く異なる.でも,スクロールの感じは似ている.この似ている感じの根底にあるのは何なのかということを考えているのだが,未だによくわからない.「根底につながり」なんてものはないのかもしれないが,そこをつなげて考えたいとさせる「類似」関係がこのふたりの作家の作品にはあるように思われる. Google Earthの俯瞰写真からのMAPへのベクターで描写された地図への切り替えという体験で,松江とローゼンダールの作品のあいだの関係を考えてみると面白いのかもしれない.

お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_25

記事を書きました→ エヴァン・ロス氏が新作《No Original Research》を公開 エヴァン・ロス氏の新作について書きました. 作品の解説・考察でテキストが長くなってしまったのですが,できればロス氏スタジオ移転についても書きたかった. − 今回の展示を知ったのはロス氏のeメールによるニュースレターだったのだが,そこにはロス氏がスタジオを移転したとの知らせもあった.スタジオ移転を知らせるブログは「 Hello World... 」というタイトルで,そこにはGoogleMAPで所在地が示されていて,もちろんストリートビューでその場所を見ることができる. さらに,ロス氏のスタジオのシャッターにはアーティストの Mathieu Tremblin氏のよってペイントされていて,そこには, READY PRINT "HELLOW WORLD!" HELLOW WORLD! READY. ■ と描かれている.そのシャッターの様子はGIFアニメで見ることができる.さらに,アラム・バートル氏がフォーマットをつくった「Offline Art」のノードが備えられているので,ロス氏のスタジオ近くに作品を体験できるかもしれない.そして,私も含めてパリになかなか行けない人は,Tor Browserさえインストールすれば,デープネットにあるロス氏のスタジオにアクセスできる. スタジオをストリービューで見せて,さらにGIFアニメというオンラインでのスタジオ擬似訪問,リアルに現場に行かないと体験できないOffline Art,ネットはネットだけれども普通にはたどり着けないディープネットと盛りだくさんのスタジオ移転報告であった.URL=http://www.blog.ni9e.com/hello-world-studios/をみると「studios」と,しっかりと複数形になっていた.今やスタジオがあるのはリアルだけとは限らないし,ネットも複数あるという時代になっているのかもしれない.

コンピュータからの歩み寄り_《Desktop BAM 札幌国際芸術祭 edit.》

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札幌国際芸術祭の「インターネットヤミ市4」に参加して,早いものでもう1ヶ月以上たつわけです.そして,芸術祭ももう終わってしまうので.その前にエキソニモの《Desktop BAM 札幌国際芸術祭 edit.》を考えておかねばと思い,筆を執りました. 札幌版は福岡で見た《Desktop BAM》とはちがいました.大体は同じですが,上の画像にあるように作品と作者の紹介が「スティッキーズ」でやられています.親切ですね.エキソニモはデフォルトの機能を使うのがうまいですね. 細かいところもいろいろと変更されていたと思うんですが,大きな変化は「壁紙」が変わるようになったところでしょうか.壁紙が変わっていくと,何かそこに「物語」的なものを読み込んでしまった自分がいました.作品が情緒的になるというか.でも,それはヒトが勝手に思うだけであって,コンピュータにとっては指示通りにピクセルの色情報を変えているだけですよね.マウスを指定された位置に動かしつつ,ディスプレイ全体のピクセルの情報も変えていくというのは大変そうです.MacBook Air からMacBook Proに変わったから,そんな忙しい処理も可能になったのでしょうか. 最初は,この壁紙の変化はやけに情緒的な感じがしてない方がいいじゃないかなと思ったのすが,何回か見ていると,壁紙のゆっくりとした変化とせわしなく動くカーソルの動きの組み合わせがとても牧歌的な感じがして,気持よくなってきました.とても無機的だった《Desktop BAM》が見る人を楽しませようとして頑張っているという感じです.それがなんかコンピュータからの歩み寄りのような感じがしたのです.処理能力あがったから,「あなたが楽しめるようにしてあげるね」みたいな. すべてヒトである私の解釈ですが… 《Desktop BAM》をつくったのもエキソニモというヒトですが…

ISEA2014のためのインターネットヤミ市の考察(案)_2

インターネットヤミ市をひとつのフォーマットとして考えると,リアルとネットとのあいだを行き来する展示フォーマットとしてAram Barthollの「 Speed Show 」とラファエル・ローゼンダールの「 BOYO (Bring Your Own Beamer) 」挙げられるだろう.Domenico Quarantaは論考「In Between」のなかで,オンラインの文脈をオフラインに持ち込むフォーマットとしてSpeed ShowとBYOBを取り上げて,以下のように書いている. BYOBとSpeed Showは,何十ものイベントが世界中でオーガナイズされてミームように広がっていった.これらふたつのフォーマットは同じような特徴を示している.それは安く,早く,簡単にオーガナイズできて,レイブパーティーのようなアナーキな感じで楽しい感じがある.この2つのイベントはオンラインで生まれたコミュニティを集めようとするものであり,メンバーのあいだでの対話や意見交換を促すものである.そして.それらはアートをオンラインやアーティストのデスクトップに残しているが,同時にそれら自身がフィジカルな空間に現われている.それらはアーティストにとってとても興奮するオンラインの環境をつくるいくつかのモノとインターネットを打ち解けさせる.それは,コミュニティの感覚であり,DIY的アプローチであり,既存の社会的・制度的構造から外れたところでの機能するアイデアであり,そして,それらがパブリックな場であることである.(p.32) In Between, Domenico Quaranta in Art and the Internet ヤミ市と同様にSpeed ShowとBYOBもともに別のしかたで,これまでにない場をつくっていると言えるが,これらは全く同じなわけではない.ここではBOYBよりも直接的にネットとリアルとの関係を扱っているSpeed Showを取り上げて,ヤミ市との相違点を考えていく.その補助線として,Brad TroemelがBarthollについて書いた「In Us We Trust」をみていきたい.ToremelはBarthollを次のように評している. Aram Barthollはテクノロジーを揺り動かしその眠りから覚ます示唆的な介入をしていくアーティストである.な

#bction #10Fを裏返すことはできなくて,≋wave≋ internet image browsingは裏返すことができるのかもしれない

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≋wave≋ internet image browsing について書こうとして,なかなか書けないでいる.お酒の力を借りないと書けないのかもしれないし,頭のほとんどがインターネットヤミ市を考えているから書けないのかもしれない.Bctionのエキソニモの作品 #bction #10F も≋wave≋ internet image browsingともに書きたいだけれど書けないまま,こちらも会期が終わってしまいそう. Yang02の作品に勝手に触って落書きした人、敬意とモラルを持ってください。 #BCTION pic.twitter.com/8iw3dMQDtt — HouxoQue™ (@QueHouxo) September 5, 2014 今回のYang02の作品への落書きは明らかな破壊行為だし、本当に悲しい。だが、そういうことをする人がいるというのも事実なわけで、それにどう対応していくかが大事やな。 #BCTION — HouxoQue™ (@QueHouxo) September 5, 2014 #bction #10F ではYang02さんの作品への落書きと「レイヤー」の移動ということが気になっている.#bction #10F はいろいろな階を重ねてしまうし,#bction 以外の画像も重なってくるから,単にビルの階層だけではないものが重なりまくっている.そのアナーキーさがいい感じなんだけれど,さらに,いかに重ねまくっても,リアルの展示には何も影響がないというのはちょっと違って,この作品を一回体験するとリアルの展示を見る際にどこか#bction #10Fのための素材としてしまっている意識が生じるという意味ではリアルに作品に影響を与えているが,Yang02さんの作品への落書きのように展示がリアル破壊されなることはない.非破壊的編集という感じである.ヤンツーさんの作品に落書きされてしまったように,リアルでの落書きは破壊的行為なわけだけれども,#bction #10F では非破壊的落書きがやられている.これはアナーキーでかつ平和な感じがする. bctionの展示に落書きというのは10Fと1〜9Fのルールが区別つかなくなってるということかしらん。10Fで遊んでいるとしてしまう気持ちはわからないでもない

ISEA2014ためのインターネットヤミ市の考察(案)

インターネットヤミ市の「ヤミ」は「ブラックマーケット」と「病む」とふたつの意味をもっている.違法のものは売れない明るいブラックマーケットしてのヤミ市.フェティシュで中毒性が高くてどんどん病んでいく,ネットにずぶずぶと入り込んでいくような感覚を示すヤミ市.インターネットに入り込んでいくような感覚なのに,インターネットヤミ市はリアルで行われていて,現地に行かなければ買えない残念なECになっている.もちろん,ここでの「残念」はポジティブな意味である.さやわかさんの『10年代文化論』で示されたポジティブな意味での「残念」感をヤミ市は共有している. その「残念」を示すために,IDPWが選択したのは「turn off, log-out, and drop in on the real world for a change」であった.もともと設定がゆるくて自由であったインターネットが,近頃,窮屈になってきたことから,そこから,コンピュータの電源を切って,ログアウトして,リアルに飛び降りようという感じだろうか.ログインをして自由の世界に行っていたのは全く別のことを行う.そこには,ログオフしてもインターネットの感覚,インターネットっぽさはもう僕たちの身体に入り込んでいるという確信があったのだろう.それは単に「インターネットは自由だ」と言うだけよりも,インターネットを信頼しているし,僕たち自身の感覚も信頼している感じがする.インターネットと身体を信頼することで,お金まみれのカリフォルニア・イデオロギーの「自由」の欺瞞を乗り越えてしまう. インターネットヤミ市はインターネットのゆるい設定に,自身の感覚と身体をインストールして,インターネットとともにあるリアルを書き換えてしまう.そして,ヤミ市はインターネット自体を二次創作していく. つまり,はちゅねミクやネギなどの「残念」な味付けは,このキャラクターは「何でもあり」なのだということを表す記号になっているわけだ.初音ミクはクールなイメージで使ってもいいし,バカバカしいことに使ってもいい.「残念」な要素はそれ自体が持つコミカルな意味以上に,初音ミクが持つ自由な象徴としてあるのだ.(p.71) さやわかさんが初音ミクの設定のゆるさが自由の象徴として,その後の多種多様な表現に結びついたと指摘するように,IDPWはイン

シンポジウムの個人的振り返り

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スライドの PDF .発表の 音声データ . 発表のはじめに「画像は2ないしそれ以上の状態を包含する可変的条件」から「ポスト・インターネットにおける画像について」とタイトルを変更した.でも,先のタイトルはマクルーハンに引きつけられているので,「ポスト・インターネット」と言った方が発表にあっているかなと思ったからですが,今あらためて考えてみると「画像は2ないしそれ以上の状態を包含する可変的条件で成立する」とすればよかったのかなと思う.いや,発表にもでてくるけれど,「画像は2ないしそれ以上の状態[XYZ軸]を包含する可変的条件で成立する」とすればよかったのかもしれない. ポスト・インターネットでの画像はXVY軸で成立している.XYZ軸というのはレイヤー構造をZ軸にするということだけではなくて,そのZ軸というのはこれまでの画像のありかたにあたらしく付け加わった「Instagram」などウェブサービスも含めるような画像のあり方を拡大したものが入る軸と考えればいいだろうか. 帰りのタクシーのなかでインターネット・リアリティ研究会でいっしょの渡邉朋也さんに「水野さんは画像と写真をどのように考えているのですか?」と聞かれた.そのとき,ジャン・ボードリヤールが『消滅の技法』で 写真の強度は,どこまで現実のものを否定し,新しい場面を作り出すことができるか,によって決まる.ある対象[オブジェ]を写真に変換するということは,そこからあらゆる特性をひとつひとつ引き剥がしてくることだ───重さ,立体感,匂,奥行き,時間,連続性,そしてもちろん意味を.このように実在を削ぎ落としていくという代価を払って,イメージは魅惑する力を身につけ,純粋に対象を志向する媒体となり,そしてモノの一層狡猾な誘惑の形態を透かしてみせる.もっとよくしよう,もっとリアルにしよう,つまり,もっとうまくシミュレートしようとして,立体感,動き,感情,観念,意味,欲望等のあらゆる次元をひとつひとつまた付け加えることは,イメージに関する限りまったくの逆行である.しかも,技術そのものまでがここで自縄自縛に陥っている.(p.10) と書いているところから,特性を引き剥がしていって「1」となっているものが「写真」で,次元をひとつひとつ付け加えて「2以上」になっているのが「画像」と答えた.上のXYZ軸と絡

シンポジウム_デジタルメディア時代の視覚と世界変容_スライドGIF

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シンポジウムに関しては こちら

シンポジウムのためのメモ_#BCTION #10F/to.beについて

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日曜のシンポジウム に向けて,画像について考えているのですが,そんなときにexonemoの「 #BCTION #10F 」がはじまったりして,それを体験していたら,少し前から考察したいなと思っていた「 to.be 」というサービスを思い出して,その紹介ビデオを見たり,体験したりしている. 「#BCTION #10F」は3枚までの画像をコラージュしていくもの.「#BCTION」というハッシュタグをつけられてInstagramに上げらていく画像.そこにはInstagramらしさがある画像がたくさんあるというか,InstagramにあげられるとそれだけでInstagramフィルターがかかるか,画像は変化する.それらをコラージュしていく.3枚の重ね順とか透過のさせ方とかは「shuffle」ボタンを押すだけであとはお任せ,できたらツイートするだけ誰でも参加できて,それがまたコラージュされていく.千房さんもFacebookで書いていたけれど,アーティ・ヴィアーカントの「イメージ・オブジェクト」のように画像はリアルの会場とはちがうものなのだけれど,会場を意識してしまう.ただ,僕は「#BCTION #10F」をやろうとして画像を見ているので,リアルの会場への紐付けはあまり感じなかったところが興味深い.3枚の画像でどのようにコラージュをつくるのかというに意識が向かっていたように思える.会場を見てきたら,また意識が変わるのだろうか. ちかごろ「調整レイヤー」の機能がネットとリアルとをつなぐひとつ方法論になるのではないかと考えいたりします.その下にある複数のレイヤーに対して非破壊的に変更を加えることできる「調整レイヤー」.それ自体はピクセル情報もたずに下のレイヤーとの「ちがい」しかもたないレイヤー. 今回の「#BCTION #10F」説明文には, 「BCTIONビルの10階はインターネットだ」という妄想にもとづいて,ハッシュタグの上でおこなわれる展覧会. 誰でも参加できるハッシュタグという仕組みは,同じく誰でも参加できるストリートと等しい条件を備えている. 街の風景を「描き変える」ことから始まったストリートアート. ネット上にあふれるBCTIONのイメージをREMIXして,ネットならではの新しいBCTIONを生み出すことを目指す. 現代のストリートとも

シンポジウムのための抜き書きとメモ

「 シンポジウム_デジタルメディア時代の視覚と世界変容 」のための抜き書きとメモ メディア論,マーシャル・マクルーハン 電気の知識を獲得して以来,われわれはもう原子を物質として語ることはできなくなった.このことは大多数の科学者がはっきりと認識していることである.さらに,電気の放電やエネルギーに関する知識が増すにつれて,電気を水のように電線の中を「流れる」ものだとか,バッテリーの中に「含まれる」ものだとか考える傾向も減ってきている.むしろ,全般的に,電気は画家にとっての空間のようなものだとみなす傾向になる.すなわち,電気は,2ないしそれ以上の物体の特殊な位置関係を包含する可変的条件,とみなすのである.もはや,電気が何かに「含まれる」とする見方はない.画家たちは,かなり以前から,対象物は空間の中に含まれるものではなくて,みずからの空間を生み出すものであることを知っていた.(pp.164-165) Most scientists are quite aware that since we have acquired some knowledge of electricity it is not possible to speak of atoms as pieces of matter. Again, as more is known about electrical "discharges" and energy, there is less and less tendency to speak of electricity as a thing that "flows" like water through a wire, or is "contained" in a battery. Rather, the tendency is to speak of electricity as painters speak of space; namely, that it is a variable condition that involves the special positions of two or more bodies. There is no longer any tendency to

シンポジウム_デジタルメディア時代の視覚と世界変容

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シンポジウムで話します.今年度から勤めている甲南女子大学の同僚の馬場伸彦さんたちと「画像」の話をしたいと考えています.基調講演は港千尋さんで,ディスカッションには新津保建秀さんも参加します. 私の「報告」のタイトル「画像は2ないしそれ以上の状態を包含する可変的条件」 はマクルーハンのメディア論の「オートメーション 生き方の学習」の章に出てくる以下のテキストからもってきたものです. 電気の知識を獲得して以来,われわれはもう原子を物質として語ることはできなくなった.このことは大多数の科学者がはっきりと認識していることである.さらに,電気の放電やエネルギーに関する知識が増すにつれて,電気を水のように電線の中を「流れる」ものだとか,バッテリーの中に「含まれる」ものだとか考える傾向も減ってきている.むしろ,全般的に,電気は画家にとっての空間のようなものだとみなす傾向になる.すなわち, 電気は,2ないしそれ以上の物体の特殊な位置関係を包含する可変的条件,とみなすのである .もはや,電気が何かに「含まれる」とする見方はない.画家たちは,かなり以前から,対象物は空間の中に含まれるものではなくて,みずからの空間を生み出すものであることを知っていた.(pp.164-165) −− テーマ「デジタルメディア時代の視覚と世界変容—写真とその周辺領域において何が起きているのか」 メディアは人間の身体と感覚に大きな影響をもたらしてきた.それは身体の外部を取り囲む「環境」であると同時に,内部の問題である「知覚」と有機的に絡み合っている.メディアは物理的な生活を変化させ,記号を操作し,「世界の意味」を変容させた.つまり世界そのものを変化させてしまう力をメディア/テクノロジーは蓄えていると言えるだろう.デジタルメディアにおける世界変容の本質は何か,それは視覚芸術においてどのような相貌を見せているのか.アナログからデジタルへと移行する過渡期的な現在において,それを考察することは視覚芸術の分野において決して無益ではないと思われる. 開催日時:2014年9月7日(日)13時00分〜17時30分 場所:六甲山YMCA(神戸)〒657-0101 兵庫県 神戸市 灘区六甲山町北六甲875 TEL:078-891-0050 FAX:078-891-0054 [第1部

お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_24

記事を書きました→ Fach & Asendolf Gallery でCèsar Escudero Andaluz氏の《File_Món》が展示中 デスクトップ・リアリティについて考えました.デフォルトの機能・イメージでできることはまだありそうな気がします.また,iPhoneなどのスマートフォンでもこのような作品が出てくるのか,出てきたらとしたらどんな「形式」なのか気になります.

IAMASの「車輪の再発明」プロジェクトから「物質と情報」という二項対立の先を(少し)考える

マテリアライジング展Ⅱ に出品されていた IAMASの「車輪の再発明」プロジェクト は,情報を物質に変換して終わりではなくて,それを再び現象へと変換しているところが良かった. 「物質と情報」という二項対立を繰り返していくと,そこで変わってくるのは「現象」なのではないかと考えさせられた.「物質」と「情報」と「現象」の明確な区切りはわからないけれど,このプロジェクトは「物質と情報」という二項対立の先に行っていた感じがする. カッティングマシーンやIllustratorなどのソフトウェアを組み合わせて「音」という現象を情報と物質の両面から加工して,その結果を「レコード」として提示して,「レコードプレイヤー」で音を「現象」へと変換したものを聴く.物質としてのレコードとここで聴いている「音」そのものは特別にあたらしいものではないかもしれないけど,そこに至るプロセスのなかで「音」という現象のあり方が変化しているように考えられる. LED光源によるや三原色への分解及びその投影と写植文字の投影も,情報がもともと物質に変換されていたものをあたらしい技術によって「現象」へと変換し直していているように思えた.レコードの作品が既存の再生装置における物質と情報との結びつきそのものである「溝」のつくり方をあたらしくすることで,これまでにない「物質−情報−現象」のプロセスをつくりだす方法を試すものだったとすると,LED光源によるプロジェクションのほうは,あたらしい技術でいかに物質から情報を引き剥がして現象にしていくのかの試みといえるだろうか.