再帰のなかで現われるピクセル感_セミトランスペアレント・デザインの「退屈」展(1)
gggで開催されているセミトランスペアレント・デザインの「退屈」展の1階にはモニター,プロジェクターはない.RGBの世界で主に活動してきたセミトラが自らの作品をCMYKに変換している.といっても,これまでつくってきたRGBの作品のスクリーンショットをプリントしているわけではない.
スクリーンショットを拡大して見えてくるピクセルをひとつひとつ絵具に変換している.その変換には多くの時間が掛けられているのだろうし,それは「退屈」な作業だったのではないかと想像される.ウェブサイトはそのままのかたちで展示すると,普段,家で見られるものをわざわざ会場で見ることになり,その体験はとても見る人にとって退屈なものである.だからといって,ウェブサイトを「絵画」に変換されても,それはそれでつくる人にも見る人にも退屈なものになってしまうのではないだろうか.最初にそこにあるものが人の手で描かれたものだと知ったときの驚きはあるだろう.しかし,それを長く見ることがあるだろうか.ウェブがリアル絵画になるとそれはすぐさま比較対象がこれまでに圧倒的な歴史をもつ絵画群のなかでその立ち位置を問われて,リアルの前に敗北して真に退屈なものになってしまう.
セミトラは簡単に敗北しない.セミトラは「退屈」を引き伸ばす.1階のブルーバックの前に掛けられた絵画は,カメラに撮影され,地下1階に送られ,映像として表示される.絵画は低解像度の画像になる.セミトラはRGBのウェブサイトをCYMKへ,そして再びRGBへと次々に変換していく.ピクセルを絵具に置き換えていったヒトの痕跡があたかもなくなったかのように「ピクセル感」が強調化された低解像度の画像が最終的に出力されている.「ピクセル感」というのは物理的なピクセルを示しているわけではなく,その画像が「ピクセルで成り立っているような感じ」というアバウトな意味である.「RGB→CMYK→RGB」という再帰的な流れの果てに「ピクセル感」が現われる.
ブルーバックに合成されているセミトラのアーカイブもそれぞれの作品が徐々にズームアウトされていき,最終的にひとつのピクセルになって,次の作品の一部になるかのような映像になっている.それが「RGB→CMYK→RGB」を示す画像の背景として流れていく.このように今回の「退屈」展は再帰構造が至るところあって,それらが少しずつ重なりああっている.
例えば,下の画像で壁に掛けられたディスプレイとその前にあるカメラからなる画像の暗号・復号化を繰り返す作品(キャプションを撮影し忘れ,タイトルがわからない.「recursive」という単語が入っていたような気がする)もまた再帰構造をとっている.(カメラの後ろに置かれたCRTはセミトラのアーカイブ映像を流しているのだが,カメラとの関係を疑ってしまうような配置になっている.)
画像を入力ソースにして,それに対して暗号・復号を繰り返すことで,元の画像は次々にその見え方を変えていく.私にわかるのディスプレイのこちら側で見えている部分だけであるが,ディスプレイの向こう側で起こっていることも想像してしまってもいる.しかし,その私の想像はそれはとても不確かなものでしかない.コンピュータがどのように作動しているのかはわからないが,その結果としての画像が表示されて,私はそれを見ている.それを見ている私はその画像に美しさを感じるとともに,それを成立させている演算も考えている.
その「美しさ」は,ディスプレイに映る画像がウォーホールのエンパイアステートビルの映画みたいだな(僕はすべてを見たことがない)と思ったことと関係があるのかもしれない.そうすると単に「ウォーホール」という権威のもとでの「美しさ」ということになるかもしれない.いや,ウォーホールの映像に似ているというは単に美術史への接続であって,「美しさ」については何も説明してくれない.ここで映しだされている「ピクセル感」,「ピクセル」を強く意識させる映像に対して「美」を感じる感覚・構造は全くわからないままである.そして,その画像を成立させる「演算」もわからない.画像の「美しさ」には明確な理解がないかもしれないが,演算の部分はコンピュータが作動しなければならないから,それを基準として「確かな」理解というものはありそうな感じがするのだが,私はまったくわからない.
筆者の考えでは再帰とは,もともとヴァーチャルな記号あるいは記号系の中で,在る内容をその内容でなければならないものにする一つの手段である.記号あるいは記号系の仕様を通して内容に意義を注入し,凝固させる一つの手段である.むろん,再帰以外の他の方法でも是態は復旧されようし,何らかの再帰の不動点であるからといって,必ずしもそれが是態を勝ち得るとは限らない.本来,意義とは,実世界に即して獲得されるべきものであろう.しかし,汎記号主義の無根拠な記号世界において意義を生み出さなくてはならないなら,再帰は,それを有せしめる一つの手段であると考えられるのである.(p.164)
記号と再帰:記号論の形式・プログラムの必然,田中久美子
プログラムに関してはほとんどわからない私が,上のテキストを引用することにどんな意味があるのかわからないが,今回のセミトラ展を考えていたときに思い出したのが上のテキストであった.これは私にはわからないディスプレイの向こう側では,「再帰」が「在る内容をその内容でなければならないものにする一つの手段」であるとしたものである.このテキストを読み返したとき,私は「退屈」展で,普段は見ることがないディスプレイの向こう側にある再帰構造を見てきたのではないだろうかと思った.セミトラは「退屈」展で再帰構造を,絵画やディスプレイとその前のカメラといったモノで可視化してくれている.そして,その再帰構造は厳密にプログラミングされているとしても,その再帰が見せてくれるのは1対1対応ではなく,アバウトな視覚体験になっている.「退屈」展で私が見たのは,演算の結果としてディスプレイに明確に表示されていた画像=ピクセルの集合=記号が,セミトラが設定した再帰回路のなかでどこかズレていき,最終的に「ピクセル感」といったものに変化していくプロセスだったと考えることができる.
マウスとカーソルをつかった《6PC 1MC》という作品もあったのだが,それはまた別の機会に考察したい.