メディア映像史 (2025年度水野担当分)の授業資料

 

2025年度、愛知県立芸術大学で行ったメディア映像史で水野が担当回の授業タイトルの表

今年度も愛知県立芸術大学のメディア映像専攻で「メディア映像史」を担当しました。15回中5回を「インターフェイスとともに考えるメディア映像史」という感じで、インターフェイスの歴史を振り返りました。

今年度は、AIを使って授業資料の修正をしていったので、授業全体を貫く理論的な枠組みがだいぶ整理できたと思います。ボームの「内蔵秩序/顕前秩序」と「enfold/unfold」を導入したことで、情報体を固定された実体ではなく、「渦」のような運動のパターンとして語れるようになりました。これによって、入不二基義が『問いを問う』で展開していた「情報」に関する議論をそのまま使うのではなく、自分なりにずらして使う足場ができたと感じています。

2回目では、「合生的行為」と「合生的認知」を明確に定義して、スケッチパッドからマウス、重なるウィンドウまでを「行為が先、認知が後」という流れで一貫させることができました。特に、チャンギージーの「透視仮説」を重なるウィンドウと結びつけたことで、ケイのスローガン「Doing with Images makes Symbols」の読み直しにつながりました。「イメージの操作」は透視仮説に基づく層状の認知であり、「シンボルの生成」は立体視仮説に基づく収斂型の認知である、という対比が見えてきたのは大きかったです。

3回目のカーソル回は、大幅に書き直しました。AIを使うと、自分でやるともったいないな、せっかく書いたのだからと思ってしまうところをバッサリと削除できて感激です。カーソルを「ミニマルセルフの情報的現れ」として位置づけ、物理空間と情報空間を縫い合わせる「縫い針」というメタファーで整理したことで、4回目のiPhone以降の話への接続がスムーズになりました。

4回目は今年度の新しい試みで、カーソルの消失から「自己の宙吊り」を経て、「処理の共同層」という概念を導入しました。スキューモーフィズム→フラットデザイン→マテリアルデザインの変遷を、合生的行為と合生的認知がそれぞれ処理の共同層で最適化されていくプロセスとして読み替えたことで、デザイントレンドの話ではなく、ヒトとコンピュータの関係の変容の話として語れるようになりました。このあたりは、引き続き、考えていきたいことになっています。

5回目では、AIをどうしても扱いたかったし、扱わないといけないだろうということで、大幅に書き直して、Fluid InterfacesとAIを「感覚的リアリティ」と「意味的リアリティ」という2つの経路として対比しました。これは1回目で導入した枠組みが最終回で回収される構成になっていて、全体の見通しがよくなったと思います。ケイのスローガンで抜け落ちた「シンボルの生成」がAIによって別のかたちで実現されつつある、という指摘は、自分でも気に入っています。

全体を通して、昨年度までは「情報体」がまだぼんやりとした概念でしたが、今年度はenfold/unfoldの枠組みと「渦」のイメージで手触りが出てきました。また、「感覚的リアリティ」と「意味的リアリティ」という2つの軸を立てたことで、インターフェイスの歴史とAIの登場を一つの流れで語れるようになりました。mmaiとの対話を授業資料の作成に組み込んだことも、「意味的リアリティ」の実践例として機能していたと思います。

ただ、「情報体を回転の相(モード)として考えていく」ということと、インターフェイスにおける私たちの変化は「行為が先で、認知が後に起こる」という流れを徹底するということは、まだ十分にはできていません。ヒトとコンピュータとが重なり合って行為と意味が回り続ける運動を、自分も回り続けながら、「回り続けている運動」そのものをどのように記述していくのかが、次の課題だと感じています。


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