村本剛毅『Beautiful Medium』への寄稿

村本剛毅『Beautiful Medium』のウェブサイトのスクリーンショット

村本剛毅『Beautiful Medium』に「私は何か大切なことを忘れているような気がする/Something at the core of my being feels absent」を寄稿しました。

村本さんの《Imagraph》体験をもとに、〈視界〉と「視界」という二つの言葉で見るということを考えました。テキストを翻訳する過程で、視界の区別を明確する必要が出てきたため、〈視界〉=vision-after-seeing、「視界」=vision-before-seeing となりました。

英語で視界の区別を明確にして、vision-before-seeing と書いたときに、わたしは不思議な体験をしました。自分が見ているものから「見る」ということがなくなったのです。わたしの主観的な〈視界〉でもなく、スマホなどデバイスが世界を記録した[視界]でもない、ただの「視界」というものがあって、そこではわたしなしで「見る」ことが起こっているのではと感じたのです。とても怖くなりました。それは「世界が剥がれておちていく感じ」で、世界の底に触れてしまった、という感覚でした。

そのとき、村本さんの個展で《Training Wheels》を体験したときには、どうしてもそれをイメージすることができなかった「(これを通して、)見なさい、何もないと信じながら/ (Through this,)See, while believing that there is nothing.)を、わたしはとても強いリアリティを伴って、理解できてしまったのです。その理解とともに、わたしはわたしというものではなくなって、世界も世界ではなくなって、力となってしまったような気がしました。強烈な体験でした。

そのような体験をわたしにもたらしたテキストを掲載されている『Beautiful Medium』は、村本さんのサイトから購入できます。ぜひ、読んでみてください。

以下、わたしのテキストの読みどころです。

わたしたちは「見ている」のか、「見せられている」のか——村本剛毅《Imagraph》の体験から、「見ること」の根源を考えました

瞼を閉じているのに、映像が見える。村本剛毅さんの作品《Imagraph》は、閉じた瞼に光ファイバーで映像を直接投影する作品です。わたしはこの作品を二度体験し、「見ること」の根源について一本のテキストを書きました。

このテキストの核心は、二つの「視界」の区別にあります。

一つは〈視界〉=vision-after-seeing。わたしたちが日常的に依拠している、身体・記憶・言語・行為の可能性と結びついた、安定した「わたしの世界」としての視覚体験です。美術館で絵画との距離を測り、映画館でポップコーンの匂いを感じながらスクリーンを見る──そのとき機能しているのが〈視界〉です。

もう一つは「視界」=vision-before-seeing。「見る」という行為が確立する以前の、意味も主体も持たない、光と色の奔流そのものです。《Imagraph》がわたしに垣間見せたのは、この忘却された層でした。

二度目の体験が暴いた「記憶の嘘」

特に読んでほしいのは、わたしが二度目の《Imagraph》体験で気づいた決定的な差異についてです。初回の体験後、わたしの記憶の中で色彩の平面にいつのまにか「空間」が付与されてしまっていました──つまり、〈視界〉が「視界」を事後的に書き換えていたのです。わたしたちの認知システムは、行為の可能性を前提とする空間の中に生きているがゆえに、イメージを純粋な平面のまま保持できません。この発見が、テキスト全体を駆動する問いへと展開していきます。

身体が「弾き出される」瞬間

《Imagraph》の体験中、わたしの手は見えず、瞼を閉じてリセットすることもできず、フレームも消失します。〈視界〉を支えていた身体的な構えが根こそぎ剥奪されたとき、身体はシステムから弾き出された異物と化し、その重さだけを主張する根源的なマテリアルへと還元されます。身体が「ないもの」ではなく、かつてないほど「あるもの」として意識される──この矛盾の記述は、自分でも手応えのあるところです。

瞬きが世界を生む

さらにテキストでは、「視界」から〈視界〉への移行を、進化史と個人の発達史の両面から追っています。瞬きという何気ない行為が、連続した光の流れに「切れ目」を入れ、「世界」と「見るわたし」を同時に生み出す根源的な運動であること。そして、この天文学的な反復によって「視界」が忘却の彼方へ追いやられ、わたしたちが安定した〈視界〉の主となること──ここは、知覚についての常識を静かに覆せたのではないかと思っています。

潜在無限色としてのグレー

体験の冒頭でつくりだされるグレーの平面を、入不二基義さんの「潜在無限色」の概念を通じて読み解いたくだりも、ぜひ読んでほしいです。あらゆる色彩の可能性を含み込んで潰した、「視界」の始まりとしての特別なグレー。わたしたちの視覚は、このグレーから始まっています。

「私たちは、世界があるから見るのだと信じ込んでいる。しかし、そうではない。私たちが見るから、世界は現れるのだ」──このテキストは、見ることの根源に触れようとする、言葉を使った果敢な試みになったと、わたしは思っています。

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