日本映像学会第51回大会での発表:『映像そのもの』という何かを感じ始める

「映像そのもの」という何かを感じ始めるのサイトの画像

5月30日(土)に、愛知淑徳大学で開かれた日本映像学会の大会で、「『映像そのもの』という何かを感じ始める:古澤龍・大原崇嘉の映像とともに生じる体験を記述する」という発表をしてきました。古澤龍さんの《Mid Tide #3》と大原崇嘉さんの《Hyle(s)》という二つの映像インスタレーションの前で、わたしに起きていたことを記述する、という発表です。

発表という行為そのものが、わたしが発表で話そうとしていたことのパフォーマンスになっていて、研究報告とは異なるものになったと思う。「それでいいのか?」ということは考えつつも、やり切った感じはあります。近頃、研究をしている「わたし」というものを考えないと、研究ができないというか、自分にとってのリアリティがなくて、研究が進められない感じになっています。

そんなこともあって、今回は発表原稿を用意して、「読み上げる」という方法にしました。「パフォーマンス」なのに「読み上げ」というのは矛盾しているような気もしますが、セリフを覚えて、演じるという感じで、しっかりとした台本が必要でした。最後まで大きな変更もなく読み上げられたのですが、「結論」は発表原稿とは異なることを言ってしまいました。それもまたリアルタイムで起こるパフォーマンスということで良かったと思いつつも、最後までやり通せなかったことを残念にも思っています。

パフォーマンスのような発表をするために、発表のあいだ、スクリーンには発表用のWEBを映していて、その背景には大原さんと古澤さんの作品映像や参照作品の映像をループで流し続けました。お二人に提供してもらった映像データや、Vimeoのループ再生に黒背景で表示して、始まりも終わりもなく、ただ流れている状態をつくりました。HTMLは、AIに書いてもらいました。わたしはただ指示したり、こうしてほしいなというだけで、どんどん形になっていくのは、面白かったです。テキストを共同で書くのとは異なる感触がありました。

わたしの読み上げと、AIが作ったサイトのあいだで、口頭で読み上げられるテキストとループで流れている映像とが、合ったり合わなかったりしていきました。発表時は、映像の進行にあわせて、つい、原稿に書かれていないことを話してしまいましたが、今から思うと、読み上げに徹したほうがズレが面白かったかなと思っています。しかし、最後に原稿とは違うことを言ってしまったのは、単に自分が台本を守れなかったということではなく、読み上げているわたしと、背後で流れ続ける映像と、会場の空気とが、その場で別の結論を生成してしまったようにも感じています。その結論を生成したのが、わたしだけではないということは確かです。わたしは、わたしを含んだ現象が生成した思考を、文字列として口にしたにすぎません。

最後に、発表の原稿、発表用WEB、関連する資料などのデータを、下記で共有します。

映像学会発表「映像そのもの」関連データ(Dropbox) 

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