映像から離れていっている

大名古屋電脳博覧会に行って,伊藤明倫さんの《波打つ大地,吹き抜ける瞬き》を見てきた.これは伊藤さんが去年の同じ時期に同じ場所で展示した作品《瞬きの中,瞬きの外》と同じ原理を作った作品です.今回の作品へのTextから引用します.
作品へのText1  
このインスタレーション作品は,モニターの映像が Fade In, Out することによって生じる明るさの明滅が照明代わりになり,壁に貼られた写真作品を見ることができる,それらの空間的要素すべてを含めた作品となっています.        
このような構造になっていることから考えられるのは,発光体で光るモニターによって,反射光としてしか認知できない写真が表層してくるという入り組んだ構造である事と,モニターは映像を見せる為に光るのであり,それが照明として機能してしまうことは副次的,もしくは本来意図していない現象であるということなどが上げられます.  
展示室に入ると,暗い.その先に,液晶ディスプレイが2台.見る人に背面を見せて,向こう側の壁に向かって光を放っている.光は一定ではなく,不規則に明滅している.明滅する光によって,壁に張られている写真が見える.鳥の写真.ディスプレイと向かい合っている壁,その両脇の壁にも鳥の写真が貼られている.明滅する光の中で写真を見る.

部屋に光を生み出しているディスプレイの黒い背面を見つめる.この黒い物体の壁に面している平面は発光している.黒い物体から発光する光.それが何を示しているのかは,後ろからでは分からない.ただ光っている.それはただの光でしかない.それが写真を見えるようにして,そこに鳥が写っていることを示していくれる.回りこんでディスプレイに発光する面を見てみる.水面が映っている.波が映っている.波が太陽の光を反射している.もしくは光る波.反射光をカメラが捉え,ディスプレイは自ら発光する.

この作品をしばらく見ていると,そこにはただの光があると思えた.ディスプレイという「何か」を表示する装置だけれども,そして実際に波を映しているのだけれども,背面から見ていると,そこにはただの光しかない.光の明滅しかない.2011年3月11日から9ヶ月たった今でも,波は津波を意識させる.波でなくても,水を使うことは津波を意識させる.大地震,津波,そして天高く飛ぶ鳥たち.物語が生まれる.

しかし,物語が生まれる寸前のところで,伊藤の作品は,ディスプレイの裏側をみせることで,そこにただの光しかない状態になる,と私は思った.物語は生まれるかもしれない,けれど,私にとっては,その寸前で「ただの光」になる.そして液晶ディスプレイ,写真と「映像」を用いていながら,この作品は「映像」から遠く離れていく.液晶ディスプレイの黒い背面から漏れ出る光の明滅.明滅する光と,広い空間.その先には波があり,鳥がいて,大地がある.しかし,ここには光しかない.光にとどまっている.その先に物語を想起させるがゆえに,光にとどまれるのかもしれない.

クワクボリョウタさんの《10番目の感傷(点・線・面)》が光と影をつかって「映像」を作り出していたとすれば,明滅する光をつかう伊藤さんの作品は何を生み出しているのであろうか.「空間」を生み出している.空間の広さを作り出していく.物語の寸前にある空間がここに出来上がろうとしているのかもしれない.
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ここまで書いてきて,そして作品を見ているときにも思ったことなのですが,伊藤さんの作品は映像を扱いながら,映像から離れていっているという感じがする.映像のまわりにあるものを削ぎ落して,ソリッドにしていった後に,現れるものといったらいいのかもしれない.

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