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インターフェイスのなかのスピリチュアル=「概念としての猿」は解き放たれた

エキソニモの個展「 エキソニモの「猿へ」 」の最後の作品.iPadで「宇宙」がめくられ続ける.「宇宙」がめくられる.それも延々とめくられる.それは誰がめくっているのか? エキソニモの作品はヒトから離れ,コンピュータからも離れ,「 概念としての猿 」へと向かっていっているのか. 「概念としての猿」というのは,生物学的な猿ではなくて,ヒトとコンピュータとのあいだにあり続けたインターフェイスに生じた「スピリチュアル」な領域なのではないか.表層と深層(コード)を自由に行き来してきたエキソニモは,ヒトとコンピュータとの膨大なやり取りが世界中で行なわれているインターフェイスに「概念としての猿」が生まれた,あるいはもともと存在していたことに気づいた.それは「スピリチュアル」な領域であって,そのまま出せば「あぶない」とされる.だから,エキソニモは「概念としての猿」を表層とコードとがせめぎ合う場所=インターフェイスに閉じ込めたのではないか.あるいは,インターフェイスにおけるスピリチュアルの存在を確かめるために連作「ゴットは、存在する。」をつくったのではないか. しかし,今回の作品《神、ヒト、BOT》で,エキソニモは表層とコードのバランスを崩しているように思われる.意図的ではなくて,崩れてしまったのかもしれない.表層とコードが引き離され,そこにいたスピリチュアルな存在としての「概念としての猿」が最大化された状態でディスプレイに映る.最大化された「概念としての猿」とバランスをとるようにBOTとしての地球が置かれた.それはきっとヒトのリアリティに作品を繋ぎ止めるために必要だった.「概念としての猿」という表層は光るヒトと塗りつぶされたディスプレイによって最大化され,それとバランスをとるようにコードは地球をBOT化した.しかし,それらはもう密着していない.離れている.インターフェイスのなかのスピリチュアル=「概念としての猿」は解き放たれた.エキソニモは「概念としての猿」とともにどこに行くのだろうか.とても楽しみである.

「エキソニモの『猿へ』」を見てきた(1):「1999」と全体の流れを考えてみた

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「エキソニモの『 猿へ 』」を見てきた.考えるべきところはたくさんあって,ひとつひとつ潰していくと次の「風景」が見えてくる感じがする. 最初の狭い通路.期待感を持たせるし,「ナローバンド」という言葉とも結びつけられる.狭く長いからこそ「ネット」のオリジナリティが今よりもあったのかもしれない.狭い通路の先で回り続ける「地球」はネットがよりネットだったときの象徴としてあるのかもしれない.そして,そこで語られるエキソニモのステートメント.インターネットを手に入れた人類とその急激な進化は,ネットそのものの変化でもあった. ステートメントの先には「1999」という文字が床にある.今から14年前の風景.次のセクションは「2005」で,その次が「2009」.「1999−2005」のあいだで,ネットは一般化していってひとつの風景になった.このセクションにはみんながつくった RGBのきらめき がプロジェクションされ, ネット上の構造=意味が剥奪された画像が飛びかっている .このあたりはとても「今」を感じさせる.それは集合知やその反対といってはあれだけれどもタガが外れてしまった「集合愚」にもなりうるような麻薬のような効果をもった「インターネット」を感じさせるという意味での「今」. そして, Googleの検索窓がひとつの風景だった時代 を示す絵画の展示.ブラウザのアドレスバーが検索窓になってしまった現在では,Googleの検索窓の風景は誰もがよく見る風景ではなくなっているとともに,絵画に描かれた「Internet Explorerの窓枠を含めた風景」そのものも,ブラウザのアップデートとGoogleのデザイン変更によってなくなってしまった.なので,この絵画に描かれた誰もが同じデザインを見ていた時代が懐かしい.風景は消滅したが,それを「撮影」したスクリーンキャプチャーの画像は存在し,その画像が中国に送られ人力APIとしての絵師によって「絵画」に変換され展示されている.だがこの絵画は「レプリカ」である.この作品でオリジナルとされる絵画はGoogleに所蔵され,一般の人は余程のことがない限り見ることができない状態にある.しかし,もともとが誰もが見る風景の「スクリーンショット」であり,それを「絵画」にするということでは,オリジナルもレプリカもないのではないだろうか.も...