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2021~23年度科研費「生命の物質化・物質の生命化に関する理論調査と制作実践」成果報告会

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九州福岡で科研の成果報告会に参加します🥸   私のメインは永田康祐さんの「一杯のお茶から: ノーマ京都とコンプレックス・シンプリシティ」を読んで,食べていないのにノーマ京都の料理を感じて,テキストの執筆者にその感じを話すというところです🍽️

写真研究会 2019年 第4回研究発表会で発表します.

2019年9月23日(月祝) @愛知県美術館で開催される「写真研究会 2019年 第4回研究発表会」で発表します.発表タイトルは「 「写真の「向こう側」を考える 」です.発表原稿を読み上げつつ,リンクを開いて説明するというスタイルで発表していくと思います🧐 よろしくお願いします🙏 以下, 日本映像学 会のページでの告知です. ****************************** 日本映像学会 写真研究会 2019年 第4回研究発表会開催のお知らせ ****************************** 日本映像学会会員各位 写真研究会の研究発表会を下記のとおり開催致します。 皆様のご来場をお待ちしております。 日本映像学会写真研究会 代表 前川 修 【日時】 2019年9月23日(月祝) 13:30開始 18:00終了予定 発表後に質疑応答の時間があります。 【会場】 〒461-0005 愛知県名古屋市東区東桜1丁目13−2  愛知芸術文化センター 12階 アートスペースEF 交通アクセス: https://www.aac.pref.aichi.jp/access.html 【発表者・発表内容】 発表1 「1976年日本におけるオリジナル・プリントの問題―深瀬昌久の活動を通して」 ヴォワイヨ・エリーズ(フランス国立東洋言語文化学院(Inalco)博士課程、東京大学特別研究学生) 発表2 「ロイヤリティーフリー・アート?——オンライン・ストックフォトと写真作品」 永田康祐(東京藝術大学大学院映像研究科博士後期課程) 発表3 「写真の「向こう側」を考える」 水野勝仁 (甲南女子大学文学部メディア表現学科) ====================================== 【発表要旨】 1976年日本におけるオリジナル・プリントの問題―深瀬昌久の活動を通して ヴォワイヨ・エリーズ (フランス国立東洋言語文化学院(Inalco)博士課程、東京大学特別研究学生) 従来、写真家深瀬昌久 (1934-2012)の作品は「私写真」という観点から論じられてきた。彼のもっとも有名なシリーズ『鴉』は1976年に制作が開始されたが、それらの写真は同年に離婚した彼の孤独の表象とし...

恵比寿映像祭レビュー_触れ合うことがつくる不可視な場

第10回 恵比寿映像祭 「Mapping the Invisible[インヴィジブル]」のレビュー「 触れ合うことがつくる不可視な場 」を書きました. このレビューは,展示冒頭のラファエル・ローゼンダールのレンチキュラーの作品からポール・シャリッツ《Shutter Interface》への流れが興味深いと考え,それがなぜなのかを永田康祐の《Sierra》が示す「インターフェイスの可触性」という観点から考えたものです.また,シャリッツの《Shutter Interface》でスツールが映写機とスクリーンを横から見える位置にソファーが置かれていたことも気になっていて,そこから,コンピュータがもたらしたインターフェイス以前/以後を考えるテキストにもなっていると思います. このテキストを書いているときに公開された長谷川新による「 ヴィジブルなものたち 」では,ローゼンダールからシャリッツへの流れは,私が書いたものとは異なる解釈で書かれています.一つのレビューで明確に見えたものの裏で「インヴィジブル」になったものが,二つのレビューを読んだ人には見えてくるはずです.ぜひ,二つ合わせてお読みください.

2017年の振り返り

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ところどころズレたりアドレスバーが出たりしますが,アドレスバーをもっと見てもいいかもしれない🤥 2017年にはこの投稿を含めて28本の記事を書いています.2016年が35本だったから,結構減ってしまっています.こうやってブログを書く回数が減ってくると「来年こそは増やすぞ💪」と書くところですが,このくらいのペースを守るような感じで無理せずに続けていこうと思っています👻 2017年は二つの連載をしていました.一つは MASSAGE で「モノとディスプレイとの重なり」で,もう一つは ÉKRITS で「インターフェイスを読む」です. MASSAGEの連載「モノとディスプレイとの重なり」を12回目まで書いて,ひとまず第一部終了としました.編集の庄野さん,読んでくれた皆さま,ありがとうございました😚 現在,次の連載をどうするか考え中です.おそらく,タイトルが変わります. MASSAGE連載08_ディスプレイ周囲で癒着する光とモノとがつくる曖昧な風景───永田康祐《Inbetween》について MASSAGE連載09_小林椋《盛るとのるソー》 ディスプレイを基点に映像とモノのあらたな「画面」状態をつくる MASSAGE連載10_谷口暁彦《夜だけど日食》と《透明感》@「超・いま・ここ」/ ディスプレイを軸に畳み込まれ、重なり合う複数の空間 MASSAGE連載11_光/絵具で塗りつぶされたディスプレイ エキソニモ 《201704EOF》、《A Sunday afternoon》 MASSAGE連載12_ディスプレイなきディスプレイ場/ラファエル・ローゼンダール《Shadow Objects》 ÉKRITSの連載「インターフェイスを読む」は第3回目まで終えています.こちらは,博論のときから継続的に考察しているインターフェイス論をアップデートしています.1月はじめに第4回目が公開される予定です.こちらも,編集部の浅野さん,大林さん,読んでくれた皆さま,ありがとうございました😚 ÉKRITS連載_最小化するヒトの行為とあらたな手 - インターフェイスを読む #1  ÉKRITS連載_スケッチパッドで「合生」される世界 - インターフェイスを読む #2 ÉKRITS連載_GUIが折り重ねる「イメージの操作/シンボル...

告知:第4回新視覚芸術研究会「デジタル時代の次元の折り重なり」【追記_2017/08/08】

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8月19日(土)に京都の メディアショップ で第4回新視覚芸術研究会を開催します.今回のテーマは「デジタル時代の次元の折り重なり」で,ゲストはアーティストの 永田康祐 さんです.「次元の折り重なり」という言葉は,永田さんの作品から考えました. [これまでの新視覚芸術研究会→ http://touch-touch-touch.blogspot.jp/search/label/新視覚芸術研究会 ] まだ,発表のタイトルや概要も決まっていないのですが,決まり次第,追記していきます🙇🙇🙇 ➡️ 概要後にタイムスケジュールと概要を載せました✨ フライヤー( PDF )には物理的な制限でテーマの概要のショートバージョンが掲載されています.ここにロングバージョンを載せておきます. −− 概要ロングバージョン ヒトは三次元の物理空間を絵画や写真といった二次元の平面に変換してきた.次元の折り重ねが最も成功したのは,ボタン一つで撮影できる写真であろう.写真は三次元を二次元に落とし込み,二次元のなかに三次元を見せる.写真の平面には二次元と三次元とが折り重なっている.そして,20世紀はまさに写真と映画とが見せる次元の折り重ねを見続け,考え続ける時代であった. 20世紀後半にテレビ,そして,コンピュータが登場し,写真・映画の次元の折り重ねに変化が起きた.テレビは三次元を一次元の電気の流れに,コンピュータは三次元を一次元の情報の流れにした.三次元から一次元へと変換され,写真・映画がもつ世界をそのまま写し取るインデックス性が曖昧になった.しかし,コンピュータは写真や映画に擬態して,世界をそのまま写し取っているように見せている.あるいは,写真・映画のインデックスを保持しようとコンピュータがプログラムされていると言ったほうがいいのかもしれない.コンピュータはインデックス性を絶対的なものとしないため,どんなものにも擬態できるのである. コンピュータ科学者のアラン・ケイは,「Doing with Images makes Symbols(イメージを操作してシンボルをつくる)」というスローガンを掲げて,コンピュータの画面のほとんどを占めているグラフィカル・ユーザ・インターフェイス(GUI)を完成させた.コンピュータにはプログラムというシンボルとディスプレイ上の...

Surfin' に見たふたつのデスクトップ───永田康祐《Sierra》と山形一生《Desktop》

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Surfin' を見てきた.永田さんの《Sierra》は「乱層のデスクトップ」という感じ,と書いてみて,すぐに「乱層」ではないなと思った.平面の重なりで,デスクトップという普段は静止画のところに動画が流れることで,ひとつ土台が崩れるというか,デスクトップが平面ではなく映像となることで,前提が崩れるというか,メニューバーやドックの奥にデスクトップがあることが,もうひとつだけ奥に行っているような感じがした.何が言いたいかというと,「デスクトップ」という平面が無効化されて,その奥に映像が流れていると感じたということなんだろう.「デスクトップ」がなくなってしまっている.けれど,その他のカーソルやウィンドウは通常通りである.だからこそ,少し感覚が狂う感じがある.失われた地面の上で通常通りの行為を行うという感じだろうか.永田さんの作品によく感じる平面がパラレルに重なっていく感じを,ディスプレイのデスクトップを基準に,その前面と背面でミニマルに行なっている感じがした.となると,それはディスプレイのデスクトップという平面での前面と背面との重なりが強調されると同時に,ディスプレイというモノとそれが置かれた空間における3次元的な重なり,ディスプレイとその裏側に置かれたMac Pro,ディスプレイ下からケーブルが伸びるヘッドフォン,もうひとつの平面であるトラックパッド,そして,それらを操作するヒト,ヒトがいる展示空間といったものが平面的に重なり合っている感じがでてくる.そこでは,ディスプレイのデスクトップ基点の重なりが確かにあると感じつつも,その重なりがあやふやになっているので,3次元空間で起こるモノの重なりが不思議に思えてくる.3次元を投影したデスクトップという2次元が消え去って,その重なりがあやふやに強調されて3次元的になって,その感覚が3次元に投影されるなかで,次元が折り重なるというか,2次元と3次元とが等価に投影し合うというありえない状態が生まれているのかもしれない. 永田さんの《Sierra》を見た後に,けど,この重なりは時間差で起こっている感じがある.机の上に形成された「痕跡」が,おそらく,かつて,そこに垂直に近い角度で「デスクトップ」が表示されていたことを示している.作品にはディスプレイはないけれど,ノートパソコンが置かれていただろう痕跡から,ディ...

ディスプレイと物理世界との重ね合わせと物理世界から外れたディスプレイ:「一枚の絵の力」の永田さんと山形さん

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花房太一 さんが展示アドバイザーとして関わっている「 一枚の絵の力 」に 永田康祐 さんと 山形一生 さんの作品を見に行った.永田さんと山形さんともにディスプレイを用いた作品をつくっていて,それを見ていて,考えたのは,永田さんはディスプレイの外にレイヤーをつくるというか,ディスプレイのなかだけで映像が完結しないというか,外に伸びていく感じがあるということ.これはこれまで「 モノとディスプレイとの重なり 」で書いていたことでもある.今回の新作はそれがきれいなかたちででていて,もはや具体的な像ではなく,単にグラデーションの光となった映像とその上の水のレイヤーとの重なりがきれいだった.光と水,水の色とグラデーションの光とが混ざりあって.ディスプレイの光に水の色の情報が重ね合わされていく感じ. 前回の個展よりもディスプレイとその前の空間に置かれたモノ=水+アクリル(?)の水槽とが密着している感じがあったことと,ディスプレイが映しているのがグラデーションの映像だからか,どこか前回の個展でエアキャップにくるまれて壁に立てかけられた作品を強く思い出した.映像が具体的なものではないということが強く影響しているのかもしれない.あと,ディスプレイの表示面すべてにモノが重なっているからかもしれない.表示面すべてが被われていることも相まって,モノの輪郭を明確に示すことがない映像は単にディスプレイが光っているようにも見える.けれど,それもまたひとつの情報のあらわれであって,ディスプレイから放射される光は色の情報を示しているという点では,それが具体的な何かを示していようがいまいが関係ない.ディスプレイは光を放ち,その光はモノを通過していき,ヒトの網膜にあたる.このとき,ディスプレイはひとつの面であり,モノも面であり,網膜も面である.どこがインターフェイスかということを考えていると,それぞれがインターフェイスであって,これら複数のインターフェイスが包み込んでいるモノやヒトが同時に存在している場のあり方を考えることが重要なのだろうなと思う. 山形さんの作品には,郷治竜之介さんとの二人展「 optical camouflage 」のときから気になっていた「ディスプレイの内側」ということが,今回のエイの作品にも感じられた.エイの作品はディスプレイの外側に水が少し入ったペッ...

MASSAGE連載08_ディスプレイ周囲で癒着する光とモノとがつくる曖昧な風景───永田康祐《Inbetween》について

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MASSAGE での連載「モノとディスプレイとの重なり」の第8回「 ディスプレイ周囲で癒着する光とモノとがつくる曖昧な風景───永田康祐《Inbetween》について 」が公開されました. 今回も前回に引き続き,永田康祐さんの作品を考察しました.けれど,前回は水平に置かれたディスプレイでしたが,今回は主に垂直に設置されたディスプレイについてです.ディスプレイの光とモノとそのあいだの空間について書いています.最後の節は,それがひっくり返る感じです. 引き続き,よろしくお願いします😊😊😊

出張報告書_20170128:Malformed Objectsと他者を理解するためのオカルト

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28日は7時過ぎに自宅を出発し,新大阪を経由して品川に行き,そこか天王洲の倉庫街にあるギャラリー山本現代まで歩いて,「Malformed Objects − 無数の異なる身体のためのブリコラージュ」という展示を見た.「Malformed Objects」は,現代思想やインターネットの感覚を多様に取り込んだ考察や展覧会企画を行う上妻世海によってキュレーションされた展示である.ギャラリーに入ると,台の上に紙が置いてある.それは通常の作品解説ではなく,鑑賞者への指示書になっている.指示書の最初には,先程降りたエレベーターにもう一度乗るようにと書かれていた.私は面倒なので,その指示は無視した.指示は必ずしも従う必要はないと指示書に書かれていた.しかし,指示書に従わない場合は,「観察者」として扱われる.指示書に従った場合は「制作者」として扱われる.この指示書は,作品と鑑賞者の相互作用を「制作」と考えようとする上妻の考えを反映したものである. 指示書は特別なことが書いてあるわけではく,作品を見る順番とその見方が簡潔に書かれている.私は普段,解説を読みながら作品を見ないので,テキストを読みながら作品を見るという行為自体が煩わしくも,新鮮であった.けれど,一番の驚きは,指示書に従って最後まで見たあとに,指示書に「以降電子機器を開くことが出来る」と書かれていたことである.電子機器についての記述はそれまでひとつもなかったので,私はiPhoneで写真を撮りまくっていたのである.電子機器の使用までは指示されていないだろうと勝手に思っていたのである.鑑賞のはじめに,ギャラリーのスタッフに「写真とってもいいですか?」と聞き,「いいですよ」と返事をもらっていたので,まさか電子機器についての指示があるとは思わなかったのである.それほど,電子機器は私という身体から離すことができないもので,許可されているならばiPhoneで写真を撮るというのは「見る」という鑑賞行為の一部になっていたことに,上妻の指示から気づいたのである. 池田剛介《Translated Painting》シリーズ 永田康祐《Function Composition》 作品で興味深かったのは,池田剛介の《Translated Painting》シリーズと,永田康祐の《Function Composition》...

MASSAGE連載07_水平に置かれたディスプレイが物理世界のルールを上書きする───永田康祐《Translation #1》について

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MASSAGE での連載「モノとディスプレイとの重なり」の第7回「 水平 に置かれたディスプレイが物理世界のルールを上書きする─── 永田康祐《Translation #1》について 」が公開されました.iPhoneの上に🐸が乗っています.このことは本文と関係があります. 今回考察した永田さんの作品にはいつもクリーンさを感じていて,いつかGoogleマテリアルデザインと対比してみたいと考えていました.なので,永田さんの作品をインターフェイスのデザインに引きつけて書いています. 引き続き,よろしくお願いします😊😊😊

ジョルジョ・モランディ展@兵庫県立美術館

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モランディは影のつけ方とかを物理世界の認識を細かくパラメータ化して,その値を細かく変化させて描いたと考えると面白い.そして,パラメータの値が物理世界の閾値を超え得てしまうことがもっと面白い.見えているものが真実だったけれど,描くことは見えていることを超えたパラメータ設定ができる.絵を色の塊とみなして抽象化にいくのではなく,あくまでも物理世界と緊密な関係をもったパラメータの集合とみなすことで具体にとどまりながらも,しばしばパラメータの値が物理世界の閾値を超えてしまって抽象的な表現も生まれていた.晩年や制作の危機に陥ったときには,パラメータは物理世界を振り切ったというか,物理世界が物理世界であることを示す輪郭が揺らいだようになっていた. そんなことを考えたのは,モランディを見ながら谷口さんとか永田さんなどの3Dシミュレーションを使った作品ことを意識していたからでした.最初はモランディにあまり興味はなかったのですが,見ているとどこか「3Dっぽい」感じして,それからはもっぱらモノと影の関係に引きこまれて,とても楽しく見ていました.最後には図録も買ってしまった.

出張報告書_12/18-20(別紙)_「どうにでもなる」がゆえに「もう,どっちでもいいよ」とは言えない世界

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撮影:永田康祐 出張報告書_12/18-20(別紙)は,東京・八丁堀の milkyeast で開催された展覧会「無条件修復 第III期」に展示されていた永田康祐の作品を考察したものである.永田の作品は3つあり,それぞれ《裂かれた紙の写真》《4つのオブジェクトによるコンポジション》《石の上に木を落とす/木の上に石を落とす》というタイトルであった. 《裂かれた紙の写真》は,紙の中心あたりで下から中ほどまで裂かれた方眼紙を撮影した画像をプリントされた紙も裂かれた方眼紙と重なるように裂かれている作品である.撮影された方眼紙も裂かれていて,その支持体となる紙も裂かれている.展覧会のタイトルである《無条件修復》から考えると,支持体の紙を修復すれば,撮影された方眼紙も修復されるように思ってしまうが,そうはならない.支持体の紙を完璧に修復すればするほど,方眼紙の裂け目が鮮明に見えてくるだろう.当たり前だが,支持体の紙が保持しているのは「裂かれた紙」だからである.支持体の紙が裂かれているから,物質としての裂け目がイメージとして保持されている方眼紙の裂け目を「修復」していると言うのは言い過ぎかもしれないけれど,それを見えにくくしていることは確かである. 撮影:永田康祐 さらに《裂かれた紙の写真》で興味深いのは,支持体の紙がクリップで挟まれて,そのクリップが釘で留められた状態で展示されていることである.物体としての紙がクリップに挟まれているのに対して,紙にプリントされた方眼紙は釘で直接壁に打ち付けられた状態を撮影されている.方眼紙の支持体となっている紙には余白があって,そこに釘を打ち付けて,展示することもできそうではあるが,永田は紙をクリップで留めて作品を展示する.クリップで挟まれる紙という現象は,紙には表と裏があることを示し,支持体の紙をイメージの方眼紙から引き離し,それがモノであるという当たり前のことを強調する. 《裂かれた紙の写真》ではイメージの方眼紙と支持体のプリント用紙に物質的なちがいはある.しかし,それらは「紙」という言葉で括られる認識において,同一の物性を見ている人に与える.それゆえに,「紙」という物性で2種類の紙は重なりあって,方眼紙とプリント用紙の物質的なちがいは前面にはでてこない.対して,《4つのオブジェクトによるコンポジショ...