投稿

7月, 2010の投稿を表示しています

100731 深夜の「平面|データ|立体」に関するメモ

平面|データ|立体 藤幡正樹はコンピュータ内のデータを中心として平面と立体とのあいだを行き来する. コンピュータの中では,データの記述が「形」を決める.それは3次元のデータを持っている.しかし,それを現実の世界に出力するには,当時は紙への印刷しかなかった.それは立体が平面に切り取られることを意味していた. データが3次元で記述されているのに出力が2次元になってしまうことに苛立ち,そのままの「形」でこちら側に引っ張り出した作品が《禁断の果実》である. 藤幡はデータの履歴を「形をめぐる探検隊が残した地図」と呼ぶ.コンピュータとともに形を探った出来事が2次元化される.それは「コンピュータに対して行われたすべての行為の時間軸を忘れさせるようなかたちで,フラットにして見せてくれている」ものである. データの記述は3次元であるのに対して,それを行うヒトの行為は2次元で記録されている.オブジェは立体になろうなろうとし,それに平面で記録されるヒトの行為が密着している. 「形」をめぐる行為と出来事は,多くの選択によって成り立っている.その行為・出来事を選ぶか,選ばないかの積み重ね.ある形が生じたとして,その形に至る選択の真偽をめぐる選択が多くの行われる.ここにはコードはない.今だ見知らぬ土地で,経験したことがない出来事が起こり,その真偽を毎回手探りで探っていかなければならない.そんな行為と出来事の履歴の集まりが平面を作る.その平面から,多くの立体が生まれる. データ(の記述)を中心として,立体と平面とのあいだを行き来するなかで,「形」が出来上がっていく. 言語というある意味1次元な連なりが3次元のオブジェを作るのだが,それはひとつだけではなく,多くの可能性のなかのひとつであり,その可能性すべての言葉のつながりは2次元の地図を構成する. オブジェクトのレベルでも,3次元で記述されたデータをそのまま3次元で出力するか,2次元で3次元のように嘘をつきながら出力するかという立体と平面との問題がある.ともに,そのオブジェには,その形へとたどり着くための地図という平面が付随している.立体は行為と出来事のレベルで平面と密着しているのである.

カーソルについての抜き書き

Windows も Mac OS もユーザーインターフェイスはデスクトップメタファに則っているけど,実生活にカーソルってものは存在しないなぁ.確かにフォルダやファイルなどは,実際にあるものだけれども,このカーソルってなんだ? そもそも,デスクトップを真横から見たら,カーソルは浮遊しているのか? フォルダをドラッグする時は,銛で川魚をとるみたいにブスッと刺してズラすということなのか? それとも先端に餅みたいなものがついていて,くっつけて引っ張るのか? その方がファイルも破損しないなぁ・・・・. コトバ/デザイン/アソビ:メディアの実験集「モノサシに目印」,長谷川踏太 -- 実際にはボタンでもスライダでもなく,自分がどこにいるのかにはとんと無頓着でありながら,それでもちゃんと機能するボタンとスライダ.自分がいる場所に応じて,自身の存在と行動を変化させるカーソル.ストリッピング,スキッピング,スクローリング,フライング,ポッピング,ゴブリング・・・こうした“効果”のすべてが多大な効果を発揮し,現実世界に帰結するのは確かだが,しかしそれでもなお,現象のレベルで物理的に理解される場合には,物理学の法則の大幅な書き換えが要求されることになる.(p. 140) サイバースペースの空間原理と可視化モデル.マイケル・ベネディクト  -- つまり,マウスというインターフェイスは,常にその分身である,マウス・カーソルを見ながら操作することを,ユーザーに強いる.そのことは,現在のコンピュータの GUI の主流である,デスクトップ・インターフェイスという視覚指向型のインターフェイスのデザインと密接に結びついている.と同時に,それは良くも悪くも,「見ながら」操作することの限界を含んでいる.(pp. 47-48) 消えゆくコンピュータ,久保田晃弘 -- 今のソフトウエアにおいて,スクリーン表示の中にユーザ自身を表象するオブジェクトはない.ユーザはスクリーンを見つめる者としている.スクリーン表示の内容をみているユーザの視線は彼/彼女の体の側にあり,注視点はスクリーンの中にある.このときスクリーン上のカーソルやキャレットが示すプロンプトは,ユーザの視線を代理する記号と考えることができる.(p. 129) それらは,スクリーン上にある「自己の存在・場所」に近似するものと言える.スクリーン内のカ

手|電波|iPhone|計算式|イメージ

イメージ
Apple より Apple より Touch-lab より iPhone 4 の電波の減衰と損失の問題は興味深い. 手で持つことを前提とした道具であるにも関わらず,手が道具に影響を強い影響を与えていること.しかも,影響を与えるのが電波という目に見えないものであること.さらに,問題の解決策としてAppleが真っ先に行ったのはソフトウェアアップデートによる「電波強度バーの表示数を決める計算式」の改良と,それにともなう「電波強度バー」のデザインと表示の変更であること. 「手」というモノの「密度と組成」が他のモノよりも大きく電波の減衰と損失に影響を与えていることは面白い.もしかしたらコワイのかもしれない.私たちは電波に取り囲まれ生きているわけで,これはもう後にはもどれないと判断した身体が自ら電波を取り込み始めていると考えたら,すこしコワイ.そんなことはないにしても,ヒトの身体が電波に大きな影響を与える物理的なモノであるということが示されているだけで,この問題は物理世界の中にあって身体をもつヒトが特別な存在でなく,モノ同士の全体的な相互関係にあることを教えてくれる. 目に見えない電波を「見える」ようにしていた「電波強度バー」.私たちはこのバーを見ながら,電波の状態を「ああだこうだ」と言っているわけだが,その背後にはその表示を導く「計算式」があることは普段,全く意識していない.表示されているものだけで判断してしまう.計算式が間違っていると言われてても,それがどう間違っているのかどうかはピンとこない.だから,Apple は電波強度バーの「見え方」をほんの少し変えた.この計算式と共に見え方も変えるというAppleの判断は,私たちが見えないモノ(ここでは電波や計算式)をスクリーン上の見えるイメージの印象で認識していることを示している 電波の減衰と損失をテストした動画は.すべてを見せているようで,やっぱり見えない電波と計算式はどうなっているのかはわからない.でも,電波強度バーのところは4倍に拡大されて,しっかり見えるようになっていて,iPhoneの握り方との相関関係をしっかり示すバーの数を表示しているので,何となく納得してしまう.「そうなんだろうなぁ」と思ってしまう.

0724 深夜の「用具的」をめぐるメモ

A Demonstration of the Transition from Ready-to-Hand to Unready-to-Hand という論文を読み返そうと思って,タイトルを眺めていた. この論文は,マウスとカーソルを使って,ハイデッガーが「用具的道具」という言葉で言っていることのデモをするもの. その内容はさておき,タイトルを眺めていたら,「用具的」から「非-用具的」への「移行」とある. なぜ,マウスとカーソルを使うことで,この「移行」がデモできるのか.ここが問題. マウス(モノ)⇄プログラム⇄カーソル(イメージ).プログラムの部分の変更で,カーソルの挙動を変えることができる.プログラムは瞬間的に,カーソルの挙動の真偽を切り替える. そのあいだ,マウスというモノは何も変わらずモノであり続ける.イメージだけがプログラムによって変化させられる. 「マウス⇄プログラム⇄カーソル」のつながりの全体がひとつのコード,行為のコードを作り上げている. プログラムは行為のコードを瞬時に切り替えることができる.けれど,いつもはそのコードというか,そのコードを成り立たせたコミュニケーションを受け入れている.ちょっとプログラムを変えることで,道具とヒトとのコミュニケーションと,それが成立させた一時のコードが破壊される.そのために,「用具的」から「非-用具的」への「移行」が起こる. エキソニモは「モノ⇄プログラム⇄イメージ」のつながりのコミュニケーションを破壊し,一時のコードもなかったことにしてしまう.しかもそれを,モノ,プログラム,イメージの各部分で行っている.そしてその3つがバラバラになっても,バラバラのまま別のコミュニケーションが始まることを示している.

昼下がりに名大の図書館で考えたメモ

プロジェクション.モノにイメージを重ねる.イメージのモノ化.スーパーフラットとは全く異なる文脈ではあるけれど,問題になる「平面性」. スクリーンを横からみたら,そこに何が映っているのかわからない.イメージが消失して,スクリーンというモノが現れる. スクリーンという極薄の存在.それはデュシャンが言うアンフラマンスに近い存在なのもしれない.スーパーフラット,アンフラマンス,オーバーラップウィンドウ.日本,フランス,アメリカ.結局,日本だけではない問題になる. スクリーンは横から見ることができる.カーソルは横から見ることができない.その裏側もみることができない.でも,そのカーソルもイメージとモノとのあいだにある存在である. データと身体とのあいだ.イメージとモノとのあいだ.イメージとモノとのあいだにあるプロジェクションとスクリーンというセット. スクリーンとプロジェクションのセットと,マウスとカーソルのセットはなんとなく関係が似ている.モノとイメージ.触れるモノと見るイメージ. 重なるウィンドウになったときにカーソルは,それぞれのウィンドウのあいだを行き来するという機能を得た.メタレベルを得た. メタメディアとしてのコンピュータと,あらゆるものにイメージを投影できる液晶プロジェクター. 今,iPhoneとキーボードを使ってテキストを入力している.アイビーム,もしくはカーソルが点滅し,ここに文字を打ちますよ,あるいは打ってますよということを示している.私たちの注意をひくカーソル.私たちの注意をひく記号はすべてインデックスである. カーソルがある平面.カーソルは浮いているのかどうか.平面の重なり.イメージとモノとの重なり.平面が立体にピッタリと寄り添うようになること.別の見かけを得ること. 《Beyond Pages》では,机に上から本のイメージが投射されている.本のイメージは,机というモノと寄り添うことによって「触れる」ことができるモノになる.私たちはペンのようなモノを使って,本をつつく.そうすると,イメージが変化する.ページをめくるのではない.ページをめくったかのような感じするだけ.めくっていないの,ページがめくれる.自分の行為の帰結を理解する. ここでの「理解する」とはどういうことだろうか.私はペンで本をつついた.でも,そのとき,その本が本当の本ではないことを知っている

カーソルについての深夜のメモ

カーソルは,スケッチパッドのときからあった.GUIでいきなりあらわれたわけではなく,コンピュータが登場した最初のころからあった.もともとあったから,GUIの特徴としてあげられない.意識にのぼらない.しかし,カーソルはマウスとセットになることで,ディスプレイという平面上を自由に動くことが可能になった.この自由さゆえに,カーソルとマウスはヒトの手の代わりとなる. コンピュータから考えれば,カーソルはもともと自由に動くイメージであった.しかし,ヒトがそれを自由に動かすためのモノがなかった.だから,不自由な動きしかできなかった.ヒトの,モノの側が不完全であった.そこにマウスが開発された.カーソルはマウスというモノを得ることによって,もともとの自由さをヒトに与えることができるようになった.それでもまだカーソルにとっては不自由なのかもしれない.なぜなら,カーソルは点から点への離散的な移動ができるにも関わらず,ヒトにあわせて点から点を結ぶ線を移動しているからである.カーソルには距離という概念はない.だから,点を指す「↑」の形でいいのだ. ヒトの注意を引くために.ペンの先を示すために.ペンの先という道具の先としてあるカーソル.ペンだろうが,マウスだろうが,道具の先にあるカーソル.ペンやマウスを手と同一化してしまうとすると,カーソルというイメージも身体というモノと同一化するのか.イメージとモノとが同一化する.イメージとモノとが重なる.イメージの性質とモノの性質が重なる.

マウスがあるかのように手を丸めて動かす

モノとしてのマウスをなくしてみたらどうなるか.マウスがある かのように 手を丸めて(原文だと cup という単語が使われている),マウスを動かす かのように 動かす.そうすると,マウスで動かしている かのように カーソルが動く.ちがうのは,そこにモノとしてのマウスがないだけ. これを開発した Pranav Mistry は "Six Sense" project の人. 「第六感」に比べれば,マウスをなくすことは大したことがない感じがする.WIRED の記事には次のように書かれている. 「マウスをなくす」というアイデアは,シックス・センスのような大きなブレークスルーではない.アイデアが確かに楽しいものだが,インタラクションが今までと同じままでハードウェアを取り除いてしまうような事例はほとんどない.ユーザ・インターフェイスはマウスによる「指示して,クリックする」インタラクションを乗り越えようとしている.しかも,ハードウェアとしてのマウスはとても安いので,それをなくすことでのコストを減らすということもない.[The Mouseless idea is not as big a breakthrough as Sixth Sense. Though it is fun, it is difficult to see a real-world case for getting rid of hardware while keeping interaction the same. User interfaces are going beyond the point-and-click interaction that the computer mouse demands. And mouse hardware itself is cheap, so there’s not much of a cost saving here.]   http://www.wired.com/gadgetlab/2010/07/computer-mouse-invisible/  しかし,である.そこにあったモノをなくすことは,とても面白いと思う.マウスはカーソルと連動して,画面上のイメージを「指示して,クリックする」という機能を担っているモノである.その単一の

藤幡さんについて突発的に考えたメモ

藤幡さんにとって身体とは何なのだろうか? 私たちの身体を作品に招き入れ,あっという間に記号化してしまう.霧散する身体. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/18931496567 記号へと霧散する身体なんて,そんなものは身体ではない.「コンピュータの身体性」もそこにはない.あるのはアルゴリズム. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/18931547526 アルゴリズムがあるが,その真偽を決めることができるのはコンピュータだけで,ヒトはそれを決められない状況に置かれる. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/18931625253 ヒトは身体を記号化され,記号の真偽も決めることができない状況に置かれる.新しい言語が必要となる.「新しい言語のために新しい身体が必要」などとは藤幡さんは考えていないだろう.私の勝手な考え. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/18931720701 藤幡さんは,新しいアルゴリズム,新しい言語を求めている(のだろう). http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/18931762958 でも,身体.すべてのメディアが帰属する場所としての身体.今までのメディア体験を担っているモノとしての身体.記号の全体論を担う身体. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/18931901077 藤幡さんは作品を体験しにくるヒトの身体を信頼しているのだろうか.きっと,信頼している.その信頼を元に,身体をあっという間に記号化する. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/18931994096

ないと思ったのに,あったよ,いてー

イメージ
Yoshii-Blog  より 指にカーソルを描いてしまうという発想.私は iPad を持っていないので,iPhone の小さな画面で試してみたけれど,描きやすかった.指に描いた印に意識が集中して,その印とディスプレイ上の線が直接つながるような感じで,Yoshii さんが「透明な指」と書くような感覚が味わえる.でも指は確かにあって,指がガラスに引っかかる感覚が普段よりも強く意識されました. ディスプレイ上にある「↑」の形をしたカーソルっていうのは,不思議なイメージだと思います.それは手の延長なのか,手そのものなのか,それとも上のように「透明な指」なのか,あるいは手とは切り離して考えるべき何かなのか.「指にカーソルを描く」を試して見て一番しっくりくるなというのは,カーソルは「透明というか変幻自在に変形するかつ,重さというか摩擦がない手」なのではないかということ特に「重さというか摩擦がない」という部分が,普段の私たちの生活の中ではあまり体験出来ないことで,だから,カーソルの特徴として考えられてはいないのではないかと思う. だけど,「透明かつ変幻自在に変形し,摩擦を生じさせない」ときたら,それはもう手ではない.そもそもカーソルはモノではない,イメージである.でも,それを手だと感じてしまうこともある.イメージとしての手. しかし,私たちが普段何げなく使っていて,対象とのあいだで物事がうまくいっているときの手は「透明かつ変幻自在に変形し,摩擦を生じさせない」存在となっているともいえる.カーソルを操作している時にしても,ハンマーで何かを叩いている時にしても,手はそこにあることを意識させないくらいに透明な存在として道具と入り混じる.先にあるのがモノであろうとイメージであろうと関係なしに,手はそれらと馴染みながらも,そこにモノとしてあり続ける. だから,指にカーソルを描くとちょっとおかしな感覚になる.印を手に描くことで,モノとしてある手を強制的にイメージにしてしまうような感覚.放っておいても手は,対象の道具と馴染むことで「透明かつ変幻自在に変形し,摩擦を生じさせない」イメージのような存在になる.手のイメージ化.しかし,それを強制的に行うと,手のモノ的な部分がその変化についていかず,モノとモノとのあいだに起こる摩擦が強く意識

「しょうがなくモノがある」

ではその判断はどうするのか.会社経営者である猪子氏に話がふられた.猪子氏はまずは「うち? うちはよく分からないよ(笑)」と受けたが,これからのものづくりについて,「ネットは今まではたまたまPCのブラウザ空間だけに閉じられていた.けれど今は『すべてネットの一部』という感じでものを作る時代になっている.『たまたま人間が物理世界にいるから,しょうがなくモノがある』,そういう感じで作っているのではないか」と語った.物理的な存在である人間に対してネットサービスを提供する上で,物理的接点を与えるために仕方なくモノが必要なんだという考え方だ. 既存のハードウェア会社はこれまで,モノの延長上に,ネットのサービスを付加するという形で作っていたが,そのような作り方・考え方とは「ベースの思想が圧倒的に違う」モノづくりが必要になっている.「モノをつくっている延長にネットサービスを考えるのと,ネットの先に,仕方ないからモノがあると捉えるのとではぜんぜん違う.ソフトの人とハードの人じゃプロセスも違う」からだ.実際に,アップルではiTunesが設計されて,その先にiPodがある.「優先順位,順番が違う」 【森山和道の「ヒトと機械の境界面」】 これからの日本のものづくりに必要なものはテンション!? ~第一回インタラクションデザイン研究会レポート 猪子さんが言っている「たまたま人間が物理世界にいるから,しょうがなくモノがある」という言葉がとても気になった.「しょうがなくモノがある」,これまでとは異なるモノへの視点ではないだろうか.モノはあって当たり前ではなかったのか. 猪子さんの言っている iTunes と iPod について,『 iPod は何を変えたのか? 』からいくつか引用. このデジタルハブ構想の最初の製品となったのが,ビデオカメラの映像を簡単に編集してホーム・ムービーを作成できるアプリケーション,「iMoive」だ.iMovieは初心者向けソフトとしてはアドビの製品よりずっと優れており,メタル調の外観と直感的なインターフェイスも,既存の動画編集ソフトとは比べものにならないほどクールだった.「そのiMovieが後のiTunesを含む一連のソフトの開発に繋がり,そのiTunesが,後にはiPodの開発につながっていたんだ」とジョブズは言う.(pp.80-81) だがデジタル・ジューク

中途半端な存在|カーソル|コンピュータの身体性(書き直し)

以前の エントリー の書き直し. カーソルって,中途半端な存在なんですよね.映像なんだけど,映像とはみなされない.動画を再生するときは,脇に避けられる.動きがカクると,不安に思われる.画面の中にありつつ,自分自身の身体の一つのような存在.みんなが当たり前に受け入れているだけど,それが何なのか,ちゃんと理解されていません.コンピュータの身体性を語る上で,カーソルには重要な秘密が隠されていると感じます.(p.77) exonemo's view「カーソル」in Web Designing Vol.108 コンピュータが知性を持つかどうかはいつも問題となっているが,コンピュータが身体を持つかどうかは,誰も問題にしてこなかった.コンピュータが身体を持つとしたらそれはキーボードやマウスといったインターフェイスなのか,それともディスプレイに映し出されるイメージをも含めたものなのか.現在のGUIの源に位置するアイヴァン・サザーランドの「スケッチパッド」の論文題目には「ヒトと機械とのグラフィカルなコミュニケーション・システム」とある.コミュニケーションは,知性だけで成立するものではない,コミュニケーションには目に見える,触れることができるモノが必要なのだ.それは,ヒトにおいては端的に身体であり,コンピュータにおいてはヒトが見ることができるディスプレイ上のイメージであり,触れることができるマウスやキーボードなのだ.その中で私たちが日々見て触れている存在のひとつが,カーソルである. エキソニモはカーソルを「中途半端な存在」と呼ぶ.私なりにカーソルの「中途半端さ」を考えてみたい.私は今まで,コンピュータに触れる際のヒトの身体性について,マウスとカーソルのつながりを中心に構成される GUI から考えてきた.そして,GUI を普及させたデスクトップ・メタファーの中で,カーソルはヒトの身体というアナログ的なモノを,コンピュータの論理世界というデジタルなモノの中に持ち込む機能を果たしている,と私は考えるようにあった.なぜ,カーソルはアナログとデジタルのズレをまたぐことができるのか.それはコンピュータの論理世界を把握するためにヒトが作ったデスクトップ・メタファーの中で,カーソルは「指さし」という行為を遂行するというヒトにとって必要不可欠な存在でありながら,実はメタファーに属さずにただ

「かたちなき身体」

iPadをミキサーにかけて粉々にしてしまうだけの映像.モノを壊すだけの映像.ここには破壊行為しかない.iPadというモノが壊れて,そこにあったデータも一緒に失われる.ここには救いも何もない.破壊されたiPadにはもう何も映らない.起動すらしない. エキソニモの《断末魔ウス》では,マウスは壊されるがデータは残る.残ったデータは,カーソルとしてディスプレイに表示される.ここにもモノの破壊行為はもちろんある.しかし,データはその破壊行為から逃れる.もちろん,マウスという位置情報入力デバイスが破壊されただけであって,コンピュータそのものは壊されていないのだから,うえのiPadとは異なるとはいえる.iPadは入出力デバイスとCPUなどがひとつに物理的にまとめられているので,その破壊はすべてを失うことを意味するが,マウスは,物理的にはコンピュータから比較的独立しているので,その破壊によって私たちは入力デバイスを失うだけである. 断末魔をあげることさえ許されずに粉々にされるiPadと,断末魔の叫びを記録されるマウス.コンピュータの側から考えると,頭を打ち抜かれて即死のiPadと,手を失う叫びをあげるカーソルとマウスとを中心に据えた今までのかたちのコンピュータとでも言えるだろうか.コードによってつながっているマウスから送られてくるデータで,そのプロセスを克明に記録していくコンピュータ.自分の身体でこれをやれと言われたら,気絶してまいそうな,早く楽にしてくれと叫びそうな拷問ではないだろうか.でも,コンピュータはそれができる.克明にマウスからのデータを記録し,いつでもそれを再生可能にすることができる.コンピュータは,壊されていくマウスに「死なない」ことを与えられる. データも何も残すこと暇なく破壊されるiPadは,ヒトの今の身体に近いのではないだろうか.破壊,死んでしまえば動かぬモノとなってしまう.死してもデータをどこかに残していくマウスは,ライフログなどでデジタルデータを残していく未来の身体の在り方なのかもしれない.死なない存在としてデータを残していくこと.モノとしての身体でなくなっても,データとしていつでもどこでも再生可能で,もしかしたら何かと新たに組み合わせ可能な存在となること. これは自分の身体を,今あるモノとして意識すると同時に,これからもモノではないかたち

論理世界に落とされた「ヒトの染み」

ディスプレイの研究しながら自分の視力がほぼなくなった時のことを想定して考える。 インタフェースの研究しながら、自分の両腕が使えなくなったときのことを想定して考える。 そういう発想が新しいアイディアを生む。君にしか作れない人間味のある技術が生まれる。 #Sh #ShiraiLab http://twitter.com/o_ob/status/17728204801 今日の朝,Twitter をチェックしていたら上のツイートが気になった.私の場合はすぐにマウスとカーソルのことに結びつけて考えてしまうのだけれど,だから,両腕が使えなくなったらどうなるどうかと.マウスは勿論使えない,タッチ型のインターフェイスも使いようがない.手が使えなくなったらディスプレイ上のどこかを直接指さすことはできなくなる.だから,音声認識を使って,ディスプレイ上のイメージにつけられたラベル名を言って選択するようになると思う. そのとき,カーソルはどうなるだろうか.意外と活躍するのではないだろうかと思った.カーソルが画面上にあれば,それを「右」,「もっと左」,「上」,「もうちょい下」とか言いながら操作できるはずである.ディスプレイ上のイメージを相対的な指示で選択することが可能になる.というか,今もそうである.常に画面に映し出されているカーソルは,ディスプレイの中の基準点になっているのである.でも,手が使えているときは,直接指さしている感覚があるから,そのことに気づきにくい. 手との繋がりを失ってもカーソルは機能する.そんなカーソルは,つるっとしたコンピュータの論理世界に落とされた「ヒトの染み」みたい存在なのではないだろうか.もちろん,タッチ型のように,カーソルはなくてもかわない.でもあることで,コンピュータの作り出す空間の中に,何かしらのものが置かれることになる.そこを基準に「上下左右」が生まれる.「X=1024,Y=546」のような場所の指定ではなくて,「もうちょい左」とか言えるようになる.それが「↑」の形をしていたら,「↑」の方へとかも言えちゃったりする.この「向き」は必要かどうかは分からないけれど,今のカーソルが「↑」になっていることからも,ヒトが空間を把握するときに「上下左右」だけでなく「向き」も大切なのかもしれない.そして「↑」はそれを端的に示した記号なのかもしれない. そして

幻視?|動くカーソル|映像の一部

自分の手で動かしていないカーソルを見るときに,自分で動かしているような気分になるのかを実験.一番最後の映像は私がカーソルを動かしているのをキャプチャーしたもの. また,当たり前だが,ここにある映像はすべて記録されたものだから,カーソルが動いているときには手も一緒に動いていた.カーソルを動かすために手が動いていたという事実.しかし,これらの映像が再生されるときには,見ている人の手は動いていない.でも,なんか動かしているような気分になる人もいるかもしれない.とくに,斜めの線を描いている映像なんかは,見ていると手がむず痒くなるかもしれない.私は少し,手がむずむずしました.幻肢? そして,自分の映像に関しては,それを記録している時の手の動きを思い出してしまう.マウスではなくて,トラックパッドを使って,カーソルを動かしているとか.でも,他の映像と並べてみていると,自分とのつながりが弱くなるような気もする.少し自分の身体から切り離されたような感覚? でも,やはりつながっている. これらの映像を見ながら,実際に自分の手をマウスなどを使って動かすと,映像のカーソルの動きには介入できないが,自分のコンピュータが制御しているカーソルがディスプレイ上で動く.映像のカーソルと自分が動かしているカーソルは,同じディスプレイ上にある.また,自分の手とはつながっていないが,映像上のカーソルも自分のコンピュータが映像の一部として制御している.自分で動かしているカーソルも,ディスプレイに映される映像の一部ではある.

「↑」がヒトを試す

イメージ
カフカはまず部分を書いたのだ.現実の中でそのようなことがありえるかありえないかということではなく,「言葉はこのように書く(組み合わせる)ことができる」ということを実践しているのだ.言葉をこのように組み合わせることができるということは,思考はこのようなものを作り出すことができるということでもある.もしそれが解説好きの読者に神のイメージを喚起するとしたら,神もまた思考によって ── ということは,言葉の組み合わせによって ── 作り出された「このようなもの」の一つなのかもしれない.(p.192) カフカの異質さは外部にある対象を指し示しているわけではないことにある.ある言葉を読んだとき,読者は事前に知っている物や事をそこに安易にあてはめてはいけない.Ungeziefer は「虫」ではなく,イメージされることを拒む抽象なのだ.カフカの小説の中では空間は,ただ言葉として直列的に並べられた一次元しかない時間の連なりであって,平面の中に一挙に(つまり.見取図や組織図のように)配置することができない.(p.197) 保坂和志「小説,言葉,現実,神」in 佐々木正人編『包まれるヒト』  以前,カフカの「変身」とインターフェイスとを絡めた文章を書いた: イメージという触角|カフカ「変身」|運動能力 .これをエキソニモのカーソルをめぐる作品を考えるために,久しぶりに読み返してみた. そして,今日,ふとしたきっかけで保坂和志の「小説,言葉,現実,神」をペラペラとめくった.カフカつながり.以前読んだときにアンダーラインを引いた文章が気になった.それが上の2つ.ここで言われていることで,エキソニモの《↑》を考えてみたくなった. 「↑」はイメージでありながら,イメージであることを拒む抽象と考えてみる.「↑をこのように組み合わせることができる」を示すことで,カーソルと向き合う私たちの思考の在り方を作り出しているのではないか.そして,その思考は《ゴットは、存在する。》とつながる.消滅も含めた「↑」の組み合わせで作り出される「ゴット」. ディスプレイという平面に配置されるように見える「↑」.ディスプレイから離れ,空間の中に存在する「↑」を探しだす行為.空間の中に点在する「↑」と,ディスプレイ上に映し出される「↑」.これらは同じモノである.でも,本