論理世界に落とされた「ヒトの染み」
ディスプレイの研究しながら自分の視力がほぼなくなった時のことを想定して考える。 インタフェースの研究しながら、自分の両腕が使えなくなったときのことを想定して考える。 そういう発想が新しいアイディアを生む。君にしか作れない人間味のある技術が生まれる。 #Sh #ShiraiLab今日の朝,Twitter をチェックしていたら上のツイートが気になった.私の場合はすぐにマウスとカーソルのことに結びつけて考えてしまうのだけれど,だから,両腕が使えなくなったらどうなるどうかと.マウスは勿論使えない,タッチ型のインターフェイスも使いようがない.手が使えなくなったらディスプレイ上のどこかを直接指さすことはできなくなる.だから,音声認識を使って,ディスプレイ上のイメージにつけられたラベル名を言って選択するようになると思う.
http://twitter.com/o_ob/status/17728204801
そのとき,カーソルはどうなるだろうか.意外と活躍するのではないだろうかと思った.カーソルが画面上にあれば,それを「右」,「もっと左」,「上」,「もうちょい下」とか言いながら操作できるはずである.ディスプレイ上のイメージを相対的な指示で選択することが可能になる.というか,今もそうである.常に画面に映し出されているカーソルは,ディスプレイの中の基準点になっているのである.でも,手が使えているときは,直接指さしている感覚があるから,そのことに気づきにくい.
手との繋がりを失ってもカーソルは機能する.そんなカーソルは,つるっとしたコンピュータの論理世界に落とされた「ヒトの染み」みたい存在なのではないだろうか.もちろん,タッチ型のように,カーソルはなくてもかわない.でもあることで,コンピュータの作り出す空間の中に,何かしらのものが置かれることになる.そこを基準に「上下左右」が生まれる.「X=1024,Y=546」のような場所の指定ではなくて,「もうちょい左」とか言えるようになる.それが「↑」の形をしていたら,「↑」の方へとかも言えちゃったりする.この「向き」は必要かどうかは分からないけれど,今のカーソルが「↑」になっていることからも,ヒトが空間を把握するときに「上下左右」だけでなく「向き」も大切なのかもしれない.そして「↑」はそれを端的に示した記号なのかもしれない.
そしてここでも,記号(単数形の記号)は二つの部分をもっています.カウフマンは言います.記号は本体(body),つまり長い線をもっていて,ここでまた再び何ものかが空間のなかにおかれます.そして記号は指示体(pointer)をもっていて,これで方向が示されます.(p.78)では,コンピュータにとって,「カーソルのある|なし」はどんな意味をもつのであろうか.「カーソルってなんか邪魔なんだよな(この発想もヒトか…)」とか,「カーソルなくなったのはいいけどディスプレイがべたべた(これを思うのもヒトだけか…)」とか .また,いろいろとかたちを変えることで,自分の状況を的確に示すことができる「便利なやつ(これもまた…)」とも思っているかもしれない.
ニクラス・ルーマン講義録【1】:システム理論入門
エキソニモの千房けん輔さんがこれに似たことをツイートしていたのを,キュレーターの四方幸子さんが引用していたのを,さらに引用.アートの世界で面白い活動をしているふたりが感じているヒトの知覚と技術との関係.
2)エキソニモの千房けん輔:それぞれ、2、3日前のtwitterでの発言より。
・これは刺さった RT @gabin: 目の見えない友人のマイミクリストはプロフィールアイコンがノーイメージだらけだった。
・「画像をOFFってるブラウザとか、ケータイでしか見てませんとか、何インチのモニタでみてますとか、スピーカついてませんとか、そういう端末の違いも、目が不自由とか耳が不自由とかと同じような意味になるよな。あっち側からみたら」
四方幸子「知覚的差異って?(技術と連結した視点から)」カーソルがないというのは,手が不自由とかと同じ意味になるのだろうか? それとも身体の部位ではなくて,なにか意思みたいものが不自由になるという意味になるのだろうか.逆に,カーソルがないことによって「X=1024,Y=546」から「X=324,Y=128」に瞬時に移動できるようになるので,とてつもなく解放された自由を手に入れたこと意味するのであろうか.