0724 深夜の「用具的」をめぐるメモ

A Demonstration of the Transition from Ready-to-Hand to Unready-to-Hand という論文を読み返そうと思って,タイトルを眺めていた.

この論文は,マウスとカーソルを使って,ハイデッガーが「用具的道具」という言葉で言っていることのデモをするもの.

その内容はさておき,タイトルを眺めていたら,「用具的」から「非-用具的」への「移行」とある.

なぜ,マウスとカーソルを使うことで,この「移行」がデモできるのか.ここが問題.

マウス(モノ)⇄プログラム⇄カーソル(イメージ).プログラムの部分の変更で,カーソルの挙動を変えることができる.プログラムは瞬間的に,カーソルの挙動の真偽を切り替える.

そのあいだ,マウスというモノは何も変わらずモノであり続ける.イメージだけがプログラムによって変化させられる.

「マウス⇄プログラム⇄カーソル」のつながりの全体がひとつのコード,行為のコードを作り上げている.

プログラムは行為のコードを瞬時に切り替えることができる.けれど,いつもはそのコードというか,そのコードを成り立たせたコミュニケーションを受け入れている.ちょっとプログラムを変えることで,道具とヒトとのコミュニケーションと,それが成立させた一時のコードが破壊される.そのために,「用具的」から「非-用具的」への「移行」が起こる.

エキソニモは「モノ⇄プログラム⇄イメージ」のつながりのコミュニケーションを破壊し,一時のコードもなかったことにしてしまう.しかもそれを,モノ,プログラム,イメージの各部分で行っている.そしてその3つがバラバラになっても,バラバラのまま別のコミュニケーションが始まることを示している.

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