中途半端な存在|カーソル|コンピュータの身体性(書き直し)
以前のエントリーの書き直し.
エキソニモはカーソルを「中途半端な存在」と呼ぶ.私なりにカーソルの「中途半端さ」を考えてみたい.私は今まで,コンピュータに触れる際のヒトの身体性について,マウスとカーソルのつながりを中心に構成される GUI から考えてきた.そして,GUI を普及させたデスクトップ・メタファーの中で,カーソルはヒトの身体というアナログ的なモノを,コンピュータの論理世界というデジタルなモノの中に持ち込む機能を果たしている,と私は考えるようにあった.なぜ,カーソルはアナログとデジタルのズレをまたぐことができるのか.それはコンピュータの論理世界を把握するためにヒトが作ったデスクトップ・メタファーの中で,カーソルは「指さし」という行為を遂行するというヒトにとって必要不可欠な存在でありながら,実はメタファーに属さずにただ位置情報を示すというコンピュータ側の存在でもあるからなのだ.そして,ヒトとコンピュータとのあいだでフラフラしているカーソルは,マウスというモノと密接に結びついていると同時に,画面上の位置情報を表すために映像化されたデータでもある.カーソルは映像でありながら,マウスというモノとつながり,位置情報というデータともつながっている.つまり,カーソルはヒトのコンピュータのあいだで,モノとデータと映像とを行ったり来たりするような「中途半端な存在」としてあり続けているのだ.
コンピュータがカーソルという「中途半端な存在」を持つことから,私たちは「コンピュータの身体性」を考えることができる.なぜなら,ヒトの身体もモノであると同時に,心にも支配されているという「中途半端な存在」だからである.身体の中途半端さゆえに,哲学で古くから論じられてきた心身問題が生じる.だから「中途半端な存在」であるカーソルは,コンピュータの「身体」を考えるための取っ掛かりになるのだ.
私たちの身体はカーソルとマウスというコンピュータのかたちを受け容れて,それに適応した行為を形成していった.カーソルは,ヒトにとっては身体の一部というモノ的な存在でありながら,画面上にあり続ける映像でもある.カーソルによって,私たちは身体の一部を映像として扱うことになった.しかし,カーソルは今まで当たり前にあったけれど,iPad にはない.カーソルなしのコンピュータ体験も普通になっていく(かもしれない).だからこそ,これからカーソルがヒトとコンピュータにとって何であったのかということがわかってくると思う.カーソルがなくなるということは,マウスがなくなることであり,それはコンピュータのかたちが変わることを意味する.しかし,それをモノのかたちの変化として片付けてしまってはいけない.私たちの手が突然なくなったとしたら,考え方にも変化が起こるように,コンピュータのかたちが変わることは「コンピュータの身体性」に関わってくる問題なのであり,それは私たち自身の問題でもあるのだ.
コンピュータにとってカーソルとは何なのかということは,今までも,もしかしたらこれからも考えられることがないかもしれない.そもそもコンピュータが「身体」を持つのかという問い自体が間違っているのかもしれない.それでも,私は「コンピュータは身体性」という言葉を字義通りに受け取って,この言葉が示していることをエキソニモによるカーソルを巡る作品から考えてみたい.
コンピュータが知性を持つかどうかはいつも問題となっているが,コンピュータが身体を持つかどうかは,誰も問題にしてこなかった.コンピュータが身体を持つとしたらそれはキーボードやマウスといったインターフェイスなのか,それともディスプレイに映し出されるイメージをも含めたものなのか.現在のGUIの源に位置するアイヴァン・サザーランドの「スケッチパッド」の論文題目には「ヒトと機械とのグラフィカルなコミュニケーション・システム」とある.コミュニケーションは,知性だけで成立するものではない,コミュニケーションには目に見える,触れることができるモノが必要なのだ.それは,ヒトにおいては端的に身体であり,コンピュータにおいてはヒトが見ることができるディスプレイ上のイメージであり,触れることができるマウスやキーボードなのだ.その中で私たちが日々見て触れている存在のひとつが,カーソルである.カーソルって,中途半端な存在なんですよね.映像なんだけど,映像とはみなされない.動画を再生するときは,脇に避けられる.動きがカクると,不安に思われる.画面の中にありつつ,自分自身の身体の一つのような存在.みんなが当たり前に受け入れているだけど,それが何なのか,ちゃんと理解されていません.コンピュータの身体性を語る上で,カーソルには重要な秘密が隠されていると感じます.(p.77)
エキソニモはカーソルを「中途半端な存在」と呼ぶ.私なりにカーソルの「中途半端さ」を考えてみたい.私は今まで,コンピュータに触れる際のヒトの身体性について,マウスとカーソルのつながりを中心に構成される GUI から考えてきた.そして,GUI を普及させたデスクトップ・メタファーの中で,カーソルはヒトの身体というアナログ的なモノを,コンピュータの論理世界というデジタルなモノの中に持ち込む機能を果たしている,と私は考えるようにあった.なぜ,カーソルはアナログとデジタルのズレをまたぐことができるのか.それはコンピュータの論理世界を把握するためにヒトが作ったデスクトップ・メタファーの中で,カーソルは「指さし」という行為を遂行するというヒトにとって必要不可欠な存在でありながら,実はメタファーに属さずにただ位置情報を示すというコンピュータ側の存在でもあるからなのだ.そして,ヒトとコンピュータとのあいだでフラフラしているカーソルは,マウスというモノと密接に結びついていると同時に,画面上の位置情報を表すために映像化されたデータでもある.カーソルは映像でありながら,マウスというモノとつながり,位置情報というデータともつながっている.つまり,カーソルはヒトのコンピュータのあいだで,モノとデータと映像とを行ったり来たりするような「中途半端な存在」としてあり続けているのだ.
コンピュータがカーソルという「中途半端な存在」を持つことから,私たちは「コンピュータの身体性」を考えることができる.なぜなら,ヒトの身体もモノであると同時に,心にも支配されているという「中途半端な存在」だからである.身体の中途半端さゆえに,哲学で古くから論じられてきた心身問題が生じる.だから「中途半端な存在」であるカーソルは,コンピュータの「身体」を考えるための取っ掛かりになるのだ.
私たちの身体はカーソルとマウスというコンピュータのかたちを受け容れて,それに適応した行為を形成していった.カーソルは,ヒトにとっては身体の一部というモノ的な存在でありながら,画面上にあり続ける映像でもある.カーソルによって,私たちは身体の一部を映像として扱うことになった.しかし,カーソルは今まで当たり前にあったけれど,iPad にはない.カーソルなしのコンピュータ体験も普通になっていく(かもしれない).だからこそ,これからカーソルがヒトとコンピュータにとって何であったのかということがわかってくると思う.カーソルがなくなるということは,マウスがなくなることであり,それはコンピュータのかたちが変わることを意味する.しかし,それをモノのかたちの変化として片付けてしまってはいけない.私たちの手が突然なくなったとしたら,考え方にも変化が起こるように,コンピュータのかたちが変わることは「コンピュータの身体性」に関わってくる問題なのであり,それは私たち自身の問題でもあるのだ.
コンピュータにとってカーソルとは何なのかということは,今までも,もしかしたらこれからも考えられることがないかもしれない.そもそもコンピュータが「身体」を持つのかという問い自体が間違っているのかもしれない.それでも,私は「コンピュータは身体性」という言葉を字義通りに受け取って,この言葉が示していることをエキソニモによるカーソルを巡る作品から考えてみたい.