中途半端な存在|カーソル|コンピュータの身体性

カーソルって,中途半端な存在なんですよね.映像なんだけど,映像とはみなされない.動画を再生するときは,脇に避けられる.動きがカクると,不安に思われる.画面の中にありつつ,自分自身の身体の一つのような存在.みんなが当たり前に受け入れているだけど,それが何なのか,ちゃんと理解されていません.コンピュータの身体性を語る上で,カーソルには重要な秘密が隠されていると感じます.(p.77)
カーソルについて考えてきたけれど,こう言われてしまって,しかもそれを作品として具体化させられては,もう何も言えない.けど,何か考えて,書かなければならない.エキソニモも言っているように,私たちはカーソルが何なのかちゃんと理解していないのだ.

カーソルはマウスというモノと密接に結びついていると同時に,画面上の位置情報を表すために映像化されたデータでもある.カーソルは映像でありながら,マウスというモノとつながり,位置情報というデータともつながっている.モノとデータと映像とを行ったり来たりするような「中途半端な存在」としてあり続けるカーソル.「中途半端な存在」であるカーソルを考えることで,「コンピュータの身体性」が見えてくるのではないだろうか.

エキソニモのカーソルの巡る作品を考えることで,カーソルとは何かを考えることはとても重要だと思う.それは「コンピュータの身体性」を考えること.人間,ヒトの身体性ではなく,コンピュータの身体性.私は今まで,コンピュータに触れる際のヒトの身体性について,マウスとカーソルのつながりを中心に考えてきた.カーソルはデスクトップ・メタファーの中で,ヒトの身体性をコンピュータの論理空間の中に持ち込むような機能を果たしてきた,と私は考えた.なぜなら,カーソルはヒトが世界を把握するためのメタファーの中で,そのメタファーに属さない存在であると同時に,デスクトップ・メタファーでコンピュータが機能するために必要な成立させる指さしという行為を遂行する存在としてあるからだ.つまり,カーソルはヒトとコンピュータとの「あいだ」にあるような「中途半端な存在」である.

カーソルは今まで当たり前にあったけれど,iPad にはない.カーソルなしのコンピュータ体験も普通になっていく(かもしれない).だからこそ,これからカーソルがヒトとコンピュータにとって何であったのかということがわかってくると思う.ヒトにとっては,身体の一部というモノ的な存在でありながら,画面上にあり続ける映像でもある.では,コンピュータにとってはなんだったのかは,今までも,もしかしたらこれからも考えられることがないかもしれない.コンピュータは「身体」を持つのかということ自体が問題かもしれないし,そもそもエキソニモの「コンピュータの身体性」という言葉が示しているのが、ヒトがコンピュータを使っているときの身体性という意味かもしれない.それでも,私は「コンピュータは身体性」という言葉を字義通りに受け取って考えていきたい.そのヒントがカーソルにあり,エキソニモのカーソルをめぐる作品は「コンピュータの身体性」を表現していると,私は思うのだ.

また最初に戻るが「中途半端な存在」であるからこそ,「コンピュータの身体性」をカーソルから考えられると思う.身体はモノであると同時に,心にも支配されている.ここに哲学での心身問題が生じる.簡単にいってしまえば,心身問題は身体がとても「中途半端な存在」だから起こっているのだ.それゆえに,「中途半端な存在」であるカーソルは,コンピュータの「心身問題」を考えるための取っ掛かりになるのかもしれない.

コンピュータが知性を持つかどうかはいつも問題となっているが,コンピュータが身体を持つかどうかは,誰も問題にしてこなかった.コンピュータが身体を持つとしたらそれはキーボードやマウスといったインターフェイスなのか,それともディスプレイに映し出されるイメージをも含めたものなのか.現在のGUIの源に位置するアイヴァン・サザーランドの「スケッチパッド」の論文題目には「ヒトと機械とのグラフィカルなコミュニケーション・システム」とある.それはコミュニケーションを行っているといってもいいかもしれない.コミュニケーションは,知性だけで成立するものではない,そこには目に見える身体のようなモノが必要なのだ.それは,ヒトにおいては端的に身体であり,コンピュータにおいてはヒトが触れることができるマウスやキーボードであり,見ることができるディスプレイ上のイメージなのだ.

カーソルが「中途半端な存在」であること.そこから「コンピュータの身体性」を,ヒトとコンピュータとのコミュニケーションという観点から考えること.それを,エキソニモのカーソルをめぐる作品,《断末魔ウス》《ゴットは、存在する。》《↑》からしていきたい.

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