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「エキソニモの『猿へ』」を見てきた(2):見えているからこそ,よりわからない

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「エキソニモの『猿へ』」2回目.「2005」の謎を解明しに行くためにというか,ひっかかりを探しに.あと「2005」セクションでの《断末魔ウス》のあり方を考えてみた. 「2005」セクションにあった《Object-B VS》(2006)[参考: WORLD B / 意識を裏返し、B面をPLAYせよ ]を結構長いあいだやった.銃を撃ちまくって,相手となる(?)転がっているヒトも何度も撃った.撃ちまくっているとスクリーンの向こうにある「オブジェクト」が動きだす.唸りだす.ずっとやっていくなかで感じる気持よさと,銃を撃っていることとオブジェクトの唸りが重なり「あちらの世界」との関係を感じたりする.なんとなく感じる「あちらの世界」.ヒトではないものが存在するあちらの世界.そんなあちらに向かって銃を撃ち続ける.実際の銃は撃ったことはないけれども,ここではあちらに向かって銃を撃ち続けている.と言っても,銃からでてくるのは「弾丸」ではなく,様々なオブジェクトであって,これはこちらの世界では絶対に体験できない. その後,《 DEF-RAG 》(2008)を見続けた.時間操作されたスクリーン.連続して流れる時間から切り離されたコンピュータの時間とそれを映し出す映像.この時間の「切り離し」を強調する時計と時間のズレなど関係なく存在していうような全く動かない自動車の衝突試験用のダミー人形.そして,映像にはかつていた自分が映しだされている.これは「メディアアート」と呼ばれるものにはよくある作品である.では,エキソニモの独自性はどこにあるのか.それは「見せている」ことなのかなと思った.スクリーンの映像をつくりだすコンピュータ,そこから伸びるケーブルの類がすべて隠されていない.コンピュータの基盤までは見えないけれど,ケーブルが見えるだけでも,ここから映像がつくりだされるということが分かるし,電源ケーブルで電気の流れも可視化される.作品を作り出している部分が露わになっており,映像に写り込んでいる.時計の裏を覗くと,時計を動かしている機構も見える.「あちらの世界」をつくりだすものがすべて「こちらの世界」にあることを示す.ケーブルで結ぶばれたかたちで「こちらの世界」にある様々な機械が「あちらの世界」をつくりだす.そして,ダミー人形は全く動かないことで「こちら」と「あちら」の双方の世界に「...

「実写」という見た目を超えて,そこに「演算」を見ようとした

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私は 古館健 さんの《Macro / Dynamics》を おおがきビエンナーレ で見たとき,これはコンピュータによってリアルタイムに生成されていると思っていました.そして次のように書いています. 「ある規則をもとに生成される像」自体にはコンピュータと現実とのあいだに違いはないでしょう.ですが,コンピュータによって生成されたものは,それが何かに似ているとか,見立てられたものであるとかの意味のフックがないかぎり,ヒトにとってまだ「意味」が見出だせない現象なのではないでしょうか. おおがきビエンナーレ 2013:2つの建物と3つの作品 後日,古館さん自身からこの映像が「実写」であるとのリプライを頂きました. @mmmmm_mmmmm 一点。書いていただいたご感想にもう一枚レイヤーをかぶせられる要素としまして、実際にあそこで映写していた映像は実は無加工、無編集の実写の映像なのです。そこからも「コンピュータービジョン」と「現実を観る僕らの目」との相違点/共通点は見えてくる気がしています。 — FURUDATE Ken (@anaggggg) September 26, 2013 とても不思議な感じがしました.「実写」かと見間違えるほどの「CG」は数えきれぬほど見てきましたが,今回はその逆でした.そして,古館さんに以下のように返信しました. @anaggggg 「実写」だったのですね! 「実写」というレイヤーを重ねてあの作品を考えると,見ながら考えていたことがさらに複雑になってきます.コンピュータの「演算」を見ようとしながら,それで納得していたものが,「実写」として提示されていたとなると,→ — mizuno masanori (@mmmmm_mmmmm) September 27, 2013 @anaggggg →「実写」に「演算」を当てはめていたことなり,古館さんが作品に付したテキスト通りに,「実写」と「演算」のもとには「本質的な違いは無い」ということになりますね.「規則」というのがひとつ重要なキーワードになっている感じがします.改めて考えてみたいです! — mizuno masanori (@mmmmm_mmmmm) September 27, 2013 私の眼は見ている映像がCGであるのか,実写...

メモ:「ファイル形式」から画像を眺めるというか

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ICC で ucnvさんの展示 を見てからグリッチがまた気になり始めた.現在の画像を考える上でとても大きな手がかりを示していると思う.表現にファイル形式が大きく影響するというか,その表現をファイル形式が規定しているところ.しかも,「正常」に見えている時よりもファイル形式のちがいが際立つというところが面白い. ある写真のオリジナルから派生,変化した多数のさまざまなヴァリエーションが展示されています.それは,オリジナルに近いものから,同じ写真とはまったく認識できないほどの変化にいたるまで,その状態は多様です.これらの写真には,コンピュータの画面でときどき見かけるような,画像がうまく適正に再現されなかった状態と同じことが起こっています.すべてが,もともとは同じ写真,つまり同じイメージを持ったものでしたが,それぞれに異なるのは,その画像のデータ形式です.同じイメージを表示していても,その画像データの形式が異なっているために,データに欠損を生じた際の現象,表示された状態に差異が生じているのです.  http://www.ntticc.or.jp/Exhibition/2013/Openspace2013/Works/Tab_Glitch_j.html   ICCのページにある解説文を読むと,そこにはグリッチとともに最近気になっている「オリジナル」という言葉が書かれていた.ここでの「写真のオリジナル」というのは「見え方」がオリジナルということになるであろうかということを考えた.「見え方」は同じでもファイル形式が異なる場合,どれがオリジナルになるのであろうか. グリッチに「オリジナル」はないのか? すべてがオリジナルなのか? 大量の同一モチーフのグリッチを目の前にすると不思議な感覚になる.  ICCでucnvさんの作品を見ながら書いたメモ  RAW,PSD,JPEG,GIF,PNGなどなど.これらのファイル形式にグリッチという現象が起こると,画像がそれぞれファイル形式に特有の「破損」が起こる.「破損」が起きたもののほうが,そのファイル形式が際立つので唯一無二の「オリジナル」と思ってしまう感じもある.でも,そのファイル形式は「説明」がないとわからない人がほとんどだと思う. Screen Shot 2...

メモ:イメージ→シンボル

プッシュ通知|風景|2013  Constant Updateが示す風景 -- エキソニモの《風景2013》とFatima Al QadiriとDalton Caldwellによる《Constant Update》から「イメージ」が抜け落ちていることが,ずーっと気になっている.「イメージ」が抜けて落ちていることが「視覚文化」の移行期を示しているのではないかと思いつつも,私たちの周りにはディスプレイに溢れている.ディスプレイを見ればそこには「イメージ」がある.それを見て,何か行為をする.だから,イメージが私たちの行為を駆動していると言えるわけだが,上にあげたふたつの作品からは「イメージ」がなくなっている. アラン・ケイの「Doing with images makes symbols」はGUIをつくるときのスローガンとなった.だから,GUIは視覚的要素=イメージを操作することになる.問題は「シンボル」をつくり出せたのかということになる.GUIを操作している人たちはアイコンやカーソルなどのイメージを操作しながらコンピュータを操作しているので,なんとなくではあるが「シンボル」ができている感じがする.GUIを牽引したデスクトップ・メタファーではとくに「視覚的要素」が重要だった.タッチになってもそれは同様であった.ウェブデザインの流行りの「フラットデザイン」も視覚的要素で構成されていることは変わりがない.ただ「フラットデザイン」では「メタファー」がなくなっている.だとすると,上のふたつの作品からは「イメージ」がなくなったのではなく,「メタファー」がなくなったのだろうか. −− フラットデザインに関して興味深い考察.この考察から,フラットデザインは最小限の視覚的要素とジェスチャーを組み合わせて,ヒトの行為を「プログラミング」すると考えることはできないだろうか. ファンシーなUI部品を誇示したり,あらかじめ決められたタスクをメニューとして強調するのではなく,もっとユーザーが自然にシステムをコントロールできるようにするにはどうすればよいか.必要最低限の要素でシステムの機能性を表現するにはどうすればよいのか.  フラットデザインは,そうしたUIデザインの本質的な部分の模索だと思います.そして次のことを示唆していると...

Daniel Temkinの《Unicode Compressure》:圧縮の先にある四角

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CLICK | GALLERY で Daniel Temkin の《Unicode Compressure》 ( Gallery_B ) が展示されている.Daniel Temkinはニューヨーク在住の写真家,デジタルメディア・アーティストで,プログラマー. 《Unicode Compressure》を見に行くと, Unicode から6個の文字・記号がランダムに選ばれて,それらが組み合わせられブラウザの中央に配置されている.左上に「resolution: 389 : 1200」とあり,その下に組み合わせられている6つの文字・記号.さらにその下には,中央の図形の一部を拡大したものが表示されている. 図形をしばらく見ていると,徐々にボヤけて見えていくことに気づく.同時に「resolution」の数字が減っていっている.つまり,時間とともに「解像度」が低くなっているのである.私が見ている環境だと,解像度はなぜか1200からではなく,800から始まり,最終的には0になる.解像度が50くらいまでは6つの文字・記号からなる図形のかたちを認識できるが,それ以下になると急激にかたちが崩れていき,最終的にはかたちがなくなり,画面全体を赤く覆ってしまう. Unicodeと解像度いうコンピュータのデフォルトの要素を使っている.CLICK | GALLERYの説明には「ウェブの要素を緻密に組み合わせては破壊していく」とあるが,ここにあるのは「破壊」なのだろうか.確かに,組み合わせられた図形は崩れていく.しかし,最終的に崩れる際にみせる「大きな四角の組み合わせ」は,これはピクセルという「四角枠」を表現の最小単位として選んだコンピュータのミニマルな「かたち」なのではないだろうか. インターネットはすべて四角でできている — sembo (@1000b) April 27, 2013 真の意味で四角い部位がひとつもない人間が作ったものなのに何故 — sembo (@1000b) April 27, 2013 ディスプレイのピクセルだって適当な形のつぶつぶが適当に並んでいるのだったよかったはずだけど、四角が整然と並んでいるのは、そのほうが情報として扱いや...

ユラユラフラフラしているモノ

この週末はICCのトーク[ インターネット アート これから つづき ]があり,ゲンロンカフェでのエキソニモのトーク「 芸術係数「夜の世界のネット・アート」エキソニモ×辻憲行  」があり,谷口暁彦さんの個展「 思い過ごすものたち 」と盛りだくさんの内容でした.どれから考えるべきなのか,頭がいっぱいいっぱいな状態です.2012年度を締めるためにも,ちょっとずつ書いていきたいな思っています. -- 谷口暁彦さんの個展については,いろいろなところで書かれてると思うのですが(写真がたくさんあります→ 谷口暁彦 個展「思い過ごすものたち」フォトレポート ),僕的にはタッチデバイスしか使っていないというところが面白いなと思ったわけです.「思い過ごすものたち」というタイトルの掴めなさ.ここにはメタファーがありそうでなくて,物語が紡がれそうで紡がれることもなく,「思い過ごしたものたち」でもなくて,「思い過ごすものたち」ということで,時制が行ったり来ている感じがして,どことどことが触れ合っているのかもわからない感じがする. なんかこの言葉の届かなさ.「でも」というか「さらに」というか,谷口さんは自分でテキストを用意していたりする.なにかこの「ものたち」と「言葉」のあいだにあるものを考える必要がある感じする.いや,言葉は必要ないのかもしれない.吊られているものたちとテキスト.水で書かれるテキスト.iPadからつられる鉛筆.鉛筆が書くテキストと水が書くテキスト.そして,揺れるiOSデバイスというものたち. 谷口さんがiOSデバイスを使っていて,そのなかでも「吊るされている」ものたちがとても気になる.天井から吊られてゆらゆらしているものたち.ディスプレイと一体となっているものたちがゆらゆらとしている.その掴みどろころのなさというのか,なんだろう.そこには吊られているものたちがゆらゆらしているものがあって,それは平面的なデバイスを際立たせている感じがした.それは「ものたち」なんだけど,ディスプレイという平面に映っているイメージでもある.それはイメージのようでありモノではない感じ.でも,それは「ものたち」.イメージが映された平面はたしかにモノたちということが重要な気がする. 例えば,天井から吊られたiPadにCGで描かれた箱に入ったティッシュペーパーが映されていて,ゆら...

パーカー・イトーのインタビューを読む

DIS Magazine に載っているパーカー・イトーのインタビュー が興味深い. パーカーはインタビューの中で「仮想」と「現実」とが統合されていっているのかと聞かれて,「それは既に起こっている」と返答している.そして,その例として出すのが,OSX10.7でスクロールの向きが逆になることと,インスタグラムのフィルターである. OSX Lion でトラックパットを用いてのスクロールの向きがSnow Leopardまでとは逆になって,指を動かす方向にコンテンツが移動するようになっている.それは,iOSデバイスでのスクロールと一致させたわけなのだが,パーカーはこのことを「自然」といっている.つまり,iPhoneなどのデバイスでより多くの人が「指を動かす方向にコンテンツが移動する」方法でスクロールしているのが,このことが「自然」となったということである.デジタルの環境に「自然」ということ言葉を使うところが興味深い. OSX Lionが参照したのは現実の環境ではなく,デジタル環境である.デジタルがデジタルを参照するようになっている.そこには独自の「自然」があって,その意味で,もはや「仮想」は「現実」を参照することなく,「仮想」が「仮想」を参照するという閉じた環境から「自然」を生み出しているといえる.これを「仮想」と「現実」との統合と捉えるかは考える余地があるが,「現実」を参照する「仮想」と言うものはここにはない.「仮想のなかに現実」があり,「現実の中に仮想」があり,そのそれぞれに位置する「仮想」が互いを参照することで「自然」を作り出すようになっている. インスタグラムのフィルターにしても,「映画のような」などではなく「インスタグラムのような」フォルターという,インスタグラムがインスタグラムを参照するということが起こっている. パーカー・イトーは徹底的に仮想やデジタルのなかで閉じた思考を行なっているのが,とても興味深い.デジタルはデジタルを参照するし,仮想は仮想を参照する.そして,それが成り立つことをパーカーは感じているし,それを作品にしている.デジタルはデジタルの円環のなかに,それを成立させるためにヒトが取り込まれていく. パーカーはインタビューの最後に,現在の作品の行き着くところはどこかと聞かれ,それはわからない,なぜならリ...

レビュー「至る所にある美を探すために」を書きました

名古屋大学大学院文学研究科付属日本近現代文化研究センター が発行している「 JunCture 超域的日本文化研究 」の第3号に,秋庭史典さんの『 あたらしい美学をつくる 』についてのレビュー「至る所にある美を探すために」を書きました. 秋庭さんの『あたらしい美学をつくる』は,科学と共にある美のありかを見つけ出していく文字どおり「あたらしい美学」をつくっている本です.読んでいると,あたらしい何かが立ち上がってくる感じで,とてもワクワクします.そこで,このワクワク感を少しでも伝えたいと思い,私はこの本で書かれている方法を使って,Twitterのなかに「美」を探しだすことにしました.そして面白いことに,「Twitter」に「美」を探していくと,「集合論が多を統べる一を持ち込むとは考えない」という点で,しかもしれが「神抜き」で起こるというとこで,東浩紀さんの『 一般意志2.0 』と結びつきました.書評を書く前には思いもつかなかった「美」と「政治」を扱う2冊の本が結びついたのです. 興味がありましたら,『JunCture』は 笠間書院 を通して書店やネットで販売されておりますので,できれば購入して呼んで頂きたいのですが,個人としてはより多くの人に読んでもらいたいので,ドラフトを ここ [グーグルドキュメント:誰でもコメント可能になっています] においておきます.ドラフトなので,『JunCture』に掲載されているものと若干異なります.もし引用される場合は,『JunCture』を参照ください.また,『JunCture』が手に入りづらい方はご連絡ください.

映像から離れていっている

大名古屋電脳博覧会 に行って, 伊藤明倫さん の《波打つ大地,吹き抜ける瞬き》を見てきた.これは伊藤さんが去年の同じ時期に同じ場所で展示した作品 《瞬きの中,瞬きの外》 と同じ原理を作った作品です.今回の作品へのTextから引用します. 作品へのText1   このインスタレーション作品は,モニターの映像が Fade In, Out することによって生じる明るさの明滅が照明代わりになり,壁に貼られた写真作品を見ることができる,それらの空間的要素すべてを含めた作品となっています.          このような構造になっていることから考えられるのは,発光体で光るモニターによって,反射光としてしか認知できない写真が表層してくるという入り組んだ構造である事と,モニターは映像を見せる為に光るのであり,それが照明として機能してしまうことは副次的,もしくは本来意図していない現象であるということなどが上げられます.     展示室に入ると,暗い.その先に,液晶ディスプレイが2台.見る人に背面を見せて,向こう側の壁に向かって光を放っている.光は一定ではなく,不規則に明滅している.明滅する光によって,壁に張られている写真が見える.鳥の写真.ディスプレイと向かい合っている壁,その両脇の壁にも鳥の写真が貼られている.明滅する光の中で写真を見る. 部屋に光を生み出しているディスプレイの黒い背面を見つめる.この黒い物体の壁に面している平面は発光している.黒い物体から発光する光.それが何を示しているのかは,後ろからでは分からない.ただ光っている.それはただの光でしかない.それが写真を見えるようにして,そこに鳥が写っていることを示していくれる.回りこんでディスプレイに発光する面を見てみる.水面が映っている.波が映っている.波が太陽の光を反射している.もしくは光る波.反射光をカメラが捉え,ディスプレイは自ら発光する. この作品をしばらく見ていると,そこにはただの光があると思えた.ディスプレイという「何か」を表示する装置だけれども,そして実際に波を映しているのだけれども,背面から見ていると,そこにはただの光しかない.光の明滅しかない.2011年3月11日から9ヶ月たった今でも,波は津波を意識させる.波でなくても,水を使うことは...

「四人称」のためのメモのためのメモ

アイヌの人は自然に対して,私たちとは違った感覚をもっていて,そのために一人称を含んだ三人称という「四人称」を持っていた.私たちの時代には「情報としての自然」という,もうひとつの自然がある.その主な生態系がインターネットであるとすれば,そこの自然に対しても「四人称」が発生することがあるかもしれない.もうひとつの「四人称」が発生する時代.人称を自由に設定することで,リアリティが生じる時代.

「耳を澄ます」

「耳を澄ます」ことは,聴くことを可能にする範囲を拡げるための領域を増やす行為といえるが,まずは自分の態度を受動的にすること.音を受け入れることを可能にする受け身の態度を作り上げたのち,そこに音が飛び込んでくる.そのときには,そのとき人は音を聴くのであるが,それは音に呑み込まれることであるかもしれない. 「耳を澄ます」ことって,近頃少ないような気がすると思いつつ,ケータイとの関係を考えたりする.いつでも,どこでもケータイは「耳を済まし」ている,という表現はおかしいだろうか.でも,僕達のまわりにある「みえないちから」を捉えるために,ケータイはひっそりと「耳を澄ます」.でも,そのことによって,僕たちは耳を澄ますことがなくなっている.ケータイによって破られる静けさ.なにもこれは「ケータイ」だけではなくて,「ケータイ」と書いているところにいろいろなガジェットの名前を当てはめれば,それはそれで成り立つような気がする. インターネット・リアリティということで,インターネットは「耳を澄ます」ことがあるのであろうか,なんてことも考えてみる.「コンピュータの身体性」という言葉が成立すると,そこには「耳を澄ます」こともあり得ると思う.ヒトも耳を澄まして,コンピュータも「耳を澄ます」.そこで聞こえてくるのはどのような音,そして音から広がる風景なのだろうか.

メモ:仮想世界を示す映像_仮想世界への慣れ?

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マトリックス3部作とサマーウォーズ,電脳コイルから,仮想世界を考えてみる. 複数の映像→緑の映像=コンピュータの論理・バイナリ→ 白/黒の世界→ ゼロベースの発想=0から1,もしくは,0か1→ 現実と仮想とが重ね合わされた映像=インターフェイスとしての「使う」映像→ 仮想世界に触れる→ 仮想世界での私たち 3つの世界 仮想世界の前提として,至る所に映像があることが考えられるのではないだろうか? 映画からテレビ,そして,ケータイ,コンピュータのディスプレイなど.しかも,その中で映されている映像の役割が異なっている. まず映像の役割が「見る」だけでなく「使う」ようにもなったように複数化し,ディスプレイのサイズが多様化する.そして,さらに映像の用途が多様化していく.そのプロセスの中で仮想世界がメタファーからリテラルなものになっていく. 仮想世界を示すために,まず複数・大量の映像が前提となる.そこにソリッドもしくは数字で示された映像が現れる=論理・バイナリの可視化.それが何もない世界,白もしくは黒の映像をつくる=仮想世界.そこにまたソリッドな映像を作り上げるか,それともゴチャゴチャした生活の「場」のような映像を作り上げるか=仮想世界を覆うイメージの世界. ここまでが「見る」ことから,仮想世界を示す映像を考えてみたこと. -- ここからが「使う」ことから,仮想世界を示す映像を考えてみたこと. 一見すると,これらの映像を見ても何も違和感を持たない人が多いのではないだろうか.それは,私たちがふつうにコンピュータを使っているからであろう.しかし,なんとなく受け入れているこれらの映像を「触る」という点に関して改めて見てみたらどうだろうか? 私たちは仮想世界に慣れることができるのかどうかを考えることが大切である.そこは触れることができない,身体は自由に変えことができるという,私たちにとって何もかもが未体験の場所である.私たちは,まさに「今」,その未体験の場所をゼロベースから創り上げていっている.現在,映像作品として提示されている多くの映像を,仮想世界の設計のための青写真として捉えてみると,今までとは異なる映像の見方ができるのではないでしょうか.

メモ:ネットアート,動物化するポストモダン,グーグルの奇妙さ

ネットアートについてのスライドを作った.ネットアートを考えるときに,東浩紀さんの『 動物化するポストモダン 』を参照してみた.その理由は以下のことから. その分かりやすい例がインターネットである.そこには中心がない.つまり,すべてのウェブページを規定するような隠れた大きな物語は存在しない.しかしそれはまた,リゾーム・モデルのように表層的記号の組合せだけで成立した世界でもない.インターネットにはむしろ,一方には符号化された情報の集積があり,他方にはユーザーの読み込みに応じて作られた個々のウェブページがある,という別種の 二層構造 がある.この二層構造が近代のツリー・モデルと大きく異なるのは,そこで,表層に現れた見せかけ(個々のユーザーが目にするページ)を決定する審級が,深層ではなく表層に,つまり,隠れた情報そのものではなく読み込むユーザーの側にあるという点である.近代のツリー型世界では表層は深層により決定されていたが,ポストモダンのデータベース・モデル型世界では,表層は深層だけでは決定されず,その読み込み次第でいくらでも異なった表情を現す.(pp.52-53) ところがウェブの世界はそのように作られていない.そこではまず「見えるもの」の状態が定かではない.繰り返すが,ウェブページの本質はHTMLで書かれた一群の指示であり,ユーザーに見える画面は,それぞれのOSやブラウザ,さらにやモニタやビデオチップまで含めた環境による「解釈」にすぎない.しかもウェブページはブラウザを通して見なくてもよい.実際にそのソースコード(HTML)は,〈h1〉などのタグが入ったテクストとして,エディタで簡単に開くことができる.そしてそれもまた,テクストとして表示されているかぎりは,やはり「見えるもの」である.このような意味で,ひとつのウェブページには,見えるものがつねに複数あると言うことができる.(p.148) 動物化するポストモダン:オタクから見た日本社会,東浩紀 この考えから, http://wwwwwwwww.jodi.org/ などを見てみると面白いではないかと思った.このような「見える/見えない」の関係と,ネットアートの関係.そして,ネットアートにも影響を及ぼしたと考えられるグーグルと「データベース」,「見える/見えない」との関係.これらについてはまだまだ考え中. グーグ...

IAMASの卒展に行ってみた

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IAMASの卒展を見ていて,自分が求めているのが,「わからなさ」を含んだ「徹底的なわかりやすさ」なのではないかと思った.一目見て,ちょっと触っただけて有無を言わさずわかってしまうようなもの.例えば,須木康之さんの〈エスパードミノ〉は「徹底的にわかりやすい」と思う.けど,「ユビキタス」などの言葉で作者自身がしっかりと説明できるように,「わからない」部分がないような気がする.「わからなさ」なんてものは必要ないのかもしれないが,私が求めていたのは,わかって気持ちいいのだけれど,後から考えてみると,わからないところがある.でも,体験しているときは,そんなの関係なく,わかってしまうというなモノなんだと思う. エスパードミノ 「わからなさ」を含んだ「徹底的なわかりやすさ」.それは,ただそこにあるものなんだと思う.それが何かを考えることもない.ただそこにあるもの.メディアとは何かと問いを立てるのではなく,ただそこにあるものとして接してしまうような態度.ヒトが作ったものだけれど,自然なものになっているもの. 卒展の帰り,何となく「↑」の写真を撮っていた.とても久しぶりのことだった.卒展では味わえなかった「わからないこと」を含んだ「徹底的なわかりやすさ」がそこに示されているような感じがしたからだと思う.

「はしもと」さんを見ながら書き始めた「これも自分と認めざるをえない」展のメモ

「はしもと」さんがいま、僕の前で電話している。向こうは僕のことを、全く知らない。ただ同じ展覧会にいたからみたことあるなぁくらいな感じだと思う。でも僕は、「はしもと」さんが僕と同じ身長・体重だということを知っている。と、キーボードを打っているあいだに、「はしもと」さんはいなくなってしまった。 じっくり考えたい。けど、《指紋の海》は、かわいい。指紋をかわいいなんて思ったことは、今までなかった。一度見失って、再び自分のところにもどってくるときのかわいさといったら、もうなかった。かわいすぎるぞ、僕の右手の人差し指の指紋。ここでおもしろいのは、僕が指紋を「かわいい」と思っていること。自分から切り離されたも自分の一部だから「かわいい」と思っているのかもしれないけれど、普段、綺麗な黒い本についたり、iPhone についている自分の指紋はいやーだなと感じることが多いので、いつもは指紋のことを自分との関わりよりも、手が触れたモノの表面を汚す存在として見ているのかもしれない。けど、この作品では、とても「かわいい」と思ってしまう。そこは考えるべきところ。映像の力や、自分との関わりとかいろいろ。あとは、カーソルとの比較もしてみたい。 《2048》はとても好き。まだ人があまりいなかったので、何度もやってしまった。自分の光彩が数値化される。どこまでが自分か、自分では消しながら確かめる。けど、ここでは自分のことは自分では決めることはできない。「自分を消す」という行為自体も変だけれど、それがたんなる0と1の数字の列にすぎないから、自分では自分を消しているという感覚も実はなかったりしたのだけれど、あのピーター・バラカンの声で「まだあなたです」と言われてしまうと、そこに提示されているのが「まだ自分である」と思ってしまう。そこでさらに数字を消すのだけれど、それは自分だから、自分を一所懸命に消すことなる。自分ではなくなるために、一所懸命に数字の列を消すこと。「もうあなたではありません」と言われて納得してしまうこと。しかも、ピーター・バラカンの声で!

小さな装置

今までメディアといえば映画,テレビ,新聞などであったが,それらがコンピュータをはじめとするデジタル技術によってひとつにデバイス,例えば,スマートフォンや iPad などに統合されつつある.メディアは,私たちの手で持つことができる軽くて,小さな装置になっている.現在,私たちはメディアをモノとして体験している. このように考えるのは,私が普段使っているコンピュータのグラフィカル・ユーザ・インターフェイス(GUI) を人類の歴史の中でどのように位置づけられるのかを研究してきたことによる.マウスとキーボード,ディスプレイで構成される GUI は専門家の間では,不完全なものであり,新しいインターフェイスを早く開発しなければならないと言われ続けた.しかし,私たちの多くが GUI を今も使っているのはなぜか.私はこの疑問を,効率を求める工学的知ではなく,人間の本質を考える人文的知によって明らかにしたかった.ここから得たのは, GUI はヒトとコンピュータがコミュニケーションを行いながら共に進化していくためのメディアであり,それは私たちの行為と考え方を変える力を持つ小さなモノなのだ. GUI を一般化させたのがアップル社だったように,私たちのメディア体験を大きく変えていく小さな装置を生み出すのは,アメリカの企業である.それはなぜなのだろうか. 「アップルはテクノロジーとリベラルアーツの交差するところに立つ会社,我々はベストなテクノロジーをつくりたいと思っているが,それを直感的にしたいと思っている.この2つのコンビネーションが我々にiPadをつくらせたのだ.」これは,iPad を発表した際にアップル社のCOE(最高経営責任者)のスティーブ・ジョブスの言葉である.アメリカには開拓者精神がある.そして,この精神が現在切り開いているのが,教養と技術とが交差している場所なのだ.人類が今まで培ってきたあらゆる知を技術と交差させることで開かれる地平があるのだ.それをアップルは iPad という小さな装置で実現しようとしている. アップルだけではなく,グーグルもまた教養と技術とが交差する場所にある.グーグルが行っているのは,誰もが地球上の全情報にアクセスできるようにすることである.人類は自分たちで作り出した知識を分類・整理・保存するために図書館を作った.グーグルはこの図書館を技術の...

イメージという触角|カフカ「変身」|運動能力

ある朝,不安な夢から目を覚ますと,グレーゴル・ザムザは,自分がベッドのなかで馬鹿でかい虫に変わっているのに気がついた.甲羅みたいに固い背中をして,あおむけに寝ている.頭をちょっともちあげてみると,アーチ状に段々になった,ドームのような茶色の腹が見える.その腹のてっぺんには毛布が,ずり落ちそうになりながら,なんとかひっかかっている.図体のわりにはみじめなほど細い,たくさんの脚が,目の前でむなしくわなわなと揺れている.(p.32) 「変身」in『変身/掟の前で 他2編』カフカ,丘沢静也訳  ヒトはコンピュータと言うモノを生み出して,グレーゴル・ザムザのように境遇に置かれているのではないだろうかという気がしている.今までの身体の形から,別の形へ.別の形になるということは,新しい行為をすることになり,認識も変わっていく. 最初は,下半身からベッドを抜けだそうと思った.だがその下半身は,まだ見たこともなく,どんなふうになっているのか想像もつかないが,あまりにも動かしにくい.動きがじつにのろい.とうとう腹立ちまぎれに,力いっぱい,がむしゃらにからだを前に突きだしてみたら,方向をまちがえて,ベッドの柱脚の下のほうに激しくぶつけてしまった.焼けるような痛みを感じた.この下半身こそ,さしあたり自分のからだで一番敏感なところかもしれないと学習した.(p.39) 私たちは,コンピュータと組み合わさった自分の全体を見通すことがまだできていない.コミュニケーションの仕方云々よりも,自分たちの身体をしっかりを見ることが大切なのではないだろうか. 自分の現在の運動能力がまったく分かっていない,ということを考えず,それどころか,自分の演説がもしかしたら,いや,おそらく理解されなかったのではないか,ということすら考えずに,もたれかかっていたドアから離れ,開いているドアを通って,マネージャーのところへ行こうとした.マネージャーはもう家の前の踊り場の手すりをおかしな格好でつかんでいる.だがグレーゴルは,からだを支えるものがなくなったので,あっと小さく叫びながら,すぐに倒れ,たくさんの細い脚で着地した.その瞬間,この朝はじめて,からだが楽だと感じた.たくさんの細い脚で,しっかり床に立っている.うれしいことに,脚は完全に思いのままに動く.それどころか,...

デスクトップ・メタファーと「ディスプレイ行為」 

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ここで,デスクトップ・メタファーが生み出されたパロアルト研究所に考察の対象を移したい.なぜなら,この研究所において,ディスプレイ上の対象物を指さすための道具であったマウスに,次々に新たな行為が付け加えられることになるからである. パロアルト研究所では,1973年に,アルト(図4-4)と呼ばれるシステムが開発された.アルトは,アラン・ケイや,バトラー・ランプソン,チャールズ・サッカーが中心となって開発された実験的なワークステーションであり,その大きな特徴は,ディスプレイ上のピクセルがメインメモリのビットに対応するビットマップ方式を採用していたことである.この決定は,ヒトが環境の情報を最も捉えることができる視覚を重視したインターフェイスを提供することが,マシンとソフトウェアの最大の目的であるという開発者たちの認識から導かれたものであった.そして,アルトのインターフェイスでもうひとつ重要なことは,ポインティング・デバイスとして,マウスが採用されたことである.当時,マウスは,入力デバイスとしては馴染みの薄いものであったが,スチュワート・カードによる実験によって,マウスが,ディスプレイ上の対象を指示するのに最も適したデバイスということになり,標準装備されることになった.4-42) 視覚重視の考えと,ヒトの手の原初的な感覚をコンピュータに持ち込むマウスという道具が,アルトというワークステーションで出会うことになる.     図4-4 ゼロックス社 アルト 視覚重視のアルトは,ディスプレイ上のイメージを自由に表示することができた.このことは,ディスプレイ上のイメージが示すアフォーダンスの直接的な知覚に基づく指さし選択行為とマウスとの関係に影響を与えた. エンゲルバートのシステムでは,マウス・カーソルのイメージは,単なる点であった.しかし,アルトでは,カーソルの形は,矢印(→)になる.カーソルの形が,矢印ではなく点であっても,ディスプレイ上のイメージを指さす選択行為を遂行することはできる.では,なぜ形が変わったのか.それは,ディスプレイ上のイメージを自由に表示できるようになっために,指さし選択行為の遂行に,より適したアフォーダンスを示すイメージを表示するようになったと考えることができる. ここでは,身体的行為を導くアフォーダンスとディスプレイ...

マウスとカーソル:カーソルによる選択行為

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コンピュータのディスプレイで表現されている世界は,現実の世界ではないという単純な事実を考えなければならない.そこは,もともと,コンピュータが複雑な論理計算を瞬時に行って表示しているものにすぎない論理の世界であったはずである.そして,論理の世界は,ヒトの身体を排除しているものとして,レイコフとジョンソンが批判したものである.4-21) この事実は,コンピュータによって作り出されるディスプレイ世界には,元来,メタファーの基盤となるヒトの身体が存在していなかったことを示しているのではないか. しかし,レイコフとジョンソン,楠見,久保田の説明では,コンピュータの論理の世界に,いつ,どのようにして,私たちの身体が入り込んでいったのかということは考えられていない.ここから,ヒトの身体が,コンピュータとのコミュニケーションに入り込んでいくプロセスを詳しくみていく必要がでてくる.そして,そこには論理の世界にメタファーが立ち上がっていく様を捉えるという興味深い問題がでてくるはずである. メタファー形成の基盤となるイメージ・スキーマは,基本レベルの行為の繰り返しによって生じるものであるから,身体経験の基本レベルとコンピュータとの関係から考察していかなければならない.よって,私たちが,デスクトップ・メタファーについて,はじめに考えるべきことは,このメタファーが生み出される前に,ヒトの身体経験がその基本レベルで.コンピュータの論理世界に何らかのかたちで入り込んでいたのではないか,ということになる.この問題への手がかりを,シェリー・タークルは与えてくれる.彼女は,デスクトップ・メタファーを一般化したマッキントッシュのインターフェイスについて,次のように書いている. マッキントッシュのインターフェイス──実際はその画面──は,実物の机をシミュレートしている.私のアップルⅡの CP/M システム4-22) のような,論理的コマンドで操作される論理的インターフェイスではなく,たとえ二次元とはいえ,ヴァーチャル・リアリティだったのだ.この世界では,空間を進むのと同じように情報の中を進む.実際,マウスを手にして平面上で動かせば,その物理的な動きが,通常は矢印か指の形である指示アイコンによって,画面に反映されるのがわかるだろう.4-23) このタークルの記述には,「論理的コマンドで操作される論理的イ...