パーカー・イトーのインタビューを読む
パーカーはインタビューの中で「仮想」と「現実」とが統合されていっているのかと聞かれて,「それは既に起こっている」と返答している.そして,その例として出すのが,OSX10.7でスクロールの向きが逆になることと,インスタグラムのフィルターである.
OSX Lion でトラックパットを用いてのスクロールの向きがSnow Leopardまでとは逆になって,指を動かす方向にコンテンツが移動するようになっている.それは,iOSデバイスでのスクロールと一致させたわけなのだが,パーカーはこのことを「自然」といっている.つまり,iPhoneなどのデバイスでより多くの人が「指を動かす方向にコンテンツが移動する」方法でスクロールしているのが,このことが「自然」となったということである.デジタルの環境に「自然」ということ言葉を使うところが興味深い.
OSX Lionが参照したのは現実の環境ではなく,デジタル環境である.デジタルがデジタルを参照するようになっている.そこには独自の「自然」があって,その意味で,もはや「仮想」は「現実」を参照することなく,「仮想」が「仮想」を参照するという閉じた環境から「自然」を生み出しているといえる.これを「仮想」と「現実」との統合と捉えるかは考える余地があるが,「現実」を参照する「仮想」と言うものはここにはない.「仮想のなかに現実」があり,「現実の中に仮想」があり,そのそれぞれに位置する「仮想」が互いを参照することで「自然」を作り出すようになっている.
インスタグラムのフィルターにしても,「映画のような」などではなく「インスタグラムのような」フォルターという,インスタグラムがインスタグラムを参照するということが起こっている.
パーカー・イトーは徹底的に仮想やデジタルのなかで閉じた思考を行なっているのが,とても興味深い.デジタルはデジタルを参照するし,仮想は仮想を参照する.そして,それが成り立つことをパーカーは感じているし,それを作品にしている.デジタルはデジタルの円環のなかに,それを成立させるためにヒトが取り込まれていく.
パーカーはインタビューの最後に,現在の作品の行き着くところはどこかと聞かれ,それはわからない,なぜならリブログされ続けるからと答えている.終わりなんてないのである,あるのは,延々のリブログ.デジタルの世界でのリブログで作品が回り続けるのである.
そしてこうしたパーカーの姿勢は,インターネットや現代文化への批判などではなく,それらにとても誠実に接することから生まれていることがさらに興味深い.インターネットとともにあり,インターネットとともに考え,インターネットで考えること.