投稿

ラベル(image-object)が付いた投稿を表示しています

メモ:脱着可能なサーフェイスとイメージ/オブジェクト

肝要なのは,全面化されたeコマースにおいては常に「物」(=商品)の「情報」がその“実質”に先行し,そのことで従来であれば自己完結的であるはずの「物」(=商品)が「情報」と“実質”とに乖離と“ブレ”を起こすことである.「物」は「情報」に遅れて遣ってくると言ってもよい.そして「物」(=商品)におけるこうした乖離,“遅延”を埋めるオペレーションこそが顧客の観点からのあるいは情報社会に固有な意味での〈流通〉に他ならない.  〈流通〉の社会哲学 アマゾン・ロジスティック革命の情報社会における意義,大黒岳彦 in 現代思想 2018.3月号 物流スタディーズ 大黒は物を「情報」と「実質」との分離させているけれど,『融けるデザイン』のように物を「情報」と「持続」とに分離させてもいいのかもしれない.どちらにしても,情報が先行していくというのは,「イメージ主導で生まれるあたらしいオブジェクト」で「イメージがモノの支持体になる」と書いたことにつながると思う. ヴィアカントの「イメージ・オブジェクト」に代表されるポスト・インターネットではイメージが前面に出ていましたが,徐々にオブジェクトの状態が注目されるようになりました.そして,ポスト・インターネット以降とも言える現在は,シトレイアとトロエメルによる「UV Production House」やエキソニモの《キス,もしくは2台のモニタ》が示すようなイメージに主導されるかたちのあたらしいオブジェクトが現われてきています.それは,イメージの可変性をオブジェクトそのものに適応させて,イメージでオブジェクトを覆ってしまう試みなのです.  イメージ主導で生まれるあたらしいオブジェクト 先行するイメージに覆われるようなかたちでオブジェクトを作成すること.物=オブジェクトの情報=表面は先行して作成される.それに合わせて,オブジェクトが持続するようにつくられる.イメージとオブジェクトとが一度分離している.そして,分離したブレを吸収するかたちで,イメージに合わせてオブジェクトを制作する.しかし,Amazonなどのeコマースでイメージとオブジェクトとが一度分離しているならば,イメージを分離したままのオブジェクトも存在できるようになるだろう.そして,乖離したブレを情報に担わせたままインターフェイス化したのが ...

artscape_イメージ主導で生まれるあたらしいオブジェクト ──ポスト・インターネット以降のイメージの流通から考える

イメージ
artscape に 高尾俊介 さんといっしょに「 イメージ主導で生まれるあたらしいオブジェクト ──ポスト・インターネット以降のイメージの流通から考える 」を書きました.編集者の水野雄太さんからのお題が「ポスト・インターネット以降のイメージの流通」だったので,ポスト・インターネットを振り返りつつ,2018年におけるイメージとオブジェクトの話をしています.水野さんの丁寧な編集とW水野に挟まれた高尾さんによる実践的かつクリティカルなテキストによって,読みやすく,かつ,興味深いテキストになっています😊 これ読んでから水戸芸術館で開催されている「 ハロー・ワールド ポスト・ヒューマン時代に向けて 」展で実際に エキソニモ の《キス、もしくは2台のモニタ》を見たり,ヒト・シュタエルの《他人から身を隠す方法:ひどく説教じみた.MOVファイル》などを見るとおもしろいと思います👀 「イメージがオブジェクトの支持体となっているのです。」、、、!😳  https://t.co/U9Ql93lu7d — にわあやの (@aya_carry) 2018年2月15日 アーティストのにわさんがツイートしてくれたこの部分は,自分でもまだしっかりとは理解できていないのですが, エクリ での連載「インターフェイスを読む」の最終回「 場に顕れるソフトウェア、隠れるオブジェクト 」 で書いた「ハードウェアの上に成立していたソフトウェアがハードウェアを包み込むサーフェイスとなる」につながっていると思います.これまでとは異なるパースペクティブでイメージとオブジェクトを見ることが求められているような気がします💡 そして,渡邊恵太さんの以下のツイートにも関係するかもと考えています📡 1)とにかくこれまでの事象を全部ソフト、プログラムでやる 2)その出力の機能性能、体験性能が追従するかは大事(例3Dプリンタ) 3)インタフェース、インタラクション手法が大事 — 渡 邊 恵 太 (@100kw) 2018年2月11日 3は、全部ソフトでやろうとすると、こんな方法じゃそれできないよ!毎回プログラム書くの?話になるところに、ユーザインタフェースを提供したりインタラクション設計が入ってきて、おおこれなら今までと同じような直感的な方法で...

THE COPY TRAVELERSとのトークのメモ

イメージ
http://thejogging.tumblr.com/soon アーティスト,Brad Troemelらによって運営されているTumblr,「the jogging」では日用品を使ったオブジェだったり,たんなるネタ画像のようなコラージュなど,雑多な画像が投稿されているが,the joggingが2013年に行った「Soon」という展覧会では,ネジで壁面に生魚を固定した作品や,スイカを積み上げた作品など,the joggingのTumblr同様に, Photoshopで適当に合成されたような珍奇な彫刻作品 が展示されていた.それらの作品は,どれもその形を維持出来る時間がごくわずかな素材で出来ていて,実際の会場ではすでに崩壊したり,腐敗していて,設営直後に撮影された画像の中だけで成立しているような作品だった. Tumblrで先鋭化されたコンポジションのスタイル が,現実の空間で展開されることで,Tumblrと現実の空間それぞれで要請される時間性の差が,現実の空間での素材の腐敗,劣化として現れる展示になっていた.(p.89) 「彫刻とポスト・インターネット」のための覚え書き, 谷口暁彦 in MASSAGE 10 https://www.google.com/design/spec/material-design/introduction.html# マテリアルはメタファー 光と影 http://www.artievierkant.com/imageobjects.php ギャラリーで作品を見続けても意味がないと思った. これらの例において,それぞれの作品や展覧会は,インターネットと現実の空間との間にある齟齬や,緊張関係にその成立条件があったと言える.それは,一つの閉じた窓として成立する絵画や画像ではなく,その作品の周囲をぐるりと見て周ることができる「彫刻」であるからこそ,必然的にその作品の周囲で空気のように充填された空間を巻き込むことになるからだ.そしてその空間は,たんにヴァーチャルか現実かという対立にあるのではなく,その両者が対立と調停を繰り返すような,展開された場としてあるのではないだろうか.(p.89) 「彫刻とポスト・インターネット...

デジタルな現象をそのまま扱うということは,モダニズム的な態度

イメージ
ucnvさんとのトークで「アーティ・ヴィアーカントの画像はそこにあったものをそのまま映していて,そこで生成されているわけではない」というようなことをucnvさんが言ったことがずっと気になっている. ヴィアーカントのイメージオブジェクト で展示の記録として撮影された画像は,そこで起こっている現象をそのまま記録している.もちろん3次元を2次元に変換するときの欠損はあるけれども,それでもそこで起こっている現象をそのまま記録している. その後,Photoshopでその画像が加工される.このときヴィアーカントはスタンプツールを主に使って,その展示会場で一度記録された色情報以外のものを使っていないということを,ucnvさんの指摘で気付かされた.これはとても大切なことような気がしている.展示空間を記録して,それを加工しているというのはこれまでの写真の見方で,ヴィアーカントは展示空間をスキャン=撮影して,デジタル化して,色情報が集積された平面にしていて,そこにもともとある色情報のみを使うことをルールにしているのかもしれない.スキャンというデジタルの現象をそのまま扱う.そこで生まれた情報のみを扱うという感じだろうか.スキャンによって空間を色情報をもった平面=テクスチャに変換する.そこでは空間や作品画像といった区別はなくなり,すべてが色情報になる.ただ,そこにあるもの以外は使えない.一度のスキャンという現象でうまれる情報だけを扱うこと. 「Vacant Room」での360度写真で感じたことは,見えない部分が生まれるということ.それは一度では見ることがなくなる.「フレームの外」が生まれること.現実も視点からしょうじる視界フレームによって「フレームの外」が生まれる.写真は「フレームの外」をなくして,「フレームの中」だけにする.360度画像には「フレームの外」がある.この感じが,空間をスキャンして色情報として「フレームの中」に閉じ込めるヴィアーカントのイメージオブジェクトと似ている. 「フレームの外」を感じさせる「Vacant Room」と「フレームの中」だけの「イメージオブジェクト」が似ているというはどういうことか.似ているというよりも,それが両立し得るのがデジタルという現象なのではないか.「Vacant Room」のとなりに「イメージオブジェクト」があっても,...

シンポジウムの個人的振り返り

イメージ
スライドの PDF .発表の 音声データ . 発表のはじめに「画像は2ないしそれ以上の状態を包含する可変的条件」から「ポスト・インターネットにおける画像について」とタイトルを変更した.でも,先のタイトルはマクルーハンに引きつけられているので,「ポスト・インターネット」と言った方が発表にあっているかなと思ったからですが,今あらためて考えてみると「画像は2ないしそれ以上の状態を包含する可変的条件で成立する」とすればよかったのかなと思う.いや,発表にもでてくるけれど,「画像は2ないしそれ以上の状態[XYZ軸]を包含する可変的条件で成立する」とすればよかったのかもしれない. ポスト・インターネットでの画像はXVY軸で成立している.XYZ軸というのはレイヤー構造をZ軸にするということだけではなくて,そのZ軸というのはこれまでの画像のありかたにあたらしく付け加わった「Instagram」などウェブサービスも含めるような画像のあり方を拡大したものが入る軸と考えればいいだろうか. 帰りのタクシーのなかでインターネット・リアリティ研究会でいっしょの渡邉朋也さんに「水野さんは画像と写真をどのように考えているのですか?」と聞かれた.そのとき,ジャン・ボードリヤールが『消滅の技法』で 写真の強度は,どこまで現実のものを否定し,新しい場面を作り出すことができるか,によって決まる.ある対象[オブジェ]を写真に変換するということは,そこからあらゆる特性をひとつひとつ引き剥がしてくることだ───重さ,立体感,匂,奥行き,時間,連続性,そしてもちろん意味を.このように実在を削ぎ落としていくという代価を払って,イメージは魅惑する力を身につけ,純粋に対象を志向する媒体となり,そしてモノの一層狡猾な誘惑の形態を透かしてみせる.もっとよくしよう,もっとリアルにしよう,つまり,もっとうまくシミュレートしようとして,立体感,動き,感情,観念,意味,欲望等のあらゆる次元をひとつひとつまた付け加えることは,イメージに関する限りまったくの逆行である.しかも,技術そのものまでがここで自縄自縛に陥っている.(p.10) と書いているところから,特性を引き剥がしていって「1」となっているものが「写真」で,次元をひとつひとつ付け加えて「2以上」になっているのが「画像」と答えた.上のXYZ軸と絡...

シンポジウムのためのメモ_#BCTION #10F/to.beについて

イメージ
日曜のシンポジウム に向けて,画像について考えているのですが,そんなときにexonemoの「 #BCTION #10F 」がはじまったりして,それを体験していたら,少し前から考察したいなと思っていた「 to.be 」というサービスを思い出して,その紹介ビデオを見たり,体験したりしている. 「#BCTION #10F」は3枚までの画像をコラージュしていくもの.「#BCTION」というハッシュタグをつけられてInstagramに上げらていく画像.そこにはInstagramらしさがある画像がたくさんあるというか,InstagramにあげられるとそれだけでInstagramフィルターがかかるか,画像は変化する.それらをコラージュしていく.3枚の重ね順とか透過のさせ方とかは「shuffle」ボタンを押すだけであとはお任せ,できたらツイートするだけ誰でも参加できて,それがまたコラージュされていく.千房さんもFacebookで書いていたけれど,アーティ・ヴィアーカントの「イメージ・オブジェクト」のように画像はリアルの会場とはちがうものなのだけれど,会場を意識してしまう.ただ,僕は「#BCTION #10F」をやろうとして画像を見ているので,リアルの会場への紐付けはあまり感じなかったところが興味深い.3枚の画像でどのようにコラージュをつくるのかというに意識が向かっていたように思える.会場を見てきたら,また意識が変わるのだろうか. ちかごろ「調整レイヤー」の機能がネットとリアルとをつなぐひとつ方法論になるのではないかと考えいたりします.その下にある複数のレイヤーに対して非破壊的に変更を加えることできる「調整レイヤー」.それ自体はピクセル情報もたずに下のレイヤーとの「ちがい」しかもたないレイヤー. 今回の「#BCTION #10F」説明文には, 「BCTIONビルの10階はインターネットだ」という妄想にもとづいて,ハッシュタグの上でおこなわれる展覧会. 誰でも参加できるハッシュタグという仕組みは,同じく誰でも参加できるストリートと等しい条件を備えている. 街の風景を「描き変える」ことから始まったストリートアート. ネット上にあふれるBCTIONのイメージをREMIXして,ネットならではの新しいBCTIONを生み出すことを目指す. 現代のストリートとも...

シンポジウムのための抜き書きとメモ

「 シンポジウム_デジタルメディア時代の視覚と世界変容 」のための抜き書きとメモ メディア論,マーシャル・マクルーハン 電気の知識を獲得して以来,われわれはもう原子を物質として語ることはできなくなった.このことは大多数の科学者がはっきりと認識していることである.さらに,電気の放電やエネルギーに関する知識が増すにつれて,電気を水のように電線の中を「流れる」ものだとか,バッテリーの中に「含まれる」ものだとか考える傾向も減ってきている.むしろ,全般的に,電気は画家にとっての空間のようなものだとみなす傾向になる.すなわち,電気は,2ないしそれ以上の物体の特殊な位置関係を包含する可変的条件,とみなすのである.もはや,電気が何かに「含まれる」とする見方はない.画家たちは,かなり以前から,対象物は空間の中に含まれるものではなくて,みずからの空間を生み出すものであることを知っていた.(pp.164-165) Most scientists are quite aware that since we have acquired some knowledge of electricity it is not possible to speak of atoms as pieces of matter. Again, as more is known about electrical "discharges" and energy, there is less and less tendency to speak of electricity as a thing that "flows" like water through a wire, or is "contained" in a battery. Rather, the tendency is to speak of electricity as painters speak of space; namely, that it is a variable condition that involves the special positions of two or more bodies. There is no longer any tendency to ...

告知:「日本のグラフィックデザイン2014」 トークイベント

イメージ
7月28日(月)に「日本のグラフィックデザイン2014」 トークイベントで話します.何を話そうか今考ているのですが,アーティ・ヴィアーカントの「イメージ・オブジェクト」のアイデアと企業のロゴを用いた2014年の展示[下の動画が展覧会の予告です]を中心にこれまでの展示を紹介しようかなと思っています. お時間がある方は,是非聞きに来てください! トークの詳細 トーク1「インターネット以降のグラフィックデザイン」 インターネットが一般化し、あらゆる情報が瞬時にして共有される現在、グラフィックデザインのあり方はどのように変化してきているのか。興味深い事例を紹介しながら、グラフィックデザインとデジタルメディアの接点について、研究者の水野勝仁氏と、グラフィックデザイナーの双方からアプローチしていきます。 日時:2014年7月28日(月)19:00-20:30(受付:18:30) 場所:インターナショナル・デザイン・リエゾンセンター (東京ミッドタウン・デザインハブ内) ゲスト:水野勝仁(インターフェイス、メディアアート研究者)、田中義久(JAGDA会員)、菊地敦己(JAGDA年鑑委員)、田中良治(JAGDA年鑑委員) 参加費:1,000円(1ドリンク付) *JAGDA会員・フレンドメンバーは無料(賛助会員は1社につき2名まで) *原則的に、事前クレジット払いでの受付となります。 定員:100名(それ以上は立見の可能性あり) 東京ミッドタウン・デザインハブ : http://designhub.jp/ 展覧会「日本のグラフィックデザイン2014」ページ : http://designhub.jp/exhibitions/1111/ 本イベント詳細ページ : http://designhub.jp/events/1155/

ISEA2014_500w_2_in English

[Hi, nice guys in the internet! please check my English!] ISEA2014_500w_2_in English According to Julian Stallabrass' 'The Aesthetics of Net.Art,' net.art has no aesthetic attention because it does not have a material form.  Recently, contemporary art is becoming the immaterial. It is natural that the contemporary art is entering or stepping on the internet  at the point of immateriality.  Furthermore, Stallabrass described that; "The ‘objects’ of Internet art are far from being conventional art objects. They are not only reproducible without degradation but are almost free to transmit (or rather, once the initial outlay has been made, the marginal cost of each transmission is close to zero)." This point is concerned with the immateriality of art; the internet art can show art works anywhere as  almost perfect copies because of its immaterial nature. Internet art has no "original"; it is a huge difference from contemporary art that must have the ori...

ISEA2014の500w_アブストラクトのためのメモ_2

Julian Stallabrassによれば,ネットアートは非物質せいゆえに美学的アピールが弱いとされてきた.しかし,コンテンポラリーアートもどんどん非物質性を帯びるようになってきた.となると,コンテンポラリーアートがインターネットに参入・介入してくる流れは「非物質性」という点では既定路線だったと考えることができる. Julian Stallabrassはインターネットアートの「オブジェクト」と従来のアートのオブジェクトとは全く異なっていると指摘する.その理由は,劣化なきコピーが可能であるだけでなく,移送のコストがほとんどかからないということであった.これは「非物質性」と大きく関わってくるところである.ネットアートは「非物質性」ゆえに,劣化もせずにコピーが可能であり,それゆえに伝送コストもほとんどかからない.これらの性格ゆえに,ネットアートは物質的基盤をもつコンテンポラリーアートの美的性質とは異なるところにあった.しかし,コンテンポラリーアートもまた「非物質性」を帯びるようになり,これらの性質を利用するようになった. 多分にネット寄りの作家ではあるが,ネットアーティストとは言い難いアーティ・ヴィアーカントのエッセイ「ポスト・インターネットにおけるイメージ・オブジェクト(The Image Object Post-Internet)」が示すように.インターネットを少しでも意識している作家は物質的なオブジェクトとデジタルデータとをほぼ同じものとして扱うようになってきている. 作品を展示する側のギャラリーもこのネットの性質をうまく利用して,展示作品をJPEG画像でネット上に拡散していく.作品のJPEG画像のみの展覧会である'Send Me the JPEG' はこの状況を皮肉ったものであるが,英語圏のアートマーケットはアート作品自体が物質的なものから非物質的なものへと移行しつつあるなかで,オークションを開催するなどして,非物質的な作品に積極的に価値をつけていく方向に向かっている.それは,非物質的ゆえの劣化なきコピーとほぼコストゼロでの伝送というこれまでにない作品の性質をあらたな価値として提示するために,アートマーケットがインターネットというあたらしい伝送システムを「アートワールド」という物質的基盤に構築された既存のシステムに取り込もうとして...

「Compression Artifacts」が示す「イメージ」という語の重心の移し方

Compression Artifacts っていうグループ展、例によってArtie Vierkantとか参加してるしどこからどこまでが現実なのかもうわからん。 http://t.co/lcxcQdBZG2 — Akihiko Taniguchi (@hikohiko) April 2, 2014 という谷口暁彦さんのツイートで知った「 Compression Artifacts 」 というグループ展? 実際に開催されたのかどうかもあやしい. Joshua Citarella のサイトでは「Work」ではなく「Projects」にカテゴライズされていて,そのカテゴリーには他にPhotoshopのpsdファイルのみで構成されている「 the PSD show 」と日々tumblrに「アート的な」画像をアップし続けている「 Jogging 」がある. 「the PSD show」と「Jogging」はオンラインの活動だが,「Compression Artifacts」はリアルでの活動に重きを置いているというか,このリアルへの重心の置き方がおかしい.どこかの林のなかに展示空間をつくって,そこで展示を行うということが行なわれたらしい.展示後は展示施設は取り壊され,作品は燃やして灰になったとしている.だから,展示が行なわれたかどうかを示すのは,サイトにあげられている画像と関係者の記録・記憶のみとなる. 谷口さんも名前を出しているアーティ・ヴィアーカントのカラフルな作品が正面と左側の壁にかかっているが,彼のイメージ−オブジェクトという考え方が今回のグループ展の基底にはあるのだろう.インターネットが当たり前になったポストインターネット的状況では,リアルな空間に実際に展示したオブジェクトよりも,それを撮影して,より良く見えるようにPhotoshopで加工したイメージのほうが多く人の目に留まるし,それが作品の善し悪しを決めるものになりつつあるとヴィアーカントは考えている.そして,ヴィアーカントは展示の作品の原型を辛うじて留める程激しく加工した画像をネットにあげる.そこではリアルの展示が第一で,ネットはそれを補完するものだとする序列はなくて,ヴィアーカントにとってはどちらも作品して等価なものとして扱われる. 「Compression Artifacts」はど...

メモ:Artie Vierkant Usage Pendingに関するメモ

イメージ
ニューヨークの Higher Pictures で開催されているアーティ・ヴィアーカントの展示から.アーティが今までやってきたimage-objectsとExploitsというふたつのシリーズを合わせた展示なっている. image-objectsは展示したブツの画像を加工したイメージとセットで見せるというか,加工したイメージの方がインターネットで多く見られるよねというもので,Exploitsシリーズは「知的財産」に関するもの.個人や企業がもっている「知的財産」をアーティが彼らに交渉して使えるようにするもの. 今回の展示ではおそらくPolaroid社のロゴを使ってimage-objectsを作成していると思われる.そして,それはロゴをつかっているということでExploitsシリーズにもなっていて,交渉はうまくいっているみたいだけれど,最後のつめが残っていること,ということがプレスリリースに書いてあった. image-objectsシリースは展示されているモノを加工してネットに流すから,今回もモノがとてもボカされているのはまさにアーティらしいな感じがしていたのだけれど,プレスリリースを読むと今までよりもひねってある気がする.それは今回の「ボカシ」加工が「知的財産」に関わるという実際的(アクチュアル)な問題で行なわれているのではないかと考えてしまうから. アーティの活動をおっているとモノとイメージとの境目がわからなくなってくるし,そこに社会的規範というか決まり事としての「知的財産」という,モノでありつつ,モノではなくアイデア=イメージの部分に関わるものを絡めせてくるのがうまいなと思う. −− エキソニモがGoogleの検索画面を描いた《 Natural Process 》は,最初はネットの画像を絵画というモノにして,それをまた画像化するプロセスだった.けれど,その後で再び《Natural Process》を展示しょうとしたときには,そこに「知的財産」ではないけれど,大人の事情が絡んできて,展示ができなかった.でも,その後,エキソニモはしっかりと《Natural Process》を個展でアップデートしていた. ネットを流通していくイメージに「知的財産」がまとわりつくような感じは,ネットが「リアル」と等価値になっていく...

メモ:「貧しい画像」はもうない

2007年に書かれたHito Steyerlの「 In Defense of the Poor Image 」には,高解像度画像の劣化版ではなく独自の存在となった低解像度画像のことが書かれている.2007年といえば,iPhoneが発表された年であるが,インターフェイスでの大変動ともともに画像の認識においても大きな変化が起こっていたと考えるべきであろう. 「In Defense of the Poor Image」の出だしの一文「The poor image is a copy in motion.|貧しい画像は動きのなかでのコピーである」は,「貧しい画像」がもともと「コピー」であり,ネットでの画像流通という「動き」に関係していることを端的に表している.「貧しい画像」は低解像度であっても,実際にはコピーではなく,オリジナルの画像であることもあるかもしれないが,「貧しい画像」と呼ばれる低解像度画像が「コピー」に近い存在で,ネットに流通しているという認識が重要なのである. 低解像度の画像に対してはどこかに「高解像度画像=オリジナル」があるという認識が対として存在しているが,Steyerlはこの認識を間違ったもとして糾弾する.低解像度画像は高解像度画像とは異なる存在意義をもつというのが,Steyerlの主張である.ネット上を隈なく「流通」していくことこそが,低解像度画像の存在意義なのである.ネットは通信速度の制約から高解像度画像は流通しにくい.それゆえに,画像は解像度を落とされ,データ量を減らされたかたちで流通していく.画像は流通すればするほど人目につくようになる.このことこそが「貧しい画像」に求められていることなのである.そこには解像度の高さによる画像の真正さではなく.いかに人目につくのかというあらたな評価基準が適用される.このあたらしい評価基準のもとでは「アウラ」の出現もまた変わってくると,Steyerlは主張する.「オリジナル」が示すアウラのように,それがいつまでも確かに存在しつづけるからこその価値ではなく,「コピー」のはかさなさゆえに「アウラ」が生じるとされる.ここで「アウラ」という言葉を双方に適用していいかは疑問であるが,現在において「アウラ」という存在も変わっていることは間違いない. 論考の最後にSteyerlは「貧しい画像」はリアルな存在が放つオリ...