メモ:「貧しい画像」はもうない
2007年に書かれたHito Steyerlの「In Defense of the Poor Image」には,高解像度画像の劣化版ではなく独自の存在となった低解像度画像のことが書かれている.2007年といえば,iPhoneが発表された年であるが,インターフェイスでの大変動ともともに画像の認識においても大きな変化が起こっていたと考えるべきであろう.
「In Defense of the Poor Image」の出だしの一文「The poor image is a copy in motion.|貧しい画像は動きのなかでのコピーである」は,「貧しい画像」がもともと「コピー」であり,ネットでの画像流通という「動き」に関係していることを端的に表している.「貧しい画像」は低解像度であっても,実際にはコピーではなく,オリジナルの画像であることもあるかもしれないが,「貧しい画像」と呼ばれる低解像度画像が「コピー」に近い存在で,ネットに流通しているという認識が重要なのである.
低解像度の画像に対してはどこかに「高解像度画像=オリジナル」があるという認識が対として存在しているが,Steyerlはこの認識を間違ったもとして糾弾する.低解像度画像は高解像度画像とは異なる存在意義をもつというのが,Steyerlの主張である.ネット上を隈なく「流通」していくことこそが,低解像度画像の存在意義なのである.ネットは通信速度の制約から高解像度画像は流通しにくい.それゆえに,画像は解像度を落とされ,データ量を減らされたかたちで流通していく.画像は流通すればするほど人目につくようになる.このことこそが「貧しい画像」に求められていることなのである.そこには解像度の高さによる画像の真正さではなく.いかに人目につくのかというあらたな評価基準が適用される.このあたらしい評価基準のもとでは「アウラ」の出現もまた変わってくると,Steyerlは主張する.「オリジナル」が示すアウラのように,それがいつまでも確かに存在しつづけるからこその価値ではなく,「コピー」のはかさなさゆえに「アウラ」が生じるとされる.ここで「アウラ」という言葉を双方に適用していいかは疑問であるが,現在において「アウラ」という存在も変わっていることは間違いない.
論考の最後にSteyerlは「貧しい画像」はリアルな存在が放つオリジナルなオリジナルではなく,リアリティに関する画像だとしている.この言葉はSteyerlが「貧しい画像」の独自性を擁護しながらも,最終的には高解像度画像=オリジナルと低解像度=コピー=貧しい画像との二項対立で画像を捉えていることを示しているのではいだろうか.「貧しい画像」はリアルに至ることはなく,リアルから生じる「リアリティ」までしか示すことができない.データの欠損を流通量で補ったとしても,「貧しい画像」には到達できない領域がある.
2007年から6年たった今,「貧しい画像」はもうない.低解像度の画像はネットに出回り,それを主に見てきた若い世代にとっては,「貧しい画像」それ自体がリアルなのである.リアルに高解像度のオリジナルも低解像度のコピーもなく,「貧しい画像」はネットに氾濫するただの画像であり,若い世代にとってはそこから創作をはじめるひとつの基盤となっているのである.
イメージ・オブジェクトというかたちで,ネットの画像とギャラリーなどでの展示を組み合わせるアーティ・ヴィアーカントにおいて,ネットの画像とギャラリーでのオブジェクとのあいだに優劣はない.それらはともに等価で彼の作品なのである.ここにはどれがオリジナルでコピーということはない.あるのはただ彼の作品としての画像であり,オブジェなのだ.彼の作品においてどれが「オリジナル」で「コピー」であるかを論じることは意味がなく,そこには「ソース」があり,そこから生じる作品がその機能によって「オリジナル」になったり「コピー」になったりするのである.それらはヴィアーカントの作品制作の流れのひとつの「ソース」から湧いてきているものなのである.そしてまた,ひとつの画像の「ソース」となった展示されたオブジェは,他の画像・オブジェの「ソース」と,そこから生まれたものは,他のものの「ソース」となり,「ソース」もまた移ろいながら存在するのである.
Tumblrをネットにおける「生産システム」の代表と考えるブラッド・トルメルもヴィアーカントと同じような考え方をしている.ネットの生産システムに投稿される「オリジナル」の作品は,それが唯一無比であることが重要ではなく,その投稿によって「レスポンス」が生じて「画像」が改変されたりしながら,それがより多くネットに流通していくことが重要とされる.そのとき作品は「貧しい画像」ではない.それはあくまでもひとつの作品である.しかし,それは低解像度であり,コピーである.だが,それらは全くもって関係なく,画像どんな状態であっても流通さえすればよい.「どんな状態でも」と言うこと自体が間違っているのかもしれない.流通していくものこそが画像なのである.作品として,あるいは作品としてでもなく,また「貧しい画像」という基準でもなく,ただただネット上を流通していき,どこかで誰かの作品の「ソース」となる画像が,Tumblrという「生産システム」をリブログされていくことが求められている.
Tumblrをリブログされ続ける画像と「貧しい画像」とは低解像度であること,流通しつづけるという意味では似ている.しかし,Tumblrを流れていく画像には「貧しい」という形容詞をつけることはできない.それはシステムのなかで生産者と消費者との距離を近づける画像であり,それはつねに誰かの,そしていつか作品になる「ソース」として機能している.
「In Defense of the Poor Image」の出だしの一文「The poor image is a copy in motion.|貧しい画像は動きのなかでのコピーである」は,「貧しい画像」がもともと「コピー」であり,ネットでの画像流通という「動き」に関係していることを端的に表している.「貧しい画像」は低解像度であっても,実際にはコピーではなく,オリジナルの画像であることもあるかもしれないが,「貧しい画像」と呼ばれる低解像度画像が「コピー」に近い存在で,ネットに流通しているという認識が重要なのである.
低解像度の画像に対してはどこかに「高解像度画像=オリジナル」があるという認識が対として存在しているが,Steyerlはこの認識を間違ったもとして糾弾する.低解像度画像は高解像度画像とは異なる存在意義をもつというのが,Steyerlの主張である.ネット上を隈なく「流通」していくことこそが,低解像度画像の存在意義なのである.ネットは通信速度の制約から高解像度画像は流通しにくい.それゆえに,画像は解像度を落とされ,データ量を減らされたかたちで流通していく.画像は流通すればするほど人目につくようになる.このことこそが「貧しい画像」に求められていることなのである.そこには解像度の高さによる画像の真正さではなく.いかに人目につくのかというあらたな評価基準が適用される.このあたらしい評価基準のもとでは「アウラ」の出現もまた変わってくると,Steyerlは主張する.「オリジナル」が示すアウラのように,それがいつまでも確かに存在しつづけるからこその価値ではなく,「コピー」のはかさなさゆえに「アウラ」が生じるとされる.ここで「アウラ」という言葉を双方に適用していいかは疑問であるが,現在において「アウラ」という存在も変わっていることは間違いない.
論考の最後にSteyerlは「貧しい画像」はリアルな存在が放つオリジナルなオリジナルではなく,リアリティに関する画像だとしている.この言葉はSteyerlが「貧しい画像」の独自性を擁護しながらも,最終的には高解像度画像=オリジナルと低解像度=コピー=貧しい画像との二項対立で画像を捉えていることを示しているのではいだろうか.「貧しい画像」はリアルに至ることはなく,リアルから生じる「リアリティ」までしか示すことができない.データの欠損を流通量で補ったとしても,「貧しい画像」には到達できない領域がある.
2007年から6年たった今,「貧しい画像」はもうない.低解像度の画像はネットに出回り,それを主に見てきた若い世代にとっては,「貧しい画像」それ自体がリアルなのである.リアルに高解像度のオリジナルも低解像度のコピーもなく,「貧しい画像」はネットに氾濫するただの画像であり,若い世代にとってはそこから創作をはじめるひとつの基盤となっているのである.
イメージ・オブジェクトというかたちで,ネットの画像とギャラリーなどでの展示を組み合わせるアーティ・ヴィアーカントにおいて,ネットの画像とギャラリーでのオブジェクとのあいだに優劣はない.それらはともに等価で彼の作品なのである.ここにはどれがオリジナルでコピーということはない.あるのはただ彼の作品としての画像であり,オブジェなのだ.彼の作品においてどれが「オリジナル」で「コピー」であるかを論じることは意味がなく,そこには「ソース」があり,そこから生じる作品がその機能によって「オリジナル」になったり「コピー」になったりするのである.それらはヴィアーカントの作品制作の流れのひとつの「ソース」から湧いてきているものなのである.そしてまた,ひとつの画像の「ソース」となった展示されたオブジェは,他の画像・オブジェの「ソース」と,そこから生まれたものは,他のものの「ソース」となり,「ソース」もまた移ろいながら存在するのである.
Tumblrをネットにおける「生産システム」の代表と考えるブラッド・トルメルもヴィアーカントと同じような考え方をしている.ネットの生産システムに投稿される「オリジナル」の作品は,それが唯一無比であることが重要ではなく,その投稿によって「レスポンス」が生じて「画像」が改変されたりしながら,それがより多くネットに流通していくことが重要とされる.そのとき作品は「貧しい画像」ではない.それはあくまでもひとつの作品である.しかし,それは低解像度であり,コピーである.だが,それらは全くもって関係なく,画像どんな状態であっても流通さえすればよい.「どんな状態でも」と言うこと自体が間違っているのかもしれない.流通していくものこそが画像なのである.作品として,あるいは作品としてでもなく,また「貧しい画像」という基準でもなく,ただただネット上を流通していき,どこかで誰かの作品の「ソース」となる画像が,Tumblrという「生産システム」をリブログされていくことが求められている.