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11月, 2010の投稿を表示しています

矢印についての寄せ集めメモ

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「矢印」について考えたいと思っていて,Youtube で見つけた動画.いろいろなところに矢印があるな. 以前,教えてもらった廣村正影さんの矢印関する仕事も気になる. 矢印 意識と行動予測の視覚化 去年銀座で展覧会やったときにいくつかのムービーをつくったんですね。矢印っていうのは面白いなって思ってサインをやることになると矢印たくさんつかうじゃないですか。それで矢印が動いたらどうなるんだろうなって思ったんですよ。人間の頭に矢印をつけて歩いてもらったらどう見えるんだろうなって思ったんですよ。頭に矢印ついてると、興味がある方向に少しぶれたりするんじゃないかなって思ったんですね。  地球大学クリエイティブ 第2回 廣村正彰「意味のコンテクストをデザインする 」from tamalog (C)廣村正影 2次元(2 dimension)の平面的とも言えるサインデザインが、3次元(3 dimension)の空間の中に位置付けられたときにいかなる視覚効果をもたらすかということに注目し、これまでの「サイン計画」や「VI計画」の概念を取り払い、様々な建築家や写真家とのコラボレーションを手がけてきた異色のクリエイター・ 廣村正彰 。  今回の展覧会では、1階では「矢印→」や「アルファベット」をモチーフに、矢印という記号それ自体が、空間の中で動きをもった表情を得ることによって、平面にはない新たな意味をもつのではないか。  http://www.tokyoartbeat.com/event/2007/5284 2次元と3次元のあいだを移行する「矢印→」.カーソルも含めてというか,カーソルから派生して出てきた「矢印→」そのものへの興味をどう研究に結びつけるか.アートの領域では,クレーとか,荒川修作とデュシャンとかも「矢印」を考えるうえで重要.アートとかデザインとか区別せずに,「矢印→」を中心にしてそれらをリンクさせていければおもしろことになりそう. 矢印は位置と向きと長さの3つの情報を同時に表すことができる記号だ。だから力や運動の位置、向き、大きさを過不足なく表すことができる。ふむ、そう考えるとサインに使われている矢印はたいてい情報が余ってるな。  https://twitter.com/yam_eye/status/27793247926 その際に大きな指針を与えてくれそうなのが,イ

「Timeline Dream」であまり注目されないカーソル

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au のウェブアトラクション「 Timeline Dream 」.「このサイトには一部幻想的な演出が含まれていますが、バグではありません。」と注意書きが書かれています.詳しくは,体験してみてください.エキソニモの千房さんが関わっているらしく,カーソルの動きまでも「幻想的な演出」がなされています.最初は,バグというか,「あれっ目の錯覚かな」って感じです.面白いです.普段,意のままに操っているカーソルに演出が及ぶと,「バグかな」とコンピュータのせいにするよりも,「目の錯覚かな」と自分の方に原因があると思ってしまう自分の反応が面白かった.また,「Timeline Dream」の紹介のブログをいくつか読んでみたけれど,カーソルについて書かれているのがないことも面白かった.あまり注目されないカーソル.もしくは,これを体験しているときに,多くの人はカーソルを動かさないのであろうか.「Timeline Dream」を体験する際には,カーソルにも注目してみてください.

「Google で、もっと。Fashion Show with 画像検索」からカーソルを考える

このグーグルのCMをテレビで最初に見たとき,ただ単純にとても面白いと思った.プロジェクターの使い方がいい.センサーとか使ってインタラクティヴな仕掛けをするのではなく,プロジェクターとスクリーンのあいだに,人が立つだけ.単純なんだけれど,プロジェクターとスクリーンのあいだには何も置かないこととというこれまで暗黙の了解みたいなものが,あっけらかんと破られている. あとはやはりカーソル.グーグルのトップページで検索するときに,スクリーンの前に立つ女の人が,カーソルの移動を追う.このときだけ,カーソルはスクリーンの前に立つ女の人に意識される.あとはまったくカーソルは意識されていない.検索ボタンを押すときだけ,カーソルが意識されるのはグーグルの広告だということもあるけれど,検索窓から検索ボタンに移動するあいだ,カーソルは何もしていない.ただ場所を移動しているだけである.しかし,そんなときに限って,カーソルに注意を向けてしまう. ファッションショーをしているときは,カーソルは服などが映しているウィンドウを移動させるという役割を追っている.きっちりと役割を果たしているのに,スクリーン前の女の人にはまったく注目されない.MacBookを操作して,カーソルを動かしている女の人は少しは意識しているだろうけれど,他の人はまったく意識されていないかもしれない.それは,服そのもののところではなくて,ウィンドウの端にカーソルがあることと関係していると考えられる. カーソルがしっかり仕事をしているときには,それに意識がいかなくて,ただ単に移動しているときに限って,カーソルに注意が向けられるということは,この「↑」のイメージの性質:「あいだを移行する」ということを示しているのではないだろうか.カーソルは何かと何かのあいだにあって,役割を担わずに,ただ場所を移動し,役割を移行しつつあるときにだけ,私たちの注意を向けられるイメージなのではないだろうか.

修士論文

「 マルチ・イメージを用いた映像インスタレーション作品にみられる電子社会の時間意識 (pdf)」修士論文(提出:名古屋大学大学院人間情報学研究科)2004年3月 本論文は,電子社会における時間意識を,1990年代に多く発表されたマルチ・イメージを用いた映像インスタレーション作品から読み解くものである.そのために,エイヤ=リーサ・アハティラの《ウィンド》,ヘールト・ムルの《Transfer Points》を考察した.これらの作品の分析から,電子社会においては,「空間的な編集可能性をもった時間」という意識が広く浸透しているという結論を導いた.

Expanded Smooth

SMART THINGS: Ubiquitous Computing User Experience Design, MIke KUniavsky を読んで,印象に残ったテキスト.デジタル情報は,手に触れることができる固有な性質を持っていないということ,デバイス間の情報のシームレスのやりとりに「なめらかさ」という言葉が与えられていること. Traditional material (steel, plastic, or cotton) have properties such as elasticity, strength, resistance to corrosion, etc., but digital information has none of these inherently. (p.48) 伝統的な素材(鉄,プラスチックや綿)は,伸縮性や強度,腐蝕耐性などの性質を持っているが,デジタル情報はこれらの固有な性質を持っていない. These technique approach ubicomp UX design involving multiple devices by smoothing over task disconnects through consistency. No technique has emerged as dominant and it may be that technological immaturity will continue to frustrate designers' attempts at anything but highly limited continuity. This may actually be for the best. Critiques of attempts to create "seamless" interaction often conclude that clear but inconsistent interactions may create more continuity than consistent but confusing ones. (p.281) ユビキタスコンピューティングのユーザエクスペリエンス・デザインに対するこれらのテクニック

メモ:「行為なき身体」=カーソル(?)

この前ふと,マウスとカーソルのつながりの不自由さこそが,「コンピュータの身体性」なのではないかと思った. マウスとカーソルとのつながりは,常に画面上の一点を指さなければならないという不自由さをヒトに与える.私たちはそれを不自由だと思ってきたのだけれど,コンピュータにしてみれば逆に,それが一番よい行為と出来事との組み合わせではなかったのではないだろうか.ジェスチャーを行っているときの所在なさげなカーソルは何も機能を果たしていないにも拘わらず,画面上に留まる.この所在なさげなカーソルは,ヒトがコンピュータに対して,ジェスチャーという新しい行為をすることで生まれている.ジェスチャーは,コンピュータに対するヒトの行為を,マウスとカーソルとのつながりから解放した.けれど,コンピュータにとっては,意味も無く画面を漂う時間をもつカーソルを生み出してしまった. (このことは以前, 「機能不全」を体現するカーソル で書いた) ある一点に注意を向けるさせることが,「コンピュータの身体性」を形成していると考えてみる.常にある一点に意識を集中させることで,周縁がなくなりすべてが中心になる.同時に,常にある一点に意識を集中させていることで,その瞬間瞬間に周縁が生まれている.コンピュータが自ら行為することができず,ヒトの行為を誘い出して新たな出来事を生じさせていると考えるならば,「次,次,次,次...」と行為を要求してくるカーソルは,「コンピュータが「行為なき身体」という言葉で示すことができる性質を持つことを体現しているのだろうか. しかし,エキソニモの《断末魔ウス》では,カーソルそれ自体がハックされる.このときのカーソルは私たちに次の行為を要求しない.ただ,過去の出来事の記録して画面上に映し出されている.また,エキソニモが東京藝術大学で行った講義の際のパフォーマンスの記録映像を見ると,カーソルはリアルタイムに制御されている.このときは,カーソル自体が行為を行っていると考えることもできる.ということは,カーソルはここでは「行為なき身体」を体現していない.もともと「コンピュータの身体性」とは,「行為なき身体」という言葉では表すことができないということなのか.ヒトと接しているときに,ヒトにとって有効に機能しているときには,「行為なき身体」という言葉をカーソルやコンピュータに割り当てることはで

メモ:ヒトの行為は平面に対してのみ行われている

5個の点が,5本の指を表している.この点を操作する指の動きは,iPadのディスプレイのガラスの上で,粘土をこねるような力を加えているようにみえる.ここには,平面と立体とのあいだで生じる移行に関する不思議さがあるように思える. ヒトはディスプレイの中には入り込めない.どうしても,ディスプレイの表面の二次元に留まらざるを得ない.その際に,ヒトは自らの身体の一部を,ディスプレイ上のイメージに置き換える.今回の映像では,5本の指を5つの点に置き換えている.正確には,5つの指の「先」を5つの点に置き換えている.指の「先」だけで「粘土」みたいなイメージを「こねる」.その際に,iPadという平面的なものを傾けたりすることで,ディスプレイ上の立体物のイメージを動かす.平面的なものに触れたり,動かしたりすることで,立体的なイメージを操作する.それが最終的には,3Dプリンターで立体的なものになる. ヒトの指はもともと立体なものだが,それが平面上の点になり,そこでの行為が立体を生み出す.この時,行為の「結果」は平面と立体とのあいだを移行しているが,ヒトの行為は平面に対してのみ行われている.ここに不思議な感覚を覚えるのである.

iPhoneのアニメーションを意識して電車の中で、iPhoneを使ってメモを書く

エキソニモのカーソルを用いた作品を考察した際に,カーソルは「あいだを移行する存在」だと指摘した.そうだとするならば,アニメーションもまた「あいだを移行する存在」だと言えるのか? 私たちのの注意を移行させているカーソルとアニメーション. 次に移行させる!カーソルの矢印の先に意識を移行させる.アニメーションはどう意識を移行させるのか? 行為の「次」を示すようなアニメーション.次から次へと現れては消えて行くことで,次々に意識を移行させていくアニメーション.仮想と現実とのあいだではなく,ただ単に「次から次へと」移行を発生させる.ひとつの世界の中で,「次から次へと」ということ.カーソルでの移行は空間が問題であったが,アニメーションでは空間ではなく,時間が問題になっている. カーソルは「↑」という基本形態をもつが,iPhoneのアニメーションはそれをもたない.ヒトに次の行為を促すためだけに,様々な形態を示す.画面上に常にあるわけでもない.ヒトに次の行為を促すときにだけ,パッと現れては,シュッと消える. iPhoneのアニメーションは,押した時に現れて,離す時に消える.アニメーションは,押した指をいつ離すかを示している.押した後に必ず起こる「離す」という行為のタイミングを示すアニメーション.

アニメーションとカーソルを考えるためのメモ

「押す」行為に対して変化しないカーソルについて書いて(→ カーソルが示すひとつの切断 ),そのあとこう考えた. カーソルが画面上の「ボタン」を押したときに、何も変化するを示さないように、タッチパネルで「ボタン」を「押した」ときの指も変化をしめさない(実際には、押していないから、触れているだけだから).画面上でアニメーションがあるところと、ないところと、ヒトの身体との関係.アニメーションのある/なしと「コンピュータの身体性」との関係. http://mmmemo.posterous.com/32483046 これを書いたのは,Twitterで次のようなツイートが流れてきたことが影響している.最初のは,デザイナーの原研哉さん,ふたつ目は,坂本大介さんと渡邊恵太さんが行っている「インタラクションデザイン研究会」の第三回目で,渡邊さんが言ったことを LunarModule7 さんが書き取ってくれたもの. タッチパネルの感触はガラスの感触ではない.インタラクションの様相がそこに全く新しい「触覚」を育むだろう.ボタンに触って「にゃ〜」とゆっくり反応するのと、「ピッ」と電子音で鋭く反応するのでは、脳が感じる触覚が異なる. http://twitter.com/haraken_tokyo/status/29654770743 渡辺:iPhoneと身体性の例.iPhoneのアニメーションは身体性と大きく関連している.滑らかに動くことがカーソルの役割をしている.こうした滑らかなアニメーションがどうして重要なのか? そうした製品が見られるようになってきたが,エフェクトでは駄目. #sigixd https://twitter.com/lunarmodule7/status/29546365253 「滑らかに動くことがカーソルの役割をしている」という渡邊さんの言葉は,今後カーソルを考えていく上で,とても重要なヒントだと思う.まだ,うまく言葉にすることはできないけれど……. カーソルがヒトの行為を示すものではなく,ただ単に注意を引きつけるものだと考えるとすれば,滑らかなアニメーションがカーソルになると考えることができるのではないか.しかし,カーソルの示す先というある一点に注意を集中することと,滑らかなアニメーションが示すような注意の先が一点に収斂するのではなく,漠然とひろがっているよ

カーソルが示すひとつの切断

カーソルは画面上の「ボタン」を押す.そのとき,押された「ボタン」は,押されたことを示すアニメーションが付与される.それに対して,カーソルは何も変わらない.マウスのクリック音や,「ボタン」のアニメーションで「押す」という感覚をユーザに与えようとしているにもかかわらず,「ボタン」を押しているカーソルは何も変化を示さない. 指でボタンを押すときは,ボタンも押される,押している指にも変化がある.カーソルが手の延長として画面上にあるとすれば,イメージとして表示されている「ボタン」を押したときに,カーソルにも変化があるべきなのに,「↑」のイメージには何の変化:アニメーションも与えられない.それでも,私たちは「ボタン」の変化だけで「押した」ことを認識する.カーソルは指の延長ではあるが,現実の指と同じ変化は示さない.なぜなのであろうか.カーソルに押したことを示すアニメーションをつけることは難しいことなのだろうか.難しくないとすれば,なぜつけないのか? 「ボタン」の変化とともにカーソルにもアニメーションをつければ,より「押した」感じがでるのではないだろうか? だが,今までのところ,カーソルにはアニメーションが与えられていない.それは必要ないと,どこかで判断されているのであろう. ヒトが「触れる」対象についてはアニメーションが与えられるが,ヒトの手の延長として機能するカーソルにはアニメーションが与えられない.これは「コンピュータの身体性」に関係することかもしれない.ヒトはカーソルを手の延長として考えているが,コンピュータはその関係をボタンを押すという行為の最終段階で切断しているのではないだろうか.もちろん手そのものがディスプレイに入り込むことはないのだけれど,カーソルに「押す」ことのアニメーションを与えないことで,コンピュータは手がディスプレイに入り込むことを阻止しているのではないだろうか.コンピュータはカーソルにアニメーションを与えないことで,それがヒトの手の延長ではなく,あくまでも「コンピュータの身体」であることを示しているのではないだろうか. しかし,カーソルにアニメーションを与えないことを判断しているのは,コンピュータではなく,ヒトである.ヒトはカーソルを手の延長として作りながら,最後の最後で自らの身体とカーソルを切断していると考えることもできるかもしれない.